愉悦者は嘲笑う~世界を書き換えて遊んでいたら、政府も軍も本気で世界の真実を探し始めた~   作:ユーザーA

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都市伝説、いいですよね
それではお楽しみください


退屈な世界に最初の嘘を

真白空が人生の最後に抱いた感想は、恐怖でも後悔でもなかった。

 

 ――つまらない。

 

 ただ、それだけだった。

 

 耳を裂くようなブレーキ音がした。

 

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 

 視界の端で、赤信号を無視した大型トラックがこちらへ突っ込んでくるのが見えた。

 

 距離は近い。

 

 避けられない。

 

 走馬灯というものがあるなら、今この瞬間に見えるのだろう。

 

 生まれてから今日までの記憶。

 

 楽しかったこと。

 

 苦しかったこと。

 

 大切だったもの。

 

 失いたくなかったもの。

 

 そういう何かが、映画のように脳裏を駆け巡るのだろう。

 

 けれど、空には何も見えなかった。

 

 特別な記憶などなかった。

 

 執着するほど大切な誰かもいなかった。

 

 何としてでも叶えたい夢もなかった。

 

 ただ、毎日を生きていた。

 

 朝に起き、食事を取り、働き、帰宅し、眠る。

 

 ニュースを見れば、世界のどこかで事件が起きていた。

 

 SNSを開けば、誰かが怒り、誰かが笑い、誰かが炎上していた。

 

 動画サイトを眺めれば、刺激的な言葉と派手な演出で作られた娯楽が溢れていた。

 

 だが、どれも数日経てば忘れられる。

 

 昨日の大事件は、明日の話題に塗り潰される。

 

 誰かが叫んだ正義も、誰かが流した涙も、いずれ流れて消えていく。

 

 世界はいつも騒がしく、それでいて、どうしようもなく平坦だった。

 

 だから空は、迫り来る死を前にしても、心の底から何かを惜しむことができなかった。

 

 悲鳴が遠ざかる。

 

 ブレーキ音が潰れる。

 

 トラックのフロントが目の前を覆う。

 

「……ああ」

 

 小さく息が漏れた。

 

「退屈だったな」

 

 次の瞬間、衝撃が全身を砕いた。

 

 痛みは一瞬だった。

 

 いや、痛みと呼べるほどのものだったのかすら分からない。

 

 世界が反転し、音が消え、光が消え、意識が途切れる。

 

 何もかもが終わる。

 

 あまりにもあっけなく。

 

 あまりにも呆気なく。

 

 人間の人生など、結局はその程度なのだと、どこか他人事のように思った。

 

 そして――。

 

 空は、目を開けた。

 

 真っ白だった。

 

 どこを見ても白い。

 

 空もない。

 

 地面もない。

 

 壁もない。

 

 影もない。

 

 距離感すら存在しない。

 

 白い光に包まれている、という表現とも違う。

 

 光源があるわけではない。

 

 ただ、白だけがある。

 

 白以外が存在しない。

 

 そこには温度もなかった。

 

 暑くも寒くもない。

 

 風もない。

 

 音もない。

 

 匂いもない。

 

 上も下も分からないのに、空はなぜか立っている。

 

 自分の身体を見下ろすと、事故に遭う直前と同じ服を着ていた。

 

 血は付いていない。

 

 骨も折れていない。

 

 腕も脚もある。

 

 指を動かせば、問題なく動く。

 

 痛みはない。

 

 呼吸もできる。

 

 心臓の鼓動もある。

 

 だが、生きているという感覚とは少し違った。

 

「……死んだか」

 

 空はそう呟いた。

 

 確認する必要はなかった。

 

 最後の光景を覚えている。

 

 あの距離、あの速度、あの衝撃。

 

 生きているはずがない。

 

 なら、ここは死後の世界か。

 

 天国。

 

 地獄。

 

 あるいは、何か別の場所。

 

 空は周囲を見渡した。

 

 白。

 

 白。

 

 白。

 

 何もない。

 

「天国にしては殺風景だな」

 

 返事はない。

 

「地獄にしては苦痛がない」

 

 やはり返事はない。

 

「となると……」

 

 空は少し考えた。

 

 死んだ。

 

 何もない白い空間。

 

 身体は無事。

 

 周囲に誰もいない。

 

 何かが始まる前のような場所。

 

「転生前の待合室か?」

 

 その瞬間、白い空間がわずかに揺らいだ。

 

 音もなく。

 

 気配だけが生まれる。

 

 空はゆっくりと振り返った。

 

 そこに、一人の人物が立っていた。

 

 いつからいたのかは分からない。

 

 気づいた時には、そこにいた。

 

 老人のようにも見えた。

 

 青年のようにも見えた。

 

 男にも見えた。

 

 女にも見えた。

 

 見る角度によって姿が変わるわけではない。

 

 真正面から見ているはずなのに、認識が定まらない。

 

 顔はある。

 

 目もある。

 

 口もある。

 

 けれど、それを記憶しようとした瞬間、霧のように輪郭がぼやける。

 

 人間の形をしているが、人間ではない。

 

 そう理解するのに時間はかからなかった。

 

「驚いた」

 

 その存在は、静かに言った。

 

 声もまた不思議だった。

 

 低くも高くもない。

 

 優しくも厳しくもある。

 

 耳に届いているのに、頭の中へ直接響いているようにも感じる。

 

「私が姿を現す前に、ここが転生前の空間だと予想した者は初めてだ」

 

「消去法だよ」

 

 空は肩を竦めた。

 

「俺は死んだ。ここは知らない場所。天国や地獄にしては何もなさすぎる。なら、次に来るのは転生か何かだろ」

 

「ずいぶんと冷静だ」

 

「騒ぐ理由がない」

 

「普通は、もう少し取り乱すものだ」

 

「普通じゃないんだろうな」

 

 空は自分で言って、少し笑った。

 

 目の前の存在は、そんな空をじっと見ていた。

 

 観察するように。

 

 測るように。

 

「私は転生を司る神だ」

 

「やっぱり」

 

「君は、先ほど命を落とした」

 

「それも分かってる」

 

「本当に驚かないのか?」

 

「驚いたら生き返るのか?」

 

「いや」

 

「なら驚くだけ無駄だ」

 

 空の返答に、神はわずかに沈黙した。

 

 その沈黙は、不快感から来るものではなかった。

 

 むしろ、未知の反応を前にした戸惑いに近い。

 

「死が怖くないのか?」

 

「終わったことを怖がっても仕方ない」

 

「死ぬ前は?」

 

「死ぬ前?」

 

「トラックが迫ってきた時だ」

 

 空は少しだけ視線を上げた。

 

 記憶を辿る。

 

 赤信号。

 

 トラック。

 

 悲鳴。

 

 衝撃。

 

 そして、自分の最後の感情。

 

「怖いとは思わなかった」

 

「なぜ?」

 

「避けられないと分かったから」

 

「避けられない死なら、怖くないと?」

 

「怖がっても避けられないなら、同じだろ」

 

 神はまた沈黙した。

 

 これまで多くの魂を見てきた。

 

 死を受け入れられず泣く者。

 

 理不尽を呪う者。

 

 家族の名を叫ぶ者。

 

 生き返らせてほしいと懇願する者。

 

 もう一度だけ会わせてほしいと願う者。

 

 そのどれもが、人間らしかった。

 

 命を惜しむのは当然だ。

 

 死を恐れるのは自然だ。

 

 未練を残すのは、魂を持つ者として当たり前だった。

 

 だが、目の前の青年は違う。

 

 死を悲劇として見ていない。

 

 自分の死すら、どこか距離を置いて眺めている。

 

 まるで、自分の人生を最後まで見終えた観客のように。

 

「未練はないのか?」

 

 神は尋ねた。

 

「未練?」

 

「家族。友人。恋人。夢。仕事。財産。生きていれば得られた未来。何でもいい」

 

 空は考えた。

 

 神はその様子を見て、少しだけ安心した。

 

 考えるということは、何かしら残っているのだろう。

 

 人間ならば当然だ。

 

 どれだけ冷静に見えても、心の奥には何かがある。

 

 だが。

 

「ないな」

 

 空はあっさりと答えた。

 

「本当に?」

 

「強いて言うなら、もっと面白いものが見たかったくらいだ」

 

「面白いもの?」

 

「ああ」

 

 空は白い空間を見渡した。

 

「世界は騒がしかった。事件もあった。戦争もあった。陰謀論もあった。政治も経済も芸能も炎上もあった」

 

「なら退屈ではなかったのでは?」

 

「逆だよ」

 

 空は静かに笑った。

 

「騒がしいだけで、何も変わらない」

 

 神は空を見る。

 

「人は怒る。泣く。叫ぶ。正義を語る。悪を叩く。誰かを持ち上げて、誰かを落とす。けど、それは全部、決められた範囲の中で起きているだけだ」

 

「決められた範囲?」

 

「世界の常識の中、という意味だ」

 

 空は淡々と言った。

 

「人は空を飛べない。死者は蘇らない。怪物はいない。魔法はない。神は信仰の中にしかいない。都市伝説は都市伝説で、怪談は怪談で、作り話は作り話だ。誰もがそう理解している。疑いながらも、結局はそこに戻る」

 

 空の口元に薄い笑みが浮かぶ。

 

「だから退屈だった」

 

「平和であることが?」

 

「平和は悪くない」

 

「では何が不満だった?」

 

「崩れないことだ」

 

 神の目がわずかに細まる。

 

「常識が崩れない。世界が壊れない。人々の前提が揺らがない。昨日まで信じていた現実が、今日も同じ顔をしてそこにある」

 

 空は白い床とも空ともつかない場所へ視線を落とす。

 

「それがつまらない」

 

 神は、目の前の青年に対する認識を少し改めた。

 

 この魂は、力を欲しているのではない。

 

 救済を願っているのでもない。

 

 復讐を求めているのでもない。

 

 ただ、退屈を嫌っている。

 

 それも、自分の人生だけではない。

 

 世界そのものに対して、退屈だと言っている。

 

「では、転生の説明をしよう」

 

 神は片手を上げた。

 

 白い空間に、無数の光が浮かび上がる。

 

 一つではない。

 

 十でもない。

 

 百でも千でもない。

 

 数えることすら馬鹿らしくなるほどの光。

 

 それぞれの光は窓のように揺らめき、異なる世界を映し出していた。

 

 剣と魔法の世界。

 

 巨大な竜が空を舞い、騎士たちが城壁を守っている。

 

 魔王と勇者の世界。

 

 闇に覆われた大地で、聖剣を持つ少年が仲間と共に立ち上がっている。

 

 魔法学院の世界。

 

 才能ある少年少女たちが、古代魔法を学び、陰謀に巻き込まれていく。

 

 異能力者たちの都市。

 

 ビルの上を跳び回る者、炎を操る者、時間を止める者。

 

 近未来の世界。

 

 機械の兵士が行進し、人工知能が人類の命運を握っている。

 

 宇宙文明の世界。

 

 星々を渡る船団、銀河帝国、未知の生命体。

 

 神々の世界。

 

 天地を揺るがす戦い。信仰によって力を得る神格。神を殺す英雄。

 

 他にも数え切れない世界があった。

 

 砂漠しかない世界。

 

 海だけの世界。

 

 人類が滅びかけている世界。

 

 魔物に支配された世界。

 

 悪役令嬢が破滅を回避しようとしている世界。

 

 ダンジョンが日常に存在する世界。

 

 スキルやレベルが可視化された世界。

 

 死後に何度も繰り返す世界。

 

 どれも物語だった。

 

 どれも刺激的だった。

 

 どれも、普通の人間なら目を輝かせるような世界だった。

 

「好きな世界を選びなさい」

 

 神は言った。

 

「君には転生の権利がある。望むなら、才能も与えよう。魔法の才。剣の才。知識。容姿。身分。財産。あるいは、特別な力でもいい」

 

「特別な力?」

 

「いわゆる転生特典だ」

 

「随分とサービスがいい」

 

「そういう仕組みだと思えばいい」

 

 空は無数の世界を眺めた。

 

 神はその表情を見ていた。

 

 普通なら、ここで目が変わる。

 

 死を受け入れられなかった魂ですら、次の人生を提示されれば欲を見せる。

 

 貴族に生まれたい。

 

 最強になりたい。

 

 愛されたい。

 

 復讐したい。

 

 平穏に暮らしたい。

 

 世界を救いたい。

 

 ハーレムを作りたい。

 

 神になりたい。

 

 欲望の形は様々だが、欲望そのものが消えることはない。

 

 それが人間だった。

 

 だが、真白空は違った。

 

 彼は喜ばなかった。

 

 興奮しなかった。

 

 驚きもしなかった。

 

 ただ、眺めていた。

 

 美術館で展示品を見るように。

 

 あるいは、動画配信サイトのサムネイルを流し見するように。

 

 一つ。

 

 また一つ。

 

 世界を見ていく。

 

 剣と魔法の世界では、魔王軍が王都へ攻め込んでいた。

 

 勇者がまだ覚醒していない。

 

 転生すれば、彼の仲間になることも、師になることも、あるいは勇者自身になることもできる。

 

 空はそれを見て、言った。

 

「分かりやすいな」

 

「興味があるか?」

 

「ない」

 

 神は目を瞬かせた。

 

 次に、異能力者の都市を見せる。

 

 そこでは能力者同士が序列を争い、政府機関や犯罪組織が暗躍していた。

 

「これは?」

 

「これも分かりやすい」

 

「分かりやすい?」

 

「能力が違うだけで、やることは同じだろ。強い能力者がいて、弱い能力者がいて、組織があって、敵がいて、戦う」

 

「それが物語というものだ」

 

「だから退屈なんだよ」

 

 神は黙る。

 

 空はさらに世界を見ていく。

 

 魔法学院。

 

「学校で才能比べか」

 

 ダンジョン世界。

 

「数字が増えるのを楽しむ世界だな」

 

 悪役令嬢の世界。

 

「破滅を避けるだけなら、最初から破滅しないようにすればいい」

 

 宇宙文明。

 

「規模が大きいだけで、人間のやってることは変わらない」

 

 神々の世界。

 

「神が多いと、逆に神の価値が安く見えるな」

 

 神は初めて、明確に困惑した。

 

「君は……」

 

「何だ?」

 

「本当に、どの世界にも興味がないのか?」

 

「世界そのものには興味がある」

 

 空は答える。

 

「ただ、完成されすぎている」

 

「完成されていることは悪いことではない」

 

「悪くはない」

 

 空は否定しなかった。

 

「むしろ、よくできてると思う。勇者がいて魔王がいる世界は、誰が見ても物語が始まりそうだ。異能都市ならバトルが起きるだろう。魔法学院なら成長と陰謀がある。ダンジョン世界なら攻略と競争がある」

 

「ならば」

 

「でも、全部読める」

 

 空は言った。

 

「最初から舞台がある。役者がいる。敵がいる。目的がある。ルールがある。歴史がある。そこに俺が入って、何をする?」

 

「世界を救うこともできる」

 

「救う必要がある世界なら、誰かが救うだろ」

 

「支配することもできる」

 

「支配したら終わりだ」

 

「最強になることもできる」

 

「最初から最強を貰って何が面白い?」

 

「では、努力して強くなる世界は?」

 

「努力の結果が強さなら、結局は強くなる話だ」

 

 神は、次の言葉を失った。

 

 空は淡々としていた。

 

 反抗しているわけではない。

 

 神を挑発しているわけでもない。

 

 ただ本心を述べている。

 

「君は何を望む?」

 

 神は改めて尋ねた。

 

「力か?」

 

「いらない」

 

「地位か?」

 

「いらない」

 

「幸福か?」

 

「定義による」

 

「平穏か?」

 

「退屈と紙一重だな」

 

「刺激か?」

 

「用意された刺激ならいらない」

 

「では、何が欲しい?」

 

 空はしばらく黙った。

 

 無数の世界を見つめる。

 

 白い空間に浮かぶ可能性の群れ。

 

 その全てが、彼には完成品に見えた。

 

 完成品は美しい。

 

 完成品は安定している。

 

 完成品は人を惹きつける。

 

 だが、完成しているものを眺めても、空の胸は動かなかった。

 

 彼が見たいのは完成品ではない。

 

 彼が見たいのは、完成していたはずのものが、たった一つの異物で崩れていく瞬間だった。

 

 何も知らない人々が、ある日突然、世界の前提を疑い始める。

 

 政府が会議を開く。

 

 軍が動く。

 

 研究者が理論を探す。

 

 宗教家が神の名を叫ぶ。

 

 ネットが荒れる。

 

 掲示板に考察が溢れる。

 

 誰かが真実に近づいた気になり、誰かが全く見当違いの答えを信じる。

 

 そして、その全てが間違っている。

 

 ただ一人、自分だけが真実を知っている。

 

 それは、きっと面白い。

 

「白紙が欲しい」

 

 空は言った。

 

「白紙?」

 

「何も書かれていない世界じゃない。何も起きていない世界だ」

 

 神は黙って聞いている。

 

「魔法がない。怪異がない。神秘がない。超能力がない。神も悪魔も表に出ていない。人々は、自分たちの世界がただの現実だと思っている」

 

「普通の世界、ということか」

 

「そう」

 

「そんな世界に転生して、何をする?」

 

 空は笑った。

 

 その笑みを見て、神はわずかに息を止めた。

 

 穏やかな笑みだった。

 

 静かな笑みだった。

 

 だが、そこには明らかに、人間の善性とは違う何かが混じっていた。

 

「足す」

 

「足す?」

 

「怪異がないなら、怪異を足す。神話がないなら、神話を足す。秘密がないなら、秘密を埋め込む。世界の裏側がないなら、あることにする」

 

 神の表情から感情が消えた。

 

 空は続ける。

 

「たとえば、誰もいない駅にだけ現れる黒い影がいるとする」

 

 まだ何もない。

 

 ただの思いつき。

 

 しかし空の声には、妙な現実味があった。

 

「それは都市伝説として語られていた。最初は誰も信じない。でも動画が出る。行方不明者が出る。警察が動く。過去の新聞記事が見つかる。古い手帳に似た記録がある。海外にも類似例がある」

 

 神は眉を寄せた。

 

「君が作るのか?」

 

「全部作ってもいいけど、それは面倒だな」

 

「では?」

 

「種だけ撒けばいい」

 

 空は、何もない白い空間に指を滑らせるように動かした。

 

「世界が勝手に辻褄を合わせればいい。歴史も、証拠も、犠牲者も、伝承も、人間の記憶も。最初から存在していたかのように」

 

「それは」

 

 神は初めて、言葉を選ぶように間を置いた。

 

「世界の改変だ」

 

「そうだな」

 

「因果への干渉だ」

 

「そうだな」

 

「概念の創造だ」

 

「そうだな」

 

「神の領域だ」

 

「神って、そんなに狭いのか?」

 

 神は沈黙した。

 

 空は悪びれない。

 

 その問いに侮辱の意図はなかった。

 

 本当にそう思っただけだった。

 

「俺は世界を救いたいわけじゃない」

 

 空は言った。

 

「滅ぼしたいわけでもない」

 

「支配したいわけでもない」

 

「崇められたいわけでもない」

 

「神になりたいわけでもない」

 

 空は無数の世界を見渡した。

 

「ただ、見たい」

 

「何を?」

 

「世界が踊るところを」

 

 その言葉は静かだった。

 

 けれど、白い空間の空気を変えるには十分だった。

 

「俺が一つ嘘を置く。世界中がそれを真実だと思い込む。政府が本気になる。軍が本気になる。研究者が頭を抱える。ネットの連中が騒ぐ。誰かが祈り、誰かが逃げ、誰かが立ち向かう」

 

 空の目が細くなる。

 

「その全てを、俺だけが舞台裏から眺めている」

 

 神はその青年を見た。

 

 死を恐れない魂。

 

 救済を望まない魂。

 

 支配にも興味を示さない魂。

 

 ただ、世界を娯楽として眺めようとする魂。

 

 それは悪なのか。

 

 神にはすぐに判断できなかった。

 

 人を殺したいわけではない。

 

 世界を壊したいわけではない。

 

 けれど、人々の常識が崩壊する様を楽しもうとしている。

 

 それは、人間の価値観から見れば間違いなく異常だった。

 

 そして同時に。

 

 ひどく人間らしくもあった。

 

 退屈を嫌う。

 

 刺激を求める。

 

 物語を望む。

 

 ただ、その規模が世界そのものに向いているだけ。

 

「君は危うい」

 

 神は言った。

 

「よく言われる」

 

「言われたことがあるのか?」

 

「ない」

 

「なら、なぜそう言った?」

 

「言われそうだと思った」

 

 神は思わず小さく笑った。

 

 空も薄く笑う。

 

「神様」

 

「何だ?」

 

「俺を普通の世界へ転生させてくれ」

 

「魔法もない世界へ?」

 

「ああ」

 

「怪異もない世界へ?」

 

「ああ」

 

「神秘もない世界へ?」

 

「ああ」

 

「何も起きていない、ただの現代地球へ?」

 

「それがいい」

 

 神は無数の光の中から、一つの世界を選び出した。

 

 そこに映っていたのは、空にとって見慣れた世界だった。

 

 高層ビル。

 

 駅。

 

 道路。

 

 信号。

 

 スマートフォンを片手に歩く人々。

 

 電車の中で眠る会社員。

 

 教室で笑う学生。

 

 ニュース番組。

 

 動画サイト。

 

 SNS。

 

 匿名掲示板。

 

 誰もが当たり前の日常を生きている。

 

 魔法はない。

 

 怪物はいない。

 

 神秘はない。

 

 神話は過去の物語でしかない。

 

 都市伝説は娯楽として消費されるだけ。

 

 異世界など、創作の中にしか存在しない。

 

 人々は、この世界がただの現実だと信じている。

 

 空はその光景を見て、初めて少し満足そうに目を細めた。

 

「いいな」

 

「本当にここでいいのか?」

 

「ああ」

 

「君が退屈だと言った世界と大差ない」

 

「だからいい」

 

 空は微笑む。

 

「舞台は退屈なくらいがちょうどいい」

 

「なぜ?」

 

「変化が目立つだろ」

 

 神は何も言わなかった。

 

「真っ白な紙に一点の黒を落とすと、嫌でも目立つ。平凡な世界に一つだけ異常を混ぜれば、それだけで人は騒ぐ」

 

 空は光の向こうの現代地球を見つめる。

 

「最初から何でもある世界じゃ駄目なんだ。魔法がある世界に怪異を足しても、ただの魔物と変わらない。神がいる世界に神話を足しても、珍しくない。異能がある世界に異常を置いても、分類されて終わる」

 

 そこで空は笑った。

 

「でも、何もない世界なら違う」

 

 彼の声は穏やかだった。

 

「一つの異常が、世界の常識を壊す」

 

 神はその言葉を聞きながら、ふと奇妙な感覚を覚えた。

 

 転生を提案しているのは自分のはずだった。

 

 世界を選ばせているのも自分のはずだった。

 

 だが、いつの間にか立場が変わっている。

 

 まるで自分は、この青年がこれから始める物語の最初の観客にされているようだった。

 

「一つ確認しよう」

 

 神は言った。

 

「君は、その世界で何になるつもりだ?」

 

「何にもならない」

 

「勇者にも?」

 

「ならない」

 

「魔王にも?」

 

「ならない」

 

「神にも?」

 

「興味がない」

 

「では、何者として生きる?」

 

 空は少しだけ考えた。

 

 そして、静かに答える。

 

「観客」

 

「観客?」

 

「ああ」

 

「ただし、舞台装置を少し弄れる観客だ」

 

 神は目を細めた。

 

「それはもはや観客ではない」

 

「そうか?」

 

「演出家だ」

 

 空はその言葉を聞いて、少し楽しそうに笑った。

 

「それも悪くない」

 

 白い空間に浮かぶ現代地球の光が、静かに揺れる。

 

 その世界の人々は、まだ何も知らない。

 

 自分たちの世界が選ばれたことも。

 

 これから常識が少しずつ壊れていくことも。

 

 怪異が生まれ、神話が後付けされ、存在しなかった歴史が現実になることも。

 

 政府が動くことも。

 

 軍が動くことも。

 

 研究者が世界の真実を探し始めることも。

 

 その全てが、一人の青年の退屈しのぎから始まることも。

 

 誰も知らない。

 

 ただ一人。

 

 真白空だけが、まだ始まってすらいない舞台を見つめていた。

 

「神様」

 

「何だ?」

 

「転生したら、前世の記憶は?」

 

「望むなら残せる」

 

「残してくれ」

 

「理由は?」

 

「観客が記憶を失ったら、何が面白いのか分からなくなる」

 

「力は?」

 

 神は尋ねた。

 

「君は何を望む?」

 

 空は答えようとして。

 

 ふと、違和感に気づいた。

 

 望む力。

 

 与えられる才能。

 

 特典。

 

 神の言葉は、普通なら魅力的に聞こえるのだろう。

 

 だが、空には奇妙に感じられた。

 

 なぜなら。

 

 彼は、すでに知っていた。

 

 自分の中に、何かがある。

 

 それは力という言葉では足りない。

 

 魔法でもない。

 

 異能でもない。

 

 神の加護でもない。

 

 もっと根本的な何か。

 

 世界よりも深く。

 

 法則よりも前にあり。

 

 概念よりも白く。

 

 全てが書き込まれる前の空白。

 

 それを、空はなぜか理解していた。

 

 事故に遭う前にはなかった感覚。

 

 いや、違う。

 

 なかったのではない。

 

 気づいていなかっただけだ。

 

 最初からそこにあったものが、死によって余計な膜を剥がされ、露わになった。

 

 そんな感覚だった。

 

 空は自分の手を見る。

 

 白い空間。

 

 何もない世界。

 

 その中で、指先だけが妙にはっきりと存在している。

 

「力はいらない」

 

 空は言った。

 

 神が眉を動かす。

 

「いらない?」

 

「ああ」

 

「何も望まないのか?」

 

「もうある」

 

 神の表情が初めて、明確に変わった。

 

「何が?」

 

 空は笑った。

 

 自分でも、なぜその名が分かるのか分からない。

 

 けれど、それは最初から決まっていたように口から零れた。

 

「空白創造」

 

 白い空間が、軋んだ。

 

 音はなかった。

 

 だが、確かに何かが揺れた。

 

 神が目を見開く。

 

 真白空は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「ヴォイド・ジェネシス」

 

 その名を口にした瞬間、空は理解した。

 

 自分が持つもの。

 

 自分が何に触れられるのか。

 

 世界。

 

 法則。

 

 概念。

 

 時間。

 

 空間。

 

 因果。

 

 生命。

 

 記憶。

 

 歴史。

 

 存在。

 

 それらは絶対のものではない。

 

 書かれているだけだ。

 

 定義されているだけだ。

 

 なら、消せる。

 

 書き換えられる。

 

 足せる。

 

 なかったことにも、あったことにもできる。

 

 世界は完成品ではない。

 

 世界は紙だ。

 

 そして自分は、その紙に文字を書ける。

 

 空は静かに笑った。

 

「なるほど」

 

 神は動かなかった。

 

 いや、動けなかった。

 

 転生を司る神として、様々な力を見てきた。

 

 魔法。

 

 スキル。

 

 加護。

 

 祝福。

 

 呪い。

 

 神格。

 

 世界を揺るがす異能。

 

 だが、今この青年が口にしたものは違う。

 

 それは与えられる力ではない。

 

 授けることができる能力ではない。

 

 神の管理下にある概念ではない。

 

 もっと外側にある何か。

 

 神の視界では測れないもの。

 

「君は……」

 

 神は、初めて言葉を詰まらせた。

 

「何だ?」

 

 空は問い返す。

 

 その声はいつも通りだった。

 

 だが神には、先ほどまでと同じ青年には見えなかった。

 

 人間の魂。

 

 死者。

 

 転生者。

 

 そのどれでもある。

 

 だが、それだけではない。

 

 目の前の存在は、世界の内側に収まっていない。

 

「いや」

 

 神は小さく首を振った。

 

「何でもない」

 

「そうか」

 

 空は深く追及しなかった。

 

 興味がなかったからだ。

 

 神が何を思ったのか。

 

 自分をどう見たのか。

 

 それはどうでもいい。

 

 大切なのは、これから始まる舞台だった。

 

「では、真白空」

 

 神は静かに告げる。

 

「君を現代地球へ転生させる」

 

「ああ」

 

「ただし、その世界はまだ何も知らない」

 

「知っている」

 

「魔法もない」

 

「知っている」

 

「怪異もない」

 

「知っている」

 

「神秘もない」

 

「知っている」

 

「世界の裏側など存在しない」

 

 空は笑った。

 

「なら、作ればいい」

 

 神はその笑みを見て、ほんのわずかに息を吐いた。

 

 それは呆れだったのか。

 

 諦めだったのか。

 

 あるいは、期待だったのか。

 

 神自身にも分からなかった。

 

「一つだけ聞かせてほしい」

 

「何だ?」

 

「君は、その世界を滅ぼすつもりか?」

 

「ない」

 

「救うつもりは?」

 

「ない」

 

「支配するつもりは?」

 

「ない」

 

「では、本当に遊ぶだけか?」

 

「そうだな」

 

 空は光の向こうの世界を見つめる。

 

 平凡な街。

 

 平凡な人々。

 

 平凡な日常。

 

 どこまでも退屈で、だからこそ素晴らしい白紙。

 

「遊ぶだけだ」

 

 空は言った。

 

「世界がどう反応するのか」

 

「人がどう勘違いするのか」

 

「政府がどこまで本気になるのか」

 

「軍が何を撃つのか」

 

「研究者がどんな理屈を作るのか」

 

「ネットの連中がどんな考察をするのか」

 

 その声は、わずかに弾んでいた。

 

「それを見たい」

 

 神は問う。

 

「もし、誰かが真実に辿り着いたら?」

 

「それはそれで面白い」

 

「もし、誰も辿り着けなかったら?」

 

「それも面白い」

 

「もし、世界が壊れたら?」

 

「壊れ方による」

 

「もし、つまらなくなったら?」

 

 その問いに、空は初めて即答しなかった。

 

 少しだけ考える。

 

 そして、穏やかに答えた。

 

「舞台は作り直さない」

 

「ほう?」

 

「新しい世界に逃げるのはつまらない」

 

「では?」

 

「同じ世界を最初からやり直す」

 

 神の目が細まる。

 

「永劫回帰か」

 

「名前は何でもいい」

 

 空は言った。

 

「舞台は一つで十分。役者も同じでいい。結末だけ変われば、それで面白い」

 

 神は、目の前の青年を見た。

 

 その言葉には、奇妙な一貫性があった。

 

 世界を作り直せる力を持ちながら、新しい世界へ逃げることを嫌う。

 

 全てを変えられるくせに、舞台そのものには執着する。

 

 支配を望まず、救済も望まず、破滅すら目的ではない。

 

 ただ、同じ世界が違う結末へ至る過程を見たい。

 

 それは狂気だった。

 

 同時に、信念でもあった。

 

「分かった」

 

 神は静かに手をかざす。

 

 現代地球を映した光が、ゆっくりと広がっていく。

 

 白い空間が薄れていく。

 

 遠くから、街の音が聞こえた気がした。

 

 電車の走る音。

 

 車のエンジン音。

 

 誰かの笑い声。

 

 ニュース番組の声。

 

 スマートフォンの通知音。

 

 平凡な世界の音。

 

 退屈な世界の音。

 

 まだ何も知らない世界の音。

 

 空は、その音を聞いて笑った。

 

「悪くない」

 

 神は最後に尋ねる。

 

「最初に何をするつもりだ?」

 

 白が薄れ、現実が近づいてくる。

 

 空は目を閉じた。

 

 怪異。

 

 都市伝説。

 

 存在しなかった歴史。

 

 政府の極秘資料。

 

 古い新聞記事。

 

 誰も知らないはずの神話。

 

 ありもしない過去。

 

 信じざるを得ない証拠。

 

 世界が勝手に埋めていく空白。

 

 考えただけで、胸の奥がわずかに熱を持つ。

 

 退屈だった人生で、初めて明確に「楽しみ」だと思えた。

 

「まずは」

 

 空は、静かに笑った。

 

「世界に一つ、嘘を置いてみる」

 

 

♢

 

 

目を覚ますと、見慣れた天井があった。

 

 白い天井。

 

 安い賃貸マンションにありがちな、薄い凹凸のある壁紙。

 

 カーテンの隙間から差し込む朝の光。

 

 耳を澄ませば、遠くで車の走る音がする。

 

 どこかの部屋で水道を使う音。

 

 スマートフォンの通知音。

 

 エアコンの微かな稼働音。

 

 神のいた白い空間とは違う。

 

 そこには、確かに生活の気配があった。

 

 真白空はベッドの上で数秒ほど天井を眺め、それからゆっくりと身体を起こした。

 

 部屋は六畳ほどのワンルーム。

 

 家具は少ない。

 

 ベッド。

 

 机。

 

 本棚。

 

 ノートパソコン。

 

 モニター。

 

 冷蔵庫。

 

 電子レンジ。

 

 必要最低限の生活用品。

 

 余計な装飾はほとんどない。

 

 壁にポスターはなく、棚に趣味のグッズもない。

 

 生活感はある。

 

 だが、熱量はない。

 

 まるで、誰かが「一人暮らしの青年の部屋」という設定を最低限だけ整えたような空間だった。

 

 空はベッドから降り、カーテンを開けた。

 

 外には、何の変哲もない街が広がっている。

 

 通勤途中の会社員。

 

 制服姿の学生。

 

 自転車に乗る老人。

 

 犬の散歩をする女性。

 

 コンビニの前でスマートフォンを眺める若者。

 

 誰も空を見ない。

 

 誰も異常に気づかない。

 

 そもそも、異常など何も起きていない。

 

「……転生完了、か」

 

 空は自分の手を見る。

 

 前世と同じ名前。

 

 同じ顔。

 

 同じ身体。

 

 ただし、年齢は二十二歳。

 

 表向きはフリーランスのシステム開発者。

 

 在宅で仕事を請け負い、生活に困らない程度の収入を得ている。

 

 家族とは疎遠。

 

 恋人はいない。

 

 近所付き合いもほとんどない。

 

 誰にも縛られず、どこにも強く所属していない。

 

 都合のいい立場だった。

 

 おそらく神が用意したのだろう。

 

 あるいは、世界がそう整えたのか。

 

 どちらでもよかった。

 

 空にとって重要なのは、この世界が本当に「何もない世界」なのかどうかだった。

 

 彼は机の上に置かれたスマートフォンを手に取る。

 

 ロックを解除する。

 

 日付を確認する。

 

 天気を確認する。

 

 ニュースアプリを開く。

 

 最初に表示されたのは、政治家の発言を巡る炎上記事だった。

 

 次に、芸能人の不倫報道。

 

 海外で起きた紛争の続報。

 

 株価の変動。

 

 新型スマートフォンの発表。

 

 有名配信者の謝罪動画。

 

 どれも、どこかで見たようなものばかりだった。

 

 空は無表情でスクロールする。

 

 大きな事件。

 

 小さな事件。

 

 感動的なニュース。

 

 怒りを煽る見出し。

 

 不安を誘う専門家のコメント。

 

 人々が群がる話題。

 

 そのどれもが、世界の常識の内側に収まっていた。

 

 人が人を騙す。

 

 人が人を傷つける。

 

 人が人を救う。

 

 人が人を責める。

 

 人が人を笑う。

 

 ただ、それだけ。

 

 魔法はない。

 

 怪異はない。

 

 神は沈黙している。

 

 死者は蘇らない。

 

 都市伝説は娯楽のまま。

 

 幽霊写真は加工扱い。

 

 未確認生物は錯覚か作り物。

 

 陰謀論は陰謀論として消費される。

 

 世界は、ちゃんと退屈だった。

 

「素晴らしい」

 

 空は小さく呟いた。

 

 その声に歓喜はない。

 

 だが、ほんのわずかに満足が滲んでいた。

 

 退屈。

 

 平凡。

 

 何もない。

 

 だからこそ、目立つ。

 

 真っ白な紙の上に落とす一点の黒。

 

 どれほど小さな染みでも、白が広ければ広いほど、人はそこから目を離せなくなる。

 

 空はコーヒーを淹れた。

 

 インスタントの安い粉。

 

 こだわりはない。

 

 湯を注ぎ、軽く混ぜ、マグカップを片手に机へ戻る。

 

 ノートパソコンを開く。

 

 起動。

 

 メールを確認する。

 

 仕事の依頼が数件。

 

 システム修正。

 

 簡単な保守作業。

 

 納期は余裕がある。

 

 空はそれらを淡々と処理した。

 

 コードを書く。

 

 エラーを修正する。

 

 テストを走らせる。

 

 返信を書く。

 

 請求書を確認する。

 

 作業は単純だった。

 

 だが苦ではない。

 

 生活のために必要な作業。

 

 表向きの身分を維持するための道具。

 

 それ以上でも以下でもない。

 

 昼過ぎには仕事が片付いた。

 

 空は椅子にもたれ、再びニュースを開いた。

 

 今度は動画ニュース。

 

 画面の中でアナウンサーが深刻そうな顔をしている。

 

『本日午前、都内の住宅街で発生した火災について、警視庁は出火原因を調べています』

 

 燃えた家。

 

 近隣住民の証言。

 

 消防車。

 

 焦げた壁。

 

 涙を拭う住人。

 

 痛ましい事故。

 

 だが、それだけだった。

 

 そこに怪異はいない。

 

 呪いもない。

 

 原因不明の黒い影もない。

 

 燃え跡から読めない文字が見つかることもない。

 

 行方不明者が後日、全く別の時代の写真に写っていることもない。

 

 ただの火災。

 

 現実的な原因。

 

 現実的な被害。

 

 現実的な悲しみ。

 

 空は別のニュースへ移る。

 

『海外の研究チームは、新たな深海生物の映像を公開しました』

 

 奇妙な形の生物。

 

 専門家の解説。

 

 未知へのロマン。

 

 しかし、それも科学の範囲内だった。

 

 研究され、分類され、名前を付けられ、標本となる。

 

 未知は未知のままではいられない。

 

 現代社会は、すぐに説明しようとする。

 

 説明できなければ、保留にする。

 

 決して、世界の前提そのものを疑おうとはしない。

 

「律儀だな」

 

 空は画面を閉じた。

 

 次に開いたのは、世界最大SNSであるLink。

 

 タイムラインには、無数の短文が流れている。

 

 政治批判。

 

 流行語。

 

 食事の写真。

 

 推しの話。

 

 デマ。

 

 正論。

 

 罵倒。

 

 謝罪。

 

 笑い話。

 

 誰かの怒りが数秒後には誰かの冗談に押し流される。

 

 怒りも悲しみも、情報の流れに呑まれ、形を失っていく。

 

 空は検索欄にいくつかの単語を打ち込んだ。

 

 怪異。

 

 都市伝説。

 

 幽霊。

 

 神隠し。

 

 未確認生物。

 

 結果は大量に出てきた。

 

 だが、どれも作り話だった。

 

 創作。

 

 考察。

 

 ネタ投稿。

 

 ホラー動画の宣伝。

 

 誰かの妄想。

 

 それらは娯楽として消費されているだけだった。

 

 誰も本気ではない。

 

 本気のふりをしている者はいる。

 

 怖がっているふりをする者もいる。

 

 だが心の底では、誰も世界の裏側を信じていない。

 

 少なくとも、本当に世界が壊れるとは思っていない。

 

 空はLinkを閉じ、次にVisionを開いた。

 

 動画投稿サイト。

 

 おすすめ欄には、刺激的なサムネイルが並んでいた。

 

【閲覧注意】廃病院で撮影されたありえない声

 

【実話】絶対に行ってはいけないトンネル

 

【都市伝説】黒い人影を見た者の末路

 

【検証】深夜三時に合わせ鏡をすると本当に何か起きるのか

 

 空は一つ再生した。

 

 若い配信者が懐中電灯を片手に廃墟を歩いている。

 

 わざとらしい息遣い。

 

 編集で強調されたノイズ。

 

 突然の効果音。

 

 コメント欄は盛り上がっていた。

 

『ガチで怖い』

 

『今なんか映った?』

 

『編集うまいな』

 

『これ本物だったらやばい』

 

『いや普通に作り物で草』

 

 空は最後まで見ずに閉じた。

 

 次の動画も似たようなものだった。

 

 その次も。

 

 またその次も。

 

 恐怖はある。

 

 演出もある。

 

 技術もある。

 

 だが、全てが画面の内側で完結している。

 

 動画を閉じれば日常に戻れる。

 

 コメント欄で笑えば終わる。

 

 翌日には別の話題に移る。

 

 誰も、そこで見たものが本当に自分たちの世界を侵食しているとは思わない。

 

「惜しいな」

 

 空は呟いた。

 

 素材はある。

 

 人々は怪異を求めている。

 

 都市伝説を好んでいる。

 

 未知を怖がりながらも、覗きたがっている。

 

 けれど、それは安全圏から眺める娯楽でしかない。

 

 画面越しの恐怖。

 

 作り物だと分かっているから楽しめる怪談。

 

 現実には侵入してこないと信じているから消費できる異常。

 

 なら。

 

 もし、それが画面の外へ出てきたら。

 

 作り物だと笑っていたものが、実際にニュースになったら。

 

 都市伝説に似た事件が起きたら。

 

 過去の記録が見つかったら。

 

 国が動いたら。

 

 軍が動いたら。

 

 研究者が沈黙したら。

 

 人々はどう反応するのだろう。

 

 笑うのか。

 

 疑うのか。

 

 逃げるのか。

 

 祈るのか。

 

 調べるのか。

 

 それとも、まだ作り物だと言い張るのか。

 

 空はマグカップを口元へ運んだ。

 

 コーヒーはすでに冷めていた。

 

 だが、気にせず飲む。

 

 苦味だけが舌に残る。

 

「……悪くない」

 

 次に開いたのは、匿名掲示板Open Forumだった。

 

 世界中の利用者が書き込む巨大掲示板。

 

 国ごと、地域ごと、趣味ごと、事件ごとにスレッドが乱立している。

 

 空は国内のオカルト板を開いた。

 

 そこには、昔ながらの空気が残っていた。

 

【急募】ガチで怖い体験したやついる?

 

【画像】これ心霊写真か判定してくれ

 

【悲報】近所の廃墟、取り壊される

 

【都市伝説】消えた駅の話、知ってるやついる?

 

【考察】怪異って結局人間の認識が作ってるんじゃね?

 

 空は一つのスレッドを開く。

 

 書き込みが流れる。

 

『幽霊とか信じてるやつまだいるの?』

 

『信じてないけど怖い話は好き』

 

『本物見たら信じるわ』

 

『本物なんか出たら世界終わるだろ』

 

『出ないから安心して楽しめるんだよ』

 

 空の指が止まった。

 

 その一文を見て、薄く笑う。

 

 ――出ないから安心して楽しめる。

 

 まさに、その通りだった。

 

 彼らは怪談を求めている。

 

 だが、本当に出るとは思っていない。

 

 恐怖を求めながら、恐怖が安全圏に留まることを前提にしている。

 

 それは悪いことではない。

 

 人間らしい。

 

 安全な場所から危険を眺める。

 

 安全な日常の中で非日常を消費する。

 

 作り物だと分かっているからこそ、安心して怖がる。

 

 だが。

 

「本物が出たら、どんな顔をするんだろうな」

 

 空は椅子の背にもたれた。

 

 画面には、まだ書き込みが流れている。

 

『昔の怪談って今読むと設定凝ってるよな』

 

『現代だとすぐスマホで撮影されるから怪異も大変そう』

 

『逆にスマホにしか映らない怪異とかありそう』

 

『それもう動画投稿者のネタじゃん』

 

『でもバズりそう』

 

 スマホにしか映らない怪異。

 

 投稿された動画。

 

 最初は作り物扱い。

 

 けれど同時刻、別の場所で似た映像が撮影される。

 

 削除しても複製される。

 

 映った者が数日後に消える。

 

 過去の映像にも、同じ影が映り込んでいることが判明する。

 

 専門家は映像加工ではないと結論づける。

 

 政府は沈黙する。

 

 掲示板は祭りになる。

 

「……いや」

 

 空は首を横に振った。

 

 悪くはない。

 

 だが、最初の一手としては少し現代的すぎる。

 

 スマホや動画から始めると、どうしても作り物の疑いが強くなる。

 

 人々は映像を疑う。

 

 AI生成だと言う。

 

 加工だと言う。

 

 バズり目的だと言う。

 

 それも反応としては面白いが、最初に置くならもう少し原始的な方がいい。

 

 人が直接見るもの。

 

 記録よりも体験が先に来るもの。

 

 噂になりやすく、調査しやすく、しかし説明できないもの。

 

 都市伝説として語られやすいもの。

 

 それでいて、政府や警察が無視できないもの。

 

 空は画面を眺めながら、思考を巡らせた。

 

 駅。

 

 道路。

 

 学校。

 

 病院。

 

 踏切。

 

 トンネル。

 

 エレベーター。

 

 公園。

 

 電話ボックス。

 

 日常に近い場所ほどいい。

 

 人々が普段から使う場所。

 

 誰でも知っている場所。

 

 だからこそ、そこに異常が混じった時に恐怖が広がる。

 

 魔王城よりも、深夜の駅の方がいい。

 

 異世界の迷宮よりも、通学路のトンネルの方がいい。

 

 知らない森の怪物よりも、毎日乗る電車に現れる何かの方が、ずっと人の心に刺さる。

 

 空は目を細めた。

 

「最初は、小さくていい」

 

 大規模な災害はいらない。

 

 いきなり世界規模の異常を起こすのは簡単だ。

 

 空白創造を使えば、今この瞬間に世界中の空へ巨大な眼球を浮かべることもできる。

 

 全人類の記憶へ、存在しない神の名を刻むこともできる。

 

 月を割ることもできる。

 

 歴史を書き換え、古代から怪異が存在したことにもできる。

 

 だが、それでは雑だ。

 

 派手すぎる。

 

 最初の一手で全てを壊すのはつまらない。

 

 人間は、少しずつ疑っていくから面白い。

 

 最初は笑う。

 

 次に不安になる。

 

 それから調べ始める。

 

 やがて否定できなくなる。

 

 最後に、世界の前提が崩れる。

 

 その過程が見たい。

 

「種だけ、か」

 

 神との会話を思い出す。

 

 世界へ種を蒔く。

 

 細かい設定を全て自分で作る必要はない。

 

 世界が勝手に補完する。

 

 歴史も、証拠も、伝承も、犠牲者も、記録も、人々の記憶も。

 

 あたかも最初から存在していたかのように。

 

 それは、空自身にとっても予測不能な広がりを生む。

 

 自分が投げ込んだ小さな嘘を、世界がどのような真実へ育てるのか。

 

 それを観ることこそが、娯楽だった。

 

 空は手を伸ばす。

 

 目の前には何もない。

 

 だが、確かにそこに触れられるものがあった。

 

 世界。

 

 法則。

 

 概念。

 

 記憶。

 

 歴史。

 

 存在。

 

 空白創造。

 

 ヴォイド・ジェネシス。

 

 それは魔法のような派手な光を伴わない。

 

 詠唱も必要ない。

 

 代償もない。

 

 制限もない。

 

 ただ、思えばいい。

 

 この世界に、何を置くか。

 

 何を「存在したこと」にするか。

 

 どこまでを種として、どこからを世界に補完させるか。

 

 空は、まだ何も実行しなかった。

 

 画面の中の掲示板を眺め続ける。

 

 楽しむなら、焦る必要はない。

 

 急いで舞台を壊す必要もない。

 

 まずは観察。

 

 この世界の人々が、どの程度まで現実を信じているのか。

 

 どれほどの証拠があれば疑い始めるのか。

 

 どれほどの異常があれば否定できなくなるのか。

 

 それを確かめる必要がある。

 

 空は夕方まで、ニュースとSNSと動画と掲示板を渡り歩いた。

 

 海外の未確認飛行物体騒ぎ。

 

 昔ながらの心霊写真スレッド。

 

 AI生成画像を本物だと信じて拡散する者たち。

 

 反対に、本物の事故映像すらフェイクだと決めつける者たち。

 

 専門家の解説。

 

 陰謀論者の主張。

 

 冷笑する者。

 

 怯える者。

 

 面白がる者。

 

 飽きる者。

 

 世界は情報で満ちていた。

 

 そして、その情報の海の中で、人々は真実を見分けることに疲れていた。

 

 だからこそ、そこへ本物の異常を落としたらどうなるか。

 

 空は考える。

 

 最初は否定されるだろう。

 

 作り物だと笑われる。

 

 偶然だと片付けられる。

 

 勘違いだと言われる。

 

 病気だと言われる。

 

 加工だと言われる。

 

 しかし。

 

 証拠が増えたら?

 

 犠牲者が出たら?

 

 警察が動いたら?

 

 政府が情報を伏せたら?

 

 過去の記録が見つかったら?

 

 別々の国で同じ現象が確認されたら?

 

 世界は、いつまで否定し続けられるのだろう。

 

 気づけば、外は暗くなっていた。

 

 部屋の中に、パソコンの光だけが浮かんでいる。

 

 窓の外では、街灯が点き、車のライトが道路を流れていく。

 

 どこかの部屋から笑い声が聞こえた。

 

 下の階でドアが閉まる音がした。

 

 遠くで電車が走っている。

 

 当たり前の日常。

 

 何の変哲もない夜。

 

 空は立ち上がり、窓辺へ向かった。

 

 カーテンを少し開けて、夜の街を見る。

 

 人々はまだ何も知らない。

 

 この世界が、選ばれたことを知らない。

 

 これから自分たちの常識が揺らぎ始めることを知らない。

 

 怪異が娯楽ではなくなることを知らない。

 

 都市伝説が検索結果の中だけに留まらなくなることを知らない。

 

 政府が本気で世界の真実を探し始めることを知らない。

 

 軍が、撃つべき相手すら分からないものへ銃口を向けることになると知らない。

 

 研究者が、これまで積み重ねてきた法則の外側を見せつけられることを知らない。

 

 そして。

 

 その始まりが、たった一人の青年の退屈しのぎだと、誰も知らない。

 

 空は、薄く笑った。

 

「さて」

 

 その声は、夜の部屋に静かに落ちた。

 

「何を置こうか」

 

 候補はいくつもある。

 

 黒い駅。

 

 鳴らない電話。

 

 存在しない踏切。

 

 誰も覚えていない同級生。

 

 深夜三時にだけ開くエレベーター。

 

 地図にない路地。

 

 消えたはずの村。

 

 古い神社の奥にある、誰も読めない石碑。

 

 空は一つ一つ思い浮かべる。

 

 どれも悪くない。

 

 どれも世界を少しだけ揺らせる。

 

 だが、最初の種には、特別な派手さはいらない。

 

 むしろ、ありふれている方がいい。

 

 誰でも知っている場所。

 

 誰でも使うもの。

 

 誰でも巻き込まれ得るもの。

 

 日常のすぐ隣にある異常。

 

 空は机へ戻り、Open Forumの検索欄へ指を置いた。

 

 ふと、一つの言葉が浮かぶ。

 

 駅。

 

 都市の血管のように人を運び続ける場所。

 

 毎日、数え切れない人間が通る場所。

 

 夜になれば無人になる場所もある。

 

 どこかへ向かうための場所であり、どこにも辿り着けなくなるには最適な場所。

 

「駅か」

 

 空は呟く。

 

 悪くない。

 

 誰にとっても身近で、誰にとっても少しだけ不気味な場所。

 

 終電後のホーム。

 

 誰もいない改札。

 

 行き先表示のない電車。

 

 聞いたことのない駅名。

 

 降りたら戻れない場所。

 

 都市伝説としての下地も十分にある。

 

 人々の記憶に馴染みやすい。

 

 世界も補完しやすいだろう。

 

 空は画面を閉じた。

 

 まだ実行はしない。

 

 種の輪郭が見えただけだ。

 

 どんな名前にするか。

 

 どんな条件にするか。

 

 どこまでを自分で決め、どこからを世界に任せるか。

 

 それを考える時間もまた、遊びの一部だった。

 

 空は冷めきったコーヒーを飲み干した。

 

 苦味が舌に残る。

 

 その味すら、今は少しだけ悪くないと思えた。

 

「まずは」

 

 窓の外で、遠く電車の音が響いた。

 

 空はその音を聞きながら、楽しそうに目を細める。

 

「帰れない駅でも作るか」

 

 

♢

 

 

帰れない駅。

 

 そう呟いた直後、空はしばらく黙っていた。

 

 悪くない。

 

 駅という場所は日常に近い。

 

 誰もが使う。

 

 誰もが知っている。

 

 それでいて、夜になれば途端に顔を変える。

 

 無人のホーム。

 

 消えた案内表示。

 

 誰も乗っていない電車。

 

 終電後の改札。

 

 線路の向こうに続く暗闇。

 

 怪異を置くには、ちょうどいい。

 

 だが、完全な新作である必要はない。

 

 むしろ、最初の一手なら人々が既に知っているものの方がいい。

 

 人間は、知らないものよりも、知っているはずのものが変質した時に強く恐怖する。

 

 作り話だと思っていたもの。

 

 ネットの怪談だと笑っていたもの。

 

 子供の頃に一度だけ聞いた都市伝説。

 

 それが突然、現実のニュースに顔を出したら。

 

 人々はどう反応するのか。

 

 空は検索欄へ指を置いた。

 

 そして、入力する。

 

 きさらぎ駅。

 

 検索結果はすぐに表示された。

 

 有名なネット怪談。

 

 存在しないはずの駅。

 

 電車に乗っていた投稿者が辿り着いた異界。

 

 誰もいないホーム。

 

 おかしな駅名。

 

 戻れない場所。

 

 多くの考察、朗読動画、解説記事、派生創作。

 

 誰もが知っている都市伝説の一つ。

 

 だが、今の世界では、あくまで創作だった。

 

 ネットに残る話。

 

 娯楽として消費される怪談。

 

 人々は怖がる。

 

 けれど、心の底では信じていない。

 

 その距離感が良かった。

 

「最初に置くには、ちょうどいいな」

 

 空は画面を眺めながら、静かに笑った。

 

 完全な未知ではない。

 

 既に名前だけは知られている。

 

 だからこそ、世界へ定着しやすい。

 

 誰かが「きさらぎ駅」と聞けば、ああ、あの怪談か、と反応する。

 

 その反応の直後に。

 

 もし、本物の失踪事件が見つかったら。

 

 もし、過去の新聞記事にそれらしき記録があったら。

 

 もし、鉄道会社の内部資料に、存在しない駅名が紛れ込んでいたら。

 

 もし、警察の未解決事件の中に、同じ証言があったら。

 

 もし、海外にも似た現象が存在していたら。

 

 人々は最初、笑うだろう。

 

 次に疑う。

 

 それから、調べる。

 

 やがて、否定できなくなる。

 

 空は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。

 

 きさらぎ駅。

 

 その名前を世界へ置く。

 

 ただし、全てを決める必要はない。

 

 場所も、条件も、犠牲者も、歴史も、詳細なルールも、完全には決めない。

 

 決めすぎると、世界はその枠の中でしか動かない。

 

 面白いのは、世界が勝手に補完する部分だ。

 

 空が創るのは、種。

 

 世界が育てるのは、物語。

 

 なら、最初に置くべきものは単純でいい。

 

 存在しないはずの駅がある。

 

 辿り着いた者は、元の世界へ戻れないことがある。

 

 この世界では、それが「昔から存在した怪異」として扱われる。

 

 それだけで十分だった。

 

 空は目を開ける。

 

 部屋は静かだった。

 

 パソコンの画面だけが淡く光っている。

 

 窓の外では、夜の街がいつも通りに動いている。

 

 遠くで電車の走る音がした。

 

 その音を聞きながら、空は右手を軽く上げた。

 

 詠唱はない。

 

 魔法陣もない。

 

 光もない。

 

 世界を揺るがす轟音もない。

 

 ただ、空が思った。

 

 この世界に、きさらぎ駅は存在する。

 

 その瞬間。

 

 何かが変わった。

 

 だが、部屋の中には何の変化もなかった。

 

 机も、椅子も、マグカップも、パソコンも、そのまま。

 

 窓の外の街にも異変はない。

 

 人々は歩き、車は走り、電車は時刻通りに進んでいる。

 

 けれど、空には分かった。

 

 世界の白紙に、一点の黒が落ちた。

 

 空白創造。

 

 ヴォイド・ジェネシス。

 

 それは世界を破壊する力ではない。

 

 世界を書き換える根源。

 

 そして今、その根源は一つの嘘を真実に変えた。

 

 空はパソコンの画面を見る。

 

 検索結果は、まだ一見すると変わっていない。

 

 有名なネット怪談。

 

 都市伝説。

 

 創作。

 

 まとめ記事。

 

 朗読動画。

 

 だが、その奥に別のものが混じり始めていた。

 

 古い地方紙のデジタルアーカイブ。

 

 昭和後期の失踪記事。

 

 深夜の無人駅で消息を絶った会社員。

 

 駅名不明の場所からかかってきた最後の電話。

 

 鉄道会社の古い保守記録。

 

 存在しないはずの駅名が一行だけ記された作業報告書。

 

 警察の未解決事件データベース。

 

 「駅構内と思われる場所からの通話記録あり」と記された備考。

 

 海外の民俗学研究サイト。

 

 「存在しない停車場」についての類似伝承。

 

 世界が補完を始めていた。

 

 空は笑った。

 

「俺が置いたのは、駅一つだけなんだけどな」

 

 画面をスクロールするたびに、情報が増えていく。

 

 いや、増えているのではない。

 

 最初からあったことになっている。

 

 数分前まで存在しなかった記録。

 

 誰も覚えていなかった事件。

 

 誰も保管していなかった資料。

 

 それらが、世界の中で自然な位置を得ていく。

 

 矛盾はない。

 

 不自然さもない。

 

 あたかも、ずっと昔からそこにあったかのように。

 

 ただし、人々はまだ気づいていない。

 

 世界中のデータベースに、過去に、記憶に、記録に、きさらぎ駅という異物が混じった。

 

 だが、それを関連付ける者はまだいない。

 

 今はただ、膨大な情報の海の底に沈んでいるだけ。

 

 誰かが掘り起こすのを待っている。

 

 空はそれがたまらなく面白かった。

 

 自分で全てを表に出す必要はない。

 

 誰かが見つける。

 

 偶然見つける。

 

 奇妙だと思う。

 

 投稿する。

 

 拡散する。

 

 誰かが否定する。

 

 誰かが調べる。

 

 そして、騒ぎになる。

 

 舞台の準備は、世界が勝手に進めてくれる。

 

 空は古い新聞記事を開いた。

 

 見出しには、こうあった。

 

『深夜列車で帰宅中の男性、消息不明』

 

 日付は三十年以上前。

 

 本文には、男性が終電で帰宅途中に家族へ電話をかけたことが記されていた。

 

 電話の内容は短い。

 

 乗っている電車が知らない駅に停まった。

 

 乗客が誰もいない。

 

 駅名が読めない。

 

 早く帰りたい。

 

 通話はそこで途切れていた。

 

 警察は当時、失踪事件として捜査したが、男性の足取りは掴めなかった。

 

 記事の最後には、専門家のコメントが載っている。

 

 疲労による錯乱。

 

 自発的失踪。

 

 通信記録の誤認。

 

 どれも現実的な解釈だった。

 

 それが、たまらなく良い。

 

 当時の人々は、それを怪異とは思わなかった。

 

 思えなかった。

 

 世界に怪異という前提がなかったからだ。

 

 だから現実の中で説明しようとした。

 

 疲労。

 

 錯乱。

 

 家出。

 

 事故。

 

 事件。

 

 人は、知らないものを見ると、知っている言葉で名前を付けようとする。

 

 だが、名前を付けたところで、本質が変わるわけではない。

 

 空は次の資料を開く。

 

 鉄道会社の古い作業報告書。

 

 そこには、存在しない駅名が記されていた。

 

『点検区間:如月駅付近』

 

 その路線に、そんな駅はない。

 

 過去にもない。

 

 だが、報告書は本物だった。

 

 筆跡も、紙の劣化も、保存記録も、全て整っている。

 

 世界がそうした。

 

 次に、古い掲示板のログ。

 

 今から十数年前の書き込み。

 

『きさらぎ駅って話、創作だと思ってたんだけど、うちの祖父も似た話してた』

 

『静岡じゃなくて東北の方だったらしい』

 

『駅名は違ったけど、誰もいない駅に降りたって』

 

『朝になったら線路脇で倒れてたらしい』

 

『その後ずっと、電車の音が怖くなったって言ってた』

 

 その書き込みに、当時の反応が続いている。

 

『はいはい便乗乙』

 

『設定盛りすぎ』

 

『でもこういうの好き』

 

『祖父ソースは草』

 

 誰も信じていない。

 

 それもまた良かった。

 

 過去に痕跡はあった。

 

 だが、人々はそれを見逃していた。

 

 笑っていた。

 

 娯楽として消費していた。

 

 だからこそ、後になって気づいた時に震える。

 

 あの時、笑っていたものは本物だったのかもしれない。

 

 そう思った瞬間、人は過去の自分の認識まで疑い始める。

 

 空は画面の中に増えていく痕跡を眺め続けた。

 

 地方の失踪事件。

 

 鉄道関係者の証言。

 

 ネット掲示板の古いログ。

 

 海外の類似伝承。

 

 古い音声記録。

 

 駅名標が一瞬だけ映り込んだ防犯カメラ映像。

 

 そのどれもが、単体では弱い。

 

 偶然と言える。

 

 作り物と言える。

 

 記憶違いと言える。

 

 だが、集めれば線になる。

 

 線が増えれば、形になる。

 

 形になれば、人は名前を付ける。

 

 そして名前が付いた怪異は、現実の中で強くなる。

 

 空はマウスから手を離した。

 

「さて」

 

 ここから先は、自分が広める必要はない。

 

 世界には、そういうものを見つける人間が必ずいる。

 

 考察好き。

 

 オカルト好き。

 

 陰謀論者。

 

 暇な大学生。

 

 再生数を求める動画投稿者。

 

 未解決事件を調べる個人ブログ。

 

 過去ログを掘る掲示板民。

 

 誰かが見つける。

 

 誰かが繋げる。

 

 誰かが騒ぐ。

 

 世界は、そういう風にできている。

 

 空は椅子から立ち上がり、部屋の明かりを消した。

 

 パソコンの画面だけが暗い部屋に浮かんでいる。

 

 その画面には、検索結果の一つが表示されていた。

 

 古い地方紙の記事。

 

 失踪した男性の最後の言葉。

 

『知らない駅に着いた』

 

 空はその一文を見て、満足そうに目を細めた。

 

「最初の種としては十分だな」

 

 その時、画面の右下に通知が出た。

 

 Open Forum。

 

 新着スレッド。

 

 空は目を向ける。

 

 スレッドタイトルは、まだ小さなものだった。

 

【質問】きさらぎ駅って創作だよな?

 

 空は小さく笑った。

 

 始まった。

 

 まだ誰も本気ではない。

 

 まだ世界は揺れていない。

 

 まだ政府も軍も何も知らない。

 

 ただ、誰かが違和感に気づいただけ。

 

 それだけ。

 

 だが、それでいい。

 

 全ての騒動は、最初はいつも小さな疑問から始まる。

 

 空は椅子に座り直し、スレッドを開いた。

 

 そこには、まだ数件の書き込みしかなかった。

 

 何気ない疑問。

 

 軽い雑談。

 

 いつものオカルト板の空気。

 

 けれど空には、その先が見えていた。

 

 否定。

 

 考察。

 

 発掘。

 

 拡散。

 

 混乱。

 

 調査。

 

 隠蔽。

 

 発表。

 

 恐怖。

 

 そして、世界の常識に最初の亀裂が入る瞬間。

 

「さあ」

 

 空は頬杖をつき、暗い画面を眺める。

 

「踊ってみせろ」

 

 その夜。

 

 世界はまだ、自分たちの足元に置かれた小さな嘘に気づいていなかった。

 

 

♢

 

 

Open Forum オカルト板

 

スレッド名

【総合】きさらぎ駅って本当に創作なの?

 

1 :名無しの探索者

 

久しぶりにきさらぎ駅について調べてたんだけどさ。

 

なんか変なの見つけた。

 

2 :名無しの探索者

 

また昔のネット怪談か?

 

3 :名無しの探索者

 

違う。

 

新聞記事。

 

4 :名無しの探索者

 

ソース。

 

5 :名無しの探索者

 

(画像)

 

6 :名無しの探索者

 

……え?

 

7 :名無しの探索者

 

地方新聞?

 

8 :名無しの探索者

 

昭和六十年の記事。

 

終電で帰宅中の男性が失踪。

 

最後に家族へ電話して、

 

「知らない駅に着いた」

 

って言ったらしい。

 

9 :名無しの探索者

 

きさらぎ駅じゃん。

 

10 :名無しの探索者

 

いや、これ怪談が元ネタだろ。

 

11 :名無しの探索者

 

俺もそう思った。

 

でもこの記事、新聞社のアーカイブにある。

 

12 :名無しの探索者

 

は?

 

13 :名無しの探索者

 

検索したら普通に出てきたぞ。

 

14 :名無しの探索者

 

加工じゃね?

 

15 :名無しの探索者

 

新聞社の公式アーカイブなんだけど。

 

16 :名無しの探索者

 

昨日まで無かった気がする。

 

17 :名無しの探索者

 

俺も前に調べたことある。

 

こんなの見た覚えない。

 

18 :名無しの探索者

 

他にも見つけた。

 

平成四年。

 

深夜の無人駅で消息不明。

 

19 :名無しの探索者

 

一件だけじゃないの?

 

20 :名無しの探索者

 

平成十一年。

 

駅員の証言。

 

「終電後、存在しないホームを見た」

 

21 :名無しの探索者

 

ちょっと待て。

 

22 :名無しの探索者

 

昭和、平成って続いてるのか?

 

23 :名無しの探索者

 

鉄道会社の点検資料にも

 

「如月駅付近」

 

って一行だけ書いてある。

 

24 :名無しの探索者

 

そんな駅ないだろ。

 

25 :名無しの探索者

 

無い。

 

だから怖い。

 

26 :名無しの探索者

 

全部コラだろ。

 

27 :名無しの探索者

 

公式サイトまで改ざんされてるってこと?

 

28 :名無しの探索者

 

それは流石に無理じゃね?

 

29 :名無しの探索者

 

海外でも似たような話あるぞ。

 

イギリスのフォーラム。

 

30 :名無しの探索者

 

フランスにもある。

 

終着駅なのに誰も知らない駅。

 

31 :名無しの探索者

 

偶然じゃね?

 

32 :名無しの探索者

 

世界中で?

 

33 :名無しの探索者

 

……

 

なんか気持ち悪くなってきた。

 

34 :名無しの探索者

 

誰か魚拓持ってる?

 

35 :名無しの探索者

 

十年以上前の掲示板にも、

 

「知らない駅」

 

って書き込み残ってる。

 

36 :名無しの探索者

 

え?

 

37 :名無しの探索者

 

今まで誰も話題にしなかっただけ?

 

38 :名無しの探索者

 

というか……

 

昔からあったのか?

 

39 :名無しの探索者

 

いやいや。

 

だったらなんで今まで誰も知らなかったんだよ。

 

40 :名無しの探索者

 

分からん。

 

でも調べれば調べるほど出てくる。

 

41 :名無しの探索者

 

笑えなくなってきた。

 

42 :名無しの探索者

 

誰か詳しい人いないのか?

 

43 :名無しの探索者

 

明日図書館行って昔の新聞漁ってくる。

 

44 :名無しの探索者

 

俺は国会図書館デジタルで調べてみる。

 

45 :名無しの探索者

 

もし本当に昔からあるなら……

 

46 :名無しの探索者

 

きさらぎ駅って、

 

ネット怪談じゃなくて実話だったのか……?




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