ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。   作:兎深みどり

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第49話『町に残る名』

 石段を下りると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。

 昨日殴られた場所が、風に触れて少しだけ痛む。

 

 エルヘブンの町は、ゆっくりと目を覚まし始めていた。

 水場では女たちが桶を置き、石造りの家々からは細い煙が上がっている。

 

 長老たちは、誰に話を聞くかを教えなかった。

 案内もない。

 俺が自分で選べということだ。

 

 マーサを救う。

 魔界へ行く。

 

 その言葉だけなら、いくらでも言える。

 だが、長老たちが見ようとしているのは、その先だった。

 

 俺はマーサを知っているのか。

 パパスとして、この町に残されたものを受け止める気があるのか。

 

 それを試されている。

 

 俺は広場へ向かった。

 

 

 最初に声をかけてきたのは、昨日の老女だった。

 長老ではない。

 広場の端で水がめのそばに座っていた、腰の曲がった老女だ。

 

 昨日、俺の顔を見るなり苦い目をした者だった。

 

「あんた、本当にパパスなのかい」

 

 老女は遠慮なく俺を見上げた。

 

「そうだ」

 

「そうかい」

 

 老女は短く息を吐いた。

 

「エルヘブンの娘が外へ嫁ぐなんて、わしは反対だったよ」

 

 その言葉には、昨日の青年の怒りとは違う重さがあった。

 燃え上がる怒りではない。

 長い年月の底で、冷えて固まったものだ。

 

「マーサは、この町の娘だった」

 

「ああ」

 

「ただの娘じゃない。この町にとって、大切な娘だった」

 

 俺は黙って聞いた。

 

「それなのに、外から来た若者に心を持っていかれた。あの子は自分で決めたんだろうさ。けれど、見送る側が簡単にうなずけると思うかい」

 

 俺は答えられなかった。

 

 マーサが選んだ。

 それは長老も言っていた。

 

 だが、選ばれなかった者たちがいる。

 残された者たちがいる。

 

 前世の知識では、そこまでは分からなかった。

 

「何を言われても、仕方ない」

 

 俺がそう言うと、老女は眉を寄せた。

 

「仕方ないで済ませるんじゃないよ」

 

「……そうだな」

 

 老女は俺から視線を外し、水場の方を見た。

 

「マーサは優しい子だった。誰かを置いていくことを、平気でできる子じゃなかった」

 

 その言葉だけは、怒りではなかった。

 

「だからこそ、わしは反対したんだよ。優しい子ほど、遠くへ行けば戻れなくなる」

 

 胸の奥が重くなった。

 俺は、その日のマーサを知らない。

 

 外へ出ると決めた時、マーサは何を思ったのか。

 反対する者へ、どんな顔をしたのか。

 

 俺の中には何もない。

 

 老女は立ち上がろうとして、途中で腰を押さえた。

 俺は手を伸ばしかけたが、老女は首を振った。

 

「手を貸すなら、マーサに貸しておやり」

 

 俺は手を下ろした。

 

「そうする」

 

 それだけ言うと、老女は小さく鼻を鳴らした。

 

 

 次に話を聞いたのは、町の裏手にいた老人だった。

 石壁のそばで、古びた木箱を直している。

 

 俺が近づくと、老人は工具を置き、目を細めた。

 

「パパスか」

 

「ああ」

 

「ずいぶん変わった剣を持つようになったな」

 

 俺は答えなかった。

 老人も、それ以上は剣を見なかった。

 

「昔、この村に一人の若者が迷い込んできた」

 

 老人は、まるで昨日のことのように話し始めた。

 

「旅の途中だったのか、道に迷ったのか、それは知らん。だが、外の者がこの町へ来ることは珍しかった」

 

「その若者が、俺か」

 

「そうだ。名は、たしかパパスと言った」

 

 老人は、俺の顔を確かめるように見た。

 

「その若者は、村の娘と恋に落ちた。娘の名はマーサ」

 

 知っている話だった。

 原作でも聞ける話だ。

 

 だが、今は画面越しではない。

 その老人の口から、俺に向けて語られている。

 

「マーサは、よく笑う娘だったよ」

 

 老人は木箱の角を撫でた。

 

「けれど、どこか遠くを見ていることもあった。この町の中だけでは収まりきらない何かを、あの子は持っていたのかもしれん」

 

「外へ出たがっていたのか」

 

「さあな。わしには分からん」

 

 老人は苦笑した。

 

「ただ、パパスといる時のマーサは、町の中にいる時とは少し違って見えた」

 

「違う?」

 

「楽しそうだった」

 

 その一言が、思ったより深く刺さった。

 

 俺は元のパパスではない。

 マーサと過ごした記憶もない。

 

 それでも、その言葉だけは、知らないままで済ませたくなかった。

 

「俺は、どんな男だった」

 

 口にしてから、失敗したと思った。

 今の俺が聞くには、あまりに奇妙な問いだった。

 

 老人も不審そうに眉を寄せた。

 

「自分のことを聞くのか」

 

「……長く旅をしていた。失ったものも多い」

 

 嘘ではない。

 すべてを説明したわけでもない。

 

 老人はしばらく俺を見ていたが、やがて小さくうなずいた。

 

「口数は多くなかった。だが、まっすぐな男だったと思う」

 

「そうか」

 

「マーサが選ぶなら、そういう男なのだろうと、わしは思った」

 

 俺は目を伏せた。

 

 その信頼は、俺に向けられたものではない。

 かつてのパパスに向けられたものだ。

 

 だが今、その名を背負っているのは俺だった。

 

 

 広場へ戻る頃には、町の中に朝の明るさが満ちていた。

 さっきまで閉じていた戸も開き、人の声が少しずつ増えている。

 

 誰も俺を歓迎してはいない。

 だが、誰も完全に無視しているわけでもない。

 

 遠巻きに見る者。

 目をそらす者。

 昨日の老女のように、言葉を投げてくる者。

 

 この町には、マーサの名が残っている。

 俺が知らないパパスの姿も残っている。

 

 前世の知識では、まほうのカギの場所も、まほうのじゅうたんの場所も分かっている。

 だが、それだけでこの町を通り抜ければ、俺は何も分かっていないままだった。

 

 石段の下に、昨日の青年が立っていた。

 

 俺を殴った若者だ。

 

 青年は俺を見ると、逃げも隠れもしなかった。

 ただ、昨日と同じように強い目で睨んでくる。

 

 俺は足を止めた。

 

 長老たちは、誰に何を聞くかを俺に選ばせた。

 なら、避けて通るわけにはいかない。

 

 俺は青年へ向かって歩き出した。

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