ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
赤い火球が、俺の胸元へ迫った。
腕が上がらない。
肩の傷が引きつり、胸の奥の痛みが呼吸を奪う。
足も動かない。
間に合わない。
ゲマの笑みが、炎の向こうで歪んだ。
「終わりです」
その時だった。
「バギ!」
声は、遠くからではなかった。
すぐ後ろ。
俺の背中から、数歩の距離。
小さな風の刃が走り、迫っていたメラミの端を叩いた。
火球は消えない。
斬れもしない。
だが、ほんのわずかに軌道がずれた。
それだけで十分だった。
赤い火球が、俺の胸を外れる。
肩口を焼き、背後の石畳へぶつかって弾けた。
「ぐっ……!」
熱が皮膚を裂く。
服が焦げ、鼻の奥に焼けた匂いが刺さる。
だが、生きている。
俺は倒れなかった。
「おとうさん!」
振り返った。
そこに、リュカがいた。
兵の後ろではない。
俺のすぐ後ろまで来ていた。
どうのつるぎを握りしめ、顔を青ざめさせながら、それでも俺を見ている。
小さな胸が、荒く上下していた。
誰かが止めるより早く、盾の脇をすり抜けてきたのだ。
ボロンゴだけが、その動きに追いついていた。
「リュカ……!」
来るな、と言おうとした。
ここにいろと言っただろう、と叱ろうとした。
約束したはずだ。
お前がそこにいることが、俺を助けるのだと。
だが、その声は出なかった。
リュカの手が震えていた。
どうのつるぎを握る指は白くなり、目には涙が浮かんでいる。
怖くないはずがない。
ゲマを見て、炎を見て、俺が倒れかけるのを見て。
それでも、この子は走ってきた。
約束を破るためではない。
俺を、死なせないために。
「ベホイミ!」
光が、俺の身体を包んだ。
ホイミではない。
もっと深い。
もっと強い。
傷の奥へ届く光だった。
胸の痛みが引いていく。
焼けた肩に、熱とは違う温かさが広がっていく。
乱れていた呼吸が、少しずつ戻る。
ベホイミ。
いつの間に。
いつの間に、そんな呪文まで覚えた。
俺はずっと、守ることばかり考えていた。
危ないものから遠ざけることばかり考えていた。
だが、リュカはただ守られるだけの子どもではなかった。
震えながら。
泣きそうになりながら。
それでも、父親を助けるために、ここまで来た。
原作の流れにはなかった一手。
俺が紙に書いた勝ち筋にもなかった一手。
俺がこの世界でリュカと生きてきたからこそ、ここに生まれた一手だった。
「おとうさん、死なないで……!」
その声が、胸に刺さった。
ああ。
死なない。
死ねるわけがない。
ボロンゴが、リュカの横で低く唸った。
「ガルルル……!」
小さな身体を低く構え、牙を剥く。
まだ子どもだ。
それでも、その唸りには獣の王の片鱗があった。
リュカとゲマの間に立ち、いつでも飛びかかれる姿勢を取っている。
ゲマの視線が、リュカへ向いた。
次に、ボロンゴへ。
細い目が、さらに細くなる。
「風の呪文を使う子どもに……キラーパンサーの仔ですか」
ゲマはくつくつと笑った。
だが、その笑いには、さっきまでになかった棘が混じっていた。
「ずいぶんと面白いものを隠していましたねえ」
「下がれ、リュカ」
俺は低く言った。
「今すぐ下がれ」
「いやだ!」
リュカは首を振った。
「おとうさん、死んじゃうと思ったんだ!」
その一言で、ゲマの笑みが深くなった。
まずい。
今ので、分かってしまった。
ゲマは見逃さない。
俺が何に反応するのか。
何を守ろうとするのか。
何を失えば、剣を止めるのか。
「なるほど」
ゲマが言った。
「よいものを見せていただきました」
俺は踏み込もうとした。
その足より早く、ゲマの指先が動いた。
赤い光が灯る。
違う。
メラミではない。
遺跡の前の冷たい夜気が、一瞬で乾いた。
石畳の隙間に残っていた湿り気が、白く煙を上げる。
兵たちがざわめいた。
熱い。
まだ放たれてもいないのに、熱い。
ゲマの指先に集まる炎は、さっきまでのメラミとはまるで違っていた。
赤い。
深い。
重い。
火球というより、燃える太陽の欠片だった。
メラゾーマ。
その炎を、俺は知っている。
原作でパパスを焼いた炎。
リュカの目の前で、パパスを灰にした炎。
ゲマの指先は、俺へ向いている。
だが、その直線の先に、リュカがいる。
俺が避ければ、炎はリュカへ届く。
受ければ、俺が焼ける。
反らせば、どこへ飛ぶか分からない。
兵がいる。
ヘンリーがいる。
ボロンゴがいる。
しんくう斬りでは駄目だ。
メラミとは違う。
この炎は、ただ芯をかすめて逸らせるようなものではない。
外側を裂いても、内側の熱が押し潰してくる。
受け止めれば、剣ごと腕が焼ける。
逃げ場はない。
原作通りなら、ここで死ぬ。
そういう場面だった。
どれだけパパスが強くても。
どれだけプレイヤーがボタンを押しても。
ここでは助からない。
戦闘ではない。
イベントだ。
ゲマが笑う。
パパスが動けなくなる。
メラゾーマが飛ぶ。
リュカが泣く。
決まっていた流れ。
変えられない画面。
何度見ても、何度やり直しても、同じ結末へ落ちる場所。
だが、今は違う。
俺は画面の外にいない。
この炎の前にいる。
この剣を握っている。
リュカの声を、背中で聞いている。
しかも今回は、リュカまで巻き込んでいる。
ふざけるな。
そんな結末のために、ここまで来たんじゃない。
ゲマが笑った。
「まとめて燃え尽きなさい」
メラゾーマが放たれた。
夜が赤く染まる。
炎が迫る。
熱が肌を焼く。
目が乾く。
息が焦げる。
逃げるな。
受けるな。
反らすな。
斬れ。
これは、ゲームの知識だけで届く一撃ではない。
知っているだけでは、何も変わらなかった。
メタルキングのけんを手に入れた。
竜紋の手甲を得た。
ほしふるうでわを使いこなした。
バーハを覚えた。
ホイミで何度も立ち上がった。
ホークブリザードの吹雪を裂いた。
ザラキの黒い魔力を、完全ではなくても下へ届かせなかった。
未来のリュカのバギを裂いた。
バギマを受けた。
バギクロスの暴風へ踏み込み、その芯を断った。
試練の洞窟で、メラミを見た。
炎にも流れがあると知った。
だが、あの時は逸らしただけだった。
ゲマのメラミも斬った。
それでも、完全には消せなかった。
だが、全部がここへ繋がっている。
魔力には流れがある。
流れには芯がある。
風も。
吹雪も。
死の呪文も。
炎も。
形は違う。
熱も違う。
重さも違う。
それでも、呪文である限り、魔力の流れがある。
なら、断てる。
断つしかない。
俺はメタルキングのけんを握り直した。
竜紋の手甲が熱を帯びる。
ほしふるうでわが、腕の中で脈打つように輝いた。
速さだけでは足りない。
力だけでも足りない。
研ぎ澄ませ。
刃を。
呼吸を。
魔力を。
今まで積み上げてきたすべてを。
炎の外側を見るな。
赤く燃える形を見るな。
熱に怯えるな。
奥だ。
もっと奥。
炎を炎として立たせている一点。
そこへ、刃を届かせる。
メラゾーマが眼前に迫る。
原作の炎が迫る。
リュカを泣かせる未来が迫る。
俺は踏み込んだ。
名などなかった。
だが、この一撃を呼ぶなら、それしかない。
「―――火炎斬り!!」
刃が、炎の芯へ入った。
世界が白く弾けた。
熱も音も消える。
一瞬、何も聞こえなかった。
次の瞬間。
メラゾーマが裂けた。
炎が左右へ割れる。
消えたのではない。
押し返したのでもない。
逸らしたのでもない。
斬った。
真正面から。
炎の奥にいたゲマの目が、大きく見開かれる。
初めて。
初めて、その顔から笑みが消えた。
「な……」
俺は止まらない。
割れた炎の間を抜ける。
熱が身体を焼く。
頬が裂ける。
肩の傷が開く。
だが、止まらない。
ほしふるうでわで引き上げられた速度が、世界を置き去りにする。
ゲマが後ろへ下がろうとした。
遅い。
メタルキングのけんを構える。
青白い顔が、眼前に迫る。
ここで終わらせる。
刃が、ゲマへ届いた。
赤紫のローブが裂ける。
青白い身体に、深い線が走る。
確かに斬った。
ゲマの身体が、大きく揺らいだ。
終わる。
そう思った。
その瞬間だった。
ゲマが笑った。
笑うはずのない傷で。
倒れるはずの身体で。
喉の奥から、ひび割れた笑い声が漏れる。
「く……くく……」
何だ。
空気が軋んだ。
遺跡の石が震える。
地面に落ちたジャミとゴンズの影が、黒く揺れる。
斬ったはずの炎が、消えずに空中で蠢いた。
初めてではない。
レヌール城で感じた、原作にはなかった魔界の気配。
妖精の村の旅に現れたホークブリザード。
起こるはずのないことが、何度も俺の前に立ちはだかった。
そのたびに俺は、そういうものだと思おうとした。
この世界はゲームそのものではない。
俺が動けば、敵も動く。
原作を知っているだけで、すべてが思い通りになるはずがない。
そう考えてきた。
だが、違う。
これは偶然のズレではない。
俺が原作を変えたからだ。
パパスがここで死ぬはずだった流れを、俺が壊そうとしているからだ。
レヌール城で。
ホークブリザードで。
これまで何度も、魔界の影は俺を原作の流れへ押し戻そうとしていた。
そして今。
ゲマを斬り、メラゾーマを斬り、パパスの死を越えようとしたこの瞬間。
それが、はっきりと形を取った。
ゲマが両腕を広げる。
裂けた胸から、黒い魔力が噴き上がった。
細い目が、狂ったように見開かれる。
「我が主、ミルドラース様!!」
ゲマの叫びが、夜を裂いた。
「この私に力を!!!」
黒い魔力が、空から落ちた。
俺の剣が、ゲマを断ち切る直前。
見えない何かが、壊したはずの筋書きを押し戻す。
パパスは、ここで死ぬ。
そう定められていた物語が、俺の首に手をかける。
これが、修正力。
原作を変えた俺を、原作へ戻すための力。
俺が初めて原作の死を斬った瞬間、これまで影のように付きまとっていたものが、はっきりと牙を剥いた。