ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
俺は静かに、ヘンリーの部屋へ足を踏み入れた。
部屋の中に、ヘンリーはいない。
窓は閉まっている。
廊下へ出た様子もない。
兵士たちも、王子が外へ出たところは見ていないと言っていた。
なら、答えは一つしかない。
椅子の下。
そこに隠し階段がある。
分かっている。
すべて分かっている。
だが、俺はすぐには動かなかった。
「おとうさん……?」
リュカが不安そうに俺を見上げる。
「ヘンリー王子、どこに行ったの?」
「この部屋から出ていないなら、部屋の中に手がかりがあるはずだ」
「手がかり?」
「ああ。よく見てみろ」
リュカは部屋の中をきょろきょろと見回した。
壁。
床。
机。
椅子。
そして、ヘンリーが座っていた椅子の前で足を止める。
「あれ?」
「どうした」
「ここ、風が出てる」
リュカが椅子の下を覗き込んだ。
小さな手が床へ触れる。
カチリ、と音がした。
椅子の下の床が、重い音を立ててずれた。
暗い穴が口を開け、その先に下へ続く階段が現れる。
「階段だ!」
リュカが目を丸くした。
ボロンゴが低く唸り、穴の奥を睨む。
「ガウ……」
階段の奥から、かすかに声が聞こえた。
ヘンリーの声だ。
俺の指が、無意識に剣の柄へかかった。
今、駆け込めば止められる。
誘拐犯をこの場で斬り伏せることもできる。
ヘンリーを傷一つなく取り戻すこともできる。
だが、それでは枝を折るだけだ。
根は残る。
俺は奥歯を噛み締めた。
「リュカ」
「なに?」
「ボロンゴと一緒に下を見てこい。ただし、危ないと思ったらすぐ戻れ」
「う、うん」
本当なら、五歳の子どもに言う言葉ではない。
だが、この流れは必要だった。
リュカが何を見たのか。
ヘンリーが本当にさらわれたのか。
それを、この子の口から俺へ伝えさせる必要がある。
原作通りに見える形で。
リュカはボロンゴと一緒に、慎重に階段を下りていった。
俺は階段の上に残る。
いつでも飛び込めるように。
いつでも斬れるように。
だが、まだ動かない。
下からヘンリーの声が聞こえた。
「なんだ。もう見つけたのかよ」
いつもの生意気な声。
少し安心しかけた、その直後だった。
別の声がした。
低い、荒い男の声。
「ヘンリー王子だな」
空気が変わった。
リュカが息を呑む気配がする。
ボロンゴが唸る。
「お前たち、何者だ!」
ヘンリーの声に、怯えはなかった。
王子としての強がり。
子どもらしい反発。
その両方が混ざっている。
男たちは笑った。
「悪いが、来てもらうぜ」
鈍い音がした。
何かが倒れる音。
リュカが小さく声を上げる。
俺は階段へ足を踏み出しかけた。
止まる。
まだだ。
まだ、ここではない。
「早く運べ!」
「へい!」
荒い足音が遠ざかる。
水の匂い。
外へ抜ける風。
隠された搬出口。
原作通りだ。
男たちはヘンリーを運び出す。
しばらくして、リュカが階段を駆け上がってきた。
顔が青ざめている。
ボロンゴも毛を逆立て、牙をむき出しにしていた。
「おとうさん!」
「ああ」
「ヘンリー王子が……!」
「さらわれたんだな」
俺が言うと、リュカは驚いたように目を見開いた。
「見てたの?」
「声は聞こえた」
嘘ではない。
すべてを知っていたとは言わない。
「おとうさん、助けに行こう!」
「ああ。助けに行く」
俺は頷いた。
だが、走り出しはしなかった。
「おとうさん?」
「リュカ。落ち着け」
「でも、ヘンリー王子が!」
「分かっている。だからこそ、焦るな」
リュカは唇を噛んだ。
今にも階段へ戻りそうな顔だった。
この子は、やはり追う。
父親が止めても。
危ないと言っても。
友達になりかけた王子がさらわれたなら、必ず追ってくる。
だから、置いていく選択肢は最初からなかった。
俺は廊下にいた兵士へ目を向けた。
「王子がさらわれた」
兵士の顔色が変わる。
「な、なんですと!?」
「騒ぐな」
俺は低く言った。
兵士の口が止まる。
「陛下へ伝えろ」
「は、はい!」
「ただし、伝える相手は陛下だけだ。城中に触れ回るな」
「陛下だけ、でございますか?」
「ああ」
俺は兵士の目を見た。
「それと、こう伝えろ」
声を落とす。
「北東の件が動いた、と」
兵士は一瞬、意味が分からないという顔をした。
だが、俺の表情を見て、すぐに姿勢を正した。
「承知いたしました!」
兵士が走り去る。
これでいい。
盤面は動いた。
王なら分かる。
ヘンリーがさらわれた。
敵が動いた。
ならば、こちらも動く時だと。
ただし、それをここで口にするつもりはない。
「おとうさん、本当に急がなくていいの?」
リュカが不安そうに尋ねる。
「急ぐさ」
「じゃあ、早く行こうよ」
「敵の速さに合わせて走る必要はない」
「どういうこと?」
「相手はヘンリー王子を抱えている。そう遠くへは行けない」
それは表向きの理由だ。
本当は違う。
俺は知っている。
ヘンリーがどこへ連れて行かれるのかを。
そこで誰が待っているのかを。
そして、そこで何が起きるのかを。
だから、焦る必要はない。
焦れば、原作のパパスと同じになる。
何も見ず、何も整えず、ただ敵の用意した盤面へ飛び込むことになる。
それだけはしない。
「リュカ。俺のそばを離れるな」
「うん」
「ボロンゴ。リュカを頼む」
「ガウ!」
俺はもう一度、ヘンリーの部屋を見た。
椅子の下の隠し階段。
原作で何度も見た、あの入り口。
ここから物語は動き出す。
ヘンリー誘拐。
パパスが追う。
リュカが追う。
神殿で戦う。
リュカを人質に取られる。
剣を捨てる。
死ぬ。
その流れを、俺は知っている。
そして、その中の一行を変えるために、ここまで準備してきた。
廊下を出ると、城内はまだ大きく騒いではいなかった。
兵士たちは不安そうにこちらを見るが、誰も声を荒らげていない。
それでいい。
混乱は敵を利する。
騒ぎは城を鈍らせる。
俺はリュカとボロンゴを連れて、城門へ向かった。
外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
ラインハットの北東。
古代の遺跡。
そこにヘンリーは連れて行かれる。
そこに、ゲマがいる。
「行くぞ、リュカ」
「うん……!」
リュカはまだ焦っている。
当然だ。
目の前でヘンリーがさらわれたのだ。
だが、俺はその焦りに飲まれない。
原作通りに見える流れが、動き出した。
だが、もう同じ盤面ではない。
俺たちは、北東の遺跡へ向かった。