愉悦者は嘲笑う~世界を書き換えて遊んでいたら、政府も軍も本気で世界の真実を探し始めた~ 作:ユーザーA
それではお楽しみください
ユウトは窓ガラスから目を離せなかった。
今、確かに見えた。
自分のすぐ後ろ。
車内には存在しないはずの人影。
それが、窓ガラスには映っていた。
「……気のせい。」
自分へ言い聞かせるように呟く。
もう一度、背後を確認する。
誰もいない。
出入口付近には自分一人。
吊り革が静かに揺れているだけだった。
コメント欄も先ほどまでの勢いが嘘のように静まり返っている。
『俺には見えなかった。』
『黒い影?』
『何か映ったよな?』
『録画班確認して。』
『窓の反射じゃない?』
『一瞬すぎる。』
ユウトは苦笑いを浮かべた。
「今日は昼からずっと、きさらぎ駅のことばっかり見てたから。」
「完全に考えすぎですね。」
そう言って笑うが、その笑顔はどこか引きつっていた。
トンネルはまだ続いている。
窓の外は真っ暗。
そのため、ガラスには車内だけが鏡のように映し出されていた。
ユウトは意識的に窓から視線を外す。
「もう窓は見ません。」
「皆に変な心配掛けちゃいますし。」
コメント欄にも安堵の空気が戻る。
『それがいい。』
『気にしすぎだ。』
『普通に帰ろう。』
『あと何駅?』
ユウトは車内案内表示へ目を向けた。
「えっと……。」
表示には次の停車駅が流れている。
終点まで、あと三駅。
「もう少しですね。」
「本当に終点まで乗って帰るだけになりそうです。」
列車はトンネルを抜けた。
窓の外へ街の灯りが戻る。
住宅街。
街灯。
交差点。
何も変わらない夜景。
ユウトはほっと息を吐いた。
「やっぱり外が見えると安心しますね。」
その時。
ガタン。
列車が少し大きく揺れた。
「おっと。」
ユウトは吊り革へ手を掛ける。
コメント欄にも同じ反応が流れる。
『結構揺れた。』
『線路古いのかな。』
『普通だよ。』
車内アナウンスが流れる。
『まもなく――』
聞き慣れた女性の機械音声。
駅名が告げられる。
ドアが開く。
会社員が一人降りた。
若い男性も立ち上がる。
女性も荷物を持って降車する。
ユウトは何気なくその様子を見送った。
「これで……。」
車内を見回す。
「俺だけ?」
誰もいなかった。
長い車両に、乗客はユウト一人だけ。
コメント欄も気付く。
『一人になった。』
『終電あるある。』
『終点近いしね。』
『静かだな。』
ユウトは空いている座席へ腰掛けた。
「終点まであと二駅。」
「ここまで何もありません。」
「このまま終わったら、都市伝説検証は失敗ですね。」
そう言って笑う。
その笑い声が、静かな車内へ小さく響いた。
列車は再び動き出す。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
規則正しい走行音だけが続く。
しかし。
その音へ紛れるように。
カタン。
どこかで、小さな物音がした。
ユウトは顔を上げる。
「……ん?」
音は車両の奥から聞こえた気がした。
誰もいないはずの、一番後ろの車両から。
♢
ユウトは耳を澄ませた。
列車の走行音は変わらない。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
その一定のリズムへ紛れるように聞こえた、小さな物音。
「……気のせいか。」
独り言のように呟き、苦笑する。
コメント欄も同じ反応だった。
『気のせい。』
『揺れた音じゃない?』
『荷物とか。』
『車両が軋んだだけ。』
ユウトもそう思うことにした。
「ですよね。」
「一人になると、ちょっとした音でも気になります。」
そう言って車内を映す。
空席が並ぶ。
吊り革は揺れていない。
広告もいつも通り。
何一つ異常は見当たらなかった。
ユウトは肩の力を抜き、窓の外へカメラを向ける。
「あと二駅。」
「本当に終わりが見えてきました。」
夜景は相変わらず流れている。
住宅街。
踏切。
道路を走る車。
人の生活が確かにそこにはあった。
コメント欄も落ち着きを取り戻していた。
『普通の終電配信だったな。』
『安心した。』
『新聞の記事だけ謎だけど。』
『都市伝説は都市伝説。』
その時だった。
ピッ。
車内案内表示が切り替わる。
次の停車駅が表示される。
ユウトは何気なく視線を向けた。
「……あれ?」
表示が一瞬だけ消えた。
真っ黒になる。
すぐに元へ戻る。
次の駅名が表示される。
「今、消えました?」
コメント欄が流れる。
『見えた。』
『一瞬だけ。』
『通信かな。』
『表示器の不具合?』
『古い車両ならある。』
ユウトは頷いた。
「たまにありますよね。」
「駅の表示がリセットされるみたいな。」
深く考えない。
それで済む程度の違和感だった。
列車はゆっくり減速を始める。
ブレーキ音が静かに響く。
キーッ……。
ホームが見えてきた。
街灯に照らされた普通の駅。
ベンチ。
自動販売機。
駅名標。
どこから見ても、何の変哲もない。
ドアが開く。
プシューッ。
ユウトはホームを映す。
「誰も乗ってこないかな。」
数秒待つ。
誰も現れない。
やがてドアが閉まる。
再び発車。
「これで、本当にあと一駅ですね。」
終点まで、あと一つ。
コメント欄にも安堵したような書き込みが並ぶ。
『終わりだな。』
『お疲れ!』
『何もなくて良かった。』
ユウトは笑顔で頷いた。
「皆さん、お付き合いありがとうございました。」
「終点に着いたら、軽く駅を映して終わりにしようと思います。」
その瞬間。
車内スピーカーから、小さなノイズが走った。
ザッ。
ユウトが顔を上げる。
「……ん?」
ノイズは一瞬で消える。
静寂。
そして数秒後。
いつもの女性の機械音声が流れ始めた。
『まもなく――』
ユウトは無意識に案内表示へ目を向ける。
表示されている駅名。
終点まであと一駅。
そのはずだった。
だが。
案内表示は、真っ黒のままだった。
何も表示されていない。
駅名も。
路線名も。
現在位置も。
すべて消えていた。
車内アナウンスだけが、静かに続いていく。
『まもなく――』
その先だけが、不自然なほど長く途切れた。
♢
『まもなく――』
車内へ流れる女性の機械音声は、それ以上続かなかった。
沈黙。
車輪がレールを叩く音だけが、静かな車内へ響く。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
ユウトは天井のスピーカーを見上げた。
「……切れた?」
普段なら、この後に駅名が流れる。
それが当たり前だった。
だが、今日は違う。
アナウンスは途中で止まり、そのまま何も流れない。
コメント欄も異変に気付き始める。
『止まった?』
『駅名は?』
『途中で終わったぞ。』
『音声バグ?』
『表示も消えてるよな。』
『車掌さんどうした?』
ユウトは苦笑いを浮かべた。
「今日は機械の調子悪いですね。」
「案内表示も消えちゃいましたし。」
そう言って車内案内表示を映す。
真っ黒。
何も表示されていない。
数秒待っても変化はない。
普通なら次の駅名が表示されるはずなのに、画面は電源が落ちたように沈黙していた。
「故障かな。」
その一言で済ませようとする。
だが、心の奥では小さな違和感が膨らみ始めていた。
ここまで重なるものだろうか。
照明の明滅。
通知の不具合。
窓ガラスの違和感。
表示器の故障。
どれも単体なら説明できる。
しかし、一晩のうちに何度も続くと、偶然とは思えなくなる。
ユウトはその考えを打ち消すように頭を振った。
「考えすぎですね。」
「今日は都市伝説のことばっかり考えてるから。」
コメント欄にも「そうだそうだ」という書き込みが並ぶ。
『冷静になれ。』
『偶然が重なっただけ。』
『終点着けば終わり。』
『あと少しだ。』
列車は一定の速度で走り続ける。
窓の外には夜景が流れている。
……はずだった。
ユウトは何気なく外へ目を向ける。
「……あれ?」
さっきまで見えていた住宅街がない。
街灯も。
マンションも。
道路を走る車も。
何も見えない。
窓の外は黒かった。
トンネルのようにも見える。
だが、トンネル特有の照明が一つもない。
完全な闇。
列車だけが、その中を走っている。
「またトンネルかな。」
そう言うものの、自分でも少し自信がなかった。
コメント欄が流れる。
『長くない?』
『トンネル?』
『こんな長い?』
『路線詳しい人いる?』
『そんなトンネルあったっけ。』
ユウトは笑って答える。
「俺もこの路線そんな詳しくないんですよ。」
「だから気付いてないだけかも。」
しかし。
五秒。
十秒。
三十秒。
一分。
闇は終わらなかった。
列車は走り続けている。
それなのに、窓の外には何一つ現れない。
街灯一つ。
信号一つ。
民家の明かり一つ。
何もない。
コメント欄にも、不安の色が混じり始める。
『まだ真っ暗。』
『長すぎる。』
『録画見返してるけど、この区間こんな長くないぞ。』
『え……?』
ユウトは窓へスマートフォンを近付けた。
「本当に真っ暗ですね。」
「何も映らない。」
その時だった。
窓ガラスへ、何か白いものが一瞬だけ横切った。
人の顔のようにも見えた。
だが、あまりにも一瞬だった。
「……今、何か。」
ユウトは反射的に窓へ顔を近付ける。
闇しかない。
何も見えない。
コメント欄が一気に加速した。
『今映った!!』
『白い!!』
『顔!?』
『録画!!』
『誰か切り抜け!!』
ユウトの鼓動が、少しだけ速くなった。
♢
ユウトは思わず窓ガラスへ顔を近づけた。
「……気のせい、ですよね。」
自分へ言い聞かせるように笑う。
だが、その笑顔は先ほどまでの自然なものではなかった。
視線は何度も窓の外へ向く。
闇しかない。
本当に何もない。
コメント欄は先ほどとは違う熱量で流れていた。
『映った。』
『白い顔みたいなの。』
『録画確認班いる?』
『スローで見てる。』
『まだ断定できない。』
『ノイズかもしれん。』
『いや、人の顔だった。』
『意見割れてる。』
ユウトは深呼吸を一つする。
「落ち着こう。」
「こういう時って、人間は見間違えるんですよ。」
「夜だし、ガラスも反射してるし。」
そう説明しながらも、自分自身を納得させようとしているようだった。
列車はなおも走り続ける。
終点までは、あと一駅。
そのはずだった。
ユウトは腕時計を見る。
二十二時五十八分。
「……あれ。」
スマートフォンの画面を確認する。
二十二時五十八分。
時計は一致している。
「そんなに時間経ってないか。」
コメント欄にも同じような書き込みが並ぶ。
『まだ一分くらい。』
『感覚がおかしくなってるだけ。』
『暗いと長く感じる。』
『気にするな。』
ユウトは小さく頷いた。
「そうですね。」
「暗いだけで、体感って結構変わりますし。」
その時だった。
ガタン。
列車が少しだけ大きく揺れる。
吊り革が一斉に揺れた。
広告もかすかに揺れる。
ユウトは咄嗟に手すりを掴んだ。
「おっと。」
揺れはすぐ収まる。
しかし。
その揺れと同時に、車内の照明がふっと暗くなった。
一秒。
二秒。
三秒。
完全には消えない。
薄暗い。
まるで電圧が下がったような明るさだった。
「……また?」
コメント欄も騒ぎ始める。
『暗い。』
『照明落ちた。』
『さっきより長い。』
『故障か?』
ユウトは天井を見上げる。
「古い車両なんですかね。」
言い終えた瞬間。
パッ。
照明が元の明るさへ戻った。
「戻った。」
ほっと息を吐く。
その時。
車内スピーカーから、小さな電子音が鳴った。
ピンポーン。
ユウトは反射的に顔を上げる。
「次の駅かな。」
コメント欄も落ち着きを取り戻す。
『やっと着く。』
『終点か。』
『長かったな。』
数秒後。
女性の機械音声が静かに流れ始めた。
『まもなく――』
ユウトは案内表示を見る。
相変わらず真っ黒だ。
駅名は出ない。
アナウンスだけが続く。
『まもなく――』
そこで再び途切れる。
沈黙。
ユウトは眉をひそめた。
「また駅名だけ……。」
車内へ流れるのは、走行音だけ。
そして。
ほんのわずかに。
今まで聞こえなかった別の音が混じり始めた。
カタン。
カタン。
規則正しい。
まるで誰かが車内を歩いているような、小さな足音だった。
ユウトはゆっくりと顔を上げる。
音は、車両の一番後ろから聞こえてくる。
車内には、自分以外誰もいないはずだった。
♢
カタン。
カタン。
一定の間隔で響く、小さな足音。
ユウトは息を止めた。
聞き間違いではない。
列車の走行音とは明らかに違う。
硬い靴底が床を叩くような音だった。
「……誰か、乗ってる?」
思わず車内を見回す。
誰もいない。
前方の車両も。
後方の車両も。
見える範囲には人影一つなかった。
コメント欄も騒ぎ始める。
『音した。』
『歩いてるよな?』
『誰もいないじゃん。』
『駅で乗った人じゃないの?』
『いや、最後一人だった。』
『録画確認してる。』
ユウトは立ち上がり、車両の後方へライトを向けた。
「……誰かいますか?」
返事はない。
照らされた車内には空席が並ぶだけだった。
広告。
吊り革。
荷物棚。
どれも変わらない。
カタン。
また音がする。
今度は少し近い。
ユウトの表情から笑みが消えた。
「気のせいじゃ……ない。」
コメント欄の流れも速くなる。
『近付いてる。』
『後ろだ。』
『映せ!』
『ライトもっと奥!』
ユウトはスマートフォンを両手で持ち直し、ゆっくりと通路を映す。
誰もいない。
最後尾の扉も閉まっている。
車両同士を繋ぐ幌も静かなまま。
「……ほら。」
「誰も――」
言いかけた、その時だった。
カタン。
今度はすぐ背後で音がした。
「っ!」
ユウトは反射的に振り返る。
誰もいない。
自分がさっきまで座っていた座席だけがある。
コメント欄は一瞬止まり、次の瞬間、一気に流れ始めた。
『後ろ!』
『今映った!』
『黒い影!』
『一瞬いた!』
『録画班!』
ユウトは眉をひそめる。
「何が映ったんですか?」
コメントを読む。
『出入口の横。』
『肩だけ。』
『黒い服。』
『消えた。』
「俺には見えなかった。」
ユウトはそう言って、もう一度背後を確認する。
何もない。
窓ガラスへ視線を移す。
自分の姿しか映っていない。
「本当に誰も――」
ピシッ。
小さな音がした。
ユウトは言葉を止める。
「……え?」
音は窓ガラスからだった。
ライトを近付ける。
ガラスの表面に、細い線が一本走っている。
「傷?」
指で触れてみる。
表面は滑らかだ。
傷ではない。
その線は。
内側ではなく、外側から付いていた。
まるで誰かが、走る列車の窓を爪でなぞったように。
コメント欄にも動揺が広がる。
『今できた?』
『最初なかったよな。』
『怖い。』
『外って真っ暗だろ?』
『誰が付けたんだ。』
ユウトは笑おうとした。
だが、笑えなかった。
「……流石に。」
「これは、ちょっと気味が悪いですね。」
その瞬間。
ピィン。
窓ガラスを、爪で弾いたような高い音が鳴った。
一本だった線の隣へ。
もう一本。
ゆっくりと、白い線が刻まれていく。
誰も触れていない。
それなのに。
ガリ……
ガリ……
見えない何かが、窓の外からガラスを引っかいていた。
♢
ガリ……
ガリ……
乾いた音が、静かな車内へ響く。
ユウトは窓から目を離せなかった。
白い線はゆっくりと伸びていく。
何か鋭いもので削られているような音。
だが、窓の外には何も見えない。
完全な闇。
そこには、本来なら何かが存在していなければならない。
それなのに。
「何も見えないまま」、ガラスだけが削られていく。
「……何だよ。」
声が震えていた。
コメント欄も騒然としている。
『聞こえる。』
『引っかいてる。』
『外だろ!?』
『誰がいるんだよ。』
『真っ暗じゃん。』
『録画してる。』
『鳥じゃない。』
『絶対違う。』
ユウトはライトを窓へ押し当てるように向ける。
白い光はガラスを透過する。
しかし、その先には闇しかない。
「誰かいるなら、返事してください!」
思わず声を張る。
当然、返事はない。
ガリ……
ガリ……
音だけが続く。
一本目。
二本目。
三本目。
白い線は少しずつ増えていく。
規則性はない。
文字でもない。
ただ、何かが夢中になって引っかき続けているようだった。
ユウトは一歩後ろへ下がる。
その瞬間だった。
ピタッ。
音が止まった。
「……。」
静寂。
列車の走行音だけが戻る。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
コメント欄にも安堵の空気が流れ始める。
『止まった?』
『終わった?』
『何だったんだ。』
『枝でも当たった?』
『こんな暗闇で?』
ユウトも小さく息を吐く。
「……驚かせないでほしい。」
苦笑いを浮かべながら窓を見る。
引っかき傷だけが残っている。
「これ、駅着いたら駅員さんに言った方がいいですね。」
そう言った、その時。
コツ。
車内の奥から、また足音がした。
今度は一回だけ。
はっきりと。
ユウトはゆっくり振り返る。
誰もいない。
空席だけが並んでいる。
「……。」
コメント欄が一気に流れ始める。
『後ろ。』
『まただ。』
『いる。』
『映ってる。』
『左奥。』
ユウトはスマートフォンを構え直し、最後尾へライトを向ける。
光が通路を照らす。
座席。
吊り革。
広告。
何もない。
「どこですか?」
コメントを読む。
『今消えた。』
『座席の陰。』
『黒いの。』
『一瞬だった。』
「……見えない。」
その言葉と同時に。
車内の照明が、一度だけ大きく明滅した。
パッ。
フッ。
パッ。
わずか一秒にも満たない出来事。
だが、その瞬間。
配信には、確かに映っていた。
最後尾の座席。
窓際に、一人の乗客が座っている姿が。
俯いたまま。
両手を膝へ置き。
微動だにしない人影。
照明が戻る。
そこには、もう誰もいなかった。
ユウトは気付いていない。
だが、コメント欄だけが異常な速度で流れ始める。
『いた。』
『今いた。』
『最後尾。』
『座ってた。』
『ユウト、最後尾見るな。』
『近付くな。』
『頼むからそのままでいて。』
ユウトは困惑した表情でコメントを見つめる。
「……何が見えてるんですか?」
誰も答えられない。
正確には。
答えたくても、説明できなかった。
そして、その時。
車内スピーカーから、短い電子音が鳴った。
ピンポーン。
今まで止まっていた車内アナウンスが、再び静かに流れ始める。
『まもなく――』
♢
『まもなく――』
女性の機械音声が、静かな車内へ響く。
ユウトは思わず案内表示へ目を向けた。
真っ黒だった表示器が、一瞬だけ光る。
「戻った?」
期待したのも束の間だった。
表示されたのは駅名ではない。
白い四角形が並んだだけの、文字化けにも似た表示。
■■■■■■
数秒後には、それすら消えた。
再び画面は真っ黒になる。
「……故障、ですよね。」
そう言う声に、先ほどまでの余裕はなかった。
コメント欄も騒然としている。
『文字化けした!』
『駅名じゃない!』
『今の何!?』
『録画した!』
『読めた人いる?』
『四角しか見えなかった。』
ユウトは深呼吸を一つする。
「落ち着こう。」
「終点までもうすぐです。」
「駅員さんに聞けば分かる。」
自分へ言い聞かせるような口調だった。
列車は静かに減速を始める。
キーッ……。
ブレーキ音が長く響く。
「終点かな。」
ユウトは窓の外を見る。
相変わらず闇しかない。
ホームらしき明かりも見えない。
駅へ到着する時なら、照明が見えてくるはずだった。
それなのに。
黒い景色だけが流れている。
コメント欄も違和感を覚え始める。
『駅見えない。』
『ホームは?』
『減速してるよな?』
『まだ真っ暗。』
『何で?』
ユウトは苦笑しようとした。
「田舎の駅なら、照明少ないとか……。」
言葉が途中で止まる。
自分でも苦しい言い訳だと分かっていた。
列車はさらに速度を落とす。
ガタン。
ゴトン。
やがて。
ほとんど揺れないほどゆっくりになり――。
静かに停止した。
シン、と車内が静まり返る。
走行音が消えたことで、異様な静けさだけが残る。
「着いた……?」
ユウトは窓へ顔を近付ける。
真っ暗だった外に、ぼんやりと白いものが浮かび上がっていた。
ホームだった。
コンクリートの床。
白線。
柱。
駅のホームに間違いない。
しかし。
照明は点いていない。
街灯もない。
自動販売機の明かりもない。
ホーム全体が、月明かりだけでぼんやり照らされていた。
「……暗いな。」
コメント欄も一斉に流れる。
『ホームだ。』
『駅じゃん。』
『でも暗すぎる。』
『停電?』
『終電だから?』
その時。
プシューッ。
ドアが開いた。
冷たい空気が、車内へゆっくり流れ込む。
ユウトは小さく肩を震わせる。
「……寒っ。」
季節外れの冷気だった。
思わず腕をさする。
コメント欄にも同じ反応が並ぶ。
『風の音した。』
『寒そう。』
『降りるの?』
ユウトはホームを見つめた。
「終点ですし。」
「少しだけ駅を映して終わります。」
そう言って、一歩前へ出る。
だが、その瞬間。
車内の奥から。
誰もいないはずの座席から。
掠れた声が聞こえた。
「…………。」
言葉にはならない。
空気が震えたような、小さな声。
ユウトの足が止まる。
ゆっくりと振り返る。
車内には、誰もいない。
空席だけが静かに並んでいた。
コメント欄が、不自然なほどの勢いで流れ始める。
『振り返るな!!』
『降りろ!!』
『早く車外へ!!』
『後ろ見るな!!!』
ユウトは戸惑いながらコメントを読む。
「え……?」
「何でそんなに――」
その言葉を最後まで言い切る前に。
車内スピーカーから、女性の機械音声が流れた。
今度は途切れることなく。
はっきりと。
『お出口は、左側です。』
そして、ほんの一拍置いて。
『きさらぎ駅です。』
♢
「……え?」
ユウトの口から、かすれた声が漏れる。
聞き間違いではなかった。
車内へ流れた女性の機械音声は、確かにそう告げた。
『きさらぎ駅です。』
その一言だけが、静かな車内へいつまでも残響のように響いている。
ユウトは固まったまま動けなかった。
「いや……。」
「そんな、はず。」
喉が渇く。
鼓動だけが異常なほど大きく聞こえる。
コメント欄は、一瞬だけ完全に止まった。
十数万人の視聴者が、誰一人として書き込まない。
まるで全員が同じ言葉を失ったような沈黙だった。
数秒後。
画面は爆発したように流れ始める。
『今言った』
『きさらぎ駅』
『聞き間違いじゃない』
『録画してる!!』
『駅名言ったぞ!!』
『嘘だろ』
『鳥肌立った』
『降りるな!!』
『絶対降りるな!!!』
ユウトは震える手でスマートフォンを握り直す。
「……いや。」
「いやいや。」
「駅名を聞き間違えただけかもしれない。」
そう言いながら、ホームへ視線を向ける。
月明かりだけが照らす静かなホーム。
誰もいない。
駅員も。
乗客も。
物音一つ聞こえなかった。
プシューッ。
開いたままの扉が、静かに待ち続けている。
まるで「降りろ」と誘っているようだった。
ユウトは意を決し、一歩だけ扉へ近付く。
「駅名標だけ確認します。」
「それで違ったら終わり。」
「それだけです。」
コメント欄は必死に止める。
『やめろ』
『確認しなくていい』
『戻れ』
『終点なんだから降りなくてもいい』
『駅員呼べ!!』
ユウトは苦笑した。
「駅名くらい見ても大丈夫ですよ。」
「それで本当に『きさらぎ駅』って書いてあったら、その方がニュースです。」
そう言って、自分でも苦しい冗談を口にする。
返ってきたのは笑いではなかった。
『笑えない』
『嫌な予感しかしない』
『頼むから帰って』
ユウトは小さく息を吐いた。
「……行きます。」
右足をゆっくりとホームへ下ろす。
コツ。
靴底がコンクリートへ触れる。
冷たい。
異様なほど冷たい。
冬の夜よりも冷え切った感触が、靴越しに伝わってきた。
「寒……。」
左足もホームへ下ろす。
完全に列車を降りた、その瞬間。
ブツッ。
配信画面が一瞬だけ乱れた。
映像にノイズが走る。
コメント欄がざわつく。
『今止まった』
『映像飛んだ』
『回線?』
『大丈夫か?』
ユウトはスマートフォンを見下ろく。
「電波は……。」
アンテナは立っている。
配信も続いている。
問題はないように見えた。
「大丈夫そうです。」
そう言って顔を上げる。
目の前には一本の白い柱。
その奥に、四角い駅名標らしきものが立っている。
月明かりだけでは読めない。
「ライト使います。」
スマートフォンのライトを点灯させる。
白い光がホームを照らす。
古びたベンチ。
錆びたゴミ箱。
ひび割れたコンクリート。
まるで何十年も時が止まったままの駅だった。
そして。
ライトの光が、ゆっくりと駅名標を照らす。
最初に見えたのは、ひらがなの一文字。
「き」
ユウトの呼吸が止まる。
「…………。」
ライトを少し右へ動かす。
「さ」
さらに右へ。
「ら」
コメント欄は悲鳴のような文字で埋め尽くされる。
『見せるな』
『もう分かった』
『やめろ』
『嫌だ』
最後まで光が届く。
そこには、黒い文字で静かに刻まれていた。
きさらぎ駅
ユウトは、その場で立ち尽くした。
何も言えない。
何も考えられない。
その沈黙だけが、十数万人の視聴者へ生々しく伝わっていた。
♢
楽しかったですか?