自作小説の世界に落ちた作者、闇落ち予定の第三皇子を救うために筆を執る 作:けもの
目が覚めた瞬間、土の匂いがした。
「…………は?」
間抜けな声が、自分の喉から漏れる。
見慣れた天井はない。
うっすら黄ばんだ作業部屋の壁紙も、積み上がった資料本も、机の上に置きっぱなしにしていたマグカップもない。
代わりに視界いっぱいに広がっていたのは、黒々とした木々だった。
枝葉が空を覆っている。
湿った風が頬を撫で、首筋に冷たい雫が落ちた。
土。
草。
腐葉土。
それから、獣のものらしい生臭い匂い。
俺はしばらく、その場に寝転んだまま固まっていた。
夢だ。
たぶん夢だ。
徹夜明けに椅子で寝落ちしたせいで、妙にリアルな夢を見ている。
そう考えるのが一番自然だった。
締め切り前の脳は、たまに妙なものを見せる。
以前も、担当編集が巨大なカマキリになって「初稿はまだですか」と迫ってくる夢を見たことがある。
あれに比べれば、森に寝転がっているくらい、なんてことはない。
……いや、ないな。
最近徹夜続きだったせいか、感覚がだいぶバグっている。
「痛っ」
頬をつねると、普通に痛かった。
しかも、つねった指先に土がついている。
爪の隙間に、黒い泥が入り込んでいた。
俺はゆっくりと上体を起こした。
足元はスニーカー。
履いているのは、昨日から着っぱなしだったスウェットパンツ。
上はよれたパーカー。
ポケットにはスマホが入っている。
慌てて取り出す。
画面は真っ暗だった。
電源ボタンを押す。
反応なし。
長押しする。
反応なし。
「いや、充電切れかよ。こんな時に限って」
声に出してから、俺は自分の言葉にぞっとした。
こんな時、とは何だ。
俺は今、どういう状況にいる?
自宅で原稿を書いていた。
そこまでは覚えている。
新刊用の書き下ろしを進めていた。
確か、主人公が反乱軍に追われて森へ逃げ込む場面の加筆をしていたはずだ。
第三皇子レオンハルトが、数少ない側近と共に帝都を脱出し、黒樹の森へ入る。
そこで原稿を読み返して――
「……その後、どうしたっけ」
記憶が途切れている。
寝た?
倒れた?
それとも、何か別のことが起きた?
考えようとしたところで、手の中に妙な重みがあることに気づいた。
スマホではない。
もっと大きい。
俺の右手は、一冊の本を抱えていた。
ハードカバー。
黒地の表紙。
銀の箔押しでタイトルが刻まれている。
『黎明の反逆皇子』
俺は、そのタイトルを見た瞬間、息を止めた。
知っている。
というか、知らないはずがない。
俺が書いた小説だ。
帝国を追われた第三皇子レオンハルトが、在野に落ち延び、傭兵団を作り、やがて腐敗した帝国と反乱軍の両方を相手に国を奪い返す戦記ファンタジー。
少年編。
青年編。
そして、王座奪還後の統治編。
初期構想では、もっと明るい冒険譚にするつもりだった。
だが、書いているうちにどうにも暗くなった。
仲間は死ぬ。
裏切りは起こる。
レオンハルトは一度、心を壊す。
それでも最後には王になる。
そういう物語だ。
「なんで、これが……?」
出版された本ではない。
表紙は商業本に似ている。
けれど、装丁が違う。
俺の持っているどの見本誌よりも分厚く、重い。
紙の手触りも変だった。
やけに冷たい。
まるで石を薄く削って紙の形にしたみたいだ。
俺は恐る恐る表紙を開いた。
最初のページ。
そこに書かれていたのは、俺の文章ではなかった。
白い紙に、黒い文字が浮かんでいる。
『この本は、現在進行中の物語である』
「……は?」
思わず声が漏れる。
ページには、続けて文章が記されていた。
『一日に一度だけ、書き加えることができる』
『ただし、現実に起こりえないことは書けない』
『現在より遠い過去、遠い未来の頁は開けない』
『書き加えられた文章は、世界の理に従って反映される』
俺は、しばらくその文字を見つめていた。
意味が分からない。
いや、書いてある文字の意味は分かる。
分かるからこそ、分からない。
「誰だよ、こんなの書いたの」
俺だろうか。
いや、違う。
こんなものを書いた覚えはない。
そもそも『黎明の反逆皇子』に、メタ的な本の能力なんて出てこない。
あれはもっと正統派の戦記ものだ。
魔法はある。
古代遺物もある。
神託めいたものも少しは出る。
だが、作者が本を持って異世界に入るようなトンチキな話ではない。
少なくとも、昨日までの俺はそんな話を書いていなかった。
ページをめくろうとした。
だが、動かない。
まるで数百枚の紙が一枚に固まったように、先へ進めない。
力を込めても、紙の端すら持ち上がらなかった。
「開かない……?」
仕方なく、前の方へ戻そうとする。
こちらも同じだ。
表紙と仕様のページ以外は、奇妙なほど重く閉じられている。
俺は喉を鳴らした。
現在より遠い過去、遠い未来の頁は開けない。
さっきの文章が頭をよぎる。
冗談じゃない。
この本は何だ。
そもそも、ここはどこだ。
俺は周囲を見回した。
高い木々。
黒ずんだ幹。
地面を覆う、灰色がかった苔。
枝から垂れる、細い蔓。
湿った空気。
陽が差し込みにくいほど密集した葉。
その光景に、妙な既視感があった。
現実で見た景色ではない。
旅行に行ったこともない。
けれど、知っている。
俺は、この森を知っている。
「……黒樹の森」
口に出した瞬間、背筋が冷たくなった。
帝都北西に広がる古い森。
陽光を遮る黒樹が生い茂り、昼でも薄暗い。
野盗や脱走兵が潜み、夜には黒牙狼が出る。
第三皇子レオンハルトが、反乱軍の追手から逃れるために通る逃亡路。
俺が書いた森だ。
いや、落ち着け。
似ているだけかもしれない。
どこかの森を見て、俺の脳が勝手に自作の設定と結びつけているだけかもしれない。
そうだ。
人間、極限状態では妙な連想をするものだ。
たぶん。
必死にそう考えながら、俺は本を抱えて立ち上がった。
膝が笑っている。
地面がぬかるんでいて、靴底が沈む。
足を動かすたびに、じゅくり、と嫌な音がした。
「とりあえず、人里だ。人里を探そう」
現代日本の山中で遭難したのなら、人里か道路を探す。
異世界だろうが何だろうが、やることは基本的に同じだろう。
問題は、俺が山歩きに慣れていないことだった。
完全なインドア派である。
職業は物書き。
日常的に歩く距離は、作業机から冷蔵庫まで。
たまにコンビニまで行くと、帰ってくる頃には軽く息が上がっている。
そんな俺が、いきなり森の中でサバイバル。
難易度設定を間違えている。
誰だ、このプロットを作ったのは。
俺かもしれない。
笑えない。
少し歩いただけで、息が上がった。
枝が服に引っかかる。
蔓に足を取られる。
顔の近くを、見たことのない羽虫が飛んでいく。
「うわ、でかっ」
思わず手で払う。
その拍子にバランスを崩し、木の根に足を取られて転びかけた。
最悪だ。
森の描写にこだわった過去の俺を殴りたい。
もっと歩きやすい森にしておけ。
せめて遊歩道くらい整備しておけ。
そんなことを考えながら、ふと足元を見る。
地面に、細い獣道があった。
ただの偶然かもしれない。
けれど、その道筋は妙に見覚えがある。
黒樹の森を抜ける時、レオンハルトたちが通る隠し道。
昔、狩人が使っていた道で、地元の人間しか知らない。
俺は唾を飲み込んだ。
まさか。
いや、でも。
試して、みるか。
俺は再び本を開いた。
仕様が書かれたページの次に、今度は別のページが開いた。
そこには、文章があった。
『瀬尾文也は、黒樹の森の中で目を覚ました』
俺は固まった。「瀬尾文也」は、俺の名前だ。ペンネームも全く一緒の物を使っている。
ページには続きがある。
『彼の右手には、一冊の本があった。自らが書いた小説、『黎明の反逆皇子』の名を冠した、見覚えのないハードカバーである』
『文也は森を歩き、黒樹の根に足を取られながら、己の置かれた状況を理解しようとしていた』
今、起きたことが書かれている。
俺が考えた文章ではない。
けれど、間違いなく、俺の行動が記録されている。
その先は白紙だった。
紙面の下半分。
何も書かれていない、余白のような空間。
俺は、ポケットにペンがあることに気づいた。
見慣れた万年筆だった。
作業中に使っていたものだ。
キーボードで書くことが多いくせに、プロットやアイデアなんかは紙に書きたがるせいで、いつも机の上に置いている。
「一日に一度だけ、書き加えられる……」
さっきの仕様文を思い出す。
馬鹿馬鹿しい。
だが、今は馬鹿馬鹿しいことだらけだ。
俺は白紙の部分に、震える手で文字を書いた。
『近くに安全な小屋があった』
これでいい。
小屋があれば休める。
人がいれば助けを求められる。
少なくとも、森の中で野垂れ死ぬよりはマシだ。
だが、書いた文字はすぐに滲んだ。
インクが水に溶けるように崩れ、黒い染みになり、そして跡形もなく消える。
「……駄目、なのか」
現実に起こりえないことは書けない。
なるほど。
近くに都合よく安全な小屋が出てくるのは、都合がよすぎるらしい。
「いや、そこは空気読めよ。こっちは遭難してるんだぞ」
文句を言っても、本は返事をしない。
俺は深く息を吸った。
考えろ。
この森に小屋はない。
少なくとも、今いる場所の近くに安全な小屋があるとは設定していない。
だが、狩人はいた。
昔、この森には狩人が入っていた設定にした。
なら、痕跡くらいは残っていてもおかしくない。
俺は新しく書いた。
『森の奥には、かつて狩人が使っていた古い目印が残っていた』
文字は、消えなかった。
黒いインクが紙に沈み込む。
次の瞬間、ぞわり、と足元の地面が震えた気がした。
風が吹く。
木々の葉が擦れ合う。
俺は顔を上げた。
少し先の木の幹に、斜めの傷がついている。
自然にできた傷ではない。
刃物で削ったような、古い目印。
俺は無意識に息を呑んだ。
「……マジかよ」
本当に、現実が変わった。
いや、変わったというより、最初からそこにあったことになった。
そう表現する方が近い。
俺は本を閉じようとしたが、その時、ページの余白に薄い文字が浮かんだ。
『本日の追記は終了した』
「一回きり、か」
仕様にそう書いてあった。
だが、実際に表示されると急に心細くなる。
もう今日は、この力を使えない。
小屋も出せない。
食料も出せない。
魔物に襲われても、都合よく助かる文章は書けない。
俺は本を抱え直し、古い目印を辿って歩き始めた。
黒樹の森。
狩人の目印。
レオンハルトの逃亡路。
認めたくないが、状況証拠は積み上がっている。
ここは俺の書いた小説の世界だ。
問題は、今が作中のどの時間軸なのか。
レオンハルトが帝都を追われた直後なら、彼はまだ少年だ。
年齢は十四。
性格は真っ直ぐで、人を疑い切れない。
側近のセラフィナやバルドと共に、命からがらこの森を抜けようとしている。
そして、その先で彼は仲間を得る。
仲間を得て、傭兵団を作り、少しずつ力をつけていく。
だが、少年編の終盤。
彼の傭兵団は壊滅する。
仲間の多くが殺される。
信じていた者に裏切られる。
守ろうとした村は焼かれる。
女騎士セラフィナも、彼を庇って死ぬ。
その結果、青年編のレオンハルトは変わる。
優しかった少年は、冷たい復讐者になる。
国を取り戻すためなら、敵も味方も駒として使う男になる。
俺が、そう書いた。
「……」
思わず足が止まる。
自分で書いておいて何だが、あれは酷い。
いや、展開としては必要だった。
読者に主人公の変化を納得させるには、大きな喪失が必要だった。
復讐者としての青年編に説得力を持たせるには、少年編で徹底的に折る必要があった。
必要だった。
そう思って書いた。
けれど。
もし、その少年が本当にこの世界にいるのだとしたら。
もし、これから本当に、俺の書いた通りに仲間を失うのだとしたら。
「……ふざけんなよ」
自分に向けた言葉だった。
書いた時は、物語だった。
画面の中の文字だった。
展開であり、構成であり、盛り上がりだった。
でも、ここには匂いがある。
湿った土の感触がある。
虫の羽音がある。
転べば痛いし、泥は服につく。
きっと、あいつらも同じだ。
レオンハルトも。
セラフィナも。
バルドも。
ミロも。
エルナも。
俺が名前を与えて、役割を与えて、死に場所まで決めた人間たちが、この世界で息をしている。
俺は本を抱える手に力を込めた。
「……まだ、間に合うのか?」
現在のページしか開けない。
過去は変えられない。
未来も読めない。
けれど、俺には記憶がある。
自分で書いた物語の記憶がある。
そして、この本がある。
一日に一度だけ。
現実に起こりえる範囲で。
ほんの少しだけ、物語に書き加えることができる。
万能ではない。
むしろ、制限だらけだ。
それでも。
「……救えるかもしれない」
レオンハルトを。
まだ闇に落ちる前の、あの少年を。
そう思った直後だった。
風に混じって、かすかな音が聞こえた。
人の声だ。
俺は反射的に身を低くする。
耳を澄ますと、声は複数あった。
荒い笑い声。
低い怒鳴り声。
それから、何かを引きずるような音。
「こっちだ、まだ荷が残ってる!」
「女は逃げたか?」
「知らねえよ。先に食いもんだ。腹が減って死にそうなんだよ」
背筋が凍った。
山賊。
そう理解した瞬間、喉が乾いた。
黒樹の森には、反乱から逃げた兵や野盗が潜んでいる。
それは俺が書いた設定だ。
レオンハルトが逃亡中に最初に遭遇する危険の一つ。
その山賊が、今、近くにいる。
俺は本を開こうとして、すぐに手を止めた。
本日の追記は終了した。
もう書けない。
今の俺にあるのは、この世界じゃ違和感のある服と、重い本と、役に立つかどうか怪しいペンだけ。
足音が近づく。
俺は木の陰に身を隠した。
心臓がうるさい。
呼吸が荒い。
膝が震える。
荒い笑い声が、すぐ近くで聞こえた。
次いで、短い悲鳴。
誰かが、泣いている。
俺は息を殺したまま、本を胸に抱きしめた。
そして、理解した。
ここは物語の中だ。
だが、俺にとってはもう、ただの物語ではなかった。