自作小説の世界に落ちた作者、闇落ち予定の第三皇子を救うために筆を執る   作:けもの

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第四話 怪しい書記官

 剣先が、俺の喉元に向けられている。

 比喩ではない。

 

 ほんの少し前へ出れば、皮膚に触れる距離。

 ほんの少し相手の手元が狂えば、俺の人生はそこで終わる距離。

 

 その剣を構えているのは、女騎士セラフィナ・ロウだった。

 

 銀に近い金髪を後ろで束ね、泥と血で汚れた白い外套を肩に掛けている。

 鎧にはいくつも傷が走っていた。

 頬にも小さな切り傷がある。

 だが、その姿勢はまったく崩れていない。

 

 疲労しているはずだ。

 さっきまで反乱兵と黒牙狼を相手に戦っていたのだから、普通なら息を乱していてもおかしくない。

 

 けれど、セラフィナの剣先は微動だにしなかった。

 

 綺麗だな、と思った。

 場違いにも、そんな感想が浮かぶ。

 

 俺が書いた通りだった。

 いや、書いた以上だった。

 

 忠義と警戒心をそのまま形にしたような騎士。

 第三皇子レオンハルトを守るためなら、自分の命どころか、他人の命にも容赦しない女。

 

 そして、本来なら少年編の終盤で死ぬ女。

 その事実が頭をよぎった瞬間、胸の奥が嫌に重くなった。

 

「答えなさい」

 

 セラフィナの声が、森の空気を裂いた。

 

「あなたは何者です。なぜ殿下の近くに潜んでいた」

 

 もっともな質問だった。

 怪しすぎる。

 

 泥だらけの現代服。

 頬に傷。

 片手に山賊から拾った剣。

 もう片方には、やたら分厚いハードカバーの本。

 しかも、ついさっきまで茂みに隠れていた。

 

 客観的に見れば、不審者どころか暗殺者候補である。

 

 俺だって同じ立場なら、迷わず警戒する。

 むしろセラフィナはまだ優しい。

 即斬り捨てたりしないだけ人格者だ。

 

 いや、人格者なのは知っている。

 俺がそう書いた。

 

 そこまで考えて、俺はまた嫌な気分になった。

 

 知っている。

 分かっている。

 理解している。

 

 目の前の相手について、俺はあまりにも多くのことを知っている。

 

 セラフィナ・ロウ。

 二十一歳。

 辺境の没落騎士家出身。

 幼い頃、レオンハルトの母后に救われ、その恩を返すために近衛騎士となった。

 剣は速く、魔法は使えない。

 甘いものが好きだが、騎士としての威厳を保つため人前では滅多に食べない。

 左肩に古傷がある。

 雨の日はその傷が疼く。

 

 そして、レオンハルトを庇って死ぬ。

 

 俺だけが、それを知っている。

 

「聞こえていないのですか」

 

 剣先がわずかに近づいた。

 

「名を」

 

「せ、瀬尾……」

 

 言いかけて、俺は口を閉じた。

 

 瀬尾文也。

 

 この世界では、明らかに浮く名前だ。

 帝国風の名前ではない。

 東方諸国の出身と言えば誤魔化せるかもしれないが、東方諸国の設定も俺が作っている。

 地名や文化を突っ込まれたら、即座にボロが出る。

 

 いや、出ないか。

 作者なのだから設定は知っている。

 しかし、知っていることを自然に言えるかは別問題だ。

 

 頭の中で、いくつもの嘘が浮かんでは消える。

 

 宮廷魔導士。

 無理だ。魔法が使えない。

 

 旅の商人。

 無理だ。荷物が少なすぎる。

 

 傭兵。

 無理だ。剣の持ち方からして素人だ。

 

 僧侶。

 無理だ。祈祷文など知らない。

 

 では、何ならいい。

 

 俺が唯一まともにできること。

 

 書くこと。

 知っていること。

 物語を読むこと。

 

「……フミヤ」

 

 結局、俺はそう名乗った。

 

「フミヤ、と申します」

 

 敬語がぎこちない。

 だが、この状況で現代日本のノリを出す勇気はない。

 

 セラフィナの目が細くなる。

 

「姓は」

 

「東方では、名だけで呼ばれることもあります」

 

 今作った。

 

 いや、東方諸国にそういう文化があるかどうかは、設定資料を漁ればたぶんどこかに似たような記述がある。

 なければ困る。

 まさしく今、困っているが。

 

「ずいぶん、奇妙な装いですね」

 

「……旅の途中で、山賊に襲われまして」

 

 これは嘘ではない。

 山賊に襲われた。

 服が奇妙なのは、そのせいではないが。

 

「その剣は?」

 

「山賊から拾いました」

 

「拾った?」

 

 セラフィナの声が冷える。

 

「落ちていたものを、です。持っていないよりはいいと思って」

 

「剣の扱いは」

 

「まったく」

 

 即答した。

 

 そこは見栄を張っても仕方ない。

 さっきから剣が重すぎて腕が震えている。

 どう見ても素人だ。

 

 セラフィナは俺を上から下まで見た。

 その視線だけで、だいたいの身体能力を見抜かれた気がする。

 

「嘘では、なさそうですね」

 

 少しだけ剣先が下がる。

 

 助かった。

 いや、まだ喉元から胸元に下がっただけだ。

 刺されれば普通に死ぬ。

 

 その時、背後から少年の声がした。

 

「セラ」

 

 レオンハルトだった。

 

 第三皇子レオンハルト・ヴァイス・アルヴァレア。

 

 彼は腕に布を巻かれながら、こちらを見ていた。

 治癒師見習いのエルナが、必死にその傷の手当てをしている。

 

 血はまだ止まりきっていない。

 黒牙狼の爪がかすった傷だ。

 深手ではないが、浅いとも言えない。

 

 俺のせいでついた傷。

 

 そう思うと、喉の奥が詰まった。

 

「その人は、さっき警告をしてくれた」

 

 レオンハルトは言った。

 

「彼が叫ばなければ、エルナが危なかった」

 

「殿下」

 

 セラフィナはレオンハルトを振り返らずに答える。

 

「それと、信用できるかどうかは別問題です」

 

「分かっている。だが、礼は言うべきだ」

 

 レオンハルトはセラフィナの制止を聞かず、一歩前に出ようとした。

 その瞬間、エルナが慌てて彼の袖を掴む。

 

「殿下、まだ動かないでください!」

 

「ああ、すまない」

 

 レオンハルトは素直に謝った。

 その仕草が、妙に幼かった。

 

 いや、実際に幼い。

 十四歳だ。

 皇子として教育されているから大人びているが、まだ少年でしかない。

 

 俺は青年編の彼を思い出す。

 

 冷たい軍議の間。

 捕虜の処分。

 裏切り者の粛清。

 味方の犠牲を数字として受け止める、あの青い目。

 

 目の前の少年とは違う。

 

 まだ、違う。

 

 俺は唇を噛んだ。

 絶対に、あそこまで壊してはいけない。

 

「フミヤ殿」

 

 レオンハルトが俺に向けて言う。

 

「先ほどは助けられた。感謝する」

 

「い、いえ」

 

 返事が情けなく裏返りそうになる。

 

 第三皇子に礼を言われている。

 自分の書いた主人公に。

 

 意味が分からない。

 いや、この森に来てから、ずっと意味が分からないが。

 

「殿下」

 

 セラフィナの声がさらに硬くなる。

 

「名乗られてはなりません」

 

「あ」

 

 レオンハルトが気まずそうに口元を押さえる。

 

 今のやり取りで、俺は心の中で頭を抱えた。

 

 そういうところだ。

 そういうところが、少年編のレオンハルトだ。

 

 人を信じやすい。

 礼儀正しい。

 育ちがよくて、根が善良。

 だからこそ、味方を得る。

 だからこそ、裏切られた時に深く傷つく。

 

 セラフィナが警戒するのも当然だった。

 

 彼女はレオンハルトの良さを知っている。

 同時に、その良さが危うさでもあると分かっている。

 

「いえ」

 

 俺は慌てて言った。

 

「殿下のお名前は、存じております」

 

 言った瞬間、場の空気が変わった。

 セラフィナの剣先が、再び俺の喉元へ戻る。

 

 速い。

 怖い。

 

「なぜ」

 

 短い問い。

 

 だが、その一言に殺気が詰まっている。

 

 近くにいた兵士たちもこちらを見る。

 老臣バルドが、細い目をさらに細めた。

 従者少年のミロは、短剣を握りしめている。

 エルナはレオンハルトの手当てをしながら、不安そうにこちらを見ている。

 

 しまった。

 口が滑った。

 

 いや、でも、いずれ言う必要はある。

 知らないふりをするより、ある程度知っていることを見せた方が、役に立つと思わせられる。

 

 問題は、その出し方だ。

 完全に間違えた気がする。

 

 俺は慎重に息を吸った。

 

「帝都で反乱が起きたことは知っています」

 

「それは多くの者が知っている」

 

 セラフィナは冷たく言う。

 

「第三皇子殿下が黒樹の森へ逃れたことは、ごく一部しか知らないはずですが」

 

「……東街道は封鎖されています」

 

 俺は言った。

 

「南へ向かえば、バルグレン侯の兵が待っている。西の橋は落とされている。北は山脈で、大人数では越えられない。なら、残るのは黒樹の森を抜ける北西路しかない」

 

 これは原作知識だ。

 

 だが、筋は通っている。

 地理と軍の配置から推測したと言えなくはない。

 

 セラフィナは黙った。

 

 バルドが、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。

 

「ほう」

 

 低い声だった。

 

「バルグレン侯の兵が南にいると、どこでお聞きに?」

 

 しまった。

 

 そこはまだ一行が知らない情報だったかもしれない。

 

 俺は記憶を探る。

 少年編序盤、レオンハルト一行は、東砦へ向かおうとして、途中で南と東の封鎖情報を得る。

 その情報をもたらすのは、確か逃亡中の商人だ。

 いや、その商人と会うのはもう少し後だったか。

 

 なら、今の彼らはまだ知らない可能性が高い。

 

 出しすぎた。

 

「……旅の途中で」

 

 俺は慎重に答えた。

 

「南から逃げてきた者に会いました。兵が集まっていると」

 

「その者の名は」

 

「名乗りませんでした」

 

「どのあたりで会われた」

 

「森の手前です」

 

「何日前に」

 

「……二日前」

 

 苦しい。

 嘘が雑になっていく。

 

 バルドは何も言わない。

 ただ、俺を見ている。

 

 老人だった。

 白い髭を短く整え、灰色の外套を羽織っている。

 背筋はやや曲がっているが、目は鋭い。

 

 バルド・グレイス。

 レオンハルトの教育係。

 若い頃は帝国の官僚で、宮廷政治にも軍務にも通じている。

 戦闘能力は高くないが、状況判断と交渉が上手い。

 少年編では、レオンハルトの良心を支える役でもある。

 

 その彼が、俺の嘘を値踏みしている。

 

 やめてほしい。

 作者のくせに、俺は自作キャラとの心理戦に勝てる気がしない。

 

「セラフィナ」

 

 バルドが言った。

 

「少し剣を下げなさい」

 

「しかし、バルド様」

 

「この者は怪しい」

 

 バルドはあっさり言った。

 

 ですよね。

 

「だが、今この場で殺すほどではない。少なくとも、殿下とエルナを救ったことは事実だ」

 

「……」

 

 セラフィナは不満そうだったが、剣をわずかに下げた。

 

 わずかに。

 本当にわずかに。

 

 殺意が首から胸に移動しただけである。

 

「フミヤ殿」

 

 バルドがこちらへ一歩近づく。

 

「あなたは、我らに敵意はないと?」

 

「ありません」

 

 これは即答できた。

 

「むしろ、力になりたいと思っています」

 

「なぜ」

 

 シンプルな問いだった。

 だが、それが一番困る。

 

 なぜ。

 

 自分がこの物語を書いたから。

 この先の惨劇を知っているから。

 レオンハルトを復讐者にしたくないから。

 セラフィナを死なせたくないから。

 ミロも、エルナも、バルドも、可能なら救いたいから。

 

 そのどれも言えない。

 

 言っても信じてもらえない。

 狂人扱いされる。

 

 俺は少しだけ視線を落とした。

 

「……この先、殿下はひどい目に遭われる」

 

 場が静まった。

 

 俺は続ける。

 

「帝都を追われたことだけではありません。信じた者に裏切られ、守ろうとしたものを奪われ、多くの仲間を失うことになる」

 

 言葉にした瞬間、自分の胸にも刺さった。

 

 俺が書いた未来だ。

 俺が、そうなるように、作った。

 

「私は、それを避けたい」

 

「予言者のつもりか」

 

 セラフィナが冷たく言う。

 

「違います」

 

「では何だ」

 

「……書記官です」

 

 咄嗟に出た言葉だった。

 だが、悪くないかもしれない。

 

 魔導士ではない。

 騎士でもない。

 商人でもない。

 

 書記官。

 

 書く者。

 記録する者。

 情報を扱う者。

 

 この世界には宮廷書記官も、旅の記録官も、軍の文官もいる。

 俺の外見は怪しいが、肩書きとして完全に存在しないものではない。

 

「流れの書記官です」

 

 俺は言った。

 

「各地の出来事を記録し、人から人へ伝える。そういう仕事をしていました」

 

「その本が記録帳だと?」

 

 セラフィナの視線が、俺の抱えているハードカバーへ向く。

 俺は反射的に本を抱きしめた。

 

 これは見せられない。

 少なくとも、今は駄目だ。

 

 もし中に現在の出来事が書かれていると知られたらどうなる?

 奪われる。

 あるいは、異端の道具として処分される。

 

 この本は俺の命綱だ。

 

「はい」

 

 嘘ではない。

 たぶん。

 実際に物語として記録されている。

 

「見せなさい」

 

 セラフィナが言う。

 

「それは……」

 

「見せられないと?」

 

「書記官にとって、記録は命です」

 

 俺は必死に言葉を探した。

 

「依頼主や情報源の名も含まれています。たとえ殿下の御前であっても、簡単に開示することはできません」

 

 苦しい。

 だが、まったく理屈がないわけではない。

 

 情報を扱う者が、記録を易々と見せない。

 それ自体は自然だ。

 

 バルドが小さく笑った。

 

「なるほど。口は回るようだ」

 

 褒めては、いない。

 完全に疑っている様子。

 

「そして、ますます怪しい」

 

 ですよね。

 

 セラフィナが半歩前へ出る。

 

「殿下に近づけるわけにはいきません。この男は拘束すべきです」

 

「拘束……」

 

 俺は思わず繰り返した。

 

 まずい。

 拘束されると本が使えない可能性がある。

 いや、手さえ動けば書けるかもしれないが、本を奪われたら終わりだ。

 

 ここで何か、有用性を示さなければならない。

 

 俺は頭を回す。

 

 追記はもう使えない。

 できるのは、原作知識を出すことだけ。

 

 何を出す。

 出しすぎれば怪しまれる。

 出さなければ拘束される。

 

 今の一行が最も必要としている情報。

 

 逃げ道。

 追手の動き。

 東砦の危険。

 

 そうだ。

 

「東の砦へは向かわない方がいい」

 

 俺が言うと、レオンハルトの表情が変わった。

 セラフィナの目も鋭くなる。

 

 どうやら当たりだ。

 

 彼らは東の砦へ向かう予定だった。

 原作通りなら。

 

 レオンハルトが口を開く。

 

「なぜ、それを」

 

「殿下」

 

 セラフィナが制する。

 

 だが、レオンハルトは俺を見ていた。

 

「我々が東の砦を目指していると、なぜ分かった」

 

 まずい。

 言い過ぎたか。

 

 だが、ここは押すしかない。

 

「この状況で頼れる帝国側の拠点は限られています。黒樹の森を抜けた先にある東砦は、皇族近衛と繋がりが深い。殿下が目指すなら、そこだと考えました」

 

 これは推測として成立する。

 

 バルドがわずかに顎を撫でた。

 

「続けなさい」

 

「東砦の守将、ダルガン卿は信用できません」

 

 レオンハルトの顔色が変わった。

 セラフィナが低い声で言う。

 

「その名を、どこで知った」

 

「……記録で」

 

 俺は苦し紛れに答える。

 

「反乱前、ダルガン卿は第二皇子派の貴族と接触していました。表向きは物資の融通ですが、実際には砦の兵糧と門番の配置が漏れています」

 

 これは原作情報だ。

 

 東砦の裏切り。

 少年編序盤の最初の痛手。

 レオンハルト一行は東砦で味方と合流できると信じて向かうが、すでに守将ダルガンは反乱側に寝返っている。

 そこで兵士の一人が死に、馬も失う。

 一行はさらに追い込まれる。

 

 俺は、その場面を書いた。

 

「もし東砦へ向かえば、門は開きます」

 

 俺は言った。

 

「ですが、迎え入れるためではありません。中で囲むためです」

 

 沈黙が落ちた。

 

 レオンハルトは動揺している。

 セラフィナは俺を睨んでいる。

 バルドは黙って考え込んでいる。

 

 俺は一つ息を吸った。

 

「信じろとは言いません。ただ、確認する余地はあるはずです。斥候を出すか、なにか。何も確認せずに入城するのは危険です」

 

「我らに斥候を出す余裕はない」

 

 セラフィナが言う。

 

「兵も馬も失いかけている。殿下は負傷しておられる。東砦へ向かわねば、休む場所すらない」

 

「だから、別の場所へ」

 

「あなたの言う別の場所とやらが、安全だという保証は?」

 

「ありません」

 

 正直に答えた。

 セラフィナの眉が動く。

 

「保証はありません。ただ、東砦よりはましです」

 

「無責任な」

 

「無責任だと、思います」

 

 俺は言った。

 

「それでも、何も言わずに見過ごすよりはいい」

 

 セラフィナが黙った。

 

 俺はレオンハルトを見た。

 

 少年は、腕の傷を押さえながらこちらを見ている。

 青い瞳。

 まだ、濁っていない目。

 

 俺はその目に向かって言った。

 

「殿下。あなたはまだ、失わなくていいものを失うべきではありません」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 また踏み込みすぎた。

 だが、言葉はもう戻せない。

 

 レオンハルトは、しばらく俺を見ていた。

 そして、静かに尋ねる。

 

「フミヤ殿は、俺が何を失うと言うのですか」

 

 答えられなかった。

 

 セラフィナ。

 ミロ。

 村。

 傭兵団。

 信頼。

 優しさ。

 数えきれないもの。

 

 お前は、俺が書いたせいでたくさん失う。

 

 そう言えるはずがない。

 

「……多くを」

 

 俺は絞り出すように言った。

 

「多くのものを、です」

 

 セラフィナが再び剣を上げる。

 

「殿下。この男は危険です。曖昧な言葉で不安を煽り、こちらの進路を操ろうとしている」

 

「そうかもしれない」

 

 レオンハルトは頷いた。

 

「だが、彼はエルナを助けるきっかけを作ってくれた」

 

「それは偶然かもしれません」

 

「偶然でも、助かった」

 

「殿下」

 

「セラ、俺はこの人を全面的に信じると言っているわけではない」

 

 レオンハルトはそう言って、少しだけ表情を引き締めた。

 

「だが、話を聞く価値はあると思う」

 

 その言葉に、セラフィナは唇を引き結んだ。

 

 俺は、少し驚いていた。

 

 少年編のレオンハルトは人がいい。

 それは知っている。

 だが、ただ流されているわけではない。

 

 自分で考えている。

 信じたいと思いながら、疑う必要も理解している。

 

 ああ、そうか。

 

 俺はこいつを、ちゃんと主人公として書いていたんだな。

 そんな今さらなことを思う。

 

 バルドが小さく咳払いをした。

 

「では、こうしましょう」

 

 老人は穏やかな声で言った。

 

「フミヤ殿は、ひとまず我らに同行していただく。ただし、武器は預かります。殿下に近づく際はセラフィナの許可を得る。夜営時も見張りの目の届く場所にいていただく」

 

「拘束はしないのですか」

 

 セラフィナが問う。

 

「今この場で手足を縛れば、移動の負担が増えます。担ぐ余裕はありません。かといって、置いていけば情報を持ったまま森へ消える」

 

「ならば――」

 

「殺すには、まだ惜しい」

 

 バルドは笑顔で言った。

 

 怖い。

 この老人、笑顔で怖いことを言う。

 

「殿下の判断を尊重いたしましょう。ただし、フミヤ殿」

 

 バルドの視線が俺に向く。

 

「妙な動きをなされば、セラフィナは斬ります」

 

「はい」

 

 知っています。

 とは言えなかった。

 

 俺は拾った剣を差し出した。

 

 セラフィナがそれを受け取る。

 その時、彼女の視線が俺の本に向いた。

 

「その本も」

 

「これは駄目です」

 

 俺は即答した。

 場の空気がまた冷えた。

 

 しまった。

 反射で言ってしまった。

 だが、これだけは譲れない。

 

「これは私の命です」

 

 俺は本を抱きしめた。

 

「記録官にとっての記録であり、信仰者にとっての聖典のようなものです。武器は預けます。移動も監視も受け入れます。ですが、これだけは手放せません」

 

 半分以上、苦し紛れだ。

 だが、本心でもある。

 

 この本は、本当に俺の命みたいなものだ。

 

 セラフィナは不満そうだった。

 だが、レオンハルトが言う。

 

「セラ。ひとまず、その本は彼に持たせよう」

 

「危険な魔導具かもしれません」

 

「なら、奪った瞬間に何が起こるか分からない」

 

 レオンハルトの言葉に、セラフィナは一瞬だけ黙った。

 

 それはそう。

 何が起こるか、俺にも分からない。

 たぶん何も起こらないと思うが、試したくはない。

 

 バルドが頷く。

 

「では、その本はフミヤ殿に。ただし、開く時は我らに一声かけていただきます」

 

「分かりました」

 

 俺は頷いた。

 

 こうして、俺は第三皇子一行に同行することになった。

 

 歓迎されているわけではない。

 信用されたわけでもない。

 むしろ、危険人物として監視対象になっただけだ。

 

 それでも、一歩前進だ。

 

 レオンハルトの近くに入れた。

 原作の流れを変える場所に、ようやく立てた。

 

 その時、馬車の方から嫌な音がした。

 ぎしり、と木材が軋む音。

 続けて、車輪が外れる乾いた音。

 

「あ」

 

 俺は思わず声を漏らした。

 

 馬車の片輪が、完全に壊れていた。

 

 黒牙狼が叩きつけられた衝撃。

 さっきの戦闘。

 逃亡中に蓄積していた損傷。

 

 それらが重なって、馬車はもう動きそうにない。

 

 原作でも馬車は壊れる。

 ここまでは同じだ。

 

 だが、タイミングが少し早い。

 レオンハルトの負傷もある。

 黒牙狼の乱入もあった。

 

 すでに、ズレている。

 

 バルドが渋い顔をする。

 

「まずいですな。これでは東砦どころか、森を抜けるにも時間がかかる」

 

 セラフィナが俺を睨む。

 

「あなたが連れてきた魔物のせいですね」

 

「……はい」

 

 言い訳できなかった。

 

 レオンハルトが首を振る。

 

「セラ、それは違う。彼が警告してくれなければ、もっと悪いことになっていた」

 

「ですが」

 

「責めるなら、俺を責めろ。俺が判断を誤った」

 

 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 

 違う。

 お前のせいじゃない。

 俺のせいだ。

 

 俺が逃げたから。

 俺がここに来たから。

 俺が書いた世界だから。

 

 言葉にならない罪悪感が、胸の奥で膨らむ。

 

 セラフィナは何か言いたげだったが、結局黙った。

 

 バルドが地図を広げる。

 

「さて。馬車は捨てるしかありません。問題は進路です」

 

 全員の視線が、自然と俺に向いた。

 

 いや、やめてくれ。

 そんなに見ないでくれ。

 

 俺はまだ、昨日まで普通に現代日本で原稿を書いていた人間だ。

 案内人でもない。

 この森だって、文章上の設定としてしか知らない。

 

 だが、知っていることはある。

 

 東砦は危険。

 本来の犠牲が待っている。

 

 なら、別の道を示さなければならない。

 

「北西に、廃修道院があります」

 

 俺は言った。

 

 セラフィナが目を細める。

 

「廃修道院?」

 

「古い巡礼路の途中に建てられたものです。今は使われていませんが、屋根は残っているはずです。少なくとも、今夜の雨風はしのげる」

 

 これは設定資料にあった場所だ。

 

 本編では使っていない。

 レオンハルト一行は原作では東砦へ向かう。

 廃修道院は、地図に名前だけ載せた背景設定だった。

 

 つまり、俺にもそこで何が起こるか分からない。

 

 だが、東砦よりはましだ。

 そう信じるしかない。

 

 バルドが地図を見る。

 

「確かに、古い巡礼路ならこの辺りに……しかし、今も使える道が残っているかは分かりませんな」

 

「あります」

 

 俺は言った。

 

「狩人の目印が残っていました。それを辿れば、巡礼路に合流できるはずです」

 

 この世界に来て初めて書き加えた目印。

 あの一文が、ここで使える。

 

 セラフィナが問う。

 

「なぜ、あなたはそこまで知っているのです」

 

「……書記官ですから」

 

 胡散臭い言葉だ。

 自分でも苦しいと思う。

 

 だが、今はこれで押し通すしかない。

 

 レオンハルトは地図を見つめ、それから俺を見た。

 

「フミヤ殿」

 

「はい」

 

「あなたの言葉を信じた場合、俺たちは東砦ではなく、その廃修道院へ向かうべきだと?」

 

「はい」

 

「そこに敵はいないと?」

 

「分かりません」

 

 正直に答えた。

 セラフィナの視線が刺さる。

 

 だが、俺は続ける。

 

「安全だと断言はできません。ですが、東砦に向かえば、敵が待っている可能性が高い。廃修道院なら、少なくとも敵の予想からは外れるはずです」

 

 レオンハルトは考え込む。

 

 十四歳の少年に、重すぎる判断だ。

 

 だが、彼は皇子だ。

 ここから先、何度も判断を迫られる。

 人の命がかかった選択を。

 

 俺はそれを知っている。

 知っていながら、物語として書いた。

 

 レオンハルトは静かに息を吐いた。

 

「東砦へは向かわない」

 

 セラフィナが目を見開く。

 

「殿下」

 

「フミヤ殿の言葉を全面的に信じるわけではない。だが、疑いがある以上、砦に入るのは危険だ」

 

「では、廃修道院へ?」

 

「一度、そこを目指す」

 

 レオンハルトは俺を見た。

 

「ただし、フミヤ殿」

 

「はい」

 

「もしあなたが我らを罠へ導くつもりなら、俺はあなたを許さない」

 

 少年の声だった。

 だが、その中に確かに皇族としての芯があった。

 

 俺はゆっくりと頷いた。

 

「罠ではありません」

 

 少なくとも、俺が知る限りでは。

 そう心の中で付け加える。

 

 セラフィナは納得していない。

 バルドも完全には信じていない。

 兵士たちも不安そうだ。

 

 だが、一行の進路は変わった。

 東砦ではなく、北西の廃修道院へ。

 

 本来の原作ルートから、初めて大きく外れた。

 

 俺は本を抱え直す。

 胸の奥で、不安と安堵が混ざり合っていた。

 

 これで最初の犠牲は避けられるかもしれない。

 東砦で死ぬはずだった兵士は助かるかもしれない。

 

 だが、その代わりに何が起きるのかは分からない。

 

 俺が書かなかった場所。

 俺が本編で使わなかった場面。

 そこへ、自分の主人公を連れていく。

 

 救うために。

 壊さないために。

 

 それなのに、俺の足元はどうしようもなく頼りなかった。

 

 移動の準備が始まる。

 

 壊れた馬車から必要な荷物だけを下ろす。

 負傷者に肩を貸す。

 レオンハルトの腕には新しい包帯が巻かれる。

 セラフィナは俺のすぐ近くに立ち、いつでも斬れる距離を保っている。

 

 俺は本を開きたい衝動に駆られた。

 

 現在のページを確認したい。

 この選択がどう記録されているのか知りたい。

 

 だが、バルドとの約束がある。

 本を開く時は声をかける。

 今開けば、さらに疑われる。

 

 我慢するしかない。

 

 レオンハルトが歩き出す。

 その背中は、まだ小さい。

 

 けれど、多くの者がその背中を見て動いていた。

 

 俺は、その後ろを歩く。

 

 作者としてではない。

 神としてでもない。

 怪しい流れの書記官として。

 

 自分で書いた主人公を、原作とは違う道へ連れていくために。

 

 黒樹の森の奥へ進みながら、俺は小さく呟いた。

 

「……頼むから、これ以上ひどいことにはならないでくれよ」

 

 もちろん、そんな願いをこの世界が聞いてくれる保証はない。

 

 むしろ俺は、知っている。

 

 物語というものは、大抵の場合。

 願いとは逆の方へ転がっていく。

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