愉悦者は嘲笑う~世界を書き換えて遊んでいたら、政府も軍も本気で世界の真実を探し始めた~ 作:ユーザーA
視線や気配等
それらは怪異かもしれませんね
後ろに気をつけてくださいね
それではお楽しみください
七月三日、午前六時五十八分。
八尺様という存在が世界へ広く認識され始めてから、四日目の朝を迎えた。
街は普段と変わらず動き始めている。
通勤する会社員。
通学する学生。
開店準備を進める店員。
その光景だけを見れば、何も変わらない日常だった。
しかし、人々の意識だけは確実に変わっていた。
駅のホームでは、一人で歩く子どもの姿が減った。
住宅街では、小学生が教師や保護者に付き添われて集団登校をしている。
夕方以降の部活動を短縮する学校も増え始め、自治体によっては防犯放送の回数を増やす動きも広がっていた。
八尺様は、まだ誰も公的には「実在する」と認めていない。
それでも世界は、存在することを前提に少しずつ形を変え始めていた。
♢
埼玉県。
静かな住宅街の一室。
榎本春斗は、朝日が差し込む部屋でゆっくりと目を開けた。
眠った記憶がほとんどない。
時計を見る。
午前六時五十九分。
「……また朝か。」
掠れた声が漏れる。
ベッドから身体を起こし、何気なく窓へ視線を向けた。
その瞬間。
心臓が大きく跳ねる。
「っ……!」
カーテンが少しだけ揺れている。
風だ。
それだけのことだ。
頭では理解している。
それなのに、どうしても窓の向こう側を確認せずにはいられない。
春斗はゆっくりと近付き、恐る恐るカーテンを開いた。
住宅街。
電柱。
停められた車。
通学中の学生。
いつもと変わらない朝の景色。
「……誰も、いない。」
そう呟いても、胸の奥に張り付く違和感だけは消えなかった。
昨夜も同じだった。
何度眠ろうとしても、誰かに見られている気がする。
窓の外に人が立っているような気がする。
視線だけが、ずっと自分を追い掛けてくる。
「考えすぎだ。」
「まだ引きずってるだけだ……。」
自分へ言い聞かせながら洗面所へ向かう。
鏡へ映った顔を見て、思わず苦笑した。
「酷い顔。」
目の下には濃い隈。
髪も乱れている。
八尺様を目撃してから、まともに眠れた日は一日もなかった。
テレビを点ける。
『八尺様関連情報です。現在も各地で目撃情報が相次いでおり──』
春斗は無言でテレビを消した。
聞きたくない。
見たくない。
もう十分だった。
しかし逃げようとしても、スマートフォンには次々と通知が届く。
Link。
Vision。
ニュースアプリ。
どこを開いても八尺様の話題ばかりだった。
春斗はLinkを開く。
タイムラインには、一つの話題が急速に広がっていた。
『最近ずっと視線を感じる。』
『夜だけ窓の外が気になる。』
『眠ろうとすると誰かいる気がする。』
『これ俺だけ?』
春斗の指が止まる。
「……。」
さらに読み進める。
『八尺様見てからおかしい。』
『私も同じ。』
『病院行ったけど異常なし。』
『寝不足のせいって言われた。』
『でも絶対違う。』
投稿者の多くは、以前「八尺様を目撃した」と書き込んでいた利用者だった。
その事実に気付いた春斗の背中へ、冷たいものが走る。
「まさか……。」
偶然ではない。
そんな考えが頭をよぎる。
その時、新しい投稿が表示された。
『目撃した人だけ症状出てない?』
短い一文だった。
だが、その投稿には数秒ごとに返信が増えていく。
『俺も。』
『私もそう。』
『家族は平気なのに、自分だけ視線を感じる。』
『窓の外が怖い。』
『昨日から眠れない。』
春斗は画面を見つめたまま、小さく息を呑む。
同じだ。
自分と、まったく同じ症状だった。
その瞬間、ただの不安だったものが、静かに恐怖へ変わり始めていた。
♢
午前八時二十七分。
榎本春斗は、震える手でスマートフォンを握り締めていた。
画面には、次々と新しい投稿が流れ続けている。
『八尺様を見てから眠れない。』
『窓の外に誰か立ってる気がする。』
『家族は何も感じてない。』
『俺だけなんだ。』
『夜になると視線を感じる。』
『同じ人いない?』
春斗はゆっくりとスクロールする。
最初は偶然だと思っていた。
自分が恐怖に飲まれているだけだと。
だが、投稿は一件や二件ではない。
全国各地から、まるで示し合わせたように同じ症状を訴える人間が現れていた。
『昨日から一睡もできない。』
『部屋にいても落ち着かない。』
『ずっと見られてる感じがする。』
『カーテンを開けるのが怖い。』
『外を確認したくなる。』
春斗は思わず窓へ視線を向ける。
カーテンは閉じたままだ。
それなのに、開けなければならない気がする。
誰かがいるのではないか。
確認しなければ、もっと恐ろしいことが起きるのではないか。
そんな考えが頭から離れない。
「……違う。」
小さく呟く。
「開けちゃ駄目だ。」
自分へ言い聞かせるように何度も繰り返す。
しかし、その言葉とは裏腹に、身体は少しずつ窓の方へ向かっていた。
一歩。
また一歩。
気付けばカーテンの前まで来ていた。
手を伸ばす。
布へ指先が触れた、その瞬間だった。
スマートフォンが震える。
突然の通知音に肩を震わせ、慌てて画面を見る。
Linkの通知だった。
『八尺様を見た人だけ症状が出ていませんか?』
その投稿は、わずか十分ほどで十万件以上の反応を集めていた。
春斗は息を呑む。
返信欄を開く。
『俺も。』
『窓が怖い。』
『寝ようとすると外が気になる。』
『昨日から毎晩同じ。』
『病院では異常なしだった。』
『精神的なものって言われた。』
『でも説明できない。』
『家族には何も起きてない。』
さらに読み進める。
『目撃者だけじゃない?』
『症状が全員同じすぎる。』
『視線、窓、睡眠不足。』
『あと声。』
『昨日「ぽぽ」って聞いた。』
『俺も聞いた。』
『録音しようとしたら消えた。』
春斗の呼吸が浅くなる。
あの日、自分だけがおかしくなったわけではない。
八尺様を見た人間が、全国で同じ異変に苦しんでいる。
その事実だけが、何よりも現実味を帯びていた。
♢
同じ頃。
Open Forumでは、一つのスレッドが異常な勢いで伸び続けていた。
【八尺様を見た人だけ体調がおかしくなってないか?】
1:名無しの探索者
同じ症状の奴いる?
2:名無しの探索者
窓の外が気になる。
3:名無しの探索者
寝られない。
4:名無しの探索者
視線を感じる。
5:名無しの探索者
俺も。
6:名無しの探索者
家族は普通なんだよ。
7:名無しの探索者
つまり目撃者限定?
8:名無しの探索者
精神的ショックじゃ説明つかなくなってきた。
9:名無しの探索者
全国で同じ症状だぞ。
10:名無しの探索者
しかも窓が共通してる。
11:名無しの探索者
昨日「ぽぽ」って聞いた。
12:名無しの探索者
俺も聞いた。
13:名無しの探索者
冗談ならやめろ。
14:名無しの探索者
冗談じゃない。
15:名無しの探索者
SDAへ連絡した。
16:名無しの探索者
俺も相談した。
17:名無しの探索者
保護されるって本当か?
18:名無しの探索者
まだ分からん。
19:名無しの探索者
でも動き始めてるらしい。
20:名無しの探索者
……これ、本当に見ただけで終わらないのか。
誰も答えを持たない。
だが一つだけ、利用者全員が共有し始めた認識があった。
八尺様は、「見るだけ」の存在ではない。
目撃した瞬間から、何かが始まってしまう。
そんな考えが、静かに世界へ広がり始めていた。
♢
午前十時三分。
特殊災害対策局――SDA本部。
緊急対策会議室には、全国各地から送られてきた報告書が次々と集められていた。
大型スクリーンへ映し出される日本地図には、赤い印がゆっくりと増え続けている。
その印は、八尺様の目撃地点ではない。
目撃した後、異変を訴え始めた人々の居住地だった。
「現在確認されている八尺様目撃者は二百三十六名。」
担当職員が資料を読み上げる。
「そのうち百二名が、何らかの異常を訴えています。」
「症状は現在も増加中です。」
局長は腕を組んだまま尋ねる。
「共通点は。」
「目撃以外、ありません。」
画面が切り替わる。
年齢。
性別。
職業。
居住地。
生活環境。
既往歴。
どれを比較しても規則性は見つからない。
学生。
会社員。
警察官。
主婦。
高齢者。
北海道から沖縄まで、生活環境も年齢層もばらばらだった。
「唯一一致しているのは。」
担当職員は静かに言葉を続ける。
「全員が、八尺様を目撃しているという事実だけです。」
室内へ重苦しい沈黙が落ちる。
別の職員が資料を開いた。
「症状の進行にも共通点があります。」
「初期段階では、視線を感じるという訴え。」
「続いて窓の外への強い恐怖。」
「睡眠障害。」
「理由のない焦燥感。」
「そして一部の対象者は、『ぽぽ、ぽぽぽ』という声を聞いたと証言しています。」
局長は目を細める。
「証言内容は一致しているのか。」
「はい。」
「発症順序まで含め、八割以上が酷似しています。」
「医療班の見解は。」
医療顧問が静かに口を開く。
「現在まで身体検査では異常は確認されていません。」
「血液検査。」
「脳波。」
「MRI。」
「いずれも決定的な異常所見はありません。」
「しかし、精神的ショックだけでは説明できない一致率です。」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
きさらぎ駅。
八尺様。
古文書。
短期間で立て続けに起きた異常現象は、すでに常識だけで判断できる段階を過ぎていた。
局長はゆっくりと席を立つ。
「本件は、目撃しただけで終わる事案ではない可能性があります。」
「対象者の安全を最優先してください。」
「希望者は直ちに保護施設へ移送。」
「二十四時間体制で健康状態を観察します。」
「家族への聞き取りも同時に開始。」
「症状の有無を比較してください。」
「了解。」
命令は全国のSDA支部へ一斉に送信された。
日本政府は初めて、「八尺様を目撃した人間そのもの」が調査対象であり、保護対象でもあると正式に位置付けた。
♢
同時刻。
国立超常現象研究所――NPRI。
解析室では、全国から集められた証言が壁一面の大型モニターへ表示されていた。
「対象者番号三十一。」
「夜になると窓の外が気になる。」
「対象者番号七十八。」
「眠ろうとすると誰かに見られている感覚。」
「対象者番号百十二。」
「昨夜、『ぽぽ』という声を聞いたと証言。」
研究員たちは、一件ずつ証言を照合していく。
発症までの日数。
症状の順番。
生活環境。
目撃距離。
天候。
時刻。
あらゆる条件を比較しても、一つだけ変わらないものがあった。
目撃からおよそ四十八時間前後。
その頃を境に、ほぼ全員の異変が始まっていた。
一人の研究員が静かに息を呑む。
「……ここまで一致するのは異常です。」
所長はモニターを見つめたまま答えた。
「結論を急ぐ必要はありません。」
「ですが、一つだけ言えることがあります。」
解析室中の視線が所長へ集まる。
「彼らは同じ恐怖を見ているのではありません。」
「同じ過程を辿っています。」
その言葉に、誰も反論できなかった。
八尺様は、目撃した瞬間に終わる存在ではない。
目撃したその時から、静かに何かが始まっている。
その可能性は、もはや誰にも否定できなくなり始めていた。
♢
午前十一時四十二分。
SDAによる保護活動は、日本各地で同時に始まっていた。
目撃者本人の同意を得た上で、職員たちが一人ひとりを専用車両へ案内していく。
「ご安心ください。」
「現在確認されている症状について、詳しい検査を行います。」
「ご家族へは、こちらから説明いたします。」
職員の声は終始落ち着いていた。
必要以上に不安を与えない。
それもまた、SDAの重要な役目だった。
埼玉県。
榎本春斗も、その対象者の一人となっていた。
自宅へ訪れた二人の職員は警察官ではなく、紺色の制服へ身を包んだSDAの職員だった。
「榎本春斗さんですね。」
「はい……。」
「現在、八尺様を目撃された方々に共通する症状が確認されています。」
「強制ではありません。」
「ですが、安全のため、一時的に保護施設で経過を観察させていただきたいと考えています。」
春斗は少し俯いたまま尋ねた。
「……同じ人が、いるんですか。」
二人は顔を見合わせる。
年配の職員が静かに答えた。
「います。」
「全国に。」
その一言だけで十分だった。
春斗は静かに目を閉じる。
自分だけではない。
そう思えた安心と、それほど多くの人間が同じ恐怖に苦しんでいるという現実が入り混じる。
「分かりました。」
「お願いします。」
小さな返事だった。
職員は無言で頷く。
数分後、春斗は必要最低限の荷物だけを持ち、自宅を後にした。
♢
午後零時二十八分。
日本各地の保護施設には、目撃者たちが次々と集められていた。
施設内には医師、看護師、心理カウンセラー、SDA職員が待機し、全員へ同じ検査が行われる。
血液検査。
脳波測定。
心理検査。
睡眠状況の聞き取り。
しかし、結果は変わらない。
「異常なし。」
その報告だけが積み重なっていく。
「身体には問題ありません。」
医師は困惑した表情を浮かべる。
「ですが、全員が睡眠不足です。」
「精神的疲労も非常に強い。」
「それ以外は説明できません。」
一方、聞き取り室では目撃者同士が初めて顔を合わせていた。
「あなたも見たんですか。」
「……はい。」
「田んぼでした。」
「私は住宅街です。」
「俺は河川敷だった。」
目撃場所は違う。
時間も違う。
それでも、その後に起きた出来事だけは驚くほど似ていた。
「窓が怖くなった。」
「夜になると眠れない。」
「誰かに見られている感じがする。」
「最近は声まで聞こえる。」
その言葉に、部屋の空気が凍り付く。
「……あなたもですか。」
「はい。」
「小さく。」
「遠くから。」
「『ぽぽ』って。」
誰も笑わなかった。
冗談だと思う者は、一人もいなかった。
♢
午後一時十一分。
NPRI解析室。
保護施設から送られてくる聞き取り結果は、リアルタイムで解析されていた。
「対象者全員、症状の進行速度に大きな差はありません。」
「平均誤差は六時間以内です。」
一人の研究員が眉をひそめる。
「まるで同じ現象を、時間差で体験しているようです。」
別の研究員も頷く。
「これほど再現性が高い現象は前例がありません。」
所長は静かに資料を閉じた。
「観察を続けましょう。」
「まだ何も断定できません。」
「ですが。」
そこで言葉を切る。
「保護施設へ移ったから安全だ、と考えるのは早計です。」
その言葉に、研究員たちは静かに顔を見合わせた。
誰も口にはしなかった。
しかし全員が、同じ不安を抱き始めていた。
もし八尺様が場所に縛られない存在なら。
保護施設という壁に、本当に意味はあるのだろうか。
その答えは、まだ誰も知らなかった。
♢
午後五時三十一分。
目撃者たちが各地の保護施設へ収容されてから、数時間が過ぎていた。
SDAは保護対象者全員に対し、三十分ごとの健康確認を実施していた。
体温。
血圧。
脈拍。
血中酸素濃度。
脳波。
心理状態。
考え得る限りの検査が繰り返される。
しかし、その結果はどれも同じだった。
「身体的な異常はありません。」
「全員です。」
医師の報告に、担当職員は困惑した表情を浮かべる。
「精神状態は。」
「強い不安はあります。」
「ですが、それ以外に説明できる異常は見当たりません。」
異常がある。
しかし異常が見つからない。
その矛盾だけが積み重なっていた。
♢
施設内の談話室では、保護された目撃者たちが静かに言葉を交わしていた。
「……何人くらいいるんですか。」
若い女性が職員へ尋ねる。
「この施設だけで二十七名です。」
「全国では、さらに多くの方が保護されています。」
その答えを聞き、室内は静まり返る。
自分だけではない。
その安心と、それほど多くの人間が同じ恐怖を抱えているという現実。
二つの感情が複雑に入り混じっていた。
榎本春斗は紙コップを握ったまま、小さく口を開く。
「皆さんも……。」
「窓が怖いんですか。」
向かいへ座っていた中年の男性がゆっくりと頷く。
「夜になると駄目です。」
「ずっと誰かが見てる気がする。」
別の女性も続ける。
「私はカーテンを開けられません。」
「開けたら、いる気がして。」
部屋の隅にいた男子高校生が震える声で言う。
「昨日、夢じゃなかったと思うんです。」
「声が聞こえました。」
全員の視線が集まる。
「……どんな声。」
「小さく。」
「本当に小さく。」
「『ぽぽ』って。」
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
誰も笑わない。
誰も否定しない。
数秒後。
春斗が静かに呟く。
「……私も聞きました。」
それをきっかけに、一人、また一人と口を開き始める。
「私も。」
「俺も聞いた。」
「二日前。」
「昨日の夜。」
「眠る前だった。」
証言は少しずつ違う。
しかし、「声を聞いた」という事実だけは一致していた。
♢
同じ頃。
世界では、保護活動そのものが大きな話題となっていた。
Linkでは、
『保護された人、大丈夫なのかな。』
『もう他人事じゃない。』
『目撃しただけで保護って異常すぎる。』
『政府が動くってことは、本当に危険なんだ。』
『施設なら安心なのかな。』
という投稿が数え切れないほど流れていた。
Visionでも特別配信が続く。
『【速報】八尺様目撃者の保護開始』
『SDA関係者が語る現在の状況』
『保護施設は安全なのか』
どの配信でも視聴者数は過去最高を更新していた。
一方、Open Forumでは別の議論が始まっていた。
【保護施設なら本当に安全なのか?】
1:名無しの探索者
施設に入れば助かるんだよな?
2:名無しの探索者
SDAがいるなら安心だろ。
3:名無しの探索者
でも原因分かってないじゃん。
4:名無しの探索者
目撃者を集めただけにならないか?
5:名無しの探索者
それは考えたくない。
6:名無しの探索者
今は信じるしかない。
7:名無しの探索者
少なくとも一人でいるよりは安全。
8:名無しの探索者
……本当にそうならいいけど。
その最後の書き込みへ、多くの利用者が反応した。
世界中の誰もが願っていた。
保護施設へ入れば、きっと助かる。
そこだけは、安全な場所であってほしいと。
まだ誰も知らない。
その願いが、数時間後には静かに打ち砕かれることを。
♢
午後八時二分。
保護施設の夜は、想像していたよりも静かだった。
廊下には一定間隔で照明が灯り、警備担当のSDA職員が巡回を続けている。
監視室では数十台のモニターが稼働し、各居室や廊下、出入口を二十四時間体制で監視していた。
「巡回異常なし。」
「南棟異常なし。」
「北棟異常なし。」
無線からは、淡々とした報告が繰り返される。
少なくとも表面上は、何一つ異常は起きていなかった。
♢
榎本春斗は、ベッドへ腰掛けたまま時計を見つめていた。
二十時を過ぎても眠気は来ない。
施設へ来てから少しだけ安心できたはずだった。
医師もいる。
警備員もいる。
外部の人間は入れない。
それでも胸の奥に張り付いた不安だけは、まるで消える気配がなかった。
部屋の窓は完全に閉ざされている。
厚い防犯ガラス。
外側には金属製のシャッター。
景色すら見えない。
「……大丈夫。」
自分へ言い聞かせる。
「ここは安全なんだ。」
そう呟いた直後だった。
耳の奥で、小さな音が鳴る。
――ぽ。
春斗は顔を上げる。
空調だろうか。
配管の音かもしれない。
数秒待つ。
何も聞こえない。
「気のせい……か。」
そう呟いた、その時。
――ぽぽ。
今度は少しだけ近かった。
春斗の全身へ鳥肌が走る。
聞き間違いではない。
確かに聞こえた。
しかも、それは部屋の外から響いたように感じられた。
♢
ほぼ同じ時刻。
施設内の別室。
一人の女性がナースコールを押していた。
「どうされました。」
駆け付けた看護師へ、女性は青ざめた顔で尋ねる。
「……聞こえませんでしたか。」
「何がです。」
「誰かが。」
「廊下で。」
「『ぽぽ』って……。」
看護師は一瞬だけ廊下へ目を向ける。
誰もいない。
巡回中の職員が遠くを歩いているだけだった。
「大丈夫です。」
「職員が巡回していますから。」
「安心してください。」
そう言って微笑む。
しかし、看護師が部屋を出た直後。
廊下の反対側から、もう一件ナースコールが鳴った。
さらに、その数秒後。
今度は別の階。
また一件。
また一件。
短時間のうちに、施設内の複数の居室から同じ連絡が入り始める。
「誰かの声が聞こえました。」
「外に人が立っている気がします。」
「廊下を誰か歩いていませんか。」
内容は少しずつ違う。
だが、一つだけ共通していた。
全員が、「何かを感じた」と訴えていた。
♢
午後八時二十五分。
監視室。
「ナースコールが急増しています。」
「現在十二件。」
「十三件……十四件。」
責任者はモニターへ視線を向ける。
「監視カメラは。」
「異常ありません。」
「赤外線。」
「反応なし。」
「出入口。」
「すべて施錠済みです。」
施設へ侵入した形跡はない。
監視映像にも何も映っていない。
それなのに、目撃者たちだけが同じ異変を訴えている。
責任者は低い声で命じた。
「全館巡回。」
「目撃者を一人にしないでください。」
「異常があれば即時報告。」
「了解。」
職員たちは一斉に動き始める。
だが、その時だった。
監視室の片隅で、一人の若い職員がゆっくりと顔を上げた。
「……今。」
責任者が振り返る。
「どうした。」
職員は青ざめた表情のまま、小さく呟く。
「聞こえませんでしたか。」
「『ぽぽ、ぽぽぽ』って。」
監視室が静まり返る。
その場にいた全員が息を止める。
誰一人として返事はできなかった。
八尺様は、保護施設の外にいるとは限らない。
その可能性が、初めて現実味を帯びて人々の前へ姿を現そうとしていた。
♢
午後九時四十八分。
保護施設内は、これまでにない緊張感へ包まれていた。
目撃者だけではない。
SDA職員までもが「声を聞いた」と証言したことで、状況は一変していた。
「現在までの報告件数は。」
責任者が問い掛ける。
「目撃者から二十二件。」
「職員から三件です。」
「三件とも『ぽぽ、ぽぽぽ』という証言で一致しています。」
会議室の空気が重く沈む。
「監視映像。」
「異常なし。」
「赤外線。」
「反応なし。」
「施設内外の巡回。」
「侵入者は確認できません。」
誰もが同じ疑問を抱いていた。
聞こえている。
だが、原因が存在しない。
それは、これまで積み重ねてきた常識が通用しないことを意味していた。
「……対象者だけの現象ではなくなった可能性があります。」
一人の職員が慎重に口を開く。
「どういう意味だ。」
「目撃者へ接触した者にも、何らかの影響が及んでいる可能性です。」
その仮説に、室内は静まり返る。
もしそれが事実なら。
保護するために集めた施設そのものが、新たな危険地帯となる可能性があった。
「推測で判断するな。」
責任者は静かに言う。
「事実だけを積み重ねろ。」
「はい。」
しかし、その表情から余裕は消えていた。
♢
同時刻。
NPRI解析室。
保護施設から送られてくる報告書は、分単位で増え続けていた。
「新たな報告です。」
「施設職員三名が同一の音声を証言。」
「録音には残っていません。」
研究員の一人が首を傾げる。
「本人だけが聞いているのでしょうか。」
「現時点では、その可能性が高い。」
別の研究員がモニターを操作する。
施設内の音声記録。
監視映像。
通信記録。
何度確認しても、「ぽぽ、ぽぽぽ」という音は一切記録されていなかった。
「つまり。」
「現象は存在する。」
「しかし、観測装置では捉えられない。」
誰かがそう呟く。
その言葉へ反論できる者はいなかった。
所長は静かに資料を閉じる。
「SDAへ伝達してください。」
「目撃者だけではなく、接触した職員についても経過観察を開始します。」
「はい。」
研究員はすぐに通信端末へ手を伸ばした。
♢
その頃。
世界では、保護施設の内部で何が起きているのかを知る者はまだいなかった。
報道各社へ発表されているのは、「経過観察を実施中」という短い説明だけ。
そのため、Linkでは楽観的な意見も少なくなかった。
『保護されたなら一安心かな。』
『政府が対応してくれてよかった。』
『これで症状も落ち着くといいけど。』
『SDAなら何とかしてくれるでしょ。』
一方、Open Forumでは別の空気が流れていた。
【保護施設、本当に安全なんだよな?】
1:名無しの探索者
何か嫌な予感がする。
2:名無しの探索者
俺も。
3:名無しの探索者
原因分からないのに隔離だけで終わるか?
4:名無しの探索者
でも今は信じるしかない。
5:名無しの探索者
頼むから無事でいてくれ。
誰も知らない。
その「安全」という前提が、すでに静かに崩れ始めていることを。
♢
都内、高層マンション。
真白空は夜景を眺めながら、静かにコーヒーカップを傾けていた。
テーブルには複数の画面が並び、Link、Vision、Open Forum、そして世界各国の報道が映し出されている。
空は一つひとつの反応へ目を通し、小さく微笑んだ。
「やはり、そう補完するんだ。」
穏やかな声が部屋へ響く。
「人は、安全な場所を作れば安心できると思う。」
「だからこそ、その前提が崩れた時の反応は実に興味深い。」
窓の外には、無数の灯りが広がっている。
その一つひとつの灯りの下で、人々は恐れ、考え、答えを探し続けていた。
空は静かにカップを置く。
「さて。」
「この世界は、次にどんな答えを導き出すのかな。」
その口元には、愉しげな笑みだけが静かに浮かんでいた。
♢
午後十時三十七分。
保護施設の夜は、更けていく。
巡回を終えたSDA職員が監視室へ戻ると、責任者が静かに声を掛けた。
「全区域確認しました。」
「異常は。」
「……ありません。」
その返答に、誰も安堵しなかった。
異常がないはずなのに、目撃者たちは次々と同じ証言を繰り返している。
監視カメラにも映らない。
録音にも残らない。
それでも確かに「聞いた」と証言する。
その事実だけが積み重なっていた。
「全対象者の睡眠記録を続けてください。」
「夜間巡回は十分ごとに変更します。」
「了解。」
責任者はモニターを見つめる。
二十七室すべてが映し出されている。
誰も暴れていない。
誰も窓を開けようともしていない。
それでも、どこか説明できない違和感だけが監視室を支配していた。
♢
榎本春斗は眠ることができず、天井を見つめ続けていた。
時計の針だけが静かに進んでいく。
午後十時四十五分。
午後十時五十分。
やがて、まぶたが重くなり始める。
ほんの数秒だけ意識が沈みかけた、その時だった。
――ぽ。
耳元で囁かれたような、小さな声。
春斗は飛び起きる。
部屋を見回す。
誰もいない。
窓も閉じている。
扉も閉まったままだ。
だが、今度は間違いなかった。
確かに、自分のすぐ近くで聞こえた。
「……誰だ。」
返事はない。
代わりに静寂だけが部屋を満たしていく。
春斗は震える手でナースコールへ触れようとする。
しかし、その指先が止まった。
押してもいいのだろうか。
また気のせいだと言われるのではないか。
そんな迷いが生まれる。
その迷いを断ち切るように、再び声が響いた。
――ぽぽ。
今度は少しだけ長い。
春斗は迷わずナースコールを押した。
♢
その夜。
同じ施設内で、七件のナースコールがほぼ同時刻に鳴り響いた。
訴えた内容は、それぞれ少しずつ違う。
「声が聞こえた。」
「誰かが部屋の前を歩いた気がする。」
「見られている。」
「眠れない。」
だが、その根底にある恐怖だけは同じだった。
職員たちは慌ただしく各部屋を回る。
しかし、異常は何一つ見つからない。
監視映像も正常。
警備記録も正常。
施設は、どこまでも静かだった。
静かすぎるほどに。
♢
午後十一時二十八分。
世界最大報道機関・WENでは、夜のニュースが放送されていた。
『日本政府は、八尺様目撃者の保護と経過観察を継続しています。現在まで重大な健康被害は確認されていないと発表しました。』
画面には、夜の保護施設を遠くから映した映像が流れる。
その様子を見た人々は、少しだけ安心したように息を吐いた。
一方、Open Forumでは深夜にもかかわらず議論が続いていた。
【八尺様って本当に何なんだ】
1:名無しの探索者
結局、誰も正体分からないな。
2:名無しの探索者
都市伝説だったはずなのに。
3:名無しの探索者
政府まで動いてる。
4:名無しの探索者
保護されても終わらない気がする。
5:名無しの探索者
むしろ始まったばかりじゃないか?
6:名無しの探索者
俺もそんな気がする。
7:名無しの探索者
まだ何か起きる。
8:名無しの探索者
嫌な予感しかしない。
その書き込みには、短時間で多くの賛同が集まった。
人々はまだ知らない。
恐怖は終息へ向かっているのではない。
ゆっくりと、確実に進行しているだけなのだということを。
♢
都内、高層マンション。
真白空は静かな部屋で、世界中から流れ込む情報へ目を通していた。
保護施設。
SDA。
NPRI。
WEN。
Link。
Vision。
Open Forum。
世界中が一つの存在へ答えを求め、必死に手を伸ばいている。
空は静かに微笑んだ。
「面白い。」
「誰も間違ったことはしていない。」
「それでも、誰一人として正解には辿り着けない。」
窓の外には、夜の街が広がっている。
無数の灯りの向こうで、人々は今日も恐怖と向き合い続けていた。
空はゆっくりと立ち上がり、夜空を見上げる。
「さて。」
「次は、世界はどんな伝承を自ら補完してくれるのかな。」
その穏やかな声だけが、静かな部屋へ溶けるように消えていった。
今もあなたの後ろには
ほら
それではまた