ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
山を下りる頃には、空の端が赤く染まり始めていた。
谷の底には、石造りの町が静かに広がっている。
エルヘブン。
マーサが生まれた町。
そして、まほうのカギとまほうのじゅうたんがある場所。
俺は肩に食い込んだ革帯を直し、荷物の重さを確かめた。
海を泳ぎ、山を越えた疲れは残っている。
だが、ここで足を止めるわけにはいかない。
この町は、ただの目的地ではない。
マーサを知る者たちが暮らしている場所だ。
俺は腰のメタルキングのけんに触れた。
この剣は、魔物を斬るために持ってきた。
この町で力を示すためではない。
それだけは、町へ入る前に決めておく必要があった。
◆
町の入口に着くと、水場にいた女が最初に俺へ気づいた。
桶を抱えたまま、女は動きを止める。
次に、近くの家から老人が顔を出した。
老人は俺の姿を見て、目を細めた。
「旅のお人か」
俺はうなずいた。
「この町の長老に会いたい」
老人の表情が、わずかに変わった。
「長老に何の用じゃ」
周囲にいた者たちが、こちらを見る。
戸口が開き、石段の上に人が立った。
俺は言葉を選んだ。
ここで多くを語るつもりはない。
「マーサのことで話がある」
その名を出した瞬間、空気が変わった。
水場の女が息をのむ。
老人は、俺の顔を改めて見つめた。
「マーサ……」
老人の声には、懐かしさがあった。
だが、それだけではなかった。
「昔、この村に一人の若者が迷い込んで来たことがある」
俺は黙って聞いた。
「その若者は、村の娘と恋に落ちた。娘の名はマーサ。若者の名は、たしかパパスと言った」
周囲の視線が、俺へ集まった。
ここで名を隠しても意味はない。
「俺がパパスだ」
ざわめきが広がった。
女が桶を抱え直す。
石段の上にいた男が、別の家へ声をかける。
驚き。
戸惑い。
そして、簡単には言葉にならない感情。
その中から、一人の青年が前へ出た。
◆
青年は、俺よりもずっと若かった。
だが、その目には、年齢に似合わないほど強い怒りが宿っていた。
「今さら何しに来た」
俺は目をそらさなかった。
「長老に話がある」
「マーサ様のことか」
「そうだ」
「なら、ここで言えよ」
俺は答えなかった。
言えることはある。
だが、この広場で言うべきではない。
マーサの名を騒ぎの中へ投げ込めば、町の者たちは止まれなくなる。
俺の言葉を信じるかどうか以前に、怒りと不安が先に広がる。
「ここで話せることではない」
青年の顔が歪んだ。
「都合がいいな」
拳が震えている。
「マーサ様を連れて行った男が、今さら戻ってきて、話せませんだと?」
俺は黙っていた。
否定する言葉はない。
弁解する言葉も、ここでは出せない。
次の瞬間、青年の拳が俺の頬を打った。
鈍い音がした。
視界が少し揺れ、熱い痛みが顔に広がる。
周囲がざわめいた。
誰かが青年を止めようとした。
俺は手を上げなかった。
殴り返すつもりはない。
押さえつけるつもりもない。
この町の者は敵ではない。
青年は荒い息を吐きながら、俺の腰の剣を睨んだ。
「抜けよ」
俺は動かなかった。
「その立派な剣で斬ってみろよ!!あぁ!!」
広場が静まり返った。
メタルキングのけんは、夕暮れの光を受けて、鞘越しにも重い存在感を放っている。
たしかに立派な剣だ。
だが、この剣は今ここで抜くものではない。
「この剣は、この町の者に向けるものではない」
青年が歯を食いしばった。
「じゃあ、何しに来たんだよ」
答えは喉まで出かかっていた。
それでも、俺は飲み込んだ。
ここで叫べば、すべてが崩れる。
「長老たちの前で話す」
俺はそれだけを言った。
◆
「そこまでになさい」
静かな声がした。
人垣が左右に割れる。
白い衣をまとった老女が、杖をついて広場へ出てきた。
背は高くない。
それでも、町の者たちは自然に道を開けた。
青年は老女を見て、拳を下ろした。
まだ納得していない顔だった。
それでも、それ以上は踏み込まなかった。
老女は俺の頬を見た。
次に、俺の腰の剣を見る。
「殴られても、剣を抜きませんでしたね」
「ああ」
「もし抜いていれば、長老たちはあなたの言葉を聞かなかったでしょう」
老女の目は厳しかった。
歓迎の色はない。
だが、拒絶だけでもなかった。
「パパス殿」
「はい」
「長老たちは、あなたの話を聞きます。信じるかどうかは、その後です」
「それでいい」
「今夜は町外れの客間を使いなさい。明朝、迎えを出します」
俺はうなずいた。
青年はまだ俺を睨んでいた。
俺はその目から逃げなかった。
怒りには理由がある。
この町には、マーサがいた。
マーサを見送り、マーサを失った者たちがいる。
俺はその前に、パパスとして立っている。
◆
案内された客間は、町の端にある小さな石造りの部屋だった。
窓の外には、エルヘブンの灯が静かに揺れている。
荷を下ろすと、肩と背中が遅れて痛みを訴えた。
殴られた頬は、山道の傷よりも熱かった。
俺はメタルキングのけんを壁際へ置いた。
手の届く場所ではある。
だが、すぐに抜ける位置ではない。
この町で今夜、俺に必要なのは剣ではなかった。
明日、長老たちに話す。
この身体の過去を覚えていないこと。
別の記憶を持っていること。
そして、マーサがどこにいるのかを。
信じられるかどうかは分からない。
だが、嘘で道具だけを得ることはできない。
まほうのカギ。
まほうのじゅうたん。
それらを求めてここへ来た。
だが、この町へ入った以上、それだけでは済まない。
俺は窓の外を見た。
エルヘブンの夜は静かだった。
その静けさの中に、マーサの名が沈んでいる。
逃げるつもりはなかった。