ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
石段を下りると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
昨日殴られた場所が、風に触れて少しだけ痛む。
エルヘブンの町は、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
水場では女たちが桶を置き、石造りの家々からは細い煙が上がっている。
長老たちは、誰に話を聞くかを教えなかった。
案内もない。
俺が自分で選べということだ。
マーサを救う。
魔界へ行く。
その言葉だけなら、いくらでも言える。
だが、長老たちが見ようとしているのは、その先だった。
俺はマーサを知っているのか。
パパスとして、この町に残されたものを受け止める気があるのか。
それを試されている。
俺は広場へ向かった。
◆
最初に声をかけてきたのは、昨日の老女だった。
長老ではない。
広場の端で水がめのそばに座っていた、腰の曲がった老女だ。
昨日、俺の顔を見るなり苦い目をした者だった。
「あんた、本当にパパスなのかい」
老女は遠慮なく俺を見上げた。
「そうだ」
「そうかい」
老女は短く息を吐いた。
「エルヘブンの娘が外へ嫁ぐなんて、わしは反対だったよ」
その言葉には、昨日の青年の怒りとは違う重さがあった。
燃え上がる怒りではない。
長い年月の底で、冷えて固まったものだ。
「マーサは、この町の娘だった」
「ああ」
「ただの娘じゃない。この町にとって、大切な娘だった」
俺は黙って聞いた。
「それなのに、外から来た若者に心を持っていかれた。あの子は自分で決めたんだろうさ。けれど、見送る側が簡単にうなずけると思うかい」
俺は答えられなかった。
マーサが選んだ。
それは長老も言っていた。
だが、選ばれなかった者たちがいる。
残された者たちがいる。
前世の知識では、そこまでは分からなかった。
「何を言われても、仕方ない」
俺がそう言うと、老女は眉を寄せた。
「仕方ないで済ませるんじゃないよ」
「……そうだな」
老女は俺から視線を外し、水場の方を見た。
「マーサは優しい子だった。誰かを置いていくことを、平気でできる子じゃなかった」
その言葉だけは、怒りではなかった。
「だからこそ、わしは反対したんだよ。優しい子ほど、遠くへ行けば戻れなくなる」
胸の奥が重くなった。
俺は、その日のマーサを知らない。
外へ出ると決めた時、マーサは何を思ったのか。
反対する者へ、どんな顔をしたのか。
俺の中には何もない。
老女は立ち上がろうとして、途中で腰を押さえた。
俺は手を伸ばしかけたが、老女は首を振った。
「手を貸すなら、マーサに貸しておやり」
俺は手を下ろした。
「そうする」
それだけ言うと、老女は小さく鼻を鳴らした。
◆
次に話を聞いたのは、町の裏手にいた老人だった。
石壁のそばで、古びた木箱を直している。
俺が近づくと、老人は工具を置き、目を細めた。
「パパスか」
「ああ」
「ずいぶん変わった剣を持つようになったな」
俺は答えなかった。
老人も、それ以上は剣を見なかった。
「昔、この村に一人の若者が迷い込んできた」
老人は、まるで昨日のことのように話し始めた。
「旅の途中だったのか、道に迷ったのか、それは知らん。だが、外の者がこの町へ来ることは珍しかった」
「その若者が、俺か」
「そうだ。名は、たしかパパスと言った」
老人は、俺の顔を確かめるように見た。
「その若者は、村の娘と恋に落ちた。娘の名はマーサ」
知っている話だった。
原作でも聞ける話だ。
だが、今は画面越しではない。
その老人の口から、俺に向けて語られている。
「マーサは、よく笑う娘だったよ」
老人は木箱の角を撫でた。
「けれど、どこか遠くを見ていることもあった。この町の中だけでは収まりきらない何かを、あの子は持っていたのかもしれん」
「外へ出たがっていたのか」
「さあな。わしには分からん」
老人は苦笑した。
「ただ、パパスといる時のマーサは、町の中にいる時とは少し違って見えた」
「違う?」
「楽しそうだった」
その一言が、思ったより深く刺さった。
俺は元のパパスではない。
マーサと過ごした記憶もない。
それでも、その言葉だけは、知らないままで済ませたくなかった。
「俺は、どんな男だった」
口にしてから、失敗したと思った。
今の俺が聞くには、あまりに奇妙な問いだった。
老人も不審そうに眉を寄せた。
「自分のことを聞くのか」
「……長く旅をしていた。失ったものも多い」
嘘ではない。
すべてを説明したわけでもない。
老人はしばらく俺を見ていたが、やがて小さくうなずいた。
「口数は多くなかった。だが、まっすぐな男だったと思う」
「そうか」
「マーサが選ぶなら、そういう男なのだろうと、わしは思った」
俺は目を伏せた。
その信頼は、俺に向けられたものではない。
かつてのパパスに向けられたものだ。
だが今、その名を背負っているのは俺だった。
◆
広場へ戻る頃には、町の中に朝の明るさが満ちていた。
さっきまで閉じていた戸も開き、人の声が少しずつ増えている。
誰も俺を歓迎してはいない。
だが、誰も完全に無視しているわけでもない。
遠巻きに見る者。
目をそらす者。
昨日の老女のように、言葉を投げてくる者。
この町には、マーサの名が残っている。
俺が知らないパパスの姿も残っている。
前世の知識では、まほうのカギの場所も、まほうのじゅうたんの場所も分かっている。
だが、それだけでこの町を通り抜ければ、俺は何も分かっていないままだった。
石段の下に、昨日の青年が立っていた。
俺を殴った若者だ。
青年は俺を見ると、逃げも隠れもしなかった。
ただ、昨日と同じように強い目で睨んでくる。
俺は足を止めた。
長老たちは、誰に何を聞くかを俺に選ばせた。
なら、避けて通るわけにはいかない。
俺は青年へ向かって歩き出した。