ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
夜明け前、俺は目を覚ました。
石造りの部屋は冷えきっていて、窓の外には薄い青の光が差し始めている。
頬には、昨日の痛みが残っていた。
青年に殴られた場所だ。
俺は指で触れようとして、途中で手を止めた。
この痛みは、消すためのものではない。
身支度を整え、扉の前に立つ。
昨日より、頬の痛みの方がはっきりしていた。
扉を叩く音がした。
「パパス殿、長老たちがお待ちです」
白い衣を着た女が、扉の外に立っていた。
俺はうなずき、部屋を出た。
◆
朝のエルヘブンは静かだった。
石段を上がるたび、町の灯が一つずつ遠ざかっていく。
昨日の広場を通ると、水場にいた女がこちらを見た。
戸口の隙間から、別の視線も感じる。
誰も声をかけてこない。
それでも、この町が俺を見ていることは分かった。
案内役の女は、町の上にある建物の前で足を止めた。
白い石で作られたその建物は、ほかの家よりも古く見える。
「こちらです」
中へ入ると、広い部屋に四人の長老が座っていた。
そのうち一人は、昨日の老女だった。
四人とも年老いた女だった。
だが、その目は濁っていない。
俺が部屋の中央へ進むと、昨日の老女が口を開いた。
「昨夜、あなたは町の若者に殴られました」
「ああ」
「それでも抵抗しなかった。ゆえに、私たちはあなたの話を聞きます」
信じたわけではない。
許したわけでもない。
ただ、話す場を与えられた。
それで十分だった。
「あなたは、パパス殿ですね」
「そうだ」
俺は短く答えた。
だが、その名だけで進める話ではない。
「だが、あなた方の知るパパスと同じだとは言えない」
長老たちの表情が、わずかに動いた。
「どういう意味ですか」
「俺には、マーサと過ごした記憶がない」
部屋の空気が重くなった。
マーサと出会った日も。
この町を出た日も。
グランバニアで過ごした日々も。
リュカが生まれた日のことも。
俺の中にはない。
「それを、言い訳にするつもりはない」
昨日の老女が、目を細めた。
「ならば、なぜ話すのです」
「嘘で協力を得たくない」
俺は四人の顔を見た。
「俺には別の記憶がある。この世界とは違う場所で、この世界の行く末を知っていた記憶だ」
「異なる世界の記憶、ですか」
「ああ」
信じがたい話だ。
俺が長老の立場でも、簡単には信じない。
それでも、ここで黙れば、俺はただ前世の知識を使って町の宝を奪う男になる。
「その記憶で知っている。マーサは死んでいない。魔界にいる」
火鉢の小さな火が、ぱちりと鳴った。
長老たちは、誰もすぐには口を開かなかった。
◆
「魔界と言いましたね」
一番奥に座っていた長老が、静かに言った。
「ああ」
「なぜ、そう言い切れるのです」
「証は出せない」
「証もなく、私たちに信じろと」
「信じろとは言わん」
俺は目をそらさなかった。
「だが、言わずに頼むことはできない」
長老の視線が、俺を探るように動いた。
「何を頼むつもりです」
「まほうのカギと、まほうのじゅうたんだ」
部屋の空気が、さらに硬くなった。
知っていること自体が異様なのだ。
この町のどこに何があるかを、俺は前世の知識で知っている。
だが、知っていることと、託されることは違う。
「それも、異なる記憶で知ったのですね」
「そうだ」
昨日の老女が、杖を握り直した。
「ならば、なおさら渡せません」
「当然だな」
拒まれて怒る場面ではない。
俺は信用されるための積み重ねを、まだ何もしていない。
「この世界は、古く神によって三つに分けられたと伝わっています」
一番奥の長老が語り始めた。
「天空の世界、人の世界、そして魔物たちの世界」
「私たちエルヘブンの民は、その境を見張る役目を受け継いできました」
「マーサは、その中でも特に強い力を持つ娘でした」
俺は黙って聞いた。
エルヘブンの根にある話。
マーサが狙われた理由へ繋がる話。
「だからこそ、マーサが外へ出ることに反対する者もいました」
昨日の老女が、静かに目を伏せた。
「それでも、マーサはあなたと行くことを選びました」
胸の奥が重く沈んだ。
俺はその日の記憶を持っていない。
だが、この町には、その選択が残っている。
◆
「あなたの言葉を、すべて信じたわけではありません」
長老の声は厳しかった。
「分かっている」
「あなたはパパス殿の姿をしている。けれど、自らパパス殿とは違うとも言った」
「ああ」
「ならば、私たちは名ではなく、言葉と行いを見るしかありません」
その通りだった。
俺はパパスの名を持っている。
パパスの身体で立っている。
だが、それだけでマーサの故郷から大切なものを託されると思うほど、甘くは考えていない。
「試しましょう」
長老の言葉に、俺は息を止めた。
「何をすればいい」
「この町で、マーサの話を聞きなさい」
俺は黙って続きを待った。
「マーサを覚えている者は、まだいます。反対した者も、名を懐かしむ者もいます」
「……聞いてこい、ということか」
「はい。あなたがマーサを救うと言うなら、まずこの町でマーサが何者だったのかを知りなさい」
厳しい言葉だった。
だが、理不尽ではない。
マーサを救う。
そう言うなら、マーサを知らないままでいいはずがない。
「そのうえで、もう一度ここへ来なさい」
「承知した」
俺は短く答えた。
逃げるつもりはなかった。
この町に残るマーサの名からも、俺が知らないパパスの過去からも。
「案内はありません」
「構わん」
「誰に何を聞くかは、あなたが選びなさい」
長老たちの目は、最後まで厳しかった。
それでいい。
簡単に信じられるより、ずっといい。
俺は長老たちへ一礼し、部屋を出た。
◆
外へ出ると、朝の光が石段に落ちていた。
エルヘブンの一日は、まだ始まったばかりだった。
町の下から、水音が聞こえる。
誰かが戸を開ける音もした。
この町には、俺の知らないマーサがいる。
俺の知らないパパスもいる。
前世の知識だけでは届かないものが、ここに残っている。
俺は石段を下り始めた。
まほうのカギも、まほうのじゅうたんも、まだ遠い。
まずは、この町に残されたマーサの名を聞かなければならなかった。