自作小説の世界に落ちた作者、闇落ち予定の第三皇子を救うために筆を執る 作:けもの
人の悲鳴は、想像していたよりずっと小さかった。
小説の中では、俺も何度となく悲鳴を書いてきた。
女の悲鳴。
兵士の断末魔。
焼かれる村から上がる叫び。
裏切られた者の絶叫。
そういうものを、物語の都合に合わせて書いてきた。
だが実際に耳にすると、それは文章で書くほど劇的ではなかった。
喉を潰したような、短く、かすれた声。
途中で無理やり口を塞がれたように途切れて、あとは荒い笑い声だけが残る。
俺は木の陰で固まったまま、動けなかった。
「おい、そっちの袋も見ろ。まだ何か入ってるだろ」
「乾いた肉だ。あと黒パン。固ぇけど食えねえことはねえ」
「酒はねえのかよ、酒は」
「文句言うんじゃねえよ」
男たちの声が聞こえる。
近い。
想像以上に近い。
俺は本を胸に抱えたまま、できる限り体を小さくした。
木の幹は太いが、完全に隠れられるほどではない。
少しでも角度を変えられれば、すぐに見つかる。
山賊。
頭では分かっている。
ここが『黎明の反逆皇子』の世界なら、黒樹の森に野盗や脱走兵が潜んでいるのは当然だ。
反乱で帝都周辺の秩序は崩れ、軍から逃げた兵士や、徴発から逃れた農民、元から森に潜んでいた盗賊たちが混ざり合い、弱い者から奪って生きている。
そういう設定にした。
俺が。
だが、設定と現実は違う。
文字にすれば一行だ。
――黒樹の森には、野盗が潜んでいる。
けれど、その一行の中には、声がある。
足音がある。
血の匂いがある。
誰かの荷物を漁る音がある。
そして、殺されたかもしれない人間のがいる。
指先が震えていた。
俺は本を開こうとして、また思い直す。
本日の追記は終了した。
そう書かれていた。無理だ。
さっき、狩人の目印を書いた。
一日に一度だけ。
そう仕様にあった。
さっきは、あの一文がこの森を歩く手がかりになった。
だが今は、その一文を使ってしまったことを猛烈に後悔している。
小屋なんて欲張らずに、もっと直接的なことを書けばよかった。
近くに安全な場所があるとか。
いや、そもそもそんな文章が通ったかどうか分からない。
現実に起こりえないことは書けない。
都合よく命が助かる文章など、この本は許してくれるのだろうか。
「……くそ」
声が漏れかけて、慌てて口を押さえる。
駄目だ。
音を立てるな。
落ち着け。
まずは状況を確認する。
山賊の声は、少なくとも三人分は聞こえた。
いや、四人か。
少し離れたところにも足音がある。
武器は分からない。
ただ、金属が擦れる音がした。
剣か、斧か、槍か。
俺は武器なんて持っていない。
あるのは本とペンだけだ。
重いハードカバーで殴れば、一瞬くらいはひるませられるかもしれない。
だが、その後はどうする。
相手は複数。
俺は喧嘩すらまともにしたことがない。
小説なら、ここで主人公が冷静に策を巡らせる。
地形を利用し、相手の油断を突き、一人ずつ無力化する。
あるいは、圧倒的な戦闘能力で切り抜ける。
だが現実の俺は、木の陰で膝を震わせているだけだった。
情けない。
情けないが、仕方ない。
俺は第三皇子ではない。
魔導士でも騎士でもない。
ただの作家だ。
締め切りに追われるだけの、運動不足の現代人だ。
その時、すぐ近くの茂みが揺れた。
心臓が跳ねる。
俺は反射的に身を縮めた。
「おい」
男の声。
低く、濁った声だった。
「今、何か音がしなかったか?」
全身から血の気が引いた。
音。
俺か。
俺が何か音を立てたのか。
呼吸か。
服が擦れた音か。
足元の枝か。
「獣だろ」
別の男が面倒そうに言う。
「この森じゃ珍しくもねえ」
「確かにな。しかし、腹が減ったな」
「なら仕留めろよ。肉になる」
「馬鹿言え。黒牙狼だったらどうすんだ」
黒牙狼。
その名前を聞いた瞬間、俺の背中に冷たい汗が流れた。
やはり、ここは黒樹の森だ。
黒牙狼。
俺が設定した夜行性の魔物。
狼に似た姿をしているが、口が異様に大きく、牙は黒く、目は暗闇で灰色に光る。
血の匂いに敏感で、群れで獲物を追い詰める。
そして、火を嫌う。
少年編序盤、レオンハルトたちが夜営中に襲われる魔物。
その時はセラフィナが撃退する。
確か、兵士が一人負傷する予定だった。
……いや、違う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
男の足音が近づいてくる。
ざく。
ざく。
湿った土を踏む音。
俺は木の陰で、息を止めた。
視界の端に、男の足が見えた。
泥で汚れた革靴。
すね当てらしき金属片。
破れたズボン。
次に、膝。
腰。
刃こぼれした短剣をぶら下げたベルト。
男が、俺の隠れている木のすぐ横まで来ていた。
もう、駄目だ。
そう思った瞬間、少し離れたところで誰かが怒鳴った。
「おい! こっちにまだ生きてる奴がいるぞ!」
男の動きが止まる。
「ああ? 女か?」
「爺だ。馬車の下に隠れてやがった」
「なら殺しとけ。面倒だ」
「待て待て。何か知ってるかもしれねえだろ」
男は舌打ちした。
そして、俺の方を見ることなく、声のした方へ戻っていく。
俺はその場にへたり込みそうになった。
だが、足から力を抜けば、その音で気づかれるかもしれない。
耐えろ。
今だけは耐えろ。
男たちの声が少し遠ざかる。
俺は恐る恐る、木の陰から顔を出した。
少し先に、壊れた荷車があった。
片輪が外れ、荷台が傾いている。
周囲には木箱や布袋が散らばっていた。
そのいくつかは破られ、中身が地面にぶちまけられている。
人も倒れていた。
一人。
二人。
三人。
遠目では生死が分からない。
だが、動いていない。
その光景を見た瞬間、胃の奥がひっくり返るような感覚がした。
俺は口元を押さえる。
書いた。
こういう場面を、俺は書いた。
野盗に襲われた旅人。
略奪された荷車。
道端に転がる死体。
それらは、世界の荒廃を示すための背景だった。
主人公の苦難を演出するための舞台装置だった。
けれど、今は違う。
あれは誰かだ。
名前は知らない。
俺が設定したキャラですらないかもしれない。
ただの、背景にすらならない人間かもしれない。
それでも、誰かだ。
誰かが、ここで襲われた。
「……っ」
吐き気が込み上げた。
だが、吐けば音が出る。
匂いも出る。
俺は必死に堪えた。
山賊たちは荷車の周囲で騒いでいる。
一人は太った男。
髭面で、肩に斧を担いでいる。
一人は痩せた男。
弓を持っている。
目つきが悪く、落ち着きなく周囲を見回していた。
一人は若い男。
元兵士だろうか。鎧の一部を身につけている。
手には剣。
もう一人、少し年嵩の男がいた。
革の胸当てをつけ、他の連中よりも動きに余裕がある。
こいつがまとめ役か。
合計四人。
四人。
多すぎる。
一人でも無理なのに、四人。
俺はじりじりと後ろへ下がろうとした。
今なら逃げられるかもしれない。
山賊たちは荷物に気を取られている。
俺一人がいなくなったところで、気づかないはずだ。
だが、後ろへ下がった瞬間。
ぱきり、と小枝が鳴った。
世界が止まったように感じた。
山賊の一人が、こちらを見た。
「……誰だ」
痩せた弓持ちの男だった。
目が合う。
最悪だ。
「おい、誰かいるぞ!」
「は?」
「そこの木の裏だ!」
次の瞬間、俺は走り出していた。
走るというより、転がるように逃げた。
枝が顔に当たる。
服が蔓に引っかかる。
足元が滑る。
それでも止まれない。
「待てや!」
「逃がすな!」
怒鳴り声が追ってくる。
心臓が痛い。
肺が焼ける。
足が重い。
たった数秒で息が上がった。
日頃の運動不足を、ここまで呪ったことはない。
背後で弦の鳴る音がした。
直後、俺のすぐ横の木に、矢が突き刺さった。
「うわああああっ!」
悲鳴を上げてしまう。
矢。
本物の矢だ。
当たれば死ぬ。
いや、死なないとしても、まともに動けなくなる。
現代日本で生きてきた人間は、矢で撃たれて無事な身体をしていない。
どの世界でもそうか。パニックのせいか、変なことが頭に浮かぶ、
俺は必死に木々の間を走る。
まっすぐ逃げたら射られる。
そう思って、左右にふらつきながら走った。
だが、それは計算された回避ではない。
単に足場が悪くてまっすぐ走れないだけだ。
背後から笑い声が聞こえる。
「なんだあいつ、変な服着てやがる!」
「貴族か?」
「馬鹿、あんな貧乏くせえ貴族がいるかよ!」
「捕まえろ! 荷物持ってるぞ!」
荷物。
本のことか。
俺は本を抱え直した。
これだけは手放せない。
この本がなければ、俺は本当に何もできない。
だが、重い。
走るには邪魔だ。
抱えた腕が痛い。
俺は木の根に足を引っかけ、派手に転んだ。
「ぐっ……!」
肩から地面に落ちる。
泥が口に入る。
手のひらに鋭い痛み。
起き上がろうとした時、背後から足音が迫った。
「捕まえた」
痩せた男の声。
俺は振り返った。
弓持ちの男が、にやにや笑いながら近づいてくる。
弓には次の矢が番えられていた。
「おいおい、ずいぶん必死じゃねえか。どこの誰だ、お前」
俺は答えられなかった。
喉が詰まる。
言葉が出ない。
「言葉も分からねえのか?」
男が弓を下げ、腰の短剣に手をかける。
「まあいい。荷物置け。あと服も脱げ」
「……え?」
「聞こえなかったか? 服だよ、服。妙な拵えだが、布は布だ。売れるかもしれねえ」
冗談じゃない。
この森で服を奪われたら、ほぼ終わりだ。
寒さ、虫、怪我。
裸同然で歩ける場所ではない。
俺は後ずさる。
「ま、待て。俺は――」
「待たねえよ」
男が一歩近づく。
その時だった。
遠くで、何かが鳴いた。
低く、湿った、喉を潰すような音。
男の表情が変わった。
「……今の」
俺も、聞き覚えがあった。
いや、性格には聞いたことはない。
だが、設定した。
そういう鳴き声だと、文章にした。
黒牙狼。
血の匂いに寄る、夜行性の魔物。
夜行性。
今はまだ昼だ。
森の中は薄暗いが、完全な夜ではない。
なのに、なぜ。
そう思って、俺は周囲を見た。
荷車。
死体。
血。
騒ぐ山賊。
追いかけ回される俺。
十分すぎるほど、条件が揃っていた。
「おい! 戻れ!」
遠くで、年嵩の山賊が叫んだ。
「黒牙狼だ! 火を!」
痩せた男が舌打ちする。
俺への関心が一瞬だけ逸れた。
その一瞬に、俺は立ち上がって走った。
「てめっ!」
男が怒鳴る。
だが、追ってこない。
背後で茂みが大きく揺れた。
次の瞬間、悲鳴が上がった。
男のものだった。
俺は振り返らなかった。
振り返る余裕などなかった。
ただ走った。
どこへ向かっているのかも分からない。
狩人の目印を見失っている。
獣道からも外れている。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
背後で怒号が飛ぶ。
「火だ! 火を寄越せ!」
「矢が効かねえ!」
「離れろ、腕を――ぎゃああああっ!」
音が混ざる。
人の悲鳴。
獣の唸り。
枝が折れる音。
金属が弾かれる音。
俺は耳を塞ぎたかった。
だが、塞げば転ぶ。
森の中を無我夢中で走る。
どこかで足を滑らせ、斜面を転がり落ちた。
身体中を枝や石に打ちつける。
本を抱えたまま、地面に叩きつけられる。
「がっ……!」
肺の空気が抜けた。
しばらく息ができなかった。
やがて、どうにか呼吸が戻る。
俺はうつ伏せのまま、泥の中で震えていた。
背後の音は遠い。
だが、完全には消えていない。
まだ、何かが起きている。
俺はゆっくりと顔を上げた。
そこは、斜面の下だった。
木々が密集し、上からは見えにくい。
近くに倒木があり、その根元に小さな窪みがある。
隠れるなら、そこしかない。
俺は這うようにして倒木の陰に潜り込んだ。
息を殺す。
服は泥だらけ。
手のひらは擦りむけ、血が滲んでいる。
膝も痛い。
肩も痛い。
全身が痛い。
だが、生きている。
生きている、らしい。
「……なんだよ、これ」
声が震えた。
涙が出そうだった。
怖い。
普通に、怖い。
異世界転移。
自作小説の世界。
一日一度の追記能力。
そう言葉にすると、どこか面白そうに聞こえる。
物語の導入としては悪くない。
読者を引っ張れる要素もある。
だが、その中にいる本人はたまったものではない。
山賊に追われる。
矢を撃たれる。
魔物の鳴き声が聞こえる。
人が死ぬ。
それらは娯楽ではない。
読み物ではない。俺の今の現実だ。
俺は震える手で本を開いた。
現在のページが開く。
『瀬尾文也は山賊に見つかり、黒樹の森を逃げた』
『山賊たちは彼を追った。しかし、血の匂いと騒ぎに引き寄せられた黒牙狼が、彼らの背後に現れた』
『文也は斜面を転がり落ち、倒木の陰に身を潜めた』
そこまで書かれている。
その先は白紙。
俺はペンを握る。
書けない。
分かっている。
それでも、何か書きたかった。
何でもいい。
安全だと。助かると。
もう怖いものは来ないと。
そんな一文を、どこかに書きたかった。
だが、ペン先は紙に触れる直前で止まった。
書いても消える。
それに、もし書けたとしても、そんな都合のいい文章は通らないだろう。
俺は本を閉じた。
そして、倒木の隙間から外を見た。
森の奥で、黒い影が動いた気がした。
心臓が止まりかける。
だが、それは魔物ではなかった。
逃げてきた山賊の一人だった。
さっきの痩せた弓持ちではない。
若い男だ。
鎧の一部を身につけた、元兵士らしき山賊。
剣を持っている。
だが、腕から血を流していた。
顔は青ざめ、目は恐怖に見開かれている。
「くそ、くそ、くそ……!」
男は悪態をつきながら、斜面を下りてくる。
こちらに気づいていない。
だが、近い。
俺は口を押さえた。
来るな。
こっちに来るな。
祈るように思う。
男はよろめきながら倒木の近くまで来た。
そして、足を止める。
俺は息を止めた。
男の視線が、倒木の陰へ向く。
目が合った。
見つかった。
「……お前」
男が剣を握り直す。
その手は震えていた。
俺と同じように、男も怯えている。
だが、剣を持っているのは向こうだ。
「お前のせいだ」
男が低く言う。
「お前が逃げたから、あいつらが……!」
違う。
俺のせいじゃない。
そう言いたかった。
だが、声が出なかった。
そもそも、本当に俺のせいではないのか。
俺が山賊に見つかった。
俺が逃げた。
山賊たちが騒いだ。
血の匂いと音に黒牙狼が寄ってきた。
原因の一つではある。
そして、もっと根本的には。
この森に黒牙狼を設定したのは、俺だ。
「出てこい」
男が剣先を向ける。
「荷物を寄越せ。そしたら……いや、駄目だ。殺す。お前を殺して、あいつらが食ってる隙に逃げる」
意味の分からないを言っている。
殺されたくなんてない。
俺はじりじりと後ろに下がる。
倒木の窪みの中では、逃げ場がない。
男が近づく。
一歩。
また一歩。
俺は本を盾のように抱えた。
こんなもので剣を防げるのか。
分からない。
だが、他に何もない。
男が剣を振り上げた。
その瞬間。
男の背後の茂みが、音もなく裂けた。
灰色の眼が、暗がりに浮かぶ。
黒い牙。
異様に大きな口。
ぬらりと濡れた毛並み。
黒牙狼。
俺が書いた魔物が、そこにいた。
男が気づくより早く、黒牙狼が跳んだ。
「――」
男の悲鳴は、最後まで声にならなかった。
俺は倒木の陰で硬直する。
目の前で、男が地面に倒れる。
黒牙狼がその上に覆いかぶさる。
肉が裂ける音がした。
俺は両手で口を塞いだ。
吐くな。
声を出すな。
動くな。
少しでも音を立てれば、次は俺だ。
黒牙狼はしばらく男の体を引きずっていた。
やがて、何かに気づいたように顔を上げる。
灰色の目が、こちらを向いた。
見えているのか。
匂いで分かるのか。
俺は死を覚悟した。
だが、黒牙狼はすぐには襲ってこなかった。
遠くで、別の山賊の叫び声がした。
黒牙狼は耳を動かし、そちらへ顔を向ける。
そして、男の体を咥えたまま、茂みの奥へ消えていった。
俺は動けなかった。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
数分か。
数十分か。
森の音が戻ってくる。
葉擦れ。
虫の羽音。
遠くの鳥の声。
そして、かすかな獣の唸り。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
手が震えている。
歯が鳴っている。
全身から汗が噴き出しているのに、寒い。
「……生きてる」
声に出すと、急に実感が湧いてきた。
生きている。
俺はまだ、生きている。
それが分かった瞬間、涙が出た。
情けないとか、格好悪いとか、そういうことを考える余裕はなかった。
ただ怖かった。
ただ、生きていた。
しばらくして、俺は倒木の陰から這い出た。
山賊の血の跡が地面に残っている。
剣が落ちていた。
俺はそれを見つめる。
拾うべきだ。
分かっている。
武器が必要だ。
今後また何かに襲われるかもしれない。
でも、触りたくなかった。
刃物なんて、包丁くらいしか持ったことは無いから。でも。
俺は吐き気を堪えながら、剣を拾った。
重い。
想像よりずっと重い。
映画やゲームのように軽々とは振れない。
こんなものを持って走れる気がしない。
だが、ないよりはマシだ。
さらに少し離れたところに、山賊の革袋が落ちていた。
中には干し肉と黒パン、銅貨らしきものが数枚。
火打ち石。
汚れた布。
俺はそれらを拾った。
奪っている。
死んだ人間から。
そう思うと、また吐き気がした。
だが、拾わなければ死ぬ。
ここで綺麗事を言っても、誰も助けてくれない。
俺は山賊から奪った革袋を肩にかける。
剣は腰に差せないので、仕方なく手で持った。
本は相変わらず胸に抱える。
手が足りない。
体力も足りない。
精神力はもっと足りない。
「……最悪だ」
呟いた声は、自分でも驚くほど弱かった。
それでも、歩くしかない。
俺はもう一度、本を開いた。
現在のページには、今の出来事が記されている。
『文也は黒牙狼に襲われた山賊の剣と革袋を拾った』
『彼は、自分が作り出した世界の残酷さを、初めて肌で理解した』
その一文を読んで、俺は奥歯を噛み締めた。
「作り出した、か」
そうだ。
この世界を作ったのは俺だ。
少なくとも、そういうことになっている。
なら、責任はあるのか。
山賊が人を襲うことにも。
黒牙狼が人を食うことにも。
レオンハルトが仲間を失うことにも。
俺に、責任があるのか。
答えは出なかった。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
この世界は、俺が思っていたよりずっと辛い。
その痛みを、レオンハルトはこれから何度も味わうことになる。
俺が書いた通りなら。
「……そんなの、駄目だろ」
俺は本を閉じた。
今すぐ何かを変えられるわけではない。
今日の追記はもう使えない。
俺自身も満身創痍だ。
それでも、歩かなければならない。
まずは生き延びる。
そして、レオンハルトを見つける。
まだ闇に落ちる前の、第三皇子を。
そう決めて、俺は斜面の下を進み始めた。
その時、遠くの森の向こうから、かすかな音が聞こえた。
馬のいななき。
それから、金属がぶつかる音。
俺は足を止める。
心臓が、また嫌な音を立て始めた。
山賊か。
反乱軍か。
それとも。
俺は本を抱え直し、音のする方を見た。
木々の隙間、霧の向こう。
そこに、折れた矢が落ちていた。
矢羽には、銀の鷲。
アルヴァレア帝国皇族近衛の紋章。
俺は息を呑む。
近い。
第三皇子レオンハルトは、もう近くにいる。