ドラゴンクエストⅤ 転生したらパパスだった件。 作:兎深みどり
宿の中は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
灯りは最低限。
食堂の椅子は片づけられ、奥の部屋からは小さな寝息が聞こえる。
ここには、ビアンカ親子も泊まっているはずだ。
起こすつもりはない。
今夜動くのは、俺だけでいい。
受付にいた宿の主人が、眠そうな顔を上げた。
「こんな夜に、どうされました?」
「少し人を探している」
「人、ですか?」
「ああ。ルラフェンへ行ったことのある者だ。商人でも旅人でもいい」
宿の主人は目をこすりながら、少し考え込んだ。
「ルラフェンですか……ああ、そういえば、行商の方がひとり泊まってますよ。あの人なら、そちらの方面から来たと言っていました」
「会えるか?」
「もう休まれていると思いますが……パパスさんの頼みなら、声だけかけてみましょう」
「すまない」
主人は奥の客室へ向かった。
待っている間、俺は荷の中身を確かめる。
布で包んだ天空の剣。
サンチョから受け取ったキメラの翼。
少しばかりの金。
ゲームなら、道具欄を開けば済む。
だが現実では、一つ一つの重さがある。
キメラの翼も、ただの便利アイテムではない。
使い方を間違えれば、どこへ飛ぶか分からない。
だから、ルラフェンを知る人間がいる。
この世界の道具は、使う者の記憶や目的地の印象に引かれる。
少なくとも、俺はそう考えている。
だったら、俺の記憶だけでは足りない。
パパスの身体がルラフェンを知っている保証はない。
俺の知識にあるのは、ゲーム画面の町だ。
実際にそこへ行った者の記憶が必要だ。
しばらくして、宿の主人が一人の男を連れて戻ってきた。
旅装束の商人だった。
眠そうではあるが、目つきははっきりしている。
夜中に起こされて、ただ不機嫌というより、何事かと警戒している顔だった。
「あなたがパパスさんですか。宿の主人から聞きました。ルラフェンのことで話があるとか」
「ああ。急で悪い」
「いえ、サンタローズのパパスさんなら、話くらいは聞きますよ」
名前が通っている。
ありがたい反面、少しだけ重い。
「ルラフェンへ行ったことはあるか?」
「何度かあります。薬草と香料の取引で」
「最後に向かったのはいつだ?」
「十日ほど前です。そこからこちらへ流れてきました」
十分だ。
少なくとも、ルラフェンを実際に知っている。
「今から、ルラフェンへ向かいたい」
商人の顔が固まった。
「今から、ですか?」
「ああ」
「夜ですよ。馬車も出ませんし、道中には魔物もいる」
「歩いて行くつもりはない」
俺はキメラの翼を見せた。
商人は小さく息を呑んだ。
「キメラの翼……しかし、それは普通、知っている町へ戻るための道具でしょう」
「だから、あなたに頼みたい」
「私の記憶を使う、ということですか」
「無理にとは言わない。礼はする。危険があれば、こちらで引き受ける」
商人は黙った。
当然だ。
夜中に起こされ、知らない場所へ飛ぶ手助けをしろと言われている。
普通なら断る。
俺は続けた。
「ルラフェンで会いたい人がいる。ベネットという老人だ」
商人の眉が少し動いた。
「ああ、あの変わり者のじいさんですか」
「知っているのか?」
「町では有名です。妙な研究ばかりしている方でね。最近も、空を飛ぶ呪文だか何だかの話をしていました」
当たりだ。
ベネットじいさん。
ルラムーン草。
ルーラ。
流れが、少しずつ形になっていく。
「その人に用がある」
「……パパスさん。何をしようとしているんです?」
商人の声には、好奇心より警戒があった。
正直に全部は言えない。
未来を知っている。
ゲマと戦う準備をしている。
息子が奴隷になる未来を潰す。
そんな話をすれば、ただの危ない男だ。
「急ぎの旅の支度だ」
短く答える。
「明日から動くことになる。今夜のうちに、できることを済ませておきたい」
商人は俺の顔をじっと見た。
嘘ではない。
ただ、全部ではない。
やがて商人はため息をついた。
「分かりました。ただし、私はルラフェンまでです。町に着いたら、すぐ宿へ入らせてもらいますよ」
「それでいい」
「帰りは?」
「自分で戻る」
「無茶な方だ」
「よく言われる」
前世では、たぶん言われたことはない。
動かなかったからだ。
だが今の俺は、動くしかない。
商人は外套を羽織り直した。
「では、外へ。宿の中で使うものではありませんから」
「ああ」
俺たちは宿を出た。
サンタローズの夜は静かだった。
村の灯りは少なく、遠くで虫の声がしている。
商人は空を見上げた。
「ルラフェンの町を思い浮かべます。川沿いの道、薬草の匂い、古い家並み……それで足りますかね」
「足りるはずだ」
そうであってくれ。
俺はキメラの翼を広げた。
羽が淡く光る。
ただの道具ではない。
魔力の流れが、指先に伝わってくる。
商人が息を整えた。
「ルラフェンへ」
その言葉に合わせて、俺は翼を握りしめる。
次の瞬間、足元の感覚が消えた。
風が巻き上がる。
視界が白く揺れる。
身体が空へ引き上げられるような感覚。
胃が浮く。
これは慣れない。
前世で遊園地の絶叫マシンが苦手だったことを、こんなところで思い出すとは思わなかった。
叫ぶな。
パパスだぞ。
次に足が地面を踏んだ時、空気の匂いが変わっていた。
草の匂い。
湿った土。
そして、薬草の強い香り。
目の前には、夜の町並みが広がっていた。
ルラフェン。
来た。
本当に来た。
商人が少しふらつきながら、壁に手をついた。
「……着きましたね」
「ああ。助かった」
「私は宿へ行きます。パパスさんも、無理はほどほどに」
「礼は必ずする」
「期待していますよ」
商人は苦笑して、町の宿へ向かった。
俺は夜のルラフェンを見上げる。
ベネットじいさん。
ルラムーン草。
ルーラ。
ここからが本番だ。
まだ夜は終わっていない。