自作小説の世界に落ちた作者、闇落ち予定の第三皇子を救うために筆を執る   作:けもの

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第三話 魔物の爪と停止する時間

 銀の鷲。

 

 折れた矢羽に刻まれた紋章を見た瞬間、俺の足はその場から動かなくなった。

 

 アルヴァレア帝国皇族近衛の紋章。

 

 俺が設定したものだ。

 帝国の象徴である双頭の鷲とは別に、皇族の身辺警護を担う近衛兵だけが使う銀鷲紋。

 

 少年編の序盤で、レオンハルトたちは追手から逃げる途中、黒樹の森で何度か小競り合いをしている。

 近衛兵の矢が折れて落ちているなら、彼らがここを通った可能性は高い。

 

 高い、どころではない。

 近い。

 

 第三皇子レオンハルトは、もう近くにいる。

 

「……マジか」

 

 呟いた声が、森の湿った空気に溶ける。

 

 目的地が見えた。

 それは良い。

 とても良い。

 

 だが、同時に問題がある。

 このまま近づいて、俺はどうする?

 

 こんにちは、あなたの物語の作者です。

 あなたの未来を知っています。

 この先、あなたは仲間を失って復讐者になります。

 可哀想なので助けに来ました。

 

 よし。

 完全に不審者だ。

 剣を向けられて終わる。

 

 いや、剣で済めばまだいい。

 セラフィナなら、たぶん一瞬で斬る。

 

 女騎士セラフィナ・ロウ。

 第三皇子レオンハルトの護衛騎士。

 まだ二十歳そこそこだが、剣の腕は近衛の中でも上位。

 忠誠心が強く、疑り深く、特にレオンハルトの安全に関わることでは一切妥協しない。

 

 俺が書いたキャラだ。

 分かる。

 あいつは怪しい男を近づけない。

 

 しかも今の俺は、どう見ても怪しい。

 

 泥だらけのこの辺りで見かけない服。

 山賊から拾った剣。

 革袋。

 なぜか重そうな本を抱えた男。

 

 うん。

 斬られる。

 これは斬られる。

 

「せめて、もうちょいまともな格好が欲しかったな……」

 

 山賊の服でも奪えばよかったのかもしれない。

 

 いや、無理だ。

 あの状況で死体の服を剥ぐ精神力はない。

 今持っている剣と革袋ですら、正直かなりきつい。

 

 俺は折れた矢を拾おうとして、やめた。

 

 証拠品のように持っていきたい気持ちはある。

 だが、近衛の矢を持っている不審者など、余計に危険だ。

 それに、どこかで追手に見つかった場合もまずい。

 

 俺は矢を元の場所に置いた。

 そして、周囲を見回す。

 

 木々の間には、かすかに踏み荒らされた跡が残っていた。

 馬の蹄の跡。

 人間の足跡。

 何か重いものを引きずったような跡。

 

 荷車か。

 馬車か。

 

 レオンハルトたちは、作中、帝都脱出時に一台の小型馬車を使っている。

 皇族用ではなく、商人のものに偽装した馬車だ。

 だが、黒樹の森に入る前の戦闘で車輪を損傷し、森の途中で放棄することになる。

 

 なら、この跡はその馬車のものかもしれない。

 

 俺は喉を鳴らした。

 

 追うべきだ。

 今すぐ。

 

 だが、急ぎすぎれば追手と鉢合わせる可能性がある。

 レオンハルト一行を追っているのは、反乱軍の兵士たちだ。

 山賊とは違う。訓練された兵だ。

 俺が見つかれば、言い訳する間もなく捕まるか、殺される。

 

 いや、そもそもレオンハルト一行に見つかっても危ない。

 

 味方予定の人物にも、敵にも、出会えば危険。

 詰んでいる。

 

「作者なのに、権限が弱すぎるだろ……」

 

 せめて初期装備で身分証くらい欲しかった。

 いや、この世界で通じる身分証を持っていたら、それはそれで出どころを聞かれて詰むか。

 

 そうだ、一行と追手がちょうど鉢合うあたりで、雨雲でも読んで雷でも落とすとかどうだろう。高名な魔術師です、みたいなはったりでも利かせられれば。

 

 いや、ダメだ。

 そもそもそんな内容が本に通るとも思えない。

 それに、魔術師なんかの身分を偽っても、ボロが出るだけだ。

 

 くだらない考えだと、頭を振って思考を逃がす。

 

 俺は本を抱え直し、足跡を辿り始めた。

 

 辺りはますます薄暗くなっている。

 空はまだ完全に暮れてはいないはずだが、黒樹の森の中では時間感覚が狂う。

 背の高い木々が光を遮り、昼でも夕方のように暗い。

 

 加えて、森の奥からは時折、低い獣の声が聞こえた。

 

 黒牙狼だろうか。

 それとも別の魔物か。

 

 自分で設定した世界のはずなのに、何が出るか分からない。

 小説に書いた範囲なら分かる。

 設定資料に残した範囲なら、ある程度は思い出せる。

 

 だが、この世界は俺が書いた文字だけでできているわけではない。

 

 俺が書かなかった木もある。

 俺が名前をつけなかった虫も飛んでいる。

 俺が設定しなかった地面のぬかるみで、実際に足を取られる。

 

 俺の知らない何かがいて当然だ。

 それが怖い。

 

「……落ち着け。まずは一晩だ」

 

 俺は自分に言い聞かせた。

 

 もう限界だった。

 山賊に追われ、魔物を目の前で見て、斜面を転がり落ちた。

 身体は痛い。

 腹も減っている。

 喉も渇いている。

 

 このまま歩き続ければ、レオンハルトを見つける前に俺が倒れる。

 

 俺は足跡から少し離れ、倒木と岩の間に身を隠せそうな場所を探した。

 獣道から外れすぎると迷う。

 だが、道の近くで寝れば人や魔物に見つかる。

 

 どちらも嫌だ。

 選択肢が全部嫌だ。

 

 結局、巨大な黒樹の根が張り出した場所に体を滑り込ませることにした。

 根と根の間に小さな空間がある。

 人ひとりが膝を抱えて座る程度なら、どうにか入れる。

 

 安全かどうかは分からない。

 ただ、丸見えよりはマシだ。

 

 俺は革袋から黒パンを取り出した。

 

 固い。

 冗談抜きで固い。

 

 歯で噛もうとして、一瞬、前歯が負けるかと思った。

 唾液でふやかしながら少しずつ齧る。

 味はしない。

 いや、する。

 土と木屑を足して、食べ物だと言い張ったような味がする。

 

「これを食料として設定したやつ、誰だよ」

 

 俺だった。

 

 正確には、戦記ものらしさを出すために「兵糧は固い黒パンと干し肉」と雑に書いた。

 主人公たちが苦しい旅をしている雰囲気を出すためだった。

 

 まさか、自分で食べることになるとは思わなかった。

 

 干し肉も齧る。

 こちらはしょっぱい。

 やたらしょっぱい。

 水が欲しくなる。

 

 水。

 水がない。

 

 革袋の中には酒も水筒も入っていなかった。

 火打ち石と布、食料、銅貨だけ。

 

「水……」

 

 黒樹の森には小川がある。

 設定上はある。

 レオンハルトたちも途中で水を補給している。

 だが、今の俺の近くにあるかは分からない。

 

 今日の追記はもう使えない。

 安全な水場を出すこともできない。

 

 俺は乾いた喉を押さえながら、本を開いた。

 

 現在のページ。

 

『瀬尾文也は折れた銀鷲紋の矢を見つけ、第三皇子レオンハルトが近くにいることを悟った』

 

『しかし彼は、自分がその一行にどう接触すべきか分からなかった』

 

『山賊から奪った黒パンと干し肉で飢えをしのぎ、黒樹の根元に身を隠した』

 

 その先は白紙だった。

 

 白紙。

 

 今すぐ何か書きたい。

 小川を見つける。

 安全な夜を過ごす。

 魔物が近寄らない。

 全部書きたい。

 

 だが、本日の追記は終了した。

 さっきから、ページの端に薄い文字でそう浮かんでいる。

 

 融通が利かない。

 いや、むしろ、これがなければ万能すぎる。

 作者権限で毎秒書き換えられるなら、物語にならない。

 

 そう考えてから、俺は自分に腹が立った。

 

 物語になるかどうかではない。

 今は俺の命がかかっている。

 

「……くそ」

 

 俺は本を閉じた。

 膝を抱える。

 

 森は夜へ向かっていた。

 光がさらに薄くなる。

 黒樹の幹が、闇の中で壁のように立ち並ぶ。

 

 眠れるわけがない。

 そう思った。

 

 だが、人間の体力には限界がある。

 恐怖で張り詰めていた精神も、限界を超えれば勝手に落ちる。

 

 俺は本を抱えたまま、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。

 

 夢を見た。

 

 パソコンの画面がある。

 白い原稿用紙のような執筆ソフトの画面。

 そこに、俺が文章を打ち込んでいる。

 

 ――セラフィナは、レオンハルトを庇って剣を受けた。

 

 違う。

 やめろ。

 

 ――ミロの小さな身体は、焼け落ちた梁の下から見つかった。

 

 やめろ。

 

 ――レオンハルトは、その日初めて、自分の心が冷えていく音を聞いた。

 

 違う。

 そんなことを書くな。

 

 画面の前の俺は、キーを打ち続ける。

 淡々と。

 必要な展開だからと、自分に言い聞かせるように。

 

 読者は泣くだろう。

 ここでレオンハルトの変化に説得力が出る。

 青年編への橋渡しとして完璧だ。

 

 完璧。

 

 その言葉が、ひどく薄っぺらく響いた。

 

 目が覚めた。

 体が冷えていた。

 

 最初に感じたのは、寒さ。

 次に、痛み。

 肩、膝、手のひら。

 斜面を転げた時の打撲と擦り傷が、寝ている間に存在感を増していた。

 

 薄暗い。

 

 夜明け前か。

 それとも、まだ夜なのか。

 

 黒樹の森では分かりにくい。

 だが、完全な闇ではない。

 木々の隙間から、灰色の光が差し始めている。

 

 俺は本を開いた。

 ページの端にあった文字が変わっていた。

 

『本日の追記が可能です』

 

「……夜明けで更新か」

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

 どうやら一日一度の回復タイミングは、日付ではなく夜明けらしい。

 この世界の基準なのか、本の都合なのかは分からない。

 

 だが、使える。

 今日は一度だけ、書き加えられる。

 

 それだけで、少しだけ気が楽になった。

 

 もちろん、何でもできるわけではない。

 小屋は出せなかった。

 山賊を消すこともできなかった。

 それでも、一文だけでも世界に干渉できるのは大きい。

 

 使いどころを間違えるな。

 

 俺は本を閉じ、慎重に根元の隠れ場所から這い出た。

 

 まずは水だ。

 次にレオンハルト一行。

 その後、どうやって接触するかを考える。

 

 いや、接触方法はまだ無理だ。

 今の俺が近づいたところで怪しまれるだけ。

 まずは観察して、一行の状況を確認する。

 追手との位置関係も知る。

 

 作家らしく、情報収集からだ。

 

 俺は昨日見つけた馬車跡の方へ戻ろうとした。

 だが、数歩進んだところで、鼻を突く臭いに気づいた。

 

 血の匂い。

 

 昨日から嫌というほど嗅いだ匂いだ。

 山賊。

 死体。

 

 その匂いが、近い。

 俺は足を止めた。

 

 周囲を見回す。

 黒樹の幹。

 灰色の苔。

 湿った地面。

 揺れる茂み。

 

 揺れる茂み?

 

「……っ」

 

 息を呑んだ瞬間、茂みの奥で灰色の目が光った。

 

 黒牙狼。

 

 昨日見たものよりも小柄だ。

 だが、十分に大きい。

 大型犬どころではない。

 子牛ほどある。

 

 濡れた黒い毛並み。

 異様に大きく裂けた口。

 名の通り、闇に濡れたような黒い牙。

 

 そいつが、こちらを見ていた。

 俺は動けなかった。

 

 逃げろ。

 頭の中ではそう叫んでいる。

 だが、足が動かない。

 

 黒牙狼が、低く唸る。

 

 昨日、山賊を襲っていた個体と同じなのか。

 それとも群れの別個体なのか。

 

 分からない。

 分かる必要もない。

 

 こいつは、俺を獲物として見ている。

 

 俺はゆっくりと後ずさった。

 

 一歩。

 

 黒牙狼の耳が動く。

 

 もう一歩。

 

 湿った根に踵が当たった。

 

 まずい。

 

 そう思った瞬間、黒牙狼が地面を蹴った。

 

 速い。

 想像していたより、ずっと速い。

 

 黒い塊が、一直線に飛んでくる。

 開いた口。

 並ぶ牙。

 濡れた舌。

 

 死ぬ。

 

 俺は反射的に本を開いた。

 その瞬間、音が消えた。

 

 世界が止まった。

 

「……は?」

 

 黒牙狼は空中で止まっていた。

 

 飛びかかる姿勢のまま、前脚を伸ばし、牙を剥き出しにしている。

 その爪は、俺の顔から数十センチの位置にあった。

 

 空中の木の葉も止まっている。

 落ちかけていた朝露も止まっている。

 俺の吐いた息すら、白い霧のように中途半端な形で凍りついている。

 

 音がない。

 風もない。

 

 黒樹の森が、丸ごと一枚の絵になったようだった。

 

 俺は本を抱えたまま、硬直した。

 

 いや。

 違う。

 

 俺の意識だけは動いている。

 手も動く。

 少なくとも、本を支える指と、ペンを握る指は動いた。

 

 ただし、足は動かない。

 身体ごと避けることはできない。

 時間が止まった世界を自由に歩けるわけではないらしい。

 

 できるのは、本を開き、ペンを動かすことだけ。

 

 仕様の意味を、ようやく理解した。

 書き込もうとしている時は、現実世界の時間が止まる。

 

 なるほど。

 今がまさに、その時らしい。

 

「……親切なのか不親切なのか、どっちなんだよ」

 

 声は震えていた。

 

 だが、考える時間はある。

 それだけで、命が繋がった。

 

 俺は現在のページを見る。

 

『瀬尾文也は夜明けを迎え、本日の追記が可能になったことを知った』

 

『彼は第三皇子レオンハルト一行の痕跡を追おうとしたが、血の匂いに引き寄せられた黒牙狼と遭遇した』

 

『黒牙狼は文也へ飛びかかった』

 

 その下に白紙。

 俺はペンを走らせた。

 

『黒牙狼は突然死した』

 

 文字は、即座に滲んで消えた。

 

「だよな!」

 

 分かっていた。

 分かっていたが、試さずにはいられなかった。

 

 次。

 

『黒牙狼の心臓は、偶然にもこの瞬間に止まった』

 

 消える。

 

「偶然の幅にも限度があるか」

 

 焦るな。

 いや、焦るなという方が無理だ。

 目の前には魔物の爪がある。

 時間が動けば、俺の顔面はたぶん裂ける。ザクロみたいに。

 

 考えろ。

 現実に起こりえること。

 この世界の法則に反しないこと。

 今の状況から自然に発生しうること。

 

 黒牙狼は飛びかかっている。

 地面はぬかるんでいる。

 黒樹の根が張り出している。

 俺はさっき、その根に足を取られかけた。

 

 なら。

 

 俺は手早く書いた。

 

『飛びかかった黒牙狼は、地面から突き出した黒樹の根に後脚を取られ、体勢を崩した』

 

 文字は消えなかった。

 紙に沈み込む。

 

 次の瞬間、止まっていた世界に音が戻った。

 

 風。

 葉擦れ。

 自分の荒い呼吸。

 

 そして、黒牙狼の唸り。

 

 黒牙狼の後脚が、突き出た根に引っかかった。

 

 完全に転倒したわけではない。

 ただ、ほんのわずかに体勢が崩れた。

 

 だが、それで十分だった。

 

 黒牙狼の爪が俺の顔をかすめる。

 頬に熱い痛みが走る。

 

「うわああああっ!」

 

 俺は悲鳴を上げながら、横へ転がった。

 

 黒牙狼はそのまま地面に突っ込み、ぬかるみに爪を立てる。

 すぐに立て直そうとする。

 

 速い。

 まずい。

 これでは、ほんの数秒しか稼げない。

 

 だが、その数秒がなければ俺は死んでいた。

 

 俺は本を抱え、剣を持つことも忘れて走った。

 

 いや、剣は手に持っていた。

 ただ、使うという発想がなかった。

 重くて邪魔な棒でしかない。

 

 黒牙狼が背後で吠える。

 

 心臓が破裂しそうだった。

 

 木の間を走る。

 枝を避ける余裕はない。

 顔に当たる。

 腕を切る。

 足が滑る。

 

 それでも走る。

 

 昨日と同じだ。

 また逃げている。

 何もできず、ただ逃げている。

 

 今日の追記を使った。

 もう使えない。

 

 次に襲われたら、終わりだ。

 

「くそ、くそ、くそっ……!」

 

 自分で設定した魔物に殺されかける。

 なんだこの自業自得の極み。

 

 俺は斜面を駆け下り、岩の間を抜けた。

 

 背後の足音が近い。

 黒牙狼はまだ追ってきている。

 

 このままでは追いつかれる。

 

 火だ。

 黒牙狼は火を嫌う。

 

 設定を思い出せ。

 

 火を嫌う。

 ただし、完全に恐れているわけではない。

 小さな火なら警戒する程度。

 大きな炎なら距離を取る。

 

 問題は、俺が火を起こせないことだ。

 

 火打ち石はある。

 革袋の中だ。

 でも、走りながら火打ち石を使うなんて無理だ。

 止まれば追いつかれる。

 

 何か。

 何かないか。

 

 視界の先で、地面が途切れていた。

 

 小さな沢だった。

 

 幅は二メートルほど。

 水量は少ない。

 しかし、両岸はぬかるみ、片側には倒れた木が斜めにかかっている。

 

 水。

 水場だ。

 

 求めていたものではある。

 だが、今ではない。

 

 俺は躊躇した。

 飛び越えられるか。

 無理だ。

 運動不足の作家に二メートルの沢越えは無理だ。

 しかも荷物を抱えている。

 

 だが、止まれば食われる。

 

「やるしかないだろ!」

 

 俺は倒木に足をかけた。

 

 ぬるり、と滑る。

 

「うおっ!」

 

 危うく落ちかける。

 だが、本を抱えたまま、どうにか倒木の上を這うように渡った。

 

 格好悪い。

 死ぬほど格好悪い。

 だが、生きるためなら格好などどうでもいい。

 

 背後で黒牙狼が跳ぶ気配がした。

 

 俺は倒木から転がり落ちるように対岸へ着地する。

 その直後、黒牙狼が沢へ飛び込んだ。

 

 水音。

 

 黒牙狼の脚が、ぬかるみに沈んだ。

 

 完全に止まったわけではない。

 だが、ほんの少し動きが鈍る。

 

 俺はその間に、近くの岩陰へ転がり込んだ。

 

 呼吸が苦しい。

 視界が揺れる。

 もう足が動かない。

 

 黒牙狼が沢から上がる。

 

 終わった。

 そう思った時、遠くで金属音がした。

 

 剣戟の音。

 

 続いて、馬のいななき。

 人の声。

 

「殿下、下がってください!」

 

 女の声だった。

 鋭く、凛とした声。

 

 俺は目を見開いた。

 

 聞いたことはない。

 当たり前だ。

 現実には聞いたことがない。

 

 だが、分かる。

 セラフィナだ。

 

 女騎士セラフィナ・ロウ。

 第三皇子レオンハルトの護衛騎士。

 

 黒牙狼も、その声に反応した。

 俺ではなく、音のした方へ顔を向ける。

 

 獲物が増えたと思ったのか。

 それとも、より大きな戦いの気配に引き寄せられたのか。

 

 黒牙狼は低く唸り、俺への追跡をやめて、木々の奥へ走り去った。

 俺は岩陰で崩れ落ちた。

 

 助かった。

 たぶん、助かった。

 

 だが、安心している場合ではない。

 

 セラフィナの声が聞こえた。

 ということは、レオンハルト一行が近くにいる。

 

 そして、剣戟の音。

 戦っている。

 

 原作のどの場面だ。

 俺は記憶を探る。

 

 黒樹の森。

 夜明け。

 レオンハルト一行。

 近衛の矢。

 追手との小競り合い。

 

 あった。

 

 少年編第一章の中盤。

 レオンハルトたちは、森の中で反乱軍の斥候部隊に捕捉される。

 セラフィナが奮戦し、敵を退けるが、兵士の一人が負傷する。

 ここではまだ大きな死者は出ない。

 ただし、この戦闘で馬車の車輪が完全に壊れ、一行は徒歩での逃亡を余儀なくされる。

 

 原作通りなら、致命的な場面ではない。

 だが、もう原作通りとは限らない。

 

 俺が山賊と黒牙狼を動かしてしまった。

 いや、動かしたというより、巻き込まれた。

 それでも、森の状況は変わっている。

 

 黒牙狼が、今セラフィナたちの方へ向かった。

 原作の戦闘に、魔物が乱入するかもしれない。

 

「……まずい」

 

 俺は立ち上がろうとして、膝から崩れた。

 

 足が震えている。

 息が整わない。

 頬が痛い。

 

 手で触れると、ぬるりとした感触があった。

 血だ。

 黒牙狼の爪がかすめた傷。

 

 深くはない。

 だが、痛い。

 

 痛いが、動けないほどではない。

 

 俺は本を開いた。

 ページには、今の出来事が追加されている。

 

『瀬尾文也は、黒牙狼の襲撃を受けた』

 

『本を開いた瞬間、世界は停止した』

 

『彼は一文を書き加え、黒牙狼の体勢を崩すことで死を免れた』

 

『その後、彼は沢へ逃げ込み、黒牙狼は遠くの剣戟と人声に引き寄せられて去った』

 

 ページの端には、こうあった。

 

『本日の追記は終了した』

 

 分かっている。

 もう書けない。

 

 今、セラフィナたちが危機に陥っても、俺は本の力を使えない。

 それでも、行くしかない。

 

 俺は本を閉じた。

 

 剣を握り直す。

 重い。

 腕が震える。

 こんなもので何ができるのか分からない。

 だが、何も持たないよりはマシだ。

 

 俺は金属音のする方へ歩き出した。

 いや、歩くというより、足を引きずるように進んだ。

 

 木々の間を抜けるにつれて、声がはっきりしてくる。

 

「左から来ます!」

 

「馬車を守れ! 殿下を中心に!」

 

「セラ、俺も戦う!」

 

「なりません! 殿下は下がって!」

 

 若い少年の声が混ざった。

 

 俺は息を呑んだ。

 

 レオンハルト。

 第三皇子レオンハルト・ヴァイス・アルヴァレア。

 

 俺が書いた物語の主人公。

 まだ十四歳の、復讐者になる前の少年。

 その声は、想像していたよりも幼かった。

 

 俺は茂みの陰に身を伏せ、そっと覗き込む。

 

 開けた場所があった。

 

 壊れかけの小型馬車。

 その周囲に、数人の兵士。

 灰色の外套を羽織った老臣。

 治療鞄を抱える少女。

 短剣を握る従者らしき少年。

 

 そして、剣を構える女騎士。

 

 銀に近い金髪を後ろで束ね、泥に汚れた白い外套を翻している。

 鎧は傷だらけ。

 それでも背筋はまっすぐで、敵の前に立つ姿は一枚の絵のようだった。

 

 セラフィナ・ロウ。

 

 その背後に、少年がいる。

 

 金色の髪。

 青い瞳。

 泥に汚れた皇族服。

 まだ幼さの残る顔。

 

 だが、その目だけは真っ直ぐだった。

 

 レオンハルト。

 

 俺は、思わず息を止めた。

 本当にいた。

 

 画面の中の文字ではなく。

 俺が考えた設定画でもなく。

 読者に説明するための主人公でもなく。

 

 そこに、少年が立っていた。

 

 生きている。

 この世界で、息をしている。

 

 その事実に、なぜか胸が苦しくなった。

 

 レオンハルトの前に、反乱兵が三人。

 さらに、森の奥から黒牙狼が一頭、低い姿勢で近づいている。

 

 まずい。

 原作では、ここで黒牙狼は出ない。

 

 俺のせいか。

 俺を追っていた個体が、こちらへ流れた。

 

 セラフィナは反乱兵に集中している。

 まだ黒牙狼に気づいていない。

 

 追記は使えない。

 

 叫ぶか。

 危険を知らせるか。

 

 だが、俺が叫べば、同時に俺の存在も知られる。

 不審者が森から突然叫ぶ。

 その後どうなるかは分からない。

 

 けれど、迷っている時間はなかった。

 

 黒牙狼が地面を蹴る。

 標的は、馬車の近くにいた治癒師見習いの少女。

 

 エルナ。

 

 俺は反射的に叫んでいた。

 

「後ろだ!」

 

 セラフィナが振り返る。

 

 間に合わない。

 

 黒牙狼がエルナへ飛びかかる。

 その瞬間、レオンハルトが動いた。

 

 少年はエルナを突き飛ばし、自分の短剣を黒牙狼へ向ける。

 

 無茶だ。

 十四歳の少年が、短剣一本で黒牙狼を止められるはずがない。

 

 俺は走り出していた。

 

 何ができるかなど考えていなかった。

 剣を持っていることも忘れていた。

 ただ、身体が動いた。

 

 セラフィナの剣が閃く。

 

 黒牙狼の横腹を浅く裂く。

 同時に、レオンハルトの短剣が黒牙狼の肩に刺さる。

 

 黒牙狼は軌道を変え、馬車の側面に叩きつけられた。

 馬車が大きく軋み、車輪の一つが嫌な音を立てて外れかける。

 

 反乱兵たちが動揺した。

 

「魔物だ!」

 

「引け、体勢を立て直せ!」

 

 セラフィナは一瞬で状況を判断し、黒牙狼と反乱兵の間に立つ。

 

「殿下、馬車から離れてください!」

 

「エルナを先に!」

 

「殿下!」

 

 レオンハルトは自分の腕から血を流していた。

 黒牙狼の爪がかすめたのだろう。

 

 それでも、彼はエルナを庇って立っている。

 

 俺は茂みの手前で足を止めた。

 

 助かった。

 少なくとも、今の一撃は防がれた。

 

 だが、同時に俺は理解してしまった。

 今のは、原作にない傷だ。

 

 レオンハルトはこの場面で負傷しない。

 少なくとも、俺が書いた原作ではそうだった。

 

 俺が黒牙狼を引き寄せたせいで、彼は傷を負った。

 

 小さな傷かもしれない。

 物語全体から見れば、大したことのないズレかもしれない。

 

 だが、それは確かに変化だった。

 俺がここにいることで、物語はもう変わり始めている。

 

「……っ」

 

 背筋が冷えた。

 

 助けたい。

 救いたい。

 そう思ってここまで来た。

 

 でも、俺の存在そのものが、別の危険を呼び込むかもしれない。

 

 俺は本を握りしめる。

 

 追記はもう使えない。

 今できることは、ただ見ていることだけ。

 

 セラフィナが黒牙狼を斬り伏せる。

 反乱兵たちは混乱に乗じて森へ逃げた。

 

 開けた場所に、荒い呼吸だけが残る。

 

 レオンハルトは腕を押さえながら、エルナに声をかけていた。

 

「大丈夫か、エルナ」

 

「で、殿下こそ、お怪我が……!」

 

「かすっただけだ」

 

 それでも、傷は傷だ。

 血が流れている。

 

 セラフィナが厳しい顔でレオンハルトに駆け寄る。

 そして、すぐに顔を上げた。

 

 彼女の視線が、こちらへ向く。

 俺は息を呑む。

 

 さっき叫んだ。

 当然、気づかれている。

 

 セラフィナが剣を構えた。

 

「そこにいる者。出てきなさい」

 

 澄んだ声が、森に響く。

 

 逃げるか。

 出るか。

 

 逃げれば、完全に敵対してしまうかもしれない。

 出ても、不審者だ。

 

 どっちにしろ詰んでいる。

 

 俺はゆっくりと茂みから出た。

 

 泥だらけ。

 頬に血。

 片手に剣。

 胸に分厚い本。

 

 改めて考えるまでもなく、怪しい。

 

 セラフィナの目が細くなる。

 

 レオンハルトもこちらを見る。

 その青い瞳と目が合った。

 

 俺は何を言えばいいか分からなかった。

 

 こんにちは、作者です。

 助けに来ました。

 

 そんなことは言えない。

 

 結局、俺の口から出たのは、ひどく間抜けな一言だった。

 

「……ええと」

 

 喉が乾く。

 セラフィナの剣先が、真っ直ぐ俺へ向けられる。

 俺は本を抱えたまま、両手を上げた。

 

「敵じゃ、ないです」

 

 沈黙。

 

 森の空気が、さらに冷えた気がした。

 

 セラフィナは一歩前に出る。

 

「敵ではない者が、なぜ殿下の近くに潜んでいた」

 

 ですよね。

 

 俺は心の中でそう答えた。

 そして、ようやく理解する。

 ここからが本番だ。

 

 俺は、自分が書いた主人公に取り入らなければならない。

 

 自分が書いた最悪の未来から、彼を救うために。

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