愉悦者は嘲笑う~世界を書き換えて遊んでいたら、政府も軍も本気で世界の真実を探し始めた~ 作:ユーザーA
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「――おかえり。」
その一言は、駅全体から響いてきたようだった。
老人の声。
少女の声。
若い男性の声。
女性の声。
子どもの声。
十数人が同時に発したはずなのに、耳へ届いたのは一つの声だった。
音程も。
間も。
抑揚までも完全に一致している。
ユウトは言葉を失った。
「……は。」
息が漏れる。
喉が震える。
心臓が痛いほど脈打っている。
コメント欄は完全に混乱していた。
『聞こえた』
『全員同じ声』
『何なんだこれ』
『イヤホン外した』
『鳥肌が止まらない』
『逃げろ!!!!』
ユウトは震える足で一歩後ろへ下がる。
ホームへ並ぶ人影は動かない。
視線だけが、まっすぐこちらを捉えている。
「……俺を。」
「知ってるのか。」
返事はない。
ただ。
老人がゆっくりと口を閉じる。
少女も。
会社員も。
母親も。
全員が同じ動きを、寸分違わず繰り返した。
まるで一人の人形を十数体並べたようだった。
コメント欄へ、新たな固定コメントが現れる。
『返事をするな。』
ユウトはその文字を見る。
「返事……。」
もし今の「おかえり」に返事をしていたら。
どうなっていたのだろう。
その答えは誰にも分からない。
しかし、本能が警鐘を鳴らしていた。
返してはいけない。
何かが終わる。
そんな確信だけがあった。
その時。
ホームへ吹く風とは違う、小さな空気の流れを感じる。
ユウトは反射的に駅名標の方を見る。
誰もいない。
だが。
ベンチへ座っていた老人が、いつの間にか立ち上がっていた。
「……。」
ユウトは目を見開く。
立ち上がる瞬間など見ていない。
音もしなかった。
気付けば立っていた。
コメント欄も同じ反応だった。
『立った』
『今立ってる』
『いつ』
『動く瞬間見てない』
『ヤバい』
老人は一歩も歩かない。
ただ立っているだけ。
それなのに。
さっきより少しだけ距離が近い。
十メートルほど離れていたはずが。
今は七メートルほどしかない。
ユウトの額から汗が流れる。
「……近付いてる。」
歩いていない。
だが。
確実に近付いている。
他の人影も同じだった。
少女。
会社員。
母親。
全員が動いていない。
それなのに、ホーム全体が少しずつ狭くなっていくような圧迫感があった。
コメント欄は悲鳴に変わる。
『距離縮んでる』
『逃げろ』
『見るな』
『走れ!!!』
ユウトは息を吸い込み、ようやく身体が動いた。
「……逃げる。」
その一言と同時に、踵を返してホームを駆け出した。
コツッ。
最初の一歩を踏み出した瞬間。
後ろから。
十数人分の足音が、一斉に鳴り始めた。
♢
コツ。
コツ。
コツ。
コツ。
十数人分の足音が、完全に同じ間隔でホームへ響く。
ユウトは振り返らない。
振り返る余裕などなかった。
ただ前だけを見て走る。
ホームのコンクリートを蹴る音。
荒い呼吸。
胸の鼓動。
その全てをかき消すように、背後から足音だけが追い掛けてくる。
コメント欄は叫びで埋め尽くされていた。
『走れ!!』
『振り返るな!!』
『そのまま行け!!』
『止まるな!!』
『ホームの端まで!!』
ユウトは全力で走る。
改札とは反対側。
駅名標を越えた先へ。
ホームは思っていたより長い。
昼間の駅なら、とっくに端へ着いていてもおかしくない距離を走っている。
それなのに。
終わりが見えない。
「はぁ……っ、はぁ……!」
肺が焼けるように熱い。
足も重い。
それでも止まれない。
コツ。
コツ。
コツ。
背後の足音は一定の距離を保ったまま近付いてくる。
一歩も速くならない。
一歩も遅くならない。
まるで「逃げ切れない距離」を正確に測っているようだった。
ユウトは思い切ってスマートフォンを少しだけ後ろへ向ける。
「皆、映ってるか……!」
ライトが背後を照らす。
ホーム。
柱。
ベンチ。
誰もいない。
追い掛けてくる人影など、一人も映っていなかった。
「……え?」
足音だけは聞こえる。
コツ。
コツ。
コツ。
それなのに、映像には何も存在しない。
コメント欄も混乱していた。
『音だけ聞こえる!!』
『映ってない!!』
『誰もいない!!』
『でも足音する!!』
『早く前向け!!』
ユウトは再び前を向く。
その瞬間、足が止まった。
「……そんな。」
ホームが終わっていた。
その先には、線路も道路もない。
漆黒の闇だけが広がっている。
ライトで照らしても、地面があるのかさえ分からない。
まるで世界そのものが、そこで途切れているようだった。
「行き止まり……。」
コメント欄も一斉に流れる。
『終わり!?』
『ホームの端!?』
『地面ないぞ!!』
『戻れ!!』
『後ろ!!』
ユウトはゆっくりと振り返る。
そこには、ホームが真っ直ぐ伸びている。
だが。
さっきまでいたはずの駅名標も。
改札も。
ベンチも。
何も見えない。
ホームの向こうは、深い霧に包まれていた。
「駅が……。」
消えている。
いや。
霧に隠れているだけなのか。
判断がつかない。
その霧の中から。
ゆっくりと。
十数個の橙色の灯りが浮かび上がる。
一つ。
また一つ。
静かに揺れながら、こちらへ近付いてくる。
そして。
霧の奥から、誰かの声が聞こえた。
今度は十数人ではない。
たった一人。
落ち着いた、穏やかな男の声だった。
「……そんな所に立っていると、落ちますよ。」
その声は、今まで聞こえたどの声よりも自然だった。
♢
男の声は、不思議なほど落ち着いていた。
恐怖を煽るような響きはない。
むしろ、夜道で道に迷った人へ話し掛けるような、ごく自然な口調だった。
「……そんな所に立っていると、落ちますよ。」
ユウトは思わず足元を見る。
ライトを向ける。
「……っ。」
息を呑む。
ホームだと思っていた足場は、途中で途切れていた。
自分のつま先から、あと十センチ。
その先にはコンクリートがない。
真っ黒な奈落が広がっていた。
ライトの光は底まで届かない。
何メートルあるのか。
何十メートルあるのか。
いや、本当に底があるのかさえ分からない。
あと一歩踏み出していたら。
そう考えた瞬間、全身から冷や汗が噴き出した。
「危な……。」
ユウトはゆっくりと二歩後ろへ下がる。
コメント欄も悲鳴で埋め尽くされた。
『危ねぇぇぇ!!』
『あと少しだった!!』
『落ちるところだった!!』
『声がなかったら終わってた!!』
『誰だ!?』
ユウトは霧の向こうへライトを向けた。
「今、声を掛けてくれたのは……。」
霧がゆっくりと揺れる。
やがて、一人の男が姿を現した。
年齢は三十代後半ほど。
黒いスーツ。
緩んだネクタイ。
少し乱れた髪。
疲れ切った会社員のような風貌だった。
しかし、その顔を見た瞬間。
ユウトの表情が凍り付く。
「……。」
見覚えがあった。
昼間。
ネットで見た新聞記事。
『会社員失踪』
その記事に載っていた白黒写真。
そこに写っていた男性と、目の前の男は同じ顔をしていた。
コメント欄も一斉に気付く。
『新聞の人!!』
『昼の記事!!』
『同一人物だ!!』
『嘘だろ!!』
『生きてるのか!?』
男は静かに立っていた。
ユウトを見つめている。
敵意は感じられない。
怒りも。
悲しみも。
ただ、どこか諦めきったような目をしていた。
「あなた……。」
ユウトは震える声で尋ねる。
「新聞の記事に載ってた人ですよね。」
男は少しだけ目を伏せた。
そして、小さく頷く。
「……そう呼ばれていた時も、ありました。」
静かな返事だった。
コメント欄がざわめく。
『喋った!!』
『本物!?』
『どういう意味!?』
『時も、ありました?』
ユウトは一歩近付こうとする。
しかし。
男は右手を軽く上げ、それを制した。
「それ以上、こちらへ来ないでください。」
「境界があります。」
「……境界?」
ユウトは足元を見る。
ホームには何も描かれていない。
白線もない。
ただ古びたコンクリートが続いているだけだった。
男はゆっくりと言葉を続ける。
「あなたは、まだ戻れます。」
「だから、こちらへ来てはいけない。」
その言葉に、ユウトは眉をひそめる。
「戻るって……。」
「ここは、一体どこなんですか。」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、ユウトの背後へ視線を向ける。
その表情が、初めて大きく変わった。
青ざめる。
怯える。
まるで、何かを見つけてしまった子どものように。
「……もう。」
「見つかった。」
その一言と同時に。
背後から。
コツ。
という、小さな足音が聞こえた。
♢
コツ。
たった一歩。
それだけの足音だった。
それなのに、ユウトの身体は反射的に強張る。
会社員の男の表情は、一瞬で絶望へ変わっていた。
「振り返らないでください。」
静かだった。
だが、その口調には今までで一番強い意志が込められていた。
「絶対に。」
ユウトは息を呑む。
背中へ嫌な気配が張り付く。
誰かが立っている。
すぐ後ろ。
手を伸ばせば触れられるほど近く。
そう本能が告げていた。
コメント欄も、同じ言葉で埋め尽くされる。
『振り返るな』
『見るな』
『その人の言う通り』
『後ろ見ちゃ駄目だ』
『逃げろ』
『頼む』
ユウトは拳を強く握り締める。
「……分かった。」
その場から動かない。
振り返らない。
会社員の男だけを見つめる。
男はほんの少しだけ安堵したように頷いた。
「そのまま、私の声だけを聞いてください。」
「あなたは今、この駅に”歓迎”されました。」
ユウトの喉が鳴る。
「歓迎……。」
「駅名標を見ましたね。」
「『ようこそ』という文字も。」
ユウトは小さく頷く。
男は目を閉じた。
「それで、あなたはこの駅に認識されました。」
「認識……?」
「この駅は、人を見つけるのではありません。」
「人に、自分を認識させるんです。」
ユウトは意味が分からなかった。
だが、その説明は妙に現実味があった。
だからこそ恐ろしい。
男は続ける。
「あなたが駅を見た。」
「駅も、あなたを見た。」
「それで成立します。」
コメント欄では考察が飛び交う。
『認識したら終わり?』
『見たら駄目だったのか』
『駅名標がトリガー?』
『だから降りるなって……』
ユウトは震える声で尋ねる。
「……帰れますか。」
男は黙った。
数秒。
いや、十秒ほどだろうか。
長い沈黙のあと、小さく口を開く。
「帰れます。」
ユウトの目に希望が宿る。
「本当に!?」
「ただし。」
その一言で、希望は凍り付いた。
「あなた一人では。」
男は静かにホームの奥を見る。
霧の向こう。
提灯の灯りが、また一つ増えていた。
「この駅には、順番があります。」
「順番……?」
「ここへ来た者は、帰る順番を待ち続けます。」
ユウトは会社員の顔を見る。
昼間見た新聞記事。
昭和六十年。
四十年以上前に失踪したとされる男性。
もし目の前の男がその本人なら。
「……あなたは。」
「ずっとここに。」
男は苦笑した。
疲れ切った、力のない笑みだった。
「時間は、あまり意味を持ちません。」
「何日なのか。」
「何年なのか。」
「もう、分からないんです。」
コメント欄にも衝撃が走る。
『四十年?』
『そんな……』
『生きてるのか』
『生きてないのか』
ユウトは何かを言おうとした。
その瞬間。
背後から、温かい吐息が首筋へ掛かった。
「…………。」
身体が凍り付く。
振り返ってはいけない。
そう理解している。
だが。
耳元で。
女の声が、優しく囁いた。
「その人の話を、信じるの?」
♢
「その人の話を、信じるの?」
女の声は、とても穏やかだった。
母親が子どもへ語り掛けるような。
恋人へ囁くような。
そんな優しい響き。
それなのに。
ユウトの全身は、小刻みに震えていた。
首筋へ掛かる吐息。
すぐ耳元で聞こえる声。
そこに”誰か”がいる。
見えないだけで、確かにいる。
会社員の男は表情を変えない。
だが、その額にはじわりと汗が浮かんでいた。
「返事をしないでください。」
男は静かに言う。
「聞こえていても、返さないで。」
ユウトは小さく頷いた。
声を出さない。
息だけを整える。
コメント欄も必死だった。
『喋るな』
『返事するな』
『無視しろ』
『お願いだから』
『その人の言う通り』
しかし。
女はくすりと笑った。
「ひどいなぁ。」
「私は、ただ話したいだけなのに。」
その笑い声は、どこか寂しそうでもあった。
「ずっと、一人だったから。」
ユウトは目を閉じる。
返事をしない。
動かない。
そう決めた。
女は少しだけ間を置いて、また話し始めた。
「ねぇ。」
「その人、本当に生きてると思う?」
会社員の男の肩が、ぴくりと震える。
「あなたが昼間見た新聞。」
「失踪した人。」
「本当に、この人だった?」
ユウトの心が揺れる。
確かに顔は同じだった。
だが。
四十年以上前に失踪した人間が、あの姿のまま目の前にいるなど、普通では考えられない。
女は、その迷いを見透かしたように続ける。
「考えてみて。」
「どうして歳を取ってないの?」
「どうして今も生きてるの?」
「どうして、そんなに詳しいの?」
一つ一つの問いが、胸へ突き刺さる。
コメント欄にも動揺が広がる。
『確かに』
『いや騙されるな』
『考えるな』
『それが目的だ』
『ユウト無視しろ!』
会社員の男はゆっくりと目を閉じた。
そして。
「……聞かないでください。」
その一言だけを告げる。
女は楽しそうに笑った。
「ほら。」
「答えられない。」
「だって、この人も。」
そこで言葉を止める。
わざと間を作る。
ユウトは歯を食いしばる。
続きを聞きたくない。
なのに。
耳は勝手に、その声を待ってしまう。
女は優しく囁いた。
「この駅の住人だから。」
その瞬間。
会社員の男の顔から、すべての表情が消えた。
静かに。
本当に静かに。
彼はユウトへ向かって首を横に振る。
「違います。」
短い一言だった。
しかし、その声には。
今までで一番強い悲しみが滲んでいた。
♢
「違います。」
会社員の男は、はっきりと否定した。
その声は震えていない。
だが、その瞳の奥には、長い年月積み重ねられた後悔の色だけが浮かんでいた。
「私は、この駅の住人ではありません。」
ユウトは息を呑む。
「じゃあ……。」
「私は。」
男は一度だけ空を見上げる。
月は出ていない。
星もない。
ただ黒い空だけが広がっていた。
「帰れなかった人間です。」
その一言だけで十分だった。
コメント欄も静まり返る。
『……。』
『帰れなかった。』
『住人じゃない。』
『違うのか。』
男はゆっくりとユウトを見る。
「ここへ来る者は、最初は皆、人間です。」
「私も、あなたと同じでした。」
女の声が耳元で小さく笑う。
「そう。」
「最初は、ね。」
会社員の男は構わず続けた。
「ですが、この駅は帰れなかった者を離しません。」
「時間も。」
「記憶も。」
「少しずつ奪っていきます。」
ユウトは思わず尋ねる。
「あなたは……。」
「自分の名前を覚えていますか。」
男は答えなかった。
沈黙。
十秒ほど経ってから、小さく笑う。
その笑みは、ひどく寂しかった。
「それが、答えです。」
ユウトの胸が締め付けられる。
昼間見た新聞記事。
名前も。
家族も。
人生もあったはずの人間。
それなのに、目の前の男は、自分の名前すら思い出せない。
コメント欄にも動揺が広がる。
『名前忘れたのか……』
『きつい』
『帰れなかったってそういうことか』
『助けられないのか』
女はまた優しく笑った。
「嘘つき。」
「名前なんて、とっくに必要ないじゃない。」
「ここでは皆、同じなんだから。」
ユウトは目を閉じる。
返事はしない。
会社員の男も女を見ない。
まるで、その存在を認識したくないかのようだった。
やがて男は、小さく息を吐く。
「時間がありません。」
「よく聞いてください。」
初めて、その声へ焦りが混じった。
「あなたはまだ、この駅へ完全には取り込まれていません。」
「今なら戻れる可能性があります。」
ユウトは思わず一歩前へ出る。
「どうすればいい!」
男は答えようと口を開く。
しかし。
その瞬間だった。
女の笑い声が、駅中へ響いた。
「教えちゃ、だめ。」
同時に。
ホームへ並んでいた十数人の人影が。
カクン。
まるで糸で吊られた人形のように、一斉に首を真横へ傾けた。
九十度。
人間ではあり得ない角度まで。
骨が折れる音もなく。
ただ静かに。
全員が、ユウトだけを見つめていた。
コメント欄は悲鳴で埋め尽くされる。
『首!!!!』
『折れてる!!!!』
『無理無理無理!!!!』
『ユウト逃げろ!!!!』
『後ろ!!!!』
会社員の男の表情が一変する。
今までで一番大きな声を上げた。
「走ってください!!」
その叫びと同時に。
ホーム中の人影が。
一斉に。
ユウトへ向かって一歩を踏み出した。
♢
「走ってください!!」
会社員の男の叫びが、駅中へ響き渡る。
その声と同時だった。
コツ。
ホームに並んでいた十数人の人影が、一斉に右足を前へ出す。
全員が同じ角度。
同じ速度。
同じタイミング。
まるで、一つの意思だけで動いているようだった。
ユウトの身体が反射的に動く。
考えるより先に、地面を蹴っていた。
「っ!」
全力で走る。
背後では、無数の足音が重なり始める。
コツ。
コツ。
コツ。
コツ。
最初は十数人分。
しかし数秒後には、それでは足りなかった。
何十人。
何百人。
駅中から足音が増え続ける。
コメント欄は完全な悲鳴だった。
『増えた!!』
『後ろ見ないで!!』
『ホーム全部動いてる!!』
『逃げろ!!』
『走れぇぇぇ!!』
ユウトは振り返らない。
会社員の男の言葉だけを信じる。
ホームを一直線に駆け抜ける。
すると。
さっきまで霧しかなかった場所へ、一つの古びた階段が現れていた。
地下道へ続くようなコンクリートの階段。
黄色く変色した手すり。
天井には点滅する蛍光灯。
「こんなの……。」
さっきまで、絶対になかった。
だが、考えている暇はない。
会社員の男が叫ぶ。
「そこです!」
「階段を下りてください!」
ユウトは迷わず飛び込んだ。
階段を一段飛ばしで駆け下りる。
コツッ!
コツッ!
コツッ!
息が切れる。
肺が焼ける。
それでも止まらない。
コメント欄も息を呑んでいた。
『地下!?』
『そんな場所あった!?』
『見えてなかったぞ!!』
『急に出てきた!!』
ユウトは階段の途中で一度だけ後ろを見る。
ホームの入口。
そこには。
十数人では済まなかった。
老人。
少女。
会社員。
学生。
母親。
子ども。
何百人もの人影が、階段の入口を埋め尽くしていた。
全員が首を九十度傾けたまま。
無表情で。
こちらだけを見つめている。
「…………。」
ユウトの呼吸が止まる。
その瞬間。
全員が。
一斉に走り出した。
ダダダダダダダダッ!!
今までのゆっくりした動きが嘘だった。
人間とは思えない速度。
腕を振らない。
首を傾けたまま。
表情一つ変えず。
階段を雪崩のように駆け下りてくる。
「うわぁっ!!」
ユウトも全力で駆け下りる。
背後との距離が、一気に縮まる。
コメント欄は文字として読めないほど流れ始めた。
『速い!!』
『速すぎる!!』
『追い付かれる!!』
『ユウト!!』
『前見ろ!!』
ユウトは前を向く。
階段はまだ続いている。
暗闇の奥。
その先で。
誰かが静かに立っていた。
シルエットしか見えない。
だが、その人物はゆっくりと右手を上げる。
そして。
♢
ホームは静まり返っていた。
さっきまで聞こえていた足音も。
鈴の音も。
あれほど響いていた人々の声も、すべて消えている。
ユウトは荒い呼吸を整えながら、スマートフォンを握り直した。
「……皆。」
「まだ、見えてますか。」
コメント欄は一瞬で流れ始める。
『見えてる!!』
『大丈夫!!』
『ユウト帰って!!』
『そこから離れろ!!』
『もう十分だ!!』
配信は続いていた。
映像も音声も正常。
だが、ユウトの顔からは、もう最初の余裕は完全に消えていた。
額には汗が浮かび、呼吸も乱れている。
ホームへ並ぶ人影は、再び俯いたまま動かない。
まるで最初から何も起きていなかったかのようだった。
「……帰ろう。」
その一言を口にした時だった。
ブツッ。
映像へ小さなノイズが走る。
コメント欄がざわつく。
『ノイズ』
『また来た』
『通信ヤバい』
ユウトはスマートフォンを見る。
「電波は……。」
アンテナは立っている。
配信も切れていない。
それなのに。
画面の端から黒いノイズがゆっくりと広がり始めていた。
ザーッ……
音声にも砂嵐のような雑音が混じる。
「聞こえてますか?」
『聞こえる!』
『少しだけ!』
『映像乱れてる!』
ユウトはホームを見回す。
改札。
駅名標。
ベンチ。
すべてが少しずつ歪んで見え始める。
蜃気楼のように揺れていた。
その時だった。
コメント欄が、一斉に同じ言葉で埋め尽くされる。
『右』
『右』
『右を見るな』
『右を見るな』
『右を見るな』
ユウトは息を呑む。
「……右?」
見ない方がいい。
本能がそう告げている。
だが、人間の好奇心は恐怖よりも強かった。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
右へ顔を向ける。
そこには。
ホームの先へ続く、暗い通路があった。
さっきまで何もなかった場所。
今は、闇だけがぽっかりと口を開けている。
その奥から。
低く、落ち着いた男の声が聞こえた。
「……こっちだ。」
その一言だけだった。
恐怖もない。
怒りもない。
ただ静かな声。
ユウトは思わず暗闇を見つめる。
「誰ですか。」
返事はない。
数秒後。
もう一度だけ。
男は言った。
「急げ。」
コメント欄が爆発する。
『行くな!!!!』
『止まれ!!!!』
『絶対駄目!!!!』
『ユウト戻れ!!!!』
『罠だ!!!!』
ユウトはその場から動けなかった。
暗闇の奥。
何も見えない。
だが。
そこに誰かが立っていることだけは分かった。
不思議と、その姿は恐ろしく見えなかった。
むしろ。
今までこの駅で出会った何よりも「普通の人間」に見えた。
ユウトは小さく息を吸う。
「……少しだけ。」
「確認してきます。」
『駄目!!!!』
『戻れ!!!!』
『ユウト!!!!』
コメントは止まらない。
だが。
ユウトは一歩踏み出した。
暗闇へ。
もう一歩。
ライトの光が届かなくなる。
映像が急に乱れ始める。
ザーッ……
ノイズ。
音飛び。
画面が大きく揺れる。
「ちょっ……。」
ユウトの声が途切れる。
カメラが激しく上下へ振られる。
視界の端を、黒い何かが横切った。
次の瞬間。
ガタンッ!!
大きな衝撃音。
スマートフォンが地面へ落ちた。
配信画面はホームの床だけを映している。
コメント欄は悲鳴で埋め尽くされる。
『ユウト!?』
『返事して!!』
『起きろ!!』
『何があった!?』
数秒。
誰も映らない。
音もしない。
やがて。
画面の奥。
暗闇の中を、一つの人影が静かに横切った。
それが誰なのかは分からない。
直後。
映像が完全にブラックアウトする。
ザーッ……
というノイズだけが数秒続き。
配信は終了した。
Visionの画面には、無機質な文字だけが表示される。
『ライブ配信は終了しました。』
その夜。
配信者・ユウトは。
誰の前からも、姿を消した。
お楽しみいただけました?
次はどうなるのでしょう、楽しみですね