愉悦者は嘲笑う~世界を書き換えて遊んでいたら、政府も軍も本気で世界の真実を探し始めた~ 作:ユーザーA
それではお楽しみください
ユウトは駅名標から目を離せなかった。
白い光に照らされた文字。
『きさらぎ駅』
その五文字だけが、現実とは思えないほど鮮明に浮かび上がっている。
「……。」
喉が震える。
声にならない。
冗談であってほしかった。
見間違いであってほしかった。
だが、何度見ても駅名は変わらない。
きさらぎ駅。
存在しないはずの駅。
都市伝説の中だけの駅。
コメント欄は混乱を極めていた。
『見えた』
『本当に書いてある』
『加工じゃない』
『嘘だろ』
『何なんだよこれ』
『録画してる』
『鳥肌止まらん』
『降りるなって言ったのに』
ユウトは震える手で駅名標を照らし続ける。
「いや……。」
「誰かが作った……。」
自分でも苦しいと思える言い訳だった。
「撮影セットとか……。」
「イベントとか……。」
そう呟きながらホームを見回す。
人影はない。
駅員室らしき建物も暗いまま。
改札も見える。
しかし照明は一つも点いていない。
自動販売機すら光っていなかった。
あまりにも静かだった。
風も吹かない。
虫も鳴かない。
電車が停車しているはずなのに、モーター音すら聞こえない。
「静かすぎる……。」
その言葉に、コメント欄が反応する。
『確かに』
『音がない』
『電車の音もしない』
『おかしくない?』
ユウトは振り返る。
さっきまで乗っていた列車。
そこにあるはずの車両へライトを向けた。
「……え?」
列車が、なかった。
ホームにはレールだけが伸びている。
数秒前まで停車していた終電は、跡形もなく消えていた。
音もしなかった。
発車ベルも。
ドアが閉まる音も。
走り去る音も。
何一つ聞こえていない。
ただ、消えた。
「うそだろ……。」
ユウトはホームを見渡す。
線路の先までライトを向ける。
何もない。
列車が走り去った形跡すら存在しなかった。
コメント欄は悲鳴で埋め尽くされる。
『電車は!?』
『消えたぞ!!』
『音してない!!』
『何だこれ!!』
『帰れないじゃん!!』
『ユウト!!!!』
ユウトは慌ててホームの端まで走る。
線路を照らす。
遠くまで真っ直ぐ伸びるレール。
その先は闇に飲まれていた。
列車のテールランプも見えない。
「そんな……。」
呼吸が乱れる。
配信画面も激しく揺れる。
コメント欄は、もはや文字として読めないほど高速で流れていた。
ユウトは何とか息を整え、スマートフォンへ向かって話す。
「……落ち着こう。」
「きっと、俺が気付かなかっただけで発車したんです。」
自分でも信じられない説明だった。
音のしない発車などあり得ない。
それでも、そう考えるしかなかった。
ホームへ戻る。
ライトで駅名標をもう一度照らす。
『きさらぎ駅』
文字は、何一つ変わっていなかった。
その時だった。
ホームの奥。
改札へ続く暗い通路の先から。
カラン――。
鈴を鳴らしたような、小さな音が一度だけ響いた。
ユウトはゆっくりと顔を上げる。
ライトの届かない暗闇。
その奥で。
何かが、静かに動いたような気がした。
♢
カラン――。
乾いた音は一度だけ鳴り、再び静寂が訪れた。
ユウトは暗い通路を見つめたまま動けない。
「……誰か、いますか。」
問い掛けても返事はない。
ライトをゆっくり向ける。
光が届くのは通路の途中まで。
その先は闇が飲み込んでいた。
コメント欄は騒然としていた。
『今の音何?』
『鈴?』
『人がいる?』
『駅員!?』
『返事あるかも』
『近付くな』
ユウトは唾を飲み込む。
「駅員さんなら、話を聞けば済む話です。」
「ここがどこなのか聞いて……。」
自分へ言い聞かせるように呟く。
だが、その言葉には先ほどまでの余裕はない。
一歩。
また一歩。
ホームをゆっくり歩き始める。
靴音だけが駅へ響く。
コツ。
コツ。
コツ。
歩くたび、音が妙に大きく反響した。
天井を見上げる。
古びた屋根。
錆び付いた鉄骨。
蛍光灯が等間隔に並んでいる。
しかし一本も点灯していない。
ホームには月明かりだけが差し込んでいた。
「停電……?」
コメント欄が流れる。
『自販機も消えてる。』
『全部電気ない。』
『駅なのに暗すぎる。』
『本当に営業してるのか?』
ユウトは改札の方へライトを向けた。
改札機が二台並んでいる。
どちらも電源が落ちているように真っ暗だった。
液晶も。
ランプも。
一切光っていない。
「……これ、本当に駅なのか。」
その時。
ホームの反対側から。
ガタン。
何かが倒れるような音が響いた。
ユウトは反射的に振り返る。
ライトが線路を照らす。
誰もいない。
風も吹いていない。
それなのに、ホームの端へ置かれていた古い清掃用バケツだけが横倒しになっていた。
「……。」
コメント欄がざわつく。
『今倒れた』
『風じゃない』
『誰かいる』
『見えないだけだ』
ユウトは数秒その場で立ち尽くす。
心臓の鼓動が速い。
手の震えも止まらない。
それでも配信だけは切らなかった。
「皆……。」
「もし何か変なことがあったら、すぐ言ってください。」
「俺が気付いてないこともあると思うので。」
その言葉にコメント欄は一斉に返事を返す。
『任せろ』
『見る』
『録画してる』
『何か映ったら言う』
『絶対一人で行動するな』
ユウトは小さく頷く。
「ありがとうございます。」
少しだけ安心した。
画面の向こうには十数万人がいる。
この駅にいるのは自分一人でも、完全に独りではない。
そう思えた。
その瞬間だった。
コメント欄の流れが、不自然なほど一斉に止まる。
ほんの一秒。
誰一人書き込まない。
そして次の瞬間、同じ内容が雪崩のように流れ始めた。
『後ろ』
『後ろ』
『後ろ』
『後ろ』
『後ろ見ろ』
『振り返るな』
『いや振り返れ』
『後ろにいる』
同じ言葉が何百件、何千件と流れ続ける。
ユウトは息を呑んだ。
「……後ろ?」
ゆっくりと。
本当にゆっくりと振り返ろうとした、その時。
耳元で。
誰かが、すぐ真後ろで囁いた。
「やっと……来たね。」
♢
「やっと……来たね。」
声は、耳元だった。
吐息が首筋へ触れたような錯覚。
ユウトの全身から一気に血の気が引く。
「――っ!」
反射的に前へ飛び退き、勢いよく振り返る。
ライトの光がホームを大きく横切る。
駅名標。
ベンチ。
柱。
改札へ続く通路。
誰もいない。
「はぁ……はぁ……。」
荒い呼吸だけが静かな駅へ響いた。
コメント欄は凄まじい速度で流れている。
『いた!!』
『今いた!!』
『黒い髪!!』
『消えた!!』
『ユウト逃げろ!!』
『後ろに女!!』
『録画した!!』
『見えてたぞ!!』
ユウトは周囲を見回す。
「どこですか!」
「誰なんですか!」
返事はない。
ライトを大きく左右へ振る。
ホームの隅々まで照らす。
誰一人、立っていない。
それでも。
耳へ残る声だけは、あまりにも鮮明だった。
「絶対に……聞こえた。」
自分の空耳ではない。
そう確信できるほど、はっきりした声だった。
コメント欄でも意見は一致していた。
『俺も聞こえた。』
『イヤホンで聞いてたけど耳元だった。』
『女性の声。』
『笑ってた。』
『配信に入ってる。』
ユウトは震える指でイヤホンを外す。
「マイクのノイズじゃない……?」
そう言いながら配信を確認する。
マイクレベルは正常。
ノイズも入っていない。
異常は何一つ表示されていなかった。
その時。
Linkから通知が届く。
【「#きさらぎ駅」が世界トレンド1位になりました】
ユウトは思わず苦笑する。
「こんな時に通知か……。」
しかし、通知はそれだけでは終わらなかった。
【ライブ切り抜き 急上昇1位】
【『女性の声』まとめ】
【『黒い人影』検証】
【ライブ同時視聴 21万人】
「二十一万人……?」
思わず数字を見返す。
数分前まで十数万人だった視聴者数が、一気に二十一万人を超えていた。
コメント欄にも新規視聴者が大量に流れ込んでくる。
『ニュースから来た。』
『本当に声入ってた?』
『切り抜き見た。』
『リアルタイムで見に来た。』
『これ仕込みじゃないよな?』
ユウトは首を横へ振る。
「仕込みなんて出来ません。」
「俺も今……。」
そこで言葉が止まる。
ホーム全体へ、小さな違和感が広がった。
静かだった空気が変わる。
風が吹いたわけではない。
音がしたわけでもない。
それでも。
「何か」が変わったと、本能が告げていた。
ユウトはゆっくりと改札の方を見る。
さっきまで真っ暗だった改札の奥。
そこに。
ぼんやりと、一つだけ橙色の明かりが灯っていた。
まるで、誰かが提灯でも持って立っているかのような、小さな灯火だった。
「……今まで、あんな明かりありました?」
コメント欄が一斉に流れる。
『なかった。』
『初めて見た。』
『誰かいる。』
『人じゃない。』
『近付くな。』
『絶対近付くな。』
ユウトはその場から動けなかった。
橙色の灯りは、ゆらゆらと静かに揺れている。
誰かが持っているのか。
風で揺れているのか。
距離が遠く、判別できない。
だが。
その灯りの奥に。
誰かが立っているように見えた。
♢
橙色の灯りは、ゆっくりと揺れていた。
規則性はない。
風も吹いていないのに、まるで誰かが手に提げて歩いているような揺れ方だった。
ユウトはライトを強く握り直す。
「……誰か、いますか。」
恐る恐る呼び掛ける。
返事はない。
灯りだけが静かに揺れ続ける。
コメント欄は、これまで以上の速度で流れ始めた。
『返事するな。』
『近付くな。』
『駅員じゃない。』
『嫌な予感しかしない。』
『その場を動くな。』
『警察呼べ!』
『電波あるなら通報しろ!』
そのコメントを見て、ユウトは我に返った。
「……そうだ。」
「警察。」
すぐにスマートフォンの通話画面を開く。
緊急通報。
迷うことなく番号を押す。
発信。
画面には「発信中」の文字が表示される。
数秒。
十秒。
二十秒。
呼び出し音は鳴らない。
やがて、画面が切り替わる。
『接続できません。』
「……え?」
もう一度掛ける。
同じ。
もう一度。
やはり同じだった。
「圏外じゃ……ない。」
画面右上を見る。
電波は四本立っている。
配信も続いている。
コメントも流れ続けている。
それなのに、通話だけが繋がらない。
コメント欄にも同じような反応が並ぶ。
『何で?』
『配信できてるのに?』
『おかしい。』
『110繋がらないとかある?』
『通信障害?』
ユウトは深く息を吐いた。
「救急も……。」
一一九。
発信。
結果は同じだった。
『接続できません。』
「……何でだよ。」
声に焦りが滲む。
今まで必死に抑えていた不安が、少しずつ表へ出始めていた。
その時だった。
Open Forumの実況スレへ、一つの書き込みが投稿される。
⸻
941:名無しの探索者
今、配信のスクショを画像解析した。
改札の奥にいる奴、人じゃない。
942:名無しの探索者
どういう意味?
943:名無しの探索者
拡大したら分かった。
提灯持ってる奴、足が写ってない。
944:名無しの探索者
は?
945:名無しの探索者
浮いてる。
946:名無しの探索者
嘘だろ。
947:名無しの探索者
画像貼る。
⸻
その画像は、一瞬でLinkにも転載される。
切り抜き。
拡大。
コントラスト補正。
そこには確かに、橙色の灯りを持つ人影が映っていた。
長い黒い着物のような影。
俯いた顔。
そして。
ホームの地面へ伸びるはずの足が、どこにも存在しない。
その画像は数分もしないうちに、何十万回と共有されていく。
Visionの配信画面へ戻る。
ユウトは、そのことをまだ知らない。
彼の視線は、橙色の灯りだけを見つめていた。
すると。
ゆらり、と。
その灯りが一歩だけ前へ動く。
コツ。
足音は聞こえない。
それでも確かに、距離が縮まった。
ユウトの表情が強張る。
「……近付いてる。」
コメント欄は悲鳴のような文字で埋め尽くされる。
『逃げろ!!』
『来る!!』
『絶対走れ!!』
『改札行くな!!』
『ホームから離れろ!!』
ユウトは無意識に一歩後ろへ下がる。
その瞬間。
カン――ン。
駅のどこかで、古びた発車ベルのような音が静かに鳴り響いた。
その音を合図にしたかのように。
改札の奥にあった橙色の灯りが。
一つから、二つ。
二つから、四つ。
四つから、八つへと。
暗闇の中で、ゆっくりと増え始めた。
♢
橙色の灯りは、闇の中で静かに揺れていた。
一つ。
二つ。
四つ。
八つ。
増えていく。
それぞれが一定の距離を保ちながら、改札の奥に浮かんでいる。
ユウトは目を疑った。
「……何だ、あれ。」
ライトを向ける。
距離が遠すぎる。
人影までは照らせない。
見えるのは灯りだけ。
しかし。
それらは確実にこちらへ向かっていた。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
コメント欄は今までで最も速く流れていた。
『増えた』
『一つじゃない』
『全部来てる』
『逃げろ!!』
『ホームから離れろ!!』
『走れ!!!』
ユウトは一歩、また一歩と後退する。
視線は灯りから離せない。
鼓動が耳の奥で鳴り響く。
「誰なんですか!」
思わず叫ぶ。
返事はない。
灯りだけが揺れる。
コツ。
コツ。
今度は聞こえた。
足音だった。
静かな駅へ、小さく反響する。
それは一人分ではない。
複数。
十人。
二十人。
いや、それ以上。
暗闇の奥から、何人もの足音がゆっくり近付いてくる。
コメント欄が悲鳴に変わる。
『足音!!』
『聞こえた!!』
『人いる!!』
『でも姿見えない!!』
『無理無理無理!!』
ユウトは息を呑む。
ライトを強く握る手が汗で滑る。
改札までの距離はおよそ五十メートル。
灯りは少しずつ近付いている。
四十メートル。
三十五メートル。
距離が縮まるにつれ、ぼんやりと輪郭が見え始めた。
白い服。
黒い髪。
提灯を持つ細い腕。
俯いた顔。
だが、顔だけが闇に溶けるように見えなかった。
「…………。」
ユウトは声を失う。
コメント欄も混乱している。
『人だ』
『いや違う』
『顔が見えない』
『何で足音だけ聞こえる』
『逃げろって!!!』
その時。
ブツッ。
配信画面が一瞬だけ乱れた。
映像へノイズが走る。
音声も途切れる。
数秒後、復旧。
ユウトは慌ててスマートフォンを確認する。
「皆、見えてますか!」
コメント欄が流れる。
『見えてる!』
『映像戻った!』
『音も大丈夫!』
『回線危ない!』
ユウトは安堵したように息を吐く。
「良かった……。」
だが。
安心したのも束の間だった。
コメント欄へ、一つの書き込みが流れる。
『ユウト』
普段なら埋もれる短いコメント。
しかし。
なぜかその一行だけが、画面中央へ固定されたように動かない。
他のコメントは流れ続ける。
それだけが残る。
『ユウト』
ユウトは眉をひそめる。
「……何だこれ。」
次の瞬間。
同じアカウントから、もう一件。
『こっちへ』
コメント欄がざわつく。
『誰だ』
『固定されてる』
『バグ?』
『俺らそんなコメントしてない』
ユウトはそのコメントを見つめたまま動けなかった。
そして。
改札の奥で揺れていた八つの灯りが。
一斉に止まった。
♢
八つの灯りは、まるで時が止まったかのように静止した。
風はない。
揺れもない。
提灯を持っているはずなのに、炎だけが不自然なほど真っ直ぐ燃えている。
ユウトは息を潜めた。
「……止まった。」
思わず漏れた声が、静かなホームへ吸い込まれていく。
コメント欄も一瞬だけ勢いを失った。
『動かない。』
『止まった。』
『何で?』
『今なら逃げられる。』
『ユウト、ホームを離れろ!』
ユウトは改札とは反対方向へ目を向ける。
ホームの先は暗闇だった。
駅名標の向こうには、細い通路が続いている。
線路沿いへ逃げるべきか。
改札へ向かうべきか。
それとも、この場から動かない方がいいのか。
判断ができない。
「……どうすれば。」
その時だった。
コメント欄の最上部へ、また一つだけ書き込みが固定される。
『動かないで。』
他のコメントは高速で流れている。
それだけが、画面の一番上に張り付いたまま消えない。
「また……。」
ユウトは画面をタップする。
消えない。
コメントを非表示にしても、その一行だけが残り続ける。
コメント欄は混乱していた。
『俺らじゃない。』
『そんなコメント打ってない。』
『固定コメント誰!?』
『配信者しか固定できないだろ!?』
『ユウトが固定したの?』
「してない!」
思わず大きな声が出る。
「俺は何も触ってない!」
その叫びが駅へ響いた瞬間。
カラン――。
改札の奥から、また鈴の音が鳴る。
今度は一つではない。
カラン。
カラン。
カラン。
八つの灯り、それぞれの位置から、順番に鈴の音が重なっていく。
ユウトは無意識にライトを向けた。
灯りは動いていない。
それなのに、音だけが少しずつ近付いてくる。
コメント欄が悲鳴に変わる。
『音だけ来てる!!』
『距離がおかしい!!』
『灯り止まってるじゃん!!』
『何で近付くんだよ!!』
ユウトも気付いた。
目で見える位置は変わらない。
だが、鈴の音だけが確実に近付いている。
十メートル。
五メートル。
すぐ目の前まで。
カラン――。
耳元で鳴った。
「っ!」
反射的に後ろへ飛び退く。
しかし、そこには誰もいない。
ライトを左右へ振る。
ホーム。
駅名標。
ベンチ。
何も変わらない。
変わっていたのは、一つだけだった。
駅名標。
さっきまで『きさらぎ駅』と書かれていた白い看板。
その文字の下へ、小さく何かが増えている。
ユウトはゆっくりと近付く。
ライトを当てる。
古びた木製の案内板。
駅名の下へ、手書きのような細い文字が一行だけ刻まれていた。
『ようこそ。』
さっきまでは、確かになかった文字だった。
ユウトは言葉を失う。
コメント欄も、誰一人として冗談を書き込まなくなっていた。
♢
『ようこそ。』
その四文字は、まるで最初からそこに刻まれていたかのように自然だった。
だが、ユウトは見間違えるはずがない。
数分前、この駅名標を照らした時には存在しなかった。
「……増えてる。」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
ライトを近付ける。
駅名標は古びていた。
塗装は剥がれ、木枠はひび割れ、長い年月を雨風に晒されたような傷跡が残っている。
それなのに。
『ようこそ。』
その文字だけは、新しく刻まれたようには見えなかった。
年月を共に過ごしてきたように、木へ馴染んでいる。
コメント欄も騒然としていた。
『さっき無かった』
『絶対増えた』
『録画確認した』
『最初は無い』
『編集じゃない』
『リアルタイムで変わった』
ユウトは駅名標から一歩下がる。
「……あり得ない。」
「こんなの。」
その時。
ブゥゥゥン――。
どこからともなく低い音が響いた。
まるで古い変圧器が動き出したような、重い唸り声。
ホーム全体へ反響する。
ユウトは反射的に顔を上げた。
パチッ。
一本。
ホームの蛍光灯が点いた。
青白い光だった。
すぐ隣。
パチッ。
二本目。
さらに。
パチッ。
パチッ。
一本ずつ。
ホームの照明が、奥から順番に灯り始める。
「電気……?」
コメント欄にも安堵したような反応が流れる。
『良かった』
『停電じゃなかった』
『駅動いてる?』
『人いるのか』
しかし。
照明がホーム全体へ広がるにつれ。
ユウトの表情から血の気が失われていく。
「……。」
ホームには、誰もいない。
そのはずだった。
だが。
照明に照らされたベンチ。
そこへ、一人の老人が座っていた。
俯いたまま微動だにしない。
古びた和服。
白髪。
膝へ揃えられた両手。
ユウトがライトを向けた瞬間。
パチッ。
また照明が点く。
今度は自動販売機の前。
学生服を着た少女が立っている。
ランドセルを背負ったまま。
こちらを向かない。
動かない。
パチッ。
三本目。
柱の陰。
スーツ姿の会社員。
壁へ向いたまま立っている。
パチッ。
四本目。
改札の近く。
子どもの手を握る母親。
二人とも顔は俯いたままだ。
照明が点くたび。
一人。
また一人。
ホームに”人”が現れていく。
誰も歩いてきていない。
誰も音を立てていない。
光が灯るたびに。
最初からそこにいたかのように。
静かに立っていた。
コメント欄は恐怖で埋め尽くされる。
『何だこれ』
『増えてる』
『人がいる』
『さっきまで誰もいなかった』
『動いてない』
『全員うつむいてる』
ユウトはゆっくりと後退する。
一歩。
また一歩。
呼吸が浅くなる。
「……いつから。」
「いつから、そこにいたんだ。」
誰も答えない。
ホームへ並ぶ十数人の人影は。
全員が微動だにせず、静かに俯いているだけだった。
♢
静寂だった。
人が十数人もいるというのに。
咳払い一つ聞こえない。
衣擦れの音も。
足を動かす音も。
呼吸すら聞こえてこなかった。
ユウトは喉を鳴らす。
「……こんばんは。」
恐る恐る声を掛ける。
返事はない。
ホームへ並ぶ人影は、誰一人として顔を上げなかった。
コメント欄も異様な空気に包まれていた。
『反応しない。』
『人形みたい。』
『全員止まってる。』
『瞬きした?』
『誰か確認して。』
ユウトはスマートフォンを少し持ち上げ、ホーム全体が映るようにゆっくりとカメラを動かした。
ベンチの老人。
柱の横の会社員。
ランドセルを背負った少女。
母親らしき女性。
改札前へ立つ数人の男女。
全員が同じ姿勢だった。
首を深く下げ。
腕はだらりと垂らすか、膝の前で揃えている。
まるで、時間そのものが止まってしまったかのようだった。
ユウトは一歩だけ前へ出る。
靴音が静かに響く。
コツ。
その音だけが、やけに大きく聞こえた。
すると。
カタン。
ホームのどこかで、小さな音が鳴る。
ユウトは反射的に顔を上げた。
「……今。」
誰も動いていない。
だが。
ベンチへ座っていた老人の右手だけが。
ほんの少しだけ位置を変えていた。
コメント欄が一斉に流れる。
『動いた』
『右手』
『今動いた!!』
『見た!!』
『老人!!』
ユウトは老人へライトを向ける。
老人は動かない。
俯いたまま。
まるで最初から何も変わっていないようだった。
「気のせい……?」
その時。
コメント欄へ、一つの書き込みが流れる。
『動くな。』
また固定される。
画面の一番上。
他のコメントだけが流れ続け、その一行だけは消えない。
『動くな。』
ユウトは画面を見つめる。
「また、このコメント……。」
視聴者たちも混乱していた。
『俺らじゃない』
『誰が固定してる』
『怖い』
『ユウト、読むな』
ユウトはスマートフォンを握り直す。
そして。
もう一度ホームを見渡した。
その瞬間。
全身が凍り付く。
さっきまで全員が俯いていた。
そのはずだった。
今は違う。
十数人の人影が。
誰一人、身体を動かしていないまま。
首だけをゆっくりと持ち上げ。
全員が。
まっすぐユウトを見ていた。
ライトに照らされた無数の視線。
そのどの顔にも表情はない。
笑ってもいない。
怒ってもいない。
ただ。
目だけが、異様なほど大きく見開かれていた。
コメント欄は完全な悲鳴へ変わる。
『見るな!!』
『逃げろ!!』
『全員こっち見てる!!』
『ユウト走れ!!』
『ホームから離れろ!!!』
ユウトは後ずさる。
一歩。
また一歩。
その時。
ホーム中の人影が。
一斉に口を開いた。
「――おかえり。」
老若男女、全員の声が重なったその一言は。
まるで一人の人間が喋ったかのように、完全に一致していた。
楽しかったですか?