愉悦者は嘲笑う~世界を書き換えて遊んでいたら、政府も軍も本気で世界の真実を探し始めた~ 作:ユーザーA
精神的に色々参ってしまい
私の精神状態が元に戻るまで少し更新はお待ちください
それでは行ってらっしゃいませ
七月五日、午前六時四十二分。
保護施設の朝は、静寂から始まる。
廊下には一定間隔で照明が灯り、夜勤のSDA職員が最後の巡回を終えようとしていた。
窓という窓には厚い防犯ガラスと遮光カーテン。
外周には二重のフェンス。
赤外線センサー。
監視カメラ。
二十四時間体制で巡回を続ける警備員。
ここは、日本国内でも最高水準の警備体制を誇る保護施設だった。
少なくとも、人間を相手にするのであれば。
午前六時四十五分。
監視室。
夜勤から日勤への引き継ぎが始まる。
大型モニターには施設内外を映す映像が並び、そのどれにも異常は映っていない。
「夜間報告を開始します。」
責任者の言葉と共に、一人ずつ報告が始まる。
「外周警備異常なし。」
「監視カメラ異常なし。」
「出入口施錠確認。」
「赤外線センサー正常。」
「熱源探知異常なし。」
「電波障害なし。」
淡々とした報告だけが続いていく。
もし、この内容だけを見れば、昨夜は何事も起きなかったと判断するだろう。
だが、最後に読み上げられた報告だけは違っていた。
「対象者二十七名中、二十一名が『昨日より声が近付いた』と証言。」
「十五名が『見られている感覚が強くなった』と回答。」
「九名が『部屋の中に誰かが立っている気配を感じた』と証言しています。」
室内が静まり返る。
責任者は資料を一枚ずつめくりながら、静かに尋ねた。
「録音データ。」
「異常ありません。」
「監視映像。」
「異常ありません。」
「室内音声。」
「何も記録されていません。」
「生体モニター。」
「全員正常です。」
異常がある。
しかし、証明できない。
その矛盾だけが、日に日に大きくなっていた。
「昨夜、職員側の報告は。」
一人の女性職員が立ち上がる。
「夜勤職員二名が『廊下の奥から誰かに見られている感覚があった』と報告しています。」
「声は。」
「聞いていません。」
「ただ、誰かが立っていると思い確認へ向かいましたが、何もありませんでした。」
責任者は短く息を吐く。
目撃者だけだった異変は、少しずつ施設全体へ広がり始めている。
そんな嫌な予感を、誰も口にはしなかった。
♢
同じ頃。
NPRI解析室では、保護施設から送られてきた夜間データの分析が始まっていた。
「最新の症状推移を表示します。」
大型スクリーンへ折れ線グラフが映し出される。
横軸は目撃からの日数。
縦軸は精神症状の進行度。
研究員たちは画面を見つめたまま言葉を失う。
「……綺麗すぎる。」
一人が呟く。
グラフはほぼ同じ形を描いていた。
一日目。
軽い違和感。
二日目。
視線を感じる。
三日目。
夜になると眠れない。
四日目。
窓の外が気になる。
五日目。
「ぽぽ、ぽぽぽ」という声を聞く。
六日目。
声が近付く。
そして。
七日目。
すべてのグラフが急激に上昇していた。
「偶然とは思えません。」
若い研究員が震える声で言う。
「古文書と一致しています。」
「昨日まで収集した百五十七件の資料、その八割以上に『七日目』に相当する記述があります。」
所長は腕を組み、静かに目を閉じる。
「伝承ではなく。」
「観察記録だった可能性が、さらに高くなりました。」
誰も否定しない。
数百年前の人々は、何も知らなかったわけではない。
彼らもまた、同じ現象を見て、恐れ、その経過を後世へ残そうとしていたのかもしれない。
♢
午前七時十四分。
榎本春斗は、ゆっくりと目を覚ました。
昨夜もほとんど眠れていない。
何度も目を覚まし、そのたびに耳を澄ませ、朝が来ることだけを待っていた。
身体を起こし、静かに深呼吸をする。
部屋の中は何も変わらない。
窓は閉ざされている。
扉も施錠されたまま。
机も椅子も昨日と同じ位置にある。
それでも、胸の奥に張り付いた不安だけは、昨日よりも確実に大きくなっていた。
春斗は枕元へ置かれた日付表示へ視線を向ける。
――七月五日。
そして、心の中で静かに数える。
「……七日目。」
その言葉を口にした瞬間、自分でも理由の分からない寒気が背中を走った。
古文書。
伝承。
ニュース。
研究者たちの発表。
昨日一日で見聞きした情報が頭の中を駆け巡る。
誰も断定はしていない。
それでも、「七日」という言葉だけは、どの資料にも繰り返し記されていた。
春斗は無意識に閉ざされた窓へ目を向ける。
「……今日、終わるんだよな。」
それは願いだったのか。
祈りだったのか。
自分でも分からなかった。
ただ、その小さな呟きだけが、静かな部屋へ溶けるように消えていった。
♢
午前七時四十六分。
朝食の時間を知らせる館内放送が静かに流れる。
『対象者の皆様は、順番に食堂までお越しください。体調に異変を感じた場合は、無理をせず近くの職員へお申し出ください。』
穏やかな女性の声。
普段なら安心を与えるはずの案内だった。
しかし今、この施設にいる誰もが知っている。
職員も。
医師も。
研究者も。
誰一人として、この現象の正体を理解できていないことを。
♢
食堂では、保護対象者たちが静かに席へ着いていた。
テレビでは朝のニュースが流れている。
『八尺様に関する伝承は、現在百五十七件を超える資料が確認されています。』
『政府は引き続き調査を進めると発表しました。』
キャスターは落ち着いた口調で読み上げている。
だが、その内容は数日前では考えられないものだった。
都市伝説。
そう呼ばれていた存在が、今では政府の正式な調査対象となっている。
春斗は画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
「本当に……世界が変わったんだな。」
向かいに座っていた女子大学生が、苦笑いを浮かべる。
「最初は動画のネタだと思ってました。」
「私も。」
春斗は苦く笑う。
「ネットで騒いで、そのうち忘れられる話だって。」
「でも、違いましたね。」
「ええ。」
二人は言葉を失う。
あの日。
ほんの一度、あの存在を見てしまっただけだった。
それだけで生活は一変した。
家へ帰れない。
家族とも会えない。
自由に外を歩くこともできない。
恐怖だけが、毎日少しずつ近付いてくる。
女子大学生がスプーンを持つ手を止める。
「……昨日。」
「夢を見たんです。」
春斗は顔を上げる。
「夢?」
「真っ暗な田んぼ道でした。」
「誰もいないはずなのに。」
「ずっと後ろから、『ぽぽ、ぽぽぽ』って。」
その瞬間。
近くで食事をしていた中年男性も顔を上げた。
「あなたもか。」
女性が驚いたように振り返る。
「同じ夢ですか?」
「夢かどうかは分からない。」
男性は疲れ切った表情で続ける。
「私は窓の外に立っていた。」
「姿は見えない。」
「でも、『いる』って分かった。」
さらに別の席から声が上がる。
「私もです。」
「私は神社でした。」
「誰もいない石段を歩いていたら。」
「急に声だけ聞こえました。」
食堂は静まり返る。
誰も作り話をしている顔ではない。
そして恐ろしいことに。
全員が似たような夢を見ていた。
♢
食堂の一角では、NPRIの研究員がその会話を静かに記録していた。
「夢の内容にも共通性が見られます。」
無線機へ向かって報告する。
「暗所。」
「屋外。」
「背後から聞こえる音声。」
「姿は確認できない。」
「しかし存在だけを認識しています。」
返答はすぐに返ってきた。
『すべて記録してください。』
『古文書との照合を続けます。』
「了解。」
研究員は端末へ入力を続ける。
夢。
これまでは精神的不安によるものとして処理できた。
しかし、これほど一致するとなれば話は違う。
それもまた、現象の一部なのかもしれない。
♢
午前八時十八分。
朝食を終えた春斗は、自室へ戻るため廊下を歩いていた。
窓はすべて閉じられている。
外は快晴。
青空が広がっているはずだった。
なのに。
施設全体が薄暗く感じる。
自分だけなのか。
それとも、本当に光が届いていないのか。
考え始めた、その時だった。
――ぽ。
耳のすぐ後ろで、小さな声がした。
春斗は反射的に振り返る。
廊下には誰もいない。
少し離れた場所で職員が歩いているだけ。
それなのに。
今の声だけは。
今までで一番近かった。
いや。
近いというより。
まるで、すぐ背後で囁かれたようだった。
春斗の顔から血の気が引く。
「……嘘だろ。」
震える声が漏れる。
その様子を見つけた職員が駆け寄る。
「榎本さん!」
「どうしました!」
春斗は震える指で、自分の背後を指差した。
「……今。」
「すぐ後ろで。」
「聞こえました。」
職員はすぐに周囲を確認する。
しかし、そこには誰もいない。
監視カメラだけが、静かに二人の姿を映し続けていた。
♢
午前八時二十六分。
「すぐ後ろで聞こえた」。
榎本春斗の証言は、わずか数分で施設全体へ共有された。
SDA職員たちは通常の巡回を中断し、現場となった廊下へ集まる。
「映像を確認します。」
監視室では該当時間の映像が大型モニターへ映し出された。
春斗が歩いている。
職員が反対方向から巡回してくる。
その途中で春斗が突然立ち止まり、勢いよく振り返る。
それだけだった。
画面には誰も映っていない。
物音もない。
廊下の照明が一瞬揺らぐこともない。
「音声記録。」
「異常ありません。」
「熱源探知。」
「追加反応なし。」
「赤外線。」
「異常なし。」
責任者は無言のまま映像を見つめる。
何度再生しても結果は変わらない。
春斗だけが何かを感じ、何かを聞いている。
しかし、その原因は一切記録されていなかった。
「……本人を。」
「医務室へ。」
「はい。」
♢
午前八時四十三分。
医務室。
春斗は診察用の椅子へ座り、医師の質問へ答えていた。
「体調に変化は。」
「ありません。」
「睡眠時間は。」
「二時間くらいです。」
「食欲。」
「少しあります。」
医師は一つひとつ記録していく。
「では、先ほどの件を詳しく教えてください。」
春斗は静かに頷いた。
「歩いていただけです。」
「何も考えていませんでした。」
「その時。」
「突然、後ろから。」
「『ぽ』って。」
短く息を吐く。
「昨日までとは違いました。」
「昨日までは、近付いている感じだった。」
「でも今日は。」
「もう。」
「後ろでした。」
医師はペンを止める。
「姿は。」
「見ていません。」
「気配は。」
「……ありました。」
「どんな。」
春斗は目を閉じる。
言葉を探すように、ゆっくりと口を開いた。
「誰かが。」
「すぐ後ろで。」
「私を見ていた。」
部屋の空気が静まり返る。
医師は冷静さを保ちながら続ける。
「恐怖による思い込みという可能性は。」
「あると思います。」
春斗は苦笑する。
「私も最初はそう思っていました。」
「でも。」
「毎日。」
「毎日、少しずつ近付いてくるんです。」
「偶然じゃ説明できません。」
その声には、もう迷いはなかった。
♢
午前九時十五分。
その証言は即座にNPRIへ送られる。
解析室では、古文書との照合作業が続いていた。
「春斗さんの証言。」
「『背後で声を聞いた』。」
研究員が入力すると、検索結果が大量に表示される。
「一致資料。」
「三十六件。」
その数字に室内がざわつく。
「読み上げます。」
研究員は最も古い資料を開いた。
『七日目。』
『ついに声は背後まで至る。』
『振り返りし者、その後を語ることなし。』
別の資料。
『背へ声あり。』
『決して返るな。』
『決して見るな。』
さらに別の地方資料。
『近付きし時こそ、人は最も振り返りたくなる。』
『されど、その時が最後となる。』
誰も口を開かなかった。
これまで集めた資料と。
春斗の証言が。
恐ろしいほど一致し始めていた。
所長は静かに資料を閉じる。
「春斗さんへ。」
「絶対に、一人で行動させないでください。」
「はい。」
「そして。」
ゆっくりと言葉を続ける。
「もし再び声が聞こえても。」
「決して振り返らないよう伝えてください。」
その指示は、直ちに保護施設へ送信された。
だが、その警告が間に合うのか。
まだ誰にも分からなかった。
♢
午前十時二分。
保護施設・会議室。
SDA、NPRI、そしてWARO日本支部をオンラインで繋いだ緊急合同会議が始まっていた。
壁一面の大型モニターには、保護対象者二十七名の経過が一覧で表示されている。
目撃日時。
発症日時。
声を聞いた日時。
睡眠状況。
精神状態。
証言内容。
そのすべてが細かく整理されていた。
「榎本春斗さんの証言以降、新たな変化は。」
WAROの担当官が問い掛ける。
SDA責任者が静かに答える。
「午前九時三十八分。」
「対象者八名から追加報告です。」
「内容は。」
「全員、『昨日より近い』ではありません。」
「……『もう近い』です。」
室内の空気が一変した。
「表現が変わったのか。」
「はい。」
「これまでは接近を示す証言でした。」
「ですが、本日午前からは。」
責任者は資料をめくる。
「『部屋の中にいる気がする』」
「『背中合わせで立っている気がする』」
「『息遣いを感じた』」
「『すぐ後ろで見られている』」
「そのような証言へ変化しています。」
誰も言葉を返せなかった。
昨日までとは、明らかに段階が違う。
♢
NPRI解析室。
送られてきた証言は、すぐに古文書との照合作業へ回される。
一人の研究員が小さく息を呑んだ。
「……また一致しました。」
「どの資料だ。」
所長が近付く。
「室町時代後期と推定される村の記録です。」
研究員は静かに読み上げた。
『七日目の朝。』
『その者は申した。』
『もう近付いてはおらぬ。』
『すでに、そこに居ると。』
解析室は静まり返る。
さらに別の資料。
『人は皆、近付くと考える。』
『されど違う。』
『気付いた時には、既に隣に在る。』
研究員たちは互いに顔を見合わせる。
現在の証言。
数百年前の記録。
その一致率は、もはや偶然という言葉では説明できなかった。
「……所長。」
「何でしょう。」
「これ。」
「観察記録どころじゃありません。」
「まるで。」
若い研究員は喉を鳴らした。
「次に何が起きるかまで書いてあります。」
所長はしばらく黙って資料を見つめていた。
やがて静かに口を開く。
「だからこそ。」
「昔の人々は残したのでしょう。」
「未来の誰かが、同じ現象へ遭遇した時のために。」
その言葉へ反論できる者はいなかった。
♢
午前十一時十八分。
神話考証機構。
こちらでも新たな資料が見つかっていた。
古びた木箱の底から、一冊の小さな手帳が発見される。
紙は茶色く変色し、ところどころ破れていた。
しかし最後の数ページだけは、はっきりと読むことができた。
『六日目まで、人は恐れる。』
『七日目より、人は悟る。』
『もう逃げられぬと。』
その次のページ。
筆跡は大きく乱れていた。
『誰にも振り返るなと言え。』
『どれほど呼ばれても。』
『どれほど近くても。』
『決して。』
文章は、そこで終わっていた。
最後の一文字は、途中で途切れている。
まるで、その続きを書く時間すら残されていなかったかのように。
♢
午前十一時五十七分。
その資料は即座にSDAとNPRIへ送られた。
会議室では誰も口を開かない。
証言は一致する。
古文書も一致する。
症状の進行も一致する。
そして今では、これから起こることまで、古い記録が示し始めていた。
誰も迷信とは思わなかった。
誰も都市伝説とは呼ばなかった。
八尺様は、人々の間で語られる噂ではない。
何百年も前から記録され続けてきた、説明不能な現象。
その認識は、研究者たちの間で、静かに、しかし確実に固まり始めていた。
♢
午後一時九分。
昼を迎えた保護施設には、朝とは異なる緊張が漂っていた。
館内放送が流れ、対象者たちは決められた時間ごとに健康確認を受けている。
医師。
看護師。
SDA職員。
誰もが普段と変わらないように振る舞おうとしていた。
しかし、その表情から余裕は消えていた。
「血圧、正常。」
「体温、三十六度五分。」
「脈拍、異常なし。」
榎本春斗は診察を受けながら、ぼんやりと医師の声を聞いていた。
身体は健康だった。
検査結果も昨日までと変わらない。
それなのに、心だけが確実に追い詰められていく。
「榎本さん。」
医師が穏やかに声を掛ける。
「体調はいかがですか。」
「……身体は平気です。」
「ですが。」
「怖いんです。」
その一言に、医師は何も返せなかった。
春斗は続ける。
「もう。」
「姿なんて見えなくてもいいんです。」
「聞こえなくてもいい。」
「ただ。」
「近くにいるって。」
「それだけが分かるんです。」
医師は静かに記録用端末へ入力する。
精神状態――悪化。
理由――説明不能。
その文字を入力するたび、胸の奥が重くなった。
♢
午後一時四十二分。
施設内では、対象者同士の会話にも変化が現れ始めていた。
「昨日は眠れた?」
一人の女性が尋ねる。
向かいの男性はゆっくりと首を横へ振る。
「寝たと思ったら。」
「すぐ起きた。」
「夢ですか。」
「分からない。」
「でも。」
「耳元で声がした。」
別の席でも同じような会話が続いていた。
「私は。」
「誰かが歩く音を聞きました。」
「廊下ですか?」
「違います。」
「部屋の中です。」
誰も笑わない。
誰も否定しない。
それぞれが少しずつ違う現象を体験している。
それでも、根底にある恐怖だけは完全に一致していた。
「……近い。」
「本当に。」
「近い。」
その言葉は、まるで合言葉のように施設内で繰り返されていた。
♢
午後二時十七分。
監視室。
責任者は各居室の映像を順番に確認していた。
二十七室。
すべて正常。
誰も暴れていない。
誰も錯乱していない。
静かに座っている者。
本を読んでいる者。
眠ろうとしている者。
画面の中だけを見れば、ごく普通の保護施設だった。
「全カメラ異常なし。」
「録音データ異常なし。」
「巡回班より異常なし。」
若い職員が報告する。
責任者は頷きかけた。
その時だった。
監視モニターの一つで、春斗が突然肩を震わせた。
椅子へ座っていた春斗が、何かを聞いたようにゆっくりと顔を上げる。
誰もいない部屋。
それなのに。
春斗の視線だけが、部屋の入口へ向けられていた。
「……拡大。」
映像を拡大する。
扉の前には誰もいない。
赤外線映像へ切り替える。
何も映らない。
熱源もない。
それでも春斗は、扉の向こうをじっと見つめ続けていた。
「榎本さん。」
監視室から無線が飛ぶ。
「聞こえますか。」
春斗はゆっくりと無線機へ視線を向けた。
その顔からは血の気が失われている。
震える唇が、小さく動いた。
「……います。」
監視室の全員が息を呑む。
「誰がいますか。」
数秒の沈黙。
春斗は扉から目を離さないまま、小さな声で答えた。
「……外です。」
「扉の。」
「すぐ外に。」
その言葉と同時に、監視室の空気は凍り付いた。
♢
午後二時十九分。
「扉の、すぐ外にいます。」
榎本春斗の言葉が無線越しに響いた瞬間、監視室の空気が張り詰めた。
「巡回班。」
責任者が即座に指示を飛ばす。
「二十七号室前を確認。」
『了解。』
二人一組の職員が廊下を駆ける。
監視モニターにも、その様子が映し出されていた。
廊下は静かだった。
照明は正常。
窓も閉じられたまま。
誰一人として立っていない。
職員は二十七号室の前へ到着し、周囲を慎重に見回した。
『異常ありません。』
責任者は眉をひそめる。
「もう一度確認してください。」
『了解。』
壁。
天井。
床。
非常口。
隣室。
すべて確認する。
だが、結果は変わらない。
『誰もいません。』
監視室では、その映像を全員が食い入るように見つめていた。
確かに誰もいない。
しかし、その同じ時間。
モニターの中の春斗は、扉から一歩も目を離そうとしなかった。
♢
「榎本さん。」
医師が無線へ呼び掛ける。
「今、何が見えていますか。」
数秒の沈黙。
やがて春斗は、小さく首を横へ振った。
「……見えてはいません。」
「でも。」
「います。」
「そこに。」
「立っています。」
監視室にいた若い職員が思わず口を開く。
「姿が見えないのに、分かるんですか。」
春斗は静かに答えた。
「分かります。」
「説明できません。」
「でも。」
「ずっと。」
「私を見ています。」
その声は震えていた。
怯えからではない。
確信してしまった人間の声だった。
♢
午後二時二十七分。
巡回班が二十七号室へ到着する。
「榎本さん。」
「失礼します。」
電子錠が解除され、扉がゆっくりと開く。
部屋には春斗一人しかいない。
窓は閉鎖。
換気口も異常なし。
ベッドの下。
収納。
浴室。
すべて確認する。
誰もいない。
それでも春斗は、開いた扉の向こうを見つめ続けていた。
「……まだ。」
職員が振り返る。
「何がですか。」
春斗は小さく唇を震わせた。
「そこです。」
「あなたの。」
「すぐ後ろ。」
その一言に、部屋の空気が凍り付く。
職員は反射的に振り返る。
廊下には誰もいない。
静かな廊下が続いているだけだった。
「……誰もいません。」
そう答えた職員の額には、汗が滲んでいた。
♢
午後二時三十九分。
その出来事は即座にNPRIへ共有された。
解析室では、新たな証言として入力される。
『目撃者のみが、存在を認識。』
『周囲の人間には一切確認できず。』
『対象者は位置を断定できる。』
一人の研究員が古文書をめくる。
「……ありました。」
静かな声が解析室へ響く。
『見えぬ者には何も無し。』
『見し者のみ、その在処を知る。』
さらに別の資料。
『他者には空なり。』
『されど、見たる者には決して空にあらず。』
所長は深く息を吐く。
「また一致しました。」
若い研究員が力なく呟く。
「……全部。」
「全部、古文書の通りです。」
解析室には重苦しい沈黙だけが残る。
誰もまだ結論は口にしない。
だが、誰の心にも同じ考えが浮かんでいた。
人々は伝承を調べているのではない。
何百年も前から繰り返されてきた、一つの現象を追体験しているのではないか。
その仮説は、もはや空想ではなく、現実として研究者たちの前へ姿を現し始めていた。
♢
午後四時二分。
保護施設で起きた新たな事象は、機密情報としてSDA本部へ送られた。
だが、その情報はすでに世界中の研究機関を動かし始めていた。
「目撃者だけが存在を認識する。」
その一文は、これまで集められた伝承と完全に一致していたからだ。
午後四時二十五分。
世界異常対策機構――WARO。
各国代表による臨時会議が再び招集される。
議場中央の大型スクリーンには、日本から送られてきた最新資料が表示されていた。
『七日目。』
『対象者は存在の位置を認識。』
『第三者には一切確認できず。』
短い文章だった。
しかし、その意味は重い。
アメリカ代表が静かに資料を閉じる。
「質問があります。」
「どうぞ。」
日本代表が応じる。
「現在までに、八尺様そのものを撮影した映像は存在しますか。」
「ありません。」
「録音は。」
「ありません。」
「熱源。」
「確認されていません。」
「電磁波。」
「異常なし。」
議場は静まり返る。
つまり。
存在を感じているのは目撃者だけ。
世界中の最新機材ですら、その存在を一切観測できていなかった。
「対象者の証言だけが唯一の情報源ということですか。」
「現時点では、その通りです。」
誰も反論しなかった。
それほどまでに、日本から送られてくる証言と古文書は一致していた。
♢
午後四時五十一分。
世界最大報道機関・WEN。
スタジオでは特別番組が続いている。
『日本政府は、本日も保護対象者の経過観察を継続しています。』
『詳細は公表されていませんが、専門機関による共同調査が進められているとのことです。』
画面には保護施設の外観。
SDA本部。
NPRI。
そしてWARO本部の映像が映し出される。
ニュースキャスターは慎重に言葉を選びながら続けた。
『八尺様に関する古文書は、現在も各地で発見が続いています。』
『専門家の間では、単なる都市伝説ではなく、長年伝承として受け継がれてきた記録ではないかとの見方も広がっています。』
その放送を、多くの人々が固唾を飲んで見守っていた。
♢
午後五時十二分。
Linkでは、一つの投稿が急速に拡散される。
『祖母が昔、「夜に高い女を見たら絶対に振り返るな」って言ってた。』
その投稿には数万件を超える返信が寄せられた。
『うちの祖父も同じこと言ってた。』
『東北だけの話じゃなかったの?』
『うち九州だけど聞いたことある。』
『地方によって話が違うと思ってた。』
『全部同じだったのか……。』
今までバラバラだった昔話が、一つへ繋がり始める。
人々は初めて気付く。
自分たちの地域だけの言い伝えではなかった。
日本中で、同じ警告が語り継がれていたのだと。
♢
午後五時四十分。
Open Forumでも、新たなスレッドが立てられていた。
【昔、祖父母から聞いた”高い女”の話を書いてけ】
1:名無しの探索者
今思えば八尺様だったかもしれない。
2:名無しの探索者
うちは「窓を見るな」って言われてた。
3:名無しの探索者
夜に名前を呼ばれても返事するな。
4:名無しの探索者
田んぼへ近付くなって祖母が言ってた。
5:名無しの探索者
全部地方違うのに似すぎだろ。
6:名無しの探索者
これ、本当に昔からあった話なんじゃないか。
7:名無しの探索者
俺、急に笑えなくなってきた。
8:名無しの探索者
都市伝説を調べてるつもりだった。
9:名無しの探索者
でも違う。
10:名無しの探索者
俺たち、昔からあった警告を掘り起こしてるだけなんじゃないか。
その書き込みには、短時間で一万件を超える賛同が集まる。
誰かが命令したわけではない。
誰かが洗脳したわけでもない。
世界は、自ら一つの結論へ近付き始めていた。
八尺様は、「新しく生まれた都市伝説」ではない。
人々が長い歴史の中で恐れ、語り継ぎ、忘れ、そして今になって再び思い出した「伝承」なのだと。
♢
午後六時十一分。
日本国内だけだった八尺様の議論は、すでに国境を越えていた。
WENの特集が各国の報道機関へ配信されると、海外でも特別番組が次々と編成され始める。
『日本で確認されている”八尺様現象”について、世界異常対策機構は引き続き情報収集を行っています。』
『現時点で国外の発生は確認されていません。しかし、類似する伝承について各国へ調査要請が出されました。』
ニュースキャスターの落ち着いた声とは対照的に、世界の空気は確実に変わっていた。
数日前までは笑い話だった。
動画投稿者の企画だと思われていた。
それが今では、各国政府が正式に情報共有を行う案件となっている。
♢
午後六時三十七分。
イギリス。
ロンドン郊外。
国立民俗資料館。
一人の女性研究者が、日本から送られてきた資料へ目を通していた。
「……興味深い。」
隣の研究員が覗き込む。
「日本の都市伝説ですか。」
「そう思っていた。」
女性は首を横へ振る。
「でも違う。」
「これは都市伝説というより。」
「観察記録に近い。」
彼女は資料をめくる。
「高さ。」
「声。」
「七日目。」
「振り返ってはならない。」
「これほど詳細な経過が残されている伝承は珍しい。」
研究員は静かに頷く。
「日本だけでしょうか。」
「まだ分からない。」
「だから調べる。」
世界中で同じような調査が始まりつつあった。
♢
午後七時五分。
Visionでは一本の動画が急上昇ランキング一位となる。
タイトルは、
『【総集編】八尺様事件、ここまで判明したこと』
投稿から二時間足らずで再生回数は四百五十万回を突破していた。
動画では時系列順に情報が整理されている。
最初の目撃。
複数の証言。
古文書の発見。
伝承の一致。
SDAの保護。
NPRIの解析。
WAROの国際調査。
コメント欄は猛烈な速度で流れていく。
『ここまで来ると本当に歴史なんだな。』
『七日目だけは怖すぎる。』
『昔の人はどうやって知ったんだ。』
『もう夜に窓を開けられない。』
『全部繋がってるじゃん。』
『まだ終わってない気がする。』
その最後のコメントには、多くの利用者が「いいね」を押していた。
誰もが感じ始めていた。
これは、一つの事件では終わらない。
そんな漠然とした予感を。
♢
午後七時四十八分。
Open Forumでは、新たな議論が始まっていた。
【結局、八尺様って何なんだ?】
1:名無しの探索者
幽霊?
2:名無しの探索者
怪異。
3:名無しの探索者
神様じゃないか。
4:名無しの探索者
妖怪説もある。
5:名無しの探索者
いや、どれにも当てはまらない。
6:名無しの探索者
名前だけじゃ説明できない存在。
7:名無しの探索者
人間が勝手に分類しようとしてるだけだろ。
8:名無しの探索者
でも分類しないと怖い。
9:名無しの探索者
理解できないものを、そのまま受け入れる方が怖い。
10:名無しの探索者
だから昔の人は「八尺様」って名前を付けたのかもしれない。
議論は止まらない。
怪異。
妖怪。
神。
亡霊。
未知の生命体。
異常現象。
人々は知識を総動員し、一つの答えを探し続ける。
だが、そのどれも決定打にはならなかった。
それでも世界は前へ進む。
理解できないから調べる。
恐ろしいから記録を残す。
その営みは何百年も前から続き、今もなお繰り返されている。
そして誰も知らない。
世界中が必死に答えを探しているその舞台を、一人の観客が静かに見つめていることを。
♢
午後九時十三分。
保護施設。
夜間警戒態勢への移行が始まる。
施設内の照明は通常より明るく設定され、廊下には巡回職員が通常の二倍配置された。
監視室では全てのカメラ映像が同時に表示されている。
異常はない。
少なくとも、機械が観測できる範囲では。
「本日も二十四時間体制を維持します。」
責任者が静かに告げる。
「対象者の単独行動は禁止。」
「巡回は十分間隔。」
「少しでも異変があれば直ちに報告してください。」
「了解。」
短い返答が重なる。
職員たちは皆、冷静さを保とうとしていた。
しかし、その胸の内では誰もが同じことを考えている。
――今夜が山場になる。
古文書。
証言。
症状の推移。
すべてが「七日目」を指し示していた。
♢
午後九時四十一分。
榎本春斗は自室のベッドへ腰掛けたまま、膝の上で両手を固く組んでいた。
眠る気にはなれない。
目を閉じることさえ怖かった。
壁掛け時計の秒針だけが、静かな部屋へ規則正しい音を刻み続ける。
カチ。
カチ。
カチ。
一秒。
また一秒。
その音ばかりを聞いているうちに、自分の鼓動まで大きく聞こえ始めた。
「……大丈夫。」
誰へ向けた言葉でもない。
ただ、自分へ言い聞かせるように呟く。
「ここには職員さんがいる。」
「監視カメラもある。」
「医師も研究者もいる。」
「一人じゃない。」
そう言葉を並べても、不安は消えなかった。
それどころか、心の奥では別の声が囁いている。
――それでも、昨日も聞こえた。
――施設へ来ても聞こえた。
――今日も、すぐ後ろで聞こえた。
春斗は頭を振る。
「考えるな。」
「考えたら駄目だ。」
そう言い聞かせた、その時だった。
コン。
部屋の扉が、小さく鳴った。
春斗は身体を強張らせる。
巡回の時間には少し早い。
職員なら必ず名前を呼ぶ。
しかし、今は何も聞こえない。
ただ、小さな音だけが残っていた。
コン。
もう一度。
今度は少しだけ大きく。
春斗は無意識に立ち上がる。
扉へ一歩。
また一歩。
足が勝手に動く。
「……誰ですか。」
返事はない。
代わりに、静かな沈黙だけが廊下を満たしていた。
♢
午後九時四十三分。
監視室。
「二十七号室。」
若い職員がモニターを指差す。
「榎本さんが扉へ近付いています。」
責任者が映像を確認する。
春斗はゆっくりと扉の前へ立ち、じっと見つめていた。
誰もノックしていない。
巡回班もまだ別の区画にいる。
それなのに。
春斗だけが、何かを聞いている。
「無線を。」
「はい。」
「榎本さん。」
職員が呼び掛ける。
「聞こえますか。」
数秒後。
春斗は震える声で答えた。
「……今。」
「ノックしましたよね。」
監視室の全員が顔を見合わせる。
「いいえ。」
「誰もノックしていません。」
その返答を聞いた春斗の表情が、ゆっくりと青ざめていく。
「……そんな。」
かすれた声が漏れる。
「じゃあ。」
「今。」
「誰が。」
その言葉は最後まで続かなかった。
――コン。
今度は監視室の音声記録にも、はっきりとノックの音が記録された。
その瞬間。
監視室にいた全員の表情から血の気が引いた。
♢ 午後九時四十三分。
乾いたノックの音は、確かに監視室のスピーカーから流れた。
――コン。
短く、一度だけ。
それは機械の誤作動とも、配線ノイズとも違う。
木を軽く叩いたような、あまりにも自然な音だった。
監視室は一瞬、誰一人として動けなかった。
「……今の。」
若い職員が呟く。
「録音されています。」
音響担当が波形を確認する。
「二十七号室の室内マイクです。」
「外部混線ではありません。」
責任者はすぐに無線機を掴んだ。
「巡回班。」
「二十七号室へ急行。」
『了解!』
♢
午後九時四十四分。
二人の職員が廊下を走る。
監視カメラは、その様子を鮮明に映し出していた。
二十七号室まで残り十メートル。
五メートル。
三メートル。
職員の一人が扉の前へ到着し、インターホンを押す。
「榎本さん!」
「SDAです!」
「開けます!」
電子錠が解除される。
扉がゆっくりと開いた。
部屋の中には春斗が立っていた。
扉から二歩ほど離れた位置で、全身を震わせながら。
「大丈夫です!」
職員が駆け寄る。
「何かありましたか!」
春斗は返事をしない。
ただ、開いた扉の向こうを見つめ続けている。
その視線を追う。
廊下には誰もいない。
照明も正常。
異常は何一つ見当たらない。
職員は安心させるように言った。
「誰もいません。」
「安心してください。」
その言葉を聞いた春斗は、ゆっくりと首を横へ振った。
「……違います。」
「います。」
「もう。」
「廊下じゃない。」
職員の表情が固まる。
「どういう意味ですか。」
春斗は震える指をゆっくりと持ち上げた。
その先は。
開いた扉ではない。
部屋の中。
自分のすぐ横。
何もない空間だった。
「……ここです。」
誰も言葉を発せなかった。
♢
午後九時四十七分。
その場にいた三人の職員は、一斉に周囲を確認する。
壁。
天井。
床。
ベッドの下。
浴室。
収納。
何もない。
誰もいない。
しかし春斗だけは、視線を動かさない。
まるで、そこに誰かが立っているかのように。
「榎本さん。」
女性職員が慎重に声を掛ける。
「その場所に、何が見えるんですか。」
春斗は小さく首を横へ振る。
「……見えません。」
「でも。」
「分かるんです。」
「そこに。」
「立っています。」
女性職員は息を呑む。
「近さは。」
春斗は震える声で答えた。
「昨日は。」
「後ろでした。」
「今日は。」
喉が鳴る。
「……手を伸ばせば。」
「届くくらい。」
その一言で、部屋の空気が凍り付いた。
♢
午後九時五十二分。
NPRI解析室。
現場から送られてきた報告を受けた研究員たちは、急いで古文書を照合していた。
「距離。」
「接触寸前。」
「類似記述を検索。」
検索結果。
――一致資料、十二件。
一人の研究員が静かに読み上げる。
『七日目の夜。』
『その距離、腕一本。』
『姿は見えずとも、人はその近さを知る。』
別の資料。
『あと一歩。』
『あと一声。』
『その時、人は最も振り返りたくなる。』
解析室は静まり返る。
所長はゆっくりと資料を閉じた。
「……間違いありません。」
「現象は。」
「最終段階へ入っています。」
その言葉を聞いた誰もが、息を詰めた。
保護施設。
研究機関。
政府。
世界中が固唾を呑んで見守る中。
七日目の夜は、まだ終わっていなかった。
♢
午後十一時四分。
保護施設全館が、これまでにない緊張へ包まれていた。
巡回間隔は十分から五分へ短縮。
対象者の居室前には必ず二名以上の職員を配置。
監視室では全ての映像を常時録画し、NPRI解析室とも映像をリアルタイムで共有していた。
それでも、誰一人として安心はできなかった。
映るものは「異常なし」。
しかし、起きている現象は「異常」そのものだった。
♢
午後十一時二十七分。
榎本春斗は、ベッドへ腰掛けたまま静かに目を閉じていた。
耳を澄ませる。
時計の音。
空調の音。
廊下を歩く職員の足音。
どれも聞こえる。
だからこそ、不自然だった。
あの声だけが聞こえない。
昨日までなら、この時間には必ず耳元へ届いていた。
「……終わったのか。」
小さく呟く。
返事はない。
部屋は静かだった。
張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜ける。
「もう。」
「終わったんだ。」
その瞬間だった。
――ぽ。
春斗の身体が凍り付く。
今までで一番小さな声。
しかし。
今までで一番近かった。
耳元でもない。
背後でもない。
まるで。
自分の真横で、小さく息を吐かれたような距離。
春斗は歯を食いしばる。
振り返るな。
古文書。
研究者。
医師。
全員が同じことを言っていた。
決して振り返るな。
決して確かめるな。
それでも、人間の本能は残酷だった。
「見ろ。」
「確かめろ。」
「そこに何がいる。」
頭の奥で、そんな衝動が何度も囁く。
春斗は両拳を強く握り締めた。
「……駄目だ。」
「絶対に。」
「振り返らない。」
震える声だった。
それでも、その言葉だけは自分へ向けた決意だった。
♢
同時刻。
監視室。
映像を見守る全員が息を殺していた。
春斗は一歩も動かない。
しかし、生体モニターだけが異常な数値を示している。
「心拍百四十。」
「血圧上昇。」
「発汗量増加。」
「過呼吸寸前です。」
医師が無線を握る。
「榎本さん。」
「聞こえますか。」
「こちら医務室です。」
返事はすぐに返ってきた。
『……聞こえています。』
「深呼吸してください。」
「目を閉じても構いません。」
「そのまま。」
「絶対に振り返らないでください。」
数秒後。
春斗は苦しそうな呼吸の合間に答えた。
『……はい。』
『分かっています。』
『でも。』
『近い。』
『近すぎる。』
その一言だけで、監視室の空気は凍り付いた。
♢
午後十一時三十四分。
NPRI解析室。
現場の生体データがリアルタイムで送られてくる。
一人の研究員が画面を見つめたまま呟いた。
「……変です。」
「何が。」
所長が近付く。
「心拍数。」
「極限まで上がっています。」
「ですが。」
「恐怖だけでは説明できません。」
「まるで。」
研究員は喉を鳴らした。
「何かが、本当にそこにいる時の反応です。」
解析室は静まり返る。
誰もその言葉を否定できなかった。
証明はできない。
映像にも映らない。
それでも。
榎本春斗という一人の人間の身体だけは、確かに「何か」の存在を認識していた。
そして、その長い夜は、ついに終わりへ向かおうとしていた。
♢
午後十一時五十八分。
保護施設。
監視室にいる全員が、息を潜めてモニターを見つめていた。
誰も口を開かない。
時計の秒針だけが、静かに時を刻んでいく。
榎本春斗はベッドへ腰掛けたまま、固く目を閉じていた。
拳は白くなるほど握り締められている。
古文書の記述。
研究者の警告。
医師の言葉。
すべてを思い返す。
「振り返るな。」
「決して確かめるな。」
その言葉だけを何度も心の中で繰り返していた。
監視室では医師が静かに無線を握る。
「榎本さん。」
「聞こえていますか。」
数秒後。
震える声が返ってくる。
『……聞こえています。』
「そのままでいてください。」
「決して動かないでください。」
『はい。』
返事はあった。
だが、その声は今までになく弱々しかった。
♢
午後十一時五十九分。
心拍数。
一一七。
一二九。
一四二。
一五八。
生体モニターの数値が、急激に上昇を始める。
「心拍上昇!」
「血圧急上昇!」
「呼吸数増加!」
医師が無線へ叫ぶ。
「榎本さん!」
「深呼吸してください!」
「落ち着いて!」
返事はない。
モニターに映る春斗は、ゆっくりと何かを見上げ始めていた。
誰もいないはずの部屋。
その天井付近へ視線を向けたまま、身体を小さく震わせている。
「榎本さん!」
再び呼び掛ける。
ようやく返ってきた声は、ほとんど息だけだった。
『……います。』
「どこです!」
『……近い。』
『もう……。』
『見えなくても……分かる。』
監視室の全員が画面へ釘付けになる。
映像には何も映っていない。
熱源もない。
赤外線も反応しない。
それでも春斗だけは、確かに”何か”を見つめていた。
♢
午後十一時五十九分五十秒。
残り十秒。
監視室の空気が凍り付く。
誰も時計から目を離さない。
五秒。
四秒。
三秒。
二秒。
一秒。
午前零時。
その瞬間だった。
春斗の身体が、ぴたりと動きを止める。
心拍数は百七十二。
そして。
百八十。
百九十。
二百。
「異常値です!」
「医療班!」
「二十七号室へ!」
巡回班が一斉に走り出す。
監視カメラには、その様子が映っていた。
誰もが間に合うと信じていた。
人類が持てる知識。
警戒。
隔離。
観測。
研究。
そのすべてを、この一人へ注ぎ込んだ。
だから。
助けられるはずだった。
その時。
無線から、小さな声が聞こえた。
『……あ。』
春斗だった。
誰もが息を呑む。
『そうか。』
短い沈黙。
そして。
『最初から。』
『逃げられなかったんだ。』
その言葉と同時に。
監視モニターが一瞬だけ白く乱れた。
――ザッ。
ほんの一秒にも満たないノイズ。
映像はすぐ戻る。
部屋は変わらない。
ベッド。
机。
椅子。
閉ざされた窓。
何も変わっていない。
ただ一つだけ。
榎本春斗の姿だけが、そこから消えていた。
誰も動くことができなかった。
扉は内側から施錠されたまま。
窓は閉鎖。
換気口にも異常はない。
監視映像には、誰一人として部屋へ出入りする姿は記録されていなかった。
それでも。
榎本春斗は、跡形もなく消えていた。
数秒後、巡回班が部屋へ飛び込む。
「榎本さん!」
返事はない。
ベッドは乱れていない。
床にも争った跡はない。
部屋には、人がいた痕跡だけが静かに残されていた。
責任者は震える声で無線を握る。
「……対象者二十七。」
「所在確認不能。」
その一報は、SDA本部、NPRI、そしてWAROへ同時に送信された。
その瞬間。
人類は理解した。
七日目は。
乗り越えるものではない。
必ず訪れ。
そして、必ず終わるものなのだと。
♢
午前零時九分。
「対象者二十七、所在確認不能。」
その一報は、日本中の対策機関を一瞬で沈黙させた。
SDA本部。
NPRI解析室。
WARO日本支部。
誰もが同じ報告書を見つめたまま、言葉を失っている。
監視カメラには誰も映っていない。
扉は施錠されたまま。
窓も閉じられていた。
部屋へ侵入した痕跡は、一つもない。
それなのに。
榎本春斗という一人の人間だけが、この世界から切り取られたように消えていた。
♢
午前零時十五分。
保護施設。
二十七号室では、現場保存が始まっていた。
白い防護服へ身を包んだ調査員たちが、一つひとつ慎重に部屋を調べていく。
「指紋。」
「本人以外ありません。」
「DNA。」
「本人のみ。」
「争った痕跡。」
「なし。」
「血液反応。」
「なし。」
「繊維片。」
「なし。」
調べれば調べるほど、異常だった。
部屋から誰かが出た痕跡はない。
誰かが入った痕跡もない。
それでも、人間一人が完全に消失している。
調査員の一人が、小さく呟く。
「……密室です。」
「完全な。」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
♢
午前零時四十二分。
NPRI解析室。
研究員たちは、何度も映像を再生していた。
一倍速。
二倍速。
十分の一倍速。
一コマずつ。
どれだけ確認しても結果は変わらない。
午後十一時五十九分五十九秒。
榎本春斗は、そこにいた。
午前零時〇秒。
一瞬だけ映像へノイズが走る。
そして。
午前零時〇秒〇一。
もう、いない。
それだけだった。
若い研究員が力なく椅子へ座り込む。
「あり得ません……。」
「人間が消えるなんて。」
「映像の改ざんは。」
「ありません。」
「記録媒体の異常もありません。」
「じゃあ。」
震える声が漏れる。
「何が起きたんですか。」
誰も答えられなかった。
♢
午前一時十一分。
WARO緊急会議。
各国代表の前へ、日本から最新報告が提出される。
会議室には重苦しい沈黙だけが流れていた。
「対象者は。」
「現在も発見されていません。」
日本代表が静かに報告する。
「死亡確認は。」
「できません。」
「生存確認は。」
「できません。」
「つまり。」
アメリカ代表が苦い表情を浮かべる。
「存在そのものが不明ということですか。」
「……はい。」
短い返答だった。
だが、その一言が世界へ与えた衝撃は計り知れない。
各国の代表は誰も資料から目を離さない。
そこには一枚の写真が添えられていた。
榎本春斗が最後に座っていた部屋。
整えられたベッド。
静かな机。
閉ざされた窓。
そして。
誰もいない空間。
その写真だけが、人類の敗北を静かに物語っていた。
♢
同日、午前二時。
WAROは全加盟国へ緊急通達を発令する。
『八尺様事案について、新たな危険性を確認。』
『七日目を迎えた対象者は、隔離・警備・監視体制の有無にかかわらず消失した。』
『現時点で有効な対処法は確認されていない。』
『危険度を最高段階へ引き上げる。』
その一文は、世界中の政府、軍、研究機関へ送られていく。
人類は初めて認めることになる。
理解できないだけではない。
抗うことすらできない存在が、この世界には確かに存在するのだと。
♢
七月六日、午前六時三十分。
夜が明けても、世界は静まり返ることはなかった。
世界最大報道機関・WENは、異例の特別番組を続けていた。
『日本政府は本日未明、保護対象者一名の所在が確認できなくなったことを発表しました。』
『現在も大規模な捜索が続けられています。』
『なお、事件の詳細については調査中としています。』
画面には保護施設の外観が映し出される。
規制線。
警備車両。
慌ただしく行き交う職員たち。
しかし、その映像のどこにも「答え」は映っていなかった。
♢
Linkでは、一夜で数千万件を超える投稿が世界中から寄せられていた。
『七日目を越えられなかった。』
『隔離しても駄目だったのか。』
『監視カメラがあるのに消えるなんてあり得ない。』
『誰も助けられなかった。』
『じゃあ、見てしまった人はどうすればいいんだ。』
『もう対策なんて存在しないじゃないか。』
希望を探す投稿は減り、代わりに「諦め」と「恐怖」が世界へ広がっていく。
♢
Open Forumにも、かつてない勢いで書き込みが集まっていた。
【速報】七日目、回避不能
1:名無しの探索者
終わった。
2:名無しの探索者
人類負けた。
3:名無しの探索者
振り返らなくても駄目だった。
4:名無しの探索者
隔離施設でも意味なし。
5:名無しの探索者
SDAもNPRIも全部やったんだぞ。
6:名無しの探索者
それでも消えた。
7:名無しの探索者
じゃあ何を信じればいい。
8:名無しの探索者
古文書は警告じゃなかった。
9:名無しの探索者
「助かる方法」じゃなくて、「こうして消える」という記録だったんだ。
10:名無しの探索者
……七日目は、必ず来る。
十番目の書き込みは、数分で何万件もの賛同を集めた。
世界は理解してしまった。
八尺様は倒す存在ではない。
逃げ切る存在でもない。
条件を満たした時点で、人間は結末へ向かって歩き始める。
その七日目だけは、誰にも止められない。
♢
同時刻。
NPRI解析室。
所長は最後に残された古文書を静かに閉じた。
「……結局。」
「昔の人々も、救う方法は見つけられなかったのですね。」
誰も返事をしない。
机の上には、全国から集められた古文書が積み重なっている。
どの資料も警告を書き残していた。
しかし、そのどこにも「生還した」という記録だけは存在しなかった。
残されていたのは、恐怖を伝える文章だけ。
それが意味する現実を、研究者たちは受け入れるしかなかった。
♢
都内、高層マンション。
朝日が静かに部屋を照らしている。
真白空は窓際へ立ち、街並みを穏やかな表情で眺めていた。
机の上には、ニュース記事。
世界各国の報告書。
Link。
Vision。
Open Forum。
世界中の反応が、静かに並んでいる。
空は一つひとつへ目を通し、小さく微笑んだ。
「最後まで抗ったね。」
「政府も。」
「研究者も。」
「軍も。」
「世界中の人々も。」
静かな声が部屋へ響く。
「でも。」
「結末だけは変えられなかった。」
空は白い紙を一枚手に取る。
何も書かれていない、真っ白な紙。
その中央へ、黒い小さな染みが浮かび上がる。
空はその染みを眺めながら、楽しそうに目を細めた。
「今回も。」
「私は”種”を置いただけ。」
「歴史を作ったのは、この世界自身。」
「人は空白を嫌う。」
「だから意味を与える。」
「意味を与えた瞬間、それは伝承になり。」
「伝承は、やがて歴史になる。」
黒い染みがゆっくりと形を変え始める。
まだ名前はない。
まだ誰にも知られていない。
それでも、その小さな”種”は、確かに存在していた。
空は穏やかに笑う。
「さて。」
「次は、どんな物語を紡いでくれるのかな。」
誰にも知られないまま、新たな”種”は世界へ静かに蒔かれた。
そして世界はまだ知らない。
八尺様が終わったのではない。
世界が「怪異」という歴史を受け入れ始めた、その瞬間こそが――すべての始まりだったのだ。
おかえりなさい、しっかりと、帰って来れましたか?