自作小説の世界に落ちた作者、闇落ち予定の第三皇子を救うために筆を執る   作:けもの

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第二話 作者、山賊に怯える

 人の悲鳴は、想像していたよりずっと小さかった。

 

 小説の中では、俺も何度となく悲鳴を書いてきた。

 

 女の悲鳴。

 兵士の断末魔。

 焼かれる村から上がる叫び。

 裏切られた者の絶叫。

 

 そういうものを、物語の都合に合わせて書いてきた。

 

 だが実際に耳にすると、それは文章で書くほど劇的ではなかった。

 喉を潰したような、短く、かすれた声。

 途中で無理やり口を塞がれたように途切れて、あとは荒い笑い声だけが残る。

 

 俺は木の陰で固まったまま、動けなかった。

 

「おい、そっちの袋も見ろ。まだ何か入ってるだろ」

 

「乾いた肉だ。あと黒パン。固ぇけど食えねえことはねえ」

 

「酒はねえのかよ、酒は」

 

「文句言うんじゃねえよ」

 

 男たちの声が聞こえる。

 

 近い。

 想像以上に近い。

 

 俺は本を胸に抱えたまま、できる限り体を小さくした。

 木の幹は太いが、完全に隠れられるほどではない。

 少しでも角度を変えられれば、すぐに見つかる。

 

 山賊。

 

 頭では分かっている。

 ここが『黎明の反逆皇子』の世界なら、黒樹の森に野盗や脱走兵が潜んでいるのは当然だ。

 反乱で帝都周辺の秩序は崩れ、軍から逃げた兵士や、徴発から逃れた農民、元から森に潜んでいた盗賊たちが混ざり合い、弱い者から奪って生きている。

 

 そういう設定にした。

 

 俺が。

 

 だが、設定と現実は違う。

 文字にすれば一行だ。

 

 ――黒樹の森には、野盗が潜んでいる。

 

 けれど、その一行の中には、声がある。

 足音がある。

 血の匂いがある。

 誰かの荷物を漁る音がある。

 そして、殺されたかもしれない人間のがいる。

 

 指先が震えていた。

 俺は本を開こうとして、また思い直す。

 

 本日の追記は終了した。

 

 そう書かれていた。無理だ。

 さっき、狩人の目印を書いた。

 一日に一度だけ。

 そう仕様にあった。

 

 さっきは、あの一文がこの森を歩く手がかりになった。

 だが今は、その一文を使ってしまったことを猛烈に後悔している。

 

 小屋なんて欲張らずに、もっと直接的なことを書けばよかった。

 近くに安全な場所があるとか。

 いや、そもそもそんな文章が通ったかどうか分からない。

 

 現実に起こりえないことは書けない。

 都合よく命が助かる文章など、この本は許してくれるのだろうか。

 

「……くそ」

 

 声が漏れかけて、慌てて口を押さえる。

 

 駄目だ。

 音を立てるな。

 

 落ち着け。

 まずは状況を確認する。

 

 山賊の声は、少なくとも三人分は聞こえた。

 いや、四人か。

 少し離れたところにも足音がある。

 

 武器は分からない。

 ただ、金属が擦れる音がした。

 剣か、斧か、槍か。

 

 俺は武器なんて持っていない。

 あるのは本とペンだけだ。

 

 重いハードカバーで殴れば、一瞬くらいはひるませられるかもしれない。

 だが、その後はどうする。

 相手は複数。

 俺は喧嘩すらまともにしたことがない。

 

 小説なら、ここで主人公が冷静に策を巡らせる。

 地形を利用し、相手の油断を突き、一人ずつ無力化する。

 あるいは、圧倒的な戦闘能力で切り抜ける。

 

 だが現実の俺は、木の陰で膝を震わせているだけだった。

 

 情けない。

 情けないが、仕方ない。

 俺は第三皇子ではない。

 魔導士でも騎士でもない。

 ただの作家だ。

 

 締め切りに追われるだけの、運動不足の現代人だ。

 

 その時、すぐ近くの茂みが揺れた。

 心臓が跳ねる。

 俺は反射的に身を縮めた。

 

「おい」

 

 男の声。

 低く、濁った声だった。

 

「今、何か音がしなかったか?」

 

 全身から血の気が引いた。

 

 音。

 俺か。

 俺が何か音を立てたのか。

 

 呼吸か。

 服が擦れた音か。

 足元の枝か。

 

「獣だろ」

 

 別の男が面倒そうに言う。

 

「この森じゃ珍しくもねえ」

 

「確かにな。しかし、腹が減ったな」

 

「なら仕留めろよ。肉になる」

 

「馬鹿言え。黒牙狼だったらどうすんだ」

 

 黒牙狼。

 

 その名前を聞いた瞬間、俺の背中に冷たい汗が流れた。

 やはり、ここは黒樹の森だ。

 

 黒牙狼。

 俺が設定した夜行性の魔物。

 狼に似た姿をしているが、口が異様に大きく、牙は黒く、目は暗闇で灰色に光る。

 血の匂いに敏感で、群れで獲物を追い詰める。

 そして、火を嫌う。

 

 少年編序盤、レオンハルトたちが夜営中に襲われる魔物。

 その時はセラフィナが撃退する。

 確か、兵士が一人負傷する予定だった。

 

 ……いや、違う。

 今はそんなことを考えている場合じゃない。

 

 男の足音が近づいてくる。

 

 ざく。

 ざく。

 湿った土を踏む音。

 

 俺は木の陰で、息を止めた。

 

 視界の端に、男の足が見えた。

 泥で汚れた革靴。

 すね当てらしき金属片。

 破れたズボン。

 

 次に、膝。

 腰。

 刃こぼれした短剣をぶら下げたベルト。

 

 男が、俺の隠れている木のすぐ横まで来ていた。

 

 もう、駄目だ。

 

 そう思った瞬間、少し離れたところで誰かが怒鳴った。

 

「おい! こっちにまだ生きてる奴がいるぞ!」

 

 男の動きが止まる。

 

「ああ? 女か?」

 

「爺だ。馬車の下に隠れてやがった」

 

「なら殺しとけ。面倒だ」

 

「待て待て。何か知ってるかもしれねえだろ」

 

 男は舌打ちした。

 そして、俺の方を見ることなく、声のした方へ戻っていく。

 

 俺はその場にへたり込みそうになった。

 だが、足から力を抜けば、その音で気づかれるかもしれない。

 

 耐えろ。

 今だけは耐えろ。

 

 男たちの声が少し遠ざかる。

 

 俺は恐る恐る、木の陰から顔を出した。

 少し先に、壊れた荷車があった。

 

 片輪が外れ、荷台が傾いている。

 周囲には木箱や布袋が散らばっていた。

 そのいくつかは破られ、中身が地面にぶちまけられている。

 

 人も倒れていた。

 

 一人。

 二人。

 三人。

 

 遠目では生死が分からない。

 だが、動いていない。

 

 その光景を見た瞬間、胃の奥がひっくり返るような感覚がした。

 俺は口元を押さえる。

 

 書いた。

 こういう場面を、俺は書いた。

 

 野盗に襲われた旅人。

 略奪された荷車。

 道端に転がる死体。

 

 それらは、世界の荒廃を示すための背景だった。

 主人公の苦難を演出するための舞台装置だった。

 

 けれど、今は違う。

 

 あれは誰かだ。

 名前は知らない。

 俺が設定したキャラですらないかもしれない。

 ただの、背景にすらならない人間かもしれない。

 

 それでも、誰かだ。

 誰かが、ここで襲われた。

 

「……っ」

 

 吐き気が込み上げた。

 だが、吐けば音が出る。

 匂いも出る。

 

 俺は必死に堪えた。

 

 山賊たちは荷車の周囲で騒いでいる。

 

 一人は太った男。

 髭面で、肩に斧を担いでいる。

 

 一人は痩せた男。

 弓を持っている。

 目つきが悪く、落ち着きなく周囲を見回していた。

 

 一人は若い男。

 元兵士だろうか。鎧の一部を身につけている。

 手には剣。

 

 もう一人、少し年嵩の男がいた。

 革の胸当てをつけ、他の連中よりも動きに余裕がある。

 こいつがまとめ役か。

 

 合計四人。

 

 四人。

 多すぎる。

 

 一人でも無理なのに、四人。

 俺はじりじりと後ろへ下がろうとした。

 

 今なら逃げられるかもしれない。

 山賊たちは荷物に気を取られている。

 俺一人がいなくなったところで、気づかないはずだ。

 

 だが、後ろへ下がった瞬間。

 ぱきり、と小枝が鳴った。

 

 世界が止まったように感じた。

 山賊の一人が、こちらを見た。

 

「……誰だ」

 

 痩せた弓持ちの男だった。

 

 目が合う。

 

 最悪だ。

 

「おい、誰かいるぞ!」

 

「は?」

 

「そこの木の裏だ!」

 

 次の瞬間、俺は走り出していた。

 走るというより、転がるように逃げた。

 

 枝が顔に当たる。

 服が蔓に引っかかる。

 足元が滑る。

 それでも止まれない。

 

「待てや!」

 

「逃がすな!」

 

 怒鳴り声が追ってくる。

 

 心臓が痛い。

 肺が焼ける。

 足が重い。

 

 たった数秒で息が上がった。

 日頃の運動不足を、ここまで呪ったことはない。

 

 背後で弦の鳴る音がした。

 直後、俺のすぐ横の木に、矢が突き刺さった。

 

「うわああああっ!」

 

 悲鳴を上げてしまう。

 

 矢。

 本物の矢だ。

 

 当たれば死ぬ。

 いや、死なないとしても、まともに動けなくなる。

 

 現代日本で生きてきた人間は、矢で撃たれて無事な身体をしていない。

 どの世界でもそうか。パニックのせいか、変なことが頭に浮かぶ、

 

 俺は必死に木々の間を走る。

 

 まっすぐ逃げたら射られる。

 そう思って、左右にふらつきながら走った。

 だが、それは計算された回避ではない。

 単に足場が悪くてまっすぐ走れないだけだ。

 

 背後から笑い声が聞こえる。

 

「なんだあいつ、変な服着てやがる!」

 

「貴族か?」

 

「馬鹿、あんな貧乏くせえ貴族がいるかよ!」

 

「捕まえろ! 荷物持ってるぞ!」

 

 荷物。

 本のことか。

 

 俺は本を抱え直した。

 これだけは手放せない。

 この本がなければ、俺は本当に何もできない。

 

 だが、重い。

 走るには邪魔だ。

 抱えた腕が痛い。

 

 俺は木の根に足を引っかけ、派手に転んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 肩から地面に落ちる。

 泥が口に入る。

 手のひらに鋭い痛み。

 

 起き上がろうとした時、背後から足音が迫った。

 

「捕まえた」

 

 痩せた男の声。

 

 俺は振り返った。

 

 弓持ちの男が、にやにや笑いながら近づいてくる。

 弓には次の矢が番えられていた。

 

「おいおい、ずいぶん必死じゃねえか。どこの誰だ、お前」

 

 俺は答えられなかった。

 

 喉が詰まる。

 言葉が出ない。

 

「言葉も分からねえのか?」

 

 男が弓を下げ、腰の短剣に手をかける。

 

「まあいい。荷物置け。あと服も脱げ」

 

「……え?」

 

「聞こえなかったか? 服だよ、服。妙な拵えだが、布は布だ。売れるかもしれねえ」

 

 冗談じゃない。

 

 この森で服を奪われたら、ほぼ終わりだ。

 寒さ、虫、怪我。

 裸同然で歩ける場所ではない。

 

 俺は後ずさる。

 

「ま、待て。俺は――」

 

「待たねえよ」

 

 男が一歩近づく。

 その時だった。

 

 遠くで、何かが鳴いた。

 低く、湿った、喉を潰すような音。

 男の表情が変わった。

 

「……今の」

 

 俺も、聞き覚えがあった。

 

 いや、性格には聞いたことはない。

 だが、設定した。

 そういう鳴き声だと、文章にした。

 

 黒牙狼。

 

 血の匂いに寄る、夜行性の魔物。

 

 夜行性。

 今はまだ昼だ。

 森の中は薄暗いが、完全な夜ではない。

 

 なのに、なぜ。

 

 そう思って、俺は周囲を見た。

 

 荷車。

 死体。

 血。

 騒ぐ山賊。

 追いかけ回される俺。

 

 十分すぎるほど、条件が揃っていた。

 

「おい! 戻れ!」

 

 遠くで、年嵩の山賊が叫んだ。

 

「黒牙狼だ! 火を!」

 

 痩せた男が舌打ちする。

 俺への関心が一瞬だけ逸れた。

 

 その一瞬に、俺は立ち上がって走った。

 

「てめっ!」

 

 男が怒鳴る。

 だが、追ってこない。

 

 背後で茂みが大きく揺れた。

 

 次の瞬間、悲鳴が上がった。

 男のものだった。

 

 俺は振り返らなかった。

 振り返る余裕などなかった。

 

 ただ走った。

 どこへ向かっているのかも分からない。

 狩人の目印を見失っている。

 獣道からも外れている。

 

 それでも、足を止めるわけにはいかなかった。

 背後で怒号が飛ぶ。

 

「火だ! 火を寄越せ!」

 

「矢が効かねえ!」

 

「離れろ、腕を――ぎゃああああっ!」

 

 音が混ざる。

 

 人の悲鳴。

 獣の唸り。

 枝が折れる音。

 金属が弾かれる音。

 

 俺は耳を塞ぎたかった。

 だが、塞げば転ぶ。

 

 森の中を無我夢中で走る。

 どこかで足を滑らせ、斜面を転がり落ちた。

 身体中を枝や石に打ちつける。

 本を抱えたまま、地面に叩きつけられる。

 

「がっ……!」

 

 肺の空気が抜けた。

 しばらく息ができなかった。

 

 やがて、どうにか呼吸が戻る。

 俺はうつ伏せのまま、泥の中で震えていた。

 

 背後の音は遠い。

 だが、完全には消えていない。

 まだ、何かが起きている。

 

 俺はゆっくりと顔を上げた。

 

 そこは、斜面の下だった。

 木々が密集し、上からは見えにくい。

 近くに倒木があり、その根元に小さな窪みがある。

 

 隠れるなら、そこしかない。

 俺は這うようにして倒木の陰に潜り込んだ。

 

 息を殺す。

 

 服は泥だらけ。

 手のひらは擦りむけ、血が滲んでいる。

 膝も痛い。

 肩も痛い。

 全身が痛い。

 

 だが、生きている。

 生きている、らしい。

 

「……なんだよ、これ」

 

 声が震えた。

 涙が出そうだった。

 

 怖い。

 普通に、怖い。

 

 異世界転移。

 自作小説の世界。

 一日一度の追記能力。

 

 そう言葉にすると、どこか面白そうに聞こえる。

 物語の導入としては悪くない。

 読者を引っ張れる要素もある。

 

 だが、その中にいる本人はたまったものではない。

 

 山賊に追われる。

 矢を撃たれる。

 魔物の鳴き声が聞こえる。

 人が死ぬ。

 

 それらは娯楽ではない。

 読み物ではない。俺の今の現実だ。

 

 俺は震える手で本を開いた。

 現在のページが開く。

 

『瀬尾文也は山賊に見つかり、黒樹の森を逃げた』

 

『山賊たちは彼を追った。しかし、血の匂いと騒ぎに引き寄せられた黒牙狼が、彼らの背後に現れた』

 

『文也は斜面を転がり落ち、倒木の陰に身を潜めた』

 

 そこまで書かれている。

 その先は白紙。

 

 俺はペンを握る。

 

 書けない。

 分かっている。

 

 それでも、何か書きたかった。

 何でもいい。

 安全だと。助かると。

 もう怖いものは来ないと。

 

 そんな一文を、どこかに書きたかった。

 だが、ペン先は紙に触れる直前で止まった。

 

 書いても消える。

 それに、もし書けたとしても、そんな都合のいい文章は通らないだろう。

 

 俺は本を閉じた。

 

 そして、倒木の隙間から外を見た。

 森の奥で、黒い影が動いた気がした。

 

 心臓が止まりかける。

 

 だが、それは魔物ではなかった。

 逃げてきた山賊の一人だった。

 

 さっきの痩せた弓持ちではない。

 若い男だ。

 鎧の一部を身につけた、元兵士らしき山賊。

 

 剣を持っている。

 だが、腕から血を流していた。

 顔は青ざめ、目は恐怖に見開かれている。

 

「くそ、くそ、くそ……!」

 

 男は悪態をつきながら、斜面を下りてくる。

 

 こちらに気づいていない。

 だが、近い。

 

 俺は口を押さえた。

 

 来るな。

 こっちに来るな。

 

 祈るように思う。

 

 男はよろめきながら倒木の近くまで来た。

 そして、足を止める。

 

 俺は息を止めた。

 

 男の視線が、倒木の陰へ向く。

 目が合った。

 

 見つかった。

 

「……お前」

 

 男が剣を握り直す。

 

 その手は震えていた。

 俺と同じように、男も怯えている。

 

 だが、剣を持っているのは向こうだ。

 

「お前のせいだ」

 

 男が低く言う。

 

「お前が逃げたから、あいつらが……!」

 

 違う。

 俺のせいじゃない。

 

 そう言いたかった。

 だが、声が出なかった。

 

 そもそも、本当に俺のせいではないのか。

 

 俺が山賊に見つかった。

 俺が逃げた。

 山賊たちが騒いだ。

 血の匂いと音に黒牙狼が寄ってきた。

 

 原因の一つではある。

 

 そして、もっと根本的には。

 この森に黒牙狼を設定したのは、俺だ。

 

「出てこい」

 

 男が剣先を向ける。

 

「荷物を寄越せ。そしたら……いや、駄目だ。殺す。お前を殺して、あいつらが食ってる隙に逃げる」

 

 意味の分からないを言っている。

 殺されたくなんてない。

 

 俺はじりじりと後ろに下がる。

 倒木の窪みの中では、逃げ場がない。

 

 男が近づく。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 俺は本を盾のように抱えた。

 

 こんなもので剣を防げるのか。

 分からない。

 だが、他に何もない。

 

 男が剣を振り上げた。

 その瞬間。

 

 男の背後の茂みが、音もなく裂けた。

 灰色の眼が、暗がりに浮かぶ。

 

 黒い牙。

 異様に大きな口。

 ぬらりと濡れた毛並み。

 

 黒牙狼。

 

 俺が書いた魔物が、そこにいた。

 男が気づくより早く、黒牙狼が跳んだ。

 

「――」

 

 男の悲鳴は、最後まで声にならなかった。

 

 俺は倒木の陰で硬直する。

 

 目の前で、男が地面に倒れる。

 黒牙狼がその上に覆いかぶさる。

 肉が裂ける音がした。

 

 俺は両手で口を塞いだ。

 

 吐くな。

 声を出すな。

 動くな。

 

 少しでも音を立てれば、次は俺だ。

 

 黒牙狼はしばらく男の体を引きずっていた。

 やがて、何かに気づいたように顔を上げる。

 

 灰色の目が、こちらを向いた。

 

 見えているのか。

 匂いで分かるのか。

 

 俺は死を覚悟した。

 だが、黒牙狼はすぐには襲ってこなかった。

 

 遠くで、別の山賊の叫び声がした。

 黒牙狼は耳を動かし、そちらへ顔を向ける。

 

 そして、男の体を咥えたまま、茂みの奥へ消えていった。

 

 俺は動けなかった。

 

 どれくらい、そうしていたのか分からない。

 

 数分か。

 数十分か。

 

 森の音が戻ってくる。

 葉擦れ。

 虫の羽音。

 遠くの鳥の声。

 そして、かすかな獣の唸り。

 

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 手が震えている。

 歯が鳴っている。

 全身から汗が噴き出しているのに、寒い。

 

「……生きてる」

 

 声に出すと、急に実感が湧いてきた。

 

 生きている。

 俺はまだ、生きている。

 

 それが分かった瞬間、涙が出た。

 

 情けないとか、格好悪いとか、そういうことを考える余裕はなかった。

 ただ怖かった。

 ただ、生きていた。

 

 しばらくして、俺は倒木の陰から這い出た。

 

 山賊の血の跡が地面に残っている。

 剣が落ちていた。

 

 俺はそれを見つめる。

 

 拾うべきだ。

 分かっている。

 武器が必要だ。

 今後また何かに襲われるかもしれない。

 

 でも、触りたくなかった。

 刃物なんて、包丁くらいしか持ったことは無いから。でも。

 

 俺は吐き気を堪えながら、剣を拾った。

 

 重い。

 想像よりずっと重い。

 映画やゲームのように軽々とは振れない。

 こんなものを持って走れる気がしない。

 

 だが、ないよりはマシだ。

 

 さらに少し離れたところに、山賊の革袋が落ちていた。

 中には干し肉と黒パン、銅貨らしきものが数枚。

 火打ち石。

 汚れた布。

 

 俺はそれらを拾った。

 

 奪っている。

 死んだ人間から。

 

 そう思うと、また吐き気がした。

 だが、拾わなければ死ぬ。

 

 ここで綺麗事を言っても、誰も助けてくれない。

 

 俺は山賊から奪った革袋を肩にかける。

 剣は腰に差せないので、仕方なく手で持った。

 本は相変わらず胸に抱える。

 

 手が足りない。

 体力も足りない。

 精神力はもっと足りない。

 

「……最悪だ」

 

 呟いた声は、自分でも驚くほど弱かった。

 それでも、歩くしかない。

 

 俺はもう一度、本を開いた。

 現在のページには、今の出来事が記されている。

 

『文也は黒牙狼に襲われた山賊の剣と革袋を拾った』

 

『彼は、自分が作り出した世界の残酷さを、初めて肌で理解した』

 

 その一文を読んで、俺は奥歯を噛み締めた。

 

「作り出した、か」

 

 そうだ。

 この世界を作ったのは俺だ。

 少なくとも、そういうことになっている。

 

 なら、責任はあるのか。

 

 山賊が人を襲うことにも。

 黒牙狼が人を食うことにも。

 レオンハルトが仲間を失うことにも。

 

 俺に、責任があるのか。

 

 答えは出なかった。

 ただ、一つだけ分かっていることがある。

 

 この世界は、俺が思っていたよりずっと辛い。

 

 その痛みを、レオンハルトはこれから何度も味わうことになる。

 俺が書いた通りなら。

 

「……そんなの、駄目だろ」

 

 俺は本を閉じた。

 

 今すぐ何かを変えられるわけではない。

 今日の追記はもう使えない。

 俺自身も満身創痍だ。

 

 それでも、歩かなければならない。

 

 まずは生き延びる。

 そして、レオンハルトを見つける。

 まだ闇に落ちる前の、第三皇子を。

 

 そう決めて、俺は斜面の下を進み始めた。

 その時、遠くの森の向こうから、かすかな音が聞こえた。

 

 馬のいななき。

 それから、金属がぶつかる音。

 

 俺は足を止める。

 心臓が、また嫌な音を立て始めた。

 

 山賊か。

 反乱軍か。

 それとも。

 

 俺は本を抱え直し、音のする方を見た。

 

 木々の隙間、霧の向こう。

 そこに、折れた矢が落ちていた。

 

 矢羽には、銀の鷲。

 アルヴァレア帝国皇族近衛の紋章。

 

 俺は息を呑む。

 

 近い。

 

 第三皇子レオンハルトは、もう近くにいる。

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