ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
第53話『星降る腕輪』
エルヘブンを出てから、俺はすぐにサンタローズへ戻らなかった。
まほうのじゅうたんを広げ、海沿いを南へ進む。
昼の光の下、海面を滑るように進むじゅうたんは、相変わらず現実感がなかった。
だが、使い勝手には限界がある。
山は越えられない。
深い森も越えられない。
海や平地の上なら便利だが、万能の飛行アイテムではない。
ゲームでは分かっていたことだ。
だが、自分で乗ってみると、その制限が思った以上に面倒だった。
「山を越えられれば楽なんだがな」
目の前には、グランバニアへ続く山々が見えている。
まほうのじゅうたんは、その手前で進むのを嫌がるように高度を落とした。
仕方がない。
俺は山麓の平地にじゅうたんを降ろし、畳んで背負った。
ここからは徒歩だ。
目的地はグランバニア。
俺が本来帰るべき国。
だが、今は帰還ではない。
正面から王として戻るつもりはない。
玉座に座るつもりもない。
必要なものを取りに行くだけだ。
盗みに行く、とも言う。
「……言い方の問題だな」
口に出してみたが、余計に悪く聞こえた。
必要なのは、ほしふるうでわ。
装備した者の素早さを大きく上げる腕輪。
原作を知っている俺にとって、その在処は分かっている。
グランバニアの宝物庫。
まほうのカギで開く扉の先。
そこには三千ゴールドと、ほしふるうでわがある。
今の俺には、それが必要だった。
ゲマと戦うために。
原作のパパスが届かなかった場所へ、届くために。
山道を抜ける頃には、日が大きく傾いていた。
グランバニアの城が見える。
高い山に囲まれた、堅牢な城。
遠くから見るだけでも分かる。
国だ。
サンタローズの小さな家とは違う。
ここには兵がいて、民がいて、城があって、王座がある。
本来なら、俺はあそこに戻らなければならないのかもしれない。
だが、俺にはその記憶がない。
グランバニアで暮らした日々も。
マーサと過ごした時間も。
リュカが生まれた日のことも。
この身体にあったはずのものを、俺は知らない。
だからこそ、今は正面から戻れない。
戻ってしまえば、俺は王として扱われる。
兄として、主として、夫として、父として、知らない記憶を求められる。
それに応えられない。
今はまだ。
「夜まで待つか」
俺は城下から少し離れた岩陰に身を潜めた。
楽しい楽しいステルスミッションの始まりだ。
いや、楽しくはない。
心臓に悪い。
日が沈み、城の灯りが一つずつともる。
見張りの交代を待つ。
兵の動きを見る。
正門から入るわけにはいかない。
顔を見られれば、誰かが気づく可能性がある。
パパス。
その名を、この城の者たちは忘れていないだろう。
俺は外套を深くかぶり、城の裏手へ回った。
石壁の陰。
荷車。
見張りの死角。
ゲームでは、こんなことをする必要はなかった。
堂々と城に入って、まほうのカギで宝物庫を開ければいい。
だが現実は違う。
俺は今、不審者だ。
しかも、自分の国の城へ忍び込もうとしている不審者である。
「情けない王族だな」
小さく呟きながら、俺は壁際を進んだ。
まほうのカギはある。
扉さえ見つければ、開けられる。
問題は、その扉まで誰にも見つからずに行けるかだ。
城内へ入ると、空気が変わった。
石の匂い。
燭台の油の匂い。
夜番の兵が歩く足音。
遠くから、人の笑い声が聞こえた。
酒場だ。
グランバニア城の中にある酒場。
この時代では、まだ普通の酒場だ。
後の時代なら、ここはルイーダの店として記憶に残っている場所だったはずだ。
ゲームの中で仲間を預けたり、呼び出したりする場所。
だが、今は違う。
まだリュカは幼い。
俺はパパスとして、この時代に立っている。
だから、そこにいるのは冒険者を管理するルイーダではない。
普通に酒を飲み、笑い、愚痴をこぼす兵たちだった。
俺は柱の陰に身を隠しながら、酒場の横を抜けようとした。
その時だった。
「あれ?お客さん?」
声をかけられた。
まずい。
振り返ると、年配の男がこちらを見ていた。
兵士ではない。
酒場の客か、城に出入りする者だろうか。
酒の匂いが少しする。
丸い顔で、人の良さそうな目をしている。
ただ、その目は意外と鋭かった。
「見ない顔ですね」
「ああ。少し道に迷った」
「こんな夜に?」
「……そういうこともある」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
男はしばらく俺を見ていた。
まずい。
ここで騒がれたら終わる。
俺は逃げるか、眠らせるか、何か誤魔化すかを考えた。
だが、男は急にぱっと顔を明るくした。
「ちょうどいい。あなた、探し物は得意ですか?」
「探し物?」
「いやあ、困ってましてね。大事な駒をなくしてしまったんです」
「駒?」
「モンスターチェスの駒ですよ」
その言葉で、俺の中の記憶が動いた。
モンスターチェス。
グランバニア。
駒をなくした男。
そして、この丸い顔。
まさか。
「あなた、名前は?」
「私ですか?パピンと申します」
パピン。
ピピンの父親。
リメイク版の記憶が、頭の中で繋がった。
そうだ。
ピピンの父親だ。
チェス好きで、モンスターチェスの駒をなくしている男。
ピピンはこの時代ではまだ生まれていないかもしれない。
だが、父親のパピンはここにいる。
俺は城に忍び込んだ不審者として捕まりかけた。
その瞬間、モンスターチェスの駒探しを頼まれている。
何だ、この展開。
完全にサブイベントだ。
「それで、その駒を探せばいいのか」
「はい。酒場の近くで落としたはずなんです。いやあ、困っていたところでして」
パピンは本気で困っているらしい。
こちらを疑うより、駒の方が大事なのかもしれない。
ありがたいような、心配になるような男だった。
「分かった。探そう」
「本当ですか!」
「ただし、静かにな」
「もちろんです。夜ですからね」
そういう問題ではない。
俺は苦笑を押し殺しながら、酒場の周辺を探した。
棚の下。
椅子の足元。
樽の陰。
階段の脇。
こんなことをしている場合ではない。
だが、逆に言えば、これで自然に酒場周辺を歩ける。
不審者ではなく、駒を探す親切な通りすがりになれる。
いや、そもそも通りすがりが城内にいる時点でおかしいのだが。
しばらく探すと、樽の裏に小さな駒が落ちているのを見つけた。
魔物を模した小さな駒。
俺はそれを拾い上げる。
「これか?」
「それです!」
パピンの顔が輝いた。
「いやあ、助かりました。これがないとどうにも落ち着かなくて」
「気をつけた方がいい」
「ええ、本当に。あなたは親切な方ですね」
「そうでもない」
今から宝物庫へ行く男が、親切な方なわけがない。
パピンは駒を大事そうにしまい、上機嫌で酒場へ戻っていった。
俺はその背中を見送り、息を吐く。
助かった。
まさか、モンスターチェスの駒に命を救われるとは思わなかった。
俺は再び城内を進む。
目的の扉は、覚えている。
いや、正確にはゲームのマップとして覚えている。
だが実際の城は、画面よりずっと広い。
通路も階段も、思った以上に立体的だ。
何度か兵の足音に身を隠しながら、ようやく宝物庫の前へたどり着いた。
扉には鍵がかかっている。
普通なら開かない。
だが、俺にはまほうのカギがある。
「悪いな」
誰に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。
扉へまほうのカギを差し込む。
金属がかすかに鳴った。
かちり。
鍵が開く。
俺は慎重に扉を押し開け、中へ入った。
宝物庫の空気は、冷たかった。
外よりも静かで、音が吸い込まれるようだった。
棚。
箱。
壺。
古い装飾品。
そして、目当ての宝箱。
俺は迷わず近づいた。
蓋を開ける。
中には革袋が入っていた。
三千ゴールド。
重い。
サンチョから借りた三万五千ゴールドには、まるで足りない。
だが、今後の準備には必要になる。
俺は袋へしまった。
もう一つの宝箱を開ける。
中には、星のように淡く輝く腕輪が入っていた。
ほしふるうでわ。
ゲームで何度も見た名前。
だが、実物は思っていたよりも静かだった。
派手な光ではない。
夜空の星を閉じ込めたような、細い輝き。
手に取ると、わずかに軽い。
いや、軽いというより、手の動きそのものが早まるような妙な感覚があった。
これだ。
これが必要だった。
ゲマを倒すために。
原作のパパスが届かなかった一瞬へ、届くために。
俺は腕輪を袋へしまった。
そこで、ふと宝物庫の中を見回す。
ここはグランバニアの宝物庫だ。
つまり、本来なら俺のものでもあるのかもしれない。
いや、今の俺は王として戻っていない。
だから、これはやはり盗みだ。
言い訳を重ねても仕方ない。
「悪いな、オジロン」
小さく呟いた。
「説教は全部終わってから聞く」
その時が来るかは分からない。
だが、もし来るなら、俺はちゃんと返しに来る。
この腕輪も。
この金も。
そして、この国に背を向けていた理由も。
全部。
今はまだ駄目だ。
俺には、先にやらなければならないことがある。
俺は宝箱を閉じ、扉へ戻った。
廊下に耳を澄ませる。
足音はない。
扉を開け、外へ出る。
鍵を閉める。
音を殺して、来た道を戻る。
酒場の方から、パピンの笑い声が聞こえた。
「見つかったんですよ、駒が!」
「またなくしたのか?」
「今回は見つかったからいいんです」
楽しそうな声だった。
俺は柱の陰で少しだけ笑った。
この時代のグランバニアにも、ちゃんと日常がある。
俺が知らないだけで。
元のパパスなら、その日常をもっと知っていたのかもしれない。
兵の名前も。
酒場の常連も。
城の匂いも。
弟の顔も。
だが、俺には分からない。
今分かるのは、袋の中の腕輪の重みと、これから変えなければならない未来だけだ。
城を出る頃には、夜がさらに深くなっていた。
見張りに見つからないよう、来た時と同じように外壁の陰を抜ける。
城下を離れ、山道の手前まで来て、ようやく息を吐いた。
背中の袋が重い。
三千ゴールド。
ほしふるうでわ。
これでまた一つ、勝ち筋に近づいた。
だが、これだけでは駄目だ。
速くなっただけでは、ゲマには勝てない。
剣が届いても、人質を取られれば終わる。
それは分かっている。
それでも、必要な一手だった。
俺は空を見上げた。
星が出ている。
腕輪の名にふさわしい夜だった。
原作の流れは、まだ先にある。
ラインハット。
ヘンリー誘拐。
古代の遺跡。
ゲマ。
その先で、パパスは死ぬ。
ゲームではそうだった。
小説でもそうだった。
記憶の中でもそうだった。
だが、俺はそこへ向かうために、ただ歩いているわけではない。
変えるために進んでいる。
死ぬためではない。
生きて帰るために。
リュカのいる場所へ帰るために。
俺はまほうのじゅうたんを広げ、夜のグランバニアを後にした。