ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
石段を上がるほど、町の音は遠くなっていった。
水場の声も、家々の戸が開く音も、下の方へ沈んでいく。
青年が言った老女の家は、町の上にあった。
白い石壁に囲まれた小さな家で、入口のそばには古い杖が立てかけられている。
戸は少しだけ開いていた。
中から、乾いた咳の音が聞こえる。
「誰だい」
中から声がした。
俺は戸の前で足を止めた。
「パパスだ」
短く名乗ると、家の中が静かになった。
「……入っておいで」
許しの言葉ではない。
だが、拒絶でもなかった。
俺は戸を押し、家の中へ入った。
◆
部屋の奥に、老女が座っていた。
昨日広場で見た老女とは違う。
背は小さく、髪は白い。
だが、こちらを見る目だけは、年齢を感じさせないほど鋭かった。
「本当に戻ってきたのかい」
「ああ」
「ずいぶん遅い帰りだね」
俺は何も言わなかった。
老女は膝の上に置いた手を、ゆっくりと握った。
「長老たちに言われて来たのかい」
「この町でマーサの話を聞けと言われた」
「なら、わしのところへ来るのは間違ってないね」
老女は小さく笑った。
笑ったが、温かさはなかった。
「わしは反対したよ。エルヘブンの娘が外へ嫁ぐなんて、認められるものかとね」
確認できている原作の言葉が、目の前の人間の声になって響いた。
画面越しに聞いた台詞ではない。
今、俺へ向けられている言葉だった。
「なぜ反対した」
「外の世界が嫌いだったからじゃない。マーサが大切だったからだよ」
その一言に、俺は返す言葉を失った。
◆
「マーサは、この町の中でも特別な娘だった」
老女は、窓の外へ目を向けた。
「力が強かった。人より遠くを見て、人より深く聞いた。けれど、あの子はそれを誇るような娘じゃなかった」
俺は黙って聞いた。
「困っている者がいれば、すぐに手を伸ばす。泣いている子がいれば、そばに座る。誰かが無理をしていれば、黙って水を置く。そういう子だった」
俺の知らないマーサだった。
優しい人だったと、サンチョから聞いたことはある。
だが、エルヘブンの人間が語るマーサは、もっと近かった。
町の空気の中にいた。
水場のそばにいた。
石段を上り下りしていた。
ただの母でも、ただの聖なる血筋でもない。
この町に生きていた一人の娘だった。
「そんな娘を、外から来た若者が連れて行くと言う」
老女の目が、俺へ戻った。
「反対しない方がおかしいだろう」
「ああ」
短く答えた。
その通りだった。
老女は俺を見つめた。
「あんたは、あの時のことを覚えているのかい」
来ると思っていた問いだった。
それでも、胸の奥が重く沈む。
「覚えていない」
「ほう」
「言い訳ではない」
「先にそう言うところが、もう言い訳に聞こえるね」
鋭い言葉だった。
俺は目を伏せなかった。
「そう聞こえても仕方ない」
老女は、しばらく黙って俺を見ていた。
◆
「マーサは泣かなかったよ」
やがて、老女が言った。
俺は息を止めた。
「あの日、わしは最後まで反対した。外へ出れば、もう簡単には戻れない。町の役目も、あの子の力も、すべて捨てるつもりかとね」
老女の声は低かった。
「マーサは、泣かなかった。ただ、困ったように笑った」
その顔を、俺は知らない。
だが、見える気がした。
人を傷つけたくないのに、自分の選択も曲げられない者の顔。
「何と言った」
俺は思わず聞いていた。
老女は少しだけ眉を上げた。
「覚えていない男が、それを聞くのかい」
「ああ」
「残酷だね」
「そうだな」
否定はできなかった。
老女は小さく息を吐いた。
「マーサは言ったよ。自分で選んだ道だと」
俺は拳を握った。
「パパスに連れて行かれるのではなく、自分が行くのだと。そう言った」
胸の奥が、重く沈んだまま熱を持った。
マーサは選んだ。
長老もそう言った。
老人も、町の者たちも、その選択を覚えていた。
だが、その隣にいたはずの俺だけが覚えていない。
いや、正確には俺ではない。
元のパパスだ。
それでも、今この身体で立っているのは俺だった。
◆
「あんたが忘れていようが、マーサが選んだことは消えない」
老女の声は静かだった。
「だがね、パパス。選ばれた側には、選ばれた側の責任がある」
「ああ」
「マーサが自分で選んだ道だから、あんたは悪くない。そんな話ではないよ」
「分かっている」
「本当に分かっているなら、簡単にマーサを救うなどと言うんじゃない」
老女の言葉が、胸に刺さった。
「救うと言うなら、あの子が何を捨てて、何を持って出ていったのかを知りなさい」
俺は黙ってうなずいた。
マーサを救う。
その言葉は、俺の中では魔界へ向かう理由だった。
だが、この町では違う。
マーサを救うということは、マーサが背負っていたものごと抱え直すということだった。
「一つ聞く」
老女は俺を見た。
「何だ」
「あんたは、マーサを連れ戻したら、この町へ返すつもりかい」
答えはすぐには出なかった。
マーサを救う。
だが、その先を俺は考えていなかった。
リュカの母として。
パパスの妻として。
グランバニア王妃として。
前世の知識にある役割ばかりが先に立っていた。
だが、マーサはエルヘブンの娘でもある。
「俺が決めることではない」
ようやく、それだけ言った。
老女の目が、少しだけ変わった。
「マーサが決めることだ」
「……そうかい」
「俺は、あいつを奪われたままにしない。その先を決めるのは、マーサ自身だ」
老女は長く黙った。
やがて、小さくうなずいた。
「なら、少しは聞く耳があるようだね」
◆
家を出る頃には、朝の光が町の上まで届いていた。
老女は最後まで、俺を許すとは言わなかった。
それでいい。
許しをもらいに来たわけではない。
石段を下りながら、俺は老女の言葉を思い返した。
選ばれた側には、選ばれた側の責任がある。
その言葉は、剣よりも重かった。
俺はマーサと過ごした記憶を持たない。
だが、マーサが選んだ道の先に、今のリュカがいる。
ならば俺は、その道を知らないまま終わらせてはならない。
下の広場へ戻ると、昨日の青年が遠くからこちらを見ていた。
俺と目が合うと、青年は何も言わずに視線をそらした。
それで十分だった。
俺は町の奥へ目を向けた。
まだ聞くべき声がある。
マーサを見送った者。
マーサの名を懐かしむ者。
そして、この町の長老たち。
まほうのカギとまほうのじゅうたんへ辿り着く前に、俺はもう少し、この町のマーサを知らなければならなかった。