愉悦者は嘲笑う~世界を書き換えて遊んでいたら、政府も軍も本気で世界の真実を探し始めた~ 作:ユーザーA
それではお楽しみください
七月一日、午前七時二十六分。
夜が明けても、八尺様の話題は消えなかった。
むしろ、昨日よりも濃く、重く、人々の日常へ染み込み始めていた。
朝のニュースでは、昨夜発生した埼玉県の大学生行方不明事件が大きく取り上げられている。
警察へ通報した直後、通話は途切れた。
駆け付けた警察官二名は、現場付近で異様に背の高い白い服の人物を目撃した。
しかし、その人物も通報者も発見されていない。
それだけなら、まだ不可解な失踪事件として処理できたかもしれない。
だが、通話記録に残っていた音声が問題だった。
――ぽぽ、ぽぽぽ。
小さく、低く、風に紛れるような声。
その音声が、昨夜のうちにネットへ流出した。
誰が流したのかは分からない。
しかし、一度流れたものは止められない。
Linkでは朝から「#八尺様」「#ぽぽぽ」「#埼玉失踪」がトレンド上位に並び、Visionでは通話音声の解析動画が次々と投稿されていた。
その話題を、大学生の榎本春斗は、自宅のダイニングで眺めていた。
二十歳。
都内の大学に通う、ごく普通の学生。
特別な趣味があるわけでもない。
怪談に詳しいわけでもない。
きさらぎ駅の配信も、リアルタイムでは見ていなかった。
翌朝になって切り抜きを見て、世間と同じように騒いだだけだ。
八尺様についても同じだった。
知ってはいる。
聞いたことはある。
だが、それだけだった。
実在すると信じたことなど一度もない。
「またこの話?」
母親が味噌汁を置きながら、テレビへ目を向ける。
画面では、コメンテーターが深刻そうな顔で話していた。
『警察は引き続き、行方不明となっている大学生の捜索を続けています。なお、現場付近では複数の目撃情報が寄せられており――』
母親は眉をひそめる。
「最近、変なニュースばっかりね。」
「そうだね。」
春斗は曖昧に返事をした。
本気で怖がっているわけではない。
だが、無関心でもいられなかった。
スマートフォンを開けば、どこを見ても八尺様。
テレビをつけても八尺様。
大学のグループチャットでも、友人たちが朝からその話で盛り上がっている。
『今日学校来る途中、白い服の女見たら終わりな』
『やめろw』
『ぽぽぽって聞こえたら逃げろ』
『いや聞こえた時点でアウトらしいぞ』
『八尺様って子供狙うんじゃなかったっけ?』
『設定ブレてて草』
春斗はそのやり取りを見て、小さく笑った。
「まあ、そうなるよな。」
都市伝説は怖い。
けれど、どこかで笑いに変えなければ、受け止めきれない。
人は恐怖を冗談にして、ようやく日常へ戻ることができる。
春斗も同じだった。
味噌汁を飲み終え、鞄を持って立ち上がる。
「行ってきます。」
「気を付けてね。」
「大丈夫だよ。」
その返事は、いつもと変わらない軽いものだった。
玄関を出る。
朝の空気は少し湿っていた。
七月に入ったばかりの、蒸し暑い朝。
家の前の道路には、通勤する会社員や登校中の学生が歩いている。
何も変わらない。
昨日までと同じ日常。
春斗はイヤホンを耳に入れ、駅へ向かって歩き出した。
その頃。
都内の一室で、真白空は静かにLinkのタイムラインを眺めていた。
流れていく無数の投稿。
恐怖。
冗談。
考察。
否定。
どれも、まだ表面を撫でているだけだった。
「次は、誰が目を合わせるのかな。」
空は穏やかに呟く。
その声には、期待だけがあった。
「見てしまった者は、もう舞台から降りられない。」
画面の中では、誰もが八尺様を語っている。
けれど、その本当の意味を知る者はいない。
空だけが、これから起こる出来事の輪郭を静かに眺めていた。
♢
大学へ向かう道は、いつもと同じだった。
住宅街を抜け、細い坂道を下り、小さな神社の前を通る。
そこから十分ほど歩けば駅に着く。
春斗は毎朝、その道を使っていた。
理由は単純だ。
駅前の大通りより人が少なく、信号も少ない。
少しだけ近道になる。
それだけだった。
神社の鳥居は古びている。
朱色はところどころ剥げ、石段の脇には雑草が伸びていた。
子どもの頃は夏祭りで賑わっていたらしいが、今では参拝客もほとんどいない。
春斗にとっては、風景の一部でしかなかった。
だが、その朝だけは違った。
鳥居の向こう。
石段の一番上。
そこに、誰かが立っていた。
白い服。
長い黒髪。
遠目にも分かるほど、背が高い。
春斗は足を止めた。
「……え?」
反射的にイヤホンを外す。
音楽が途切れ、朝の住宅街の音が耳に戻ってくる。
車の走行音。
遠くの踏切。
鳥の声。
そして、静寂。
石段の上に立つ人物は、動かなかった。
顔は見えない。
髪が垂れているせいで、表情も分からない。
ただ、こちらを見ているような気がした。
春斗の背筋に、冷たいものが走る。
頭の中へ、朝のテレビの映像がよぎった。
白い服。
黒髪。
異常な長身。
八尺様。
「いや……。」
春斗は小さく笑おうとした。
笑えなかった。
冗談のような単語が、現実の風景に重なった瞬間、急に笑えなくなる。
スマートフォンを取り出す。
撮影しようと思った。
証拠を残せば、自分が見間違えたのかどうか確認できる。
そう思った。
だが、カメラを起動する直前。
白い人影が、ゆっくりと首を傾けた。
ほんの少し。
角度にすれば、わずか数度。
それだけなのに、春斗の指は止まった。
見られている。
そう感じた。
春斗はスマートフォンを握ったまま、数歩後ろへ下がる。
その瞬間。
目の前を、通勤中の男性が横切った。
ほんの一秒。
視界が遮られる。
次に鳥居の方を見た時。
そこには、もう誰もいなかった。
「……消えた?」
石段の上には、朝日だけが落ちている。
白い服の人物も。
長い髪も。
異様な背丈の女も。
何一つ残っていない。
春斗はしばらくその場から動けなかった。
見間違い。
疲れているだけ。
昨日からニュースを見すぎたせい。
そう考えようとする。
けれど、脳裏にははっきりと残っていた。
石段の上に立つ、白い人影。
見間違いにしては、あまりにも鮮明だった。
駅へ向かう足取りは、いつもより遅くなった。
大学へ着いても、春斗はそのことを誰にも言えなかった。
講義室に入り、友人の隣へ座る。
「おはよ。顔色悪くね?」
「そう?」
「昨日、八尺様の動画見すぎた?」
友人は笑いながら言う。
春斗は一瞬だけ返事に詰まった。
そして、曖昧に笑う。
「まあ、ちょっとな。」
見たかもしれない。
その言葉は、喉元まで出かかった。
だが、言えなかった。
言えば笑われる。
それが分かっていた。
昼休み。
春斗は一人でLinkを開いた。
検索欄へ、ゆっくりと文字を打ち込む。
八尺様 見た
表示された投稿は、昨日よりさらに増えていた。
その中に、一つだけ、目に留まるものがあった。
「見た後、すぐ誰かに話すな。」
「名前を付けるな。」
「気付かれたと思わせるな。」
春斗はその投稿を見つめたまま、喉を鳴らした。
朝の神社。
石段の上。
白い女。
そして、あの首を傾ける仕草。
自分は、見てしまったのだろうか。
それとも。
向こうに、見られてしまったのだろうか。
♢
七月一日、午後一時三十分。
春斗が神社で目撃した出来事を誰にも話せずにいる頃、日本各地では新たな異変が静かに積み重なっていた。
午前中だけで、全国の警察へ寄せられた「長身女性」の目撃通報は百二十件を突破。
そのうち四十件以上が、学校や神社、農道といった、人通りが少ない場所で発生していた。
さらに奇妙なのは、その大半の目撃者が同じ証言をしていることだった。
「向こうもこちらを見ていた。」
ただ見るだけ。
近付いてこない。
襲ってこない。
何も話さない。
それなのに、目撃者の多くは「視線を外せなかった」と証言していた。
午後一時四十五分。
特殊災害対策局――SDA本部。
大型スクリーンには、日本地図いっぱいに赤いマーカーが表示されていた。
担当官が淡々と報告する。
「午前零時から現在までの目撃情報は百二十七件。」
「昨日同時刻比で約二・五倍です。」
「依然として人的被害は埼玉県の失踪事案一件のみ。」
局長は腕を組んだまま画面を見つめる。
「分布に偏りは。」
「ありません。」
「北海道から沖縄まで、ほぼ全国です。」
「共通点は。」
「住宅街周辺の神社。」
「河川敷。」
「田畑。」
「森林入口。」
「人通りの少ない生活圏。」
別の職員が資料を差し出した。
「さらに、新しい共通点が判明しました。」
「目撃者の約七割が、事前に八尺様関連の映像または記事を閲覧しています。」
一瞬、室内が静まる。
「偶然か。」
「現段階では判断できません。」
「ですが、SNS利用履歴、検索履歴、動画視聴履歴から高い一致率が確認されています。」
「きさらぎ駅事件との関連性は。」
「現在解析中です。」
局長はゆっくり息を吐く。
きさらぎ駅。
八尺様。
まったく異なる都市伝説。
それなのに、発生の流れが酷似している。
最初はネット。
次に目撃情報。
そして現実世界での証拠。
まるで誰かが段階を踏んで世界へ浸透させているようだった。
「……警察庁と合同捜査を開始する。」
「対象は全国。」
「自治体への通達も急げ。」
「了解。」
会議室の空気がさらに張り詰める。
一方。
国立超常現象研究所――NPRIでも、新たな分析結果がまとまりつつあった。
研究棟第三解析室。
大型ディスプレイには、目撃証言の文章が無数に並んでいる。
AIによる言語解析が行われ、その共通点が色分けされていた。
「九三・八%。」
一人の研究員が静かに呟く。
「証言一致率です。」
「ここまで高いのか。」
「はい。」
「年代も性別も地域も関係ありません。」
「全員が『異常に背が高い』『白い服』『黒髪』を挙げています。」
さらに別の研究員が続ける。
「それだけではありません。」
「昨日まで存在しなかった証言が増え始めています。」
「何だ。」
画面が切り替わる。
そこには、新たな共通ワードが表示された。
――目が合った気がした。
――こちらを見ていた。
――見られていた。
研究室に、重苦しい沈黙が落ちた。
誰一人として、その意味を軽く受け止めることはできなかった。
♢
午後二時四十分。
国立超常現象研究所――NPRIでは、全国から集められた証言の精査が続いていた。
大型スクリーンには、目撃証言の時系列が並べられている。
担当研究員が一つのグラフを映し出した。
「昨日までは『見た』だけの証言が全体の九割以上でした。」
「しかし、本日の午前九時以降、新しい傾向が現れています。」
画面が切り替わる。
表示されたのは、赤く強調された一文だった。
――見られた気がした。
――目が合った。
――向こうもこちらを見ていた。
「現在、この証言は全体の四十二パーセント。」
「増加傾向にあります。」
所長は静かに腕を組む。
「思い込みでは。」
「その可能性はあります。」
「ですが。」
若い研究員が資料を差し出す。
「この証言が現れ始めた時刻は、全国でほぼ一致しています。」
午前七時。
午前八時。
午前九時。
地域差はほとんどない。
まるで、何かの変化が同時に起きたような増え方だった。
その時、一人の職員が慌ただしく会議室へ駆け込んできた。
「新しい報告です。」
「SDA経由で届きました。」
「読み上げます。」
室内の視線が集まる。
「本日午前十一時以降、八尺様を目撃したと証言した人物の一部が、同じ訴えを始めています。」
「どんな内容だ。」
職員は一枚の資料へ目を落とした。
「……『誰かに見られている気がする。』」
短い言葉だった。
しかし、その場にいた全員の表情が変わる。
「気配です。」
「視線です。」
「姿は見えない。」
「ですが、自宅に帰った後も続いているそうです。」
室内に静かなざわめきが広がる。
もし、それが偶然ではないのなら。
現象は目撃だけで終わらない。
研究対象は、一段階先へ進み始めている。
同時刻。
世界異常対策機構――WARO本部。
緊急オンライン会議には、各国の代表が参加していた。
議題は一つ。
八尺様現象の国外拡大である。
「現在確認されている国外目撃情報は。」
「二十三件。」
担当官が答える。
「韓国五件。」
「台湾四件。」
「アメリカ六件。」
「イギリス三件。」
「その他五件。」
「共通点は。」
「日本と同一です。」
「白い服。」
「黒髪。」
「異常な長身。」
「そして。」
一拍置く。
「本日から、『見返された』という証言が増え始めています。」
議場は静まり返った。
日本だけではない。
同じ変化が国外でも起きている。
偶然と呼ぶには、あまりにも出来すぎていた。
一人の代表が口を開く。
「対象は、人間を観察しているのでしょうか。」
誰も答えられない。
現時点では、仮説すら立てられない。
確かなのは、世界が昨日まで知っていた都市伝説とは違う何かが、現実の中で動き始めているという事実だけだった。
その頃。
都内の一室。
真白空は静かにコーヒーカップを持ち、世界中の報告書へ目を通していた。
画面には、SDA。
NPRI。
WARO。
Link。
Open Forum。
世界中の情報が絶え間なく流れている。
空は、その一つ一つへ目を通し、小さく微笑んだ。
「なるほど。」
「世界は、そこへ辿り着いたんだ。」
誰にも聞こえない声で呟く。
「見るだけでは終わらない。」
「そう考え始めたか。」
机へカップを置く。
人は、自ら恐怖を育てる。
与えられた”種”を、自分たちで水をやり、枝葉を伸ばし、大きな一本の樹へ変えていく。
その姿は、空の予想すら超え始めていた。
「やっぱり。」
窓の外へ視線を向ける。
街は何も変わらない。
車が走り、人々が歩き、信号が点滅する。
平穏そのものの景色。
だからこそ、その裏側で膨らみ続ける恐怖が、何より美しかった。
「次は、どんな答えを見つけてくれるかな。」
穏やかな笑みだけを浮かべながら、真白空は静かに世界の続きを待っていた。
♢
七月一日、午後六時十一分。
日が傾き始める頃には、八尺様を巡る騒動は新たな段階へ入っていた。
もはや、ネットだけの話ではない。
学校でも。
会社でも。
駅でも。
人々が口を開けば、その話題になる。
「昨日さ、本当に『ぽぽ』って聞こえたってやついるらしいぞ。」
「動画見た?」
「いや、夜眠れなくなるから見てない。」
「俺は逆に全部見た。」
「何も起きないって。」
笑いながら話す者。
本気で怯える者。
半信半疑の者。
反応は様々だったが、一つだけ共通していることがあった。
誰もが、八尺様を知っていた。
それだけで、都市伝説は十分に世界へ根を下ろし始めていた。
午後六時三十分。
Linkでは、新たなハッシュタグが急浮上する。
#見られた
最初は数件だった投稿が、一時間もしないうちに数千件へ膨れ上がる。
『誰もいないのに視線を感じた。』
『帰り道で何度も後ろを振り返った。』
『窓の外に誰か立ってる気がする。』
『気のせいだと思いたい。』
投稿の多くは曖昧だった。
写真もない。
動画もない。
ただ、不安だけが書き込まれている。
しかし、それが逆に人々の想像力を刺激した。
Visionでは、その日の夜だけで三百本を超える新作動画が投稿される。
『八尺様に見られた人の共通点』
『絶対に夜見てはいけない都市伝説』
『専門家が語る心理現象』
『実際に現場へ行ってみた』
どの動画も再生数を伸ばし続けていた。
コメント欄では、恐怖と冷静な分析が入り混じる。
「集団心理だろ。」
「でも昨日の録音は説明できない。」
「防犯カメラは?」
「全部フェイクじゃないの?」
「警察まで動いてるぞ。」
誰もが否定したい。
それでも、完全には否定できない。
きさらぎ駅事件が、その逃げ道を奪っていた。
一方、Open Forumでは、新たなスレッドが勢いよく伸びていた。
【八尺様】見られた奴、集まれ【体験談】
1:名無しの探索者
今日から増えすぎだろ。
2:名無しの探索者
俺も視線感じた。
3:名無しの探索者
それ思い込みじゃね?
4:名無しの探索者
思ってたけど、マジで気味悪い。
5:名無しの探索者
家の二階見たらカーテン揺れてた。
6:名無しの探索者
風だろ。
7:名無しの探索者
窓閉まってた。
8:名無しの探索者
やめろ。
9:名無しの探索者
夜になると読むんじゃなかった。
10:名無しの探索者
笑えなくなってきた。
そのスレッドは、わずか三十分で一〇〇〇レスを超える。
誰かが恐怖を書く。
誰かが否定する。
また別の誰かが、新しい体験を書き込む。
その繰り返しだった。
しかし、その中に一つだけ、他とは違う書き込みが現れる。
387:名無しの探索者
今日の朝、神社で見た。
388:名無しの探索者
白い服。
389:名無しの探索者
目が合った。
390:名無しの探索者
……今も外を見るのが怖い。
その書き込みを境に、スレッドの流れが一瞬止まった。
♢
387番の書き込みが投稿されてから、およそ十秒。
それまで猛烈な勢いで流れていたスレッドが、不自然なほど静まり返った。
誰もが画面を見つめ、その短い文章を読み返していた。
そして次の瞬間、一気に返信が押し寄せる。
391:名無しの探索者
どこの神社?
392:名無しの探索者
釣りだろ?
393:名無しの探索者
時間は?
394:名無しの探索者
写真ないの?
395:名無しの探索者
その後どうなった?
396:名無しの探索者
まだ生きてる?
397:名無しの探索者
返事しろ。
数秒後。
387番の投稿者が再び現れる。
398:名無しの探索者
写真は撮れなかった。
399:名無しの探索者
カメラ向けようとしたら消えた。
400:名無しの探索者
目が合った気がした。
401:名無しの探索者
それだけ。
その四文字。
――それだけ。
その一文が、逆に利用者たちの不安を煽った。
402:名無しの探索者
それだけって何だよ。
403:名無しの探索者
帰れたの?
404:名無しの探索者
家は大丈夫か?
405:名無しの探索者
今どこ?
406:名無しの探索者
返事してくれ。
しかし、それ以降。
387番の利用者が書き込むことはなかった。
五分。
十分。
二十分。
待っても返信はない。
スレッドには様々な推測が飛び交い始める。
「寝ただけ。」
「怖くなって閉じた。」
「ネタだろ。」
「いや……。」
「なんか嫌なんだけど。」
誰も結論を出せない。
だが、「返事がない」という事実だけが、人々の心へ静かに残った。
その頃。
Linkでも、一つの投稿が急速に拡散されていた。
『八尺様を見た人、その後どうなったか分かる人いる?』
返信は数万件に達する。
『何も起きてない。』
『普通に仕事してる。』
『友達は元気。』
『まだ一日しか経ってない。』
『問題はこれからじゃない?』
最後の返信には、十万件を超える「いいね」が付いていた。
人は安心したい。
だから「何も起きていない」という情報を求める。
しかし同時に、「これから何か起きるかもしれない」という恐怖を、自ら育て続けてもいた。
午後七時二十分。
真白空は静かにOpen Forumの画面を閉じた。
代わりに、Linkのタイムラインを開く。
世界中の人々が、同じ恐怖を共有している。
誰かが見た。
誰かが聞いた。
誰かが怯えた。
それだけで、世界は自ら物語を完成させていく。
空は小さく笑う。
「予想より早かった。」
コーヒーを一口飲む。
「まだ私は何もしていない。」
「最初の”種”を置いただけ。」
「それなのに。」
画面には、新たな通知が流れる。
『#見られた 投稿件数五十万件突破』
『八尺様関連動画 一億再生突破』
『海外ニュースでもトップ扱い』
空は静かに目を細める。
「人は恐怖を見つけると、勝手に育て始める。」
「証拠を探し。」
「意味を与え。」
「歴史を作り。」
「そして、自分たちで逃げ場を失っていく。」
窓の外では、街に夜が降り始めていた。
ビルの灯りが一つ、また一つと灯る。
その無数の灯りのどこかで、今も誰かがカーテンを閉め、窓の外を気にしている。
空はその景色を眺めながら、静かに呟いた。
「さあ。」
「世界は、いつ”本当の恐怖”に気付くんだろう。」
その声は夜の静寂へ溶けていき、誰にも届くことはなかった。
♢
七月一日、午後十時三十八分。
夜は完全に街を包み込んでいた。
昼間まで聞こえていた子どもたちの声も、車の往来も少なくなり、住宅街には静かな空気が流れている。
その静けさとは裏腹に、世界は一日中休むことなく動き続けていた。
Linkでは、八尺様に関する投稿件数が百二十万件を突破。
Visionでは関連動画の総再生回数が一億五千万回を超え、海外の配信者までもが「Hachishaku-sama」という名前で検証動画を投稿し始めている。
Open Forumでは、新しいスレッドが立っては埋まり、また新しいスレッドが立つ。
世界中の誰もが、同じ名前を口にしていた。
――八尺様。
その名を最も静かに眺めている人物がいた。
真白空だった。
都内の高層マンション。
窓一面に広がる夜景を背に、空はソファへ深く身体を預けている。
目の前には四台のモニター。
一台にはSDA内部の発表資料。
一台にはNPRIの公開会見。
一台には世界中のニュース。
そして最後の一台には、人々の何気ないSNS投稿が絶え間なく流れていた。
空はどれか一つを注視することはない。
世界全体を眺めるように、静かに視線を巡らせる。
「少しずつ。」
穏やかな声が部屋へ響く。
「少しずつ形になってきた。」
誰も命令していない。
誰にも説明していない。
ただ”八尺様”という一粒の種を世界へ置いただけ。
それだけで、人々は自ら歴史を作り始めた。
古い新聞を探す者。
神社の由来を調べる者。
地方の昔話を集める者。
失踪事件との共通点を考える者。
誰もが、自分自身の意思で「真実」を組み立てていく。
その姿が、空には何よりも美しく見えていた。
「人は面白い。」
小さく微笑む。
「答えが与えられないほど、自分で答えを作りたくなる。」
Open Forumを開く。
書き込みは相変わらず止まらない。
『もう日本だけの話じゃない。』
『海外でも出始めてる。』
『世界共通の怪異なのか?』
『昔から存在したんじゃないか?』
『きさらぎ駅もそうだった。』
空はその一文で指を止めた。
――昔から存在した。
その言葉を見つめながら、小さく笑う。
「そう。」
「世界は、そこまで補完したんだ。」
最初から、その設定を作ったわけではない。
世界が自ら選び、自ら繋げ、自ら納得できる形へ組み替えている。
それは空自身にとっても、予測しきれない展開だった。
「同じ舞台でも。」
「役者が変わらなくても。」
「物語は毎回違う。」
その違いこそが、空にとって最高の娯楽だった。
静かにコーヒーカップを持ち上げる。
窓の外には、無数の灯り。
その一つひとつに、人の生活があり、恐怖があり、期待があり、好奇心がある。
誰もが今日も眠る。
そして、その眠りの中でも、八尺様のことを考える者がいる。
その事実だけで、世界は昨日とはもう別の世界になっていた。
♢
午後十一時五十六分。
日付が変わろうとしていた。
世界中のニュースサイトでは、その日の出来事をまとめる速報が次々と公開されている。
『八尺様目撃情報、国内二百件を突破』
『国外でも類似現象を確認』
『SDA、警戒体制を継続』
『WARO、日本との共同調査を拡大』
『NPRI「現時点で断定はできない」』
どの記事も結論は同じだった。
――分からない。
分からないからこそ、人々は考え続ける。
Open Forumでは、新しいスレッドが立つ。
【結局、八尺様って何なんだ?】
1:名無しの探索者
人間じゃないよな。
2:名無しの探索者
妖怪説。
3:名無しの探索者
神様説。
4:名無しの探索者
異世界説。
5:名無しの探索者
きさらぎ駅と関係あると思う。
6:名無しの探索者
昔から存在してたなら全部繋がる。
7:名無しの探索者
怖いのに調べるのやめられん。
8:名無しの探索者
俺たち、もう都市伝説を娯楽として見れなくなってる。
9:名無しの探索者
それが一番怖い。
その最後の書き込みを見て、真白空は小さく目を細めた。
「その通り。」
静かな部屋に、穏やかな声だけが響く。
「都市伝説は、もう笑い話じゃない。」
空はゆっくりと立ち上がる。
大きな窓の前へ歩き、東京の夜景を見下ろす。
無数の灯り。
車のヘッドライト。
高層ビル。
どこまでも続く、人間が築いた文明。
その全てが、一つの”種”によって少しずつ姿を変え始めていた。
「きさらぎ駅は入口。」
「八尺様は恐怖を現実へ定着させる存在。」
「そして。」
空は静かに夜空を見上げる。
「次は、世界そのものへ問いを投げ掛けよう。」
その瞬間。
空の指先へ、小さな光が生まれる。
眩しくもなく。
禍々しくもない。
白く淡い、一粒の光。
誰にも見えない。
誰にも観測できない。
それは、この世界のどこかへ落とされる、次なる”種”だった。
「さて。」
「今回は、どんな歴史を世界は作ってくれるかな。」
空は微笑みながら、その光をそっと空中へ放つ。
光は音もなく消えた。
それだけだった。
だが、その瞬間から。
世界のどこかで。
誰も知らない場所で。
新たな物語は静かに動き始める。
人々はまだ気付かない。
政府も。
研究者も。
軍も。
配信者も。
誰一人として、その変化を知る者はいない。
知っているのは、ただ一人。
舞台を眺める観客。
真白空だけだった。
空は最後に一度だけ世界へ視線を向け、小さく笑う。
「さあ。」
「幕は上がった。」
「次は、誰が最初に気付くんだろう。」
世界は静かに夜を迎える。
しかし、その静寂の裏側では、誰にも知られない次の恐怖が、ゆっくりと息を吹き始めていた。
八尺様のお話は楽しいですか?
楽しめているのなら
それでは