ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
青年は、石段の下で俺を待っていた。
昨日と同じ目だった。
怒りを隠そうとしていない。
だが、昨日のように拳を握りしめてはいなかった。
俺は数歩手前で足を止めた。
「昨日は、殴って悪かった」
先に口を開いたのは、青年の方だった。
俺は少しだけ目を細めた。
謝られるとは思っていなかった。
「気にしていない」
「そういう言い方が、余計に腹立つんだよ」
青年は吐き捨てるように言った。
俺は黙った。
確かに、俺の言葉は足りなかったのかもしれない。
気にしていない、で済む話ではない。
青年は俺の頬を見た。
「痛むか」
「ああ」
「なら、少しは気が済む」
正直な言葉だった。
俺はそれを責める気にはなれなかった。
◆
青年は広場の端へ歩き出した。
俺は少し遅れてついていく。
水場から離れた場所に、古い石の腰掛けがあった。
青年はそこに座らず、立ったまま町の上を見た。
「あんたが本当にパパスなら、聞きたいことがある」
「何だ」
「マーサ様は、幸せだったのか」
その問いは、拳よりも重かった。
俺はすぐに答えられなかった。
幸せだった。
そう言えば簡単だ。
だが、俺にはその記憶がない。
マーサと笑った日も、共に旅した日も、グランバニアで過ごした日も、俺の中にはない。
嘘で頷くことはできなかった。
「分からない」
青年の目が鋭くなった。
「分からない?」
「ああ」
喉が重かった。
それでも、言わなければならなかった。
「俺には、マーサと過ごした記憶がない」
青年の顔から、怒りとは違う色が消えた。
「……何を言ってる」
「そのままの意味だ」
「ふざけてるのか」
俺は首を横に振った。
「ふざけていない」
「じゃあ何だよ。マーサ様を連れて出ていった男が、覚えてませんって言うのか」
青年の声が震えた。
昨日なら、ここでまた拳が飛んでいたかもしれない。
だが、今の青年は殴らなかった。
「長老たちには話した」
「だから俺にも言ったのか」
「聞かれたからだ」
青年は唇を噛んだ。
「最低だな」
その言葉は、真っ直ぐだった。
俺は受け止めるしかなかった。
◆
しばらく、二人とも黙っていた。
町の下では、水を汲む音がする。
遠くで子供の声がして、すぐに家の中へ引っ込んだ。
青年は低い声で言った。
「俺は、マーサ様をよく覚えているわけじゃない」
俺は顔を上げた。
「子供の頃に、何度か見ただけだ」
「そうか」
「でも、この町の大人たちは、みんな覚えてる。優しかったとか、力が強かったとか、外へ行くべきじゃなかったとか、勝手なことを言う」
青年は拳を握った。
「俺は、それを聞いて育った」
「……」
「だから、あんたが来た時、腹が立ったんだ」
青年は俺を睨んだ。
「マーサ様を連れて行った男が、立派な顔で戻ってきた。しかも、何かを取りに来たみたいな顔をしてた」
言い返せなかった。
実際、俺はまほうのカギとまほうのじゅうたんを求めて来た。
それは事実だ。
理由があっても、青年から見れば同じことだ。
「道具は必要だ」
「やっぱりな」
青年の声が冷えた。
「だが、それだけではない」
「何が違う」
「マーサを取り戻す」
青年は息を止めた。
俺は続けなかった。
魔界の話も、別世界の記憶も、この場で並べる話ではない。
ただ、目的だけを置いた。
「……本気で言ってるのか」
「ああ」
「今さら?」
「ああ」
青年は笑った。
笑ったが、そこに楽しさはなかった。
「遅すぎるだろ」
「そうだな」
俺の返事に、青年は目を見開いた。
否定しなかったからだろう。
「遅すぎる。だが、やめる理由にはならない」
青年は何も言わなかった。
◆
風が石段を抜けていった。
青年は町の上へ目を向ける。
「あんたが本当にマーサ様を助けに行くなら、一つだけ言っておく」
「何だ」
「この町の人間は、みんな同じ気持ちじゃない」
青年の声は少し落ち着いていた。
「マーサ様を外へ出したことを、今でも怒ってる人がいる。でも、マーサ様が自分で選んだなら仕方ないって言う人もいる」
「ああ」
「戻ってきてほしかっただけの人もいる」
その言葉が、一番静かだった。
俺は昨日の老女を思い出した。
反対したと言いながら、マーサの優しさを覚えていた老女。
この町に残っているのは、怒りだけではない。
「お前はどうなんだ」
青年はすぐには答えなかった。
「分からない」
「そうか」
「あんたを許す気はない」
「ああ」
「でも、昨日殴った時、あんたが剣を抜かなかったのは見た」
青年は俺を見る。
「あれで、余計に分からなくなった」
俺は黙っていた。
許されるために剣を抜かなかったわけではない。
だが、それを言葉にする必要はなかった。
青年は小さく息を吐いた。
「長老たちに、試されてるんだろ」
「ああ」
「なら、上の方にいる婆さんにも話を聞け。昔、マーサ様が外へ出るのに強く反対した人だ」
昨日の老女とは別の者かもしれない。
あるいは同じ流れにいる者かもしれない。
「分かった」
「それと」
青年は少しだけ言いよどんだ。
「マーサ様を取り戻すって言うなら、途中でやめるな」
「やめん」
今度は、迷わず答えた。
青年は俺をしばらく見ていた。
やがて、視線をそらす。
「なら、行けよ」
それだけ言って、青年は背を向けた。
◆
俺は青年の背中を見送った。
許されたわけではない。
信じられたわけでもない。
ただ、一つだけ道を示された。
それで十分だった。
石段の上へ目を向ける。
朝の光は、町の高い場所まで届き始めていた。
マーサを反対した者。
マーサを見送った者。
マーサの名を、今も覚えている者。
その声を聞かなければならない。
俺は石段を上がり始めた。