自作小説の世界に落ちた作者、闇落ち予定の第三皇子を救うために筆を執る   作:けもの

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第五話 原作にない夜

 原作から外れる、というのは、言葉にすると簡単だ。

 

 東砦へ向かわない。

 廃修道院へ向かう。

 

 たったそれだけの違いである。

 

 小説のプロットなら、矢印を一本引き直せば済む。

 ルート変更。

 イベント差し替え。

 キャラクターの移動先を変更。

 

 だが現実には、矢印の先に足場の悪い森がある。

 ぬかるんだ地面がある。

 壊れた馬車から降ろした荷物がある。

 負傷者がいる。

 空腹の人間がいる。

 疑いの目でこちらを見ている女騎士がいる。

 

「遅れています」

 

 セラフィナ・ロウが、前を向いたまま言った。

 俺は一瞬、自分のことだと気づかなかった。

 

「え?」

 

「あなたです。フミヤ殿」

 

「あ、はい。すみません」

 

 俺は慌てて足を速めた。

 

 速めたつもりだった。

 実際には、ほとんど変わっていないと思う。

 

 そもそも、俺は山歩きに向いていない。

 昨日から何度も走って転んで、黒牙狼に追われて、沢を渡って、今は監視付き。

 体力など、とっくに空っぽだ。

 

 それでも、隊列は進む。

 

 先頭はセラフィナ。

 その少し後ろに、兵士が二人。

 中央にレオンハルトとエルナ、ミロ。

 老臣バルドがその横。

 俺は後方寄り。

 最後尾にも兵士が一人いる。

 

 つまり、俺は逃げられない位置に置かれている。

 

 いや、逃げる気はない。

 ないが、この配置は分かりやすい。

 

 信用されていない。

 

 セラフィナは先頭を歩きながらも、時折こちらへ視線を飛ばしてくる。

 最後尾の兵士も、俺の動きを見ている。

 バルドは何も言わないが、たぶん一番しっかりと監視しているのだろう。

 

 俺は胸に抱えた本を少し持ち直した。

 

 開きたい。

 ものすごく開きたい。

 

 今の状況がどう記録されているのか見たい。

 ルートを変えたことで、本に何か変化が出ていないか知りたい。

 もしかしたら、現在のページに何か警告が出ているかもしれない。

 

 だが、バルドと約束した。

 

 本を開く時は、一声かける。

 

 今ここで黙って開けば、さらに怪しまれる。

 何より、セラフィナが即座に剣を抜く気がする。

 

 俺は本を抱えたまま、湿った森を進んだ。

 

 黒樹の森は、相変わらず陰気だった。

 

 木々は高く、幹は黒く、枝葉は絡み合うように空を覆っている。

 地面には灰色の苔と腐葉土が広がり、ところどころに根がむき出しになっていた。

 わずかな風で、枝から溜まった雨水が落ちてくる。

 

 首筋に冷たい雫が入るたび、俺は小さく肩を跳ねさせた。

 

 こういう森にしたのは俺だ。

 

 帝都から逃げる第三皇子の孤独感と不安を出すために、わざと陰鬱にした。

 昼でも暗い。

 迷いやすい。

 野盗と魔物が出る。

 そういう森が欲しかった。

 

 欲しかった、ではない。

 今は現実として目の前に、ある。

 

 そして俺は、その中を歩かされている。

 

「……もう少し、歩きやすく書いておけばよかった」

 

 小さく呟いたつもりだった。

 だが、すぐ前を歩いていたミロが振り返る。

 

 少年従者のミロ。

 レオンハルトと年齢が近い、明るい性格の少年。

 原作では、序盤からレオンハルトの側にいて、読者にとっても親しみやすい存在になる。

 

 そして、彼もまた、少年編終盤で死ぬ。

 

「フミヤさん、森に文句言ってた?」

 

「いや、まあ……少し」

 

「黒樹の森なんて、だいたいこんなものだよ。文句言っても道は平らにならないって」

 

 ミロは苦笑する。

 その言い方が、あまりにも普通だった。

 

 俺は少し返事に詰まる。

 

 ミロは、まだ俺をそこまで警戒していない。

 もちろん完全に信用しているわけではないだろう。

 だが、セラフィナほど鋭く睨んではこない。

 

 たぶん、もともとの性格によるところが大きいんだろう。

 人懐っこく、場を和ませる。

 少年編のレオンハルト一行における、緊張を緩める役。

 

 だからこそ、死んだ時の衝撃が大きい。

 

 俺がそう、設計した。

 

「……フミヤさん?」

 

「ああ、いや。何でもない」

 

「顔色悪いけど、大丈夫?」

 

「大丈夫。ただ、昨日から色々ありすぎて」

 

「それは、こっちもだよ」

 

 ミロは苦笑して、レオンハルトの方を見る。

 

「帝都を出てから、ずっと走りっぱなしだ。殿下も、全然休めてない」

 

 その視線の先で、レオンハルトは左腕を押さえながら歩いていた。

 

 エルナが巻いた包帯は、すでに少し赤く滲んでいる。

 本人は平気な顔をしているが、痛くないはずがない。

 

 黒牙狼の傷。

 原作にはなかった傷。

 

 胸が痛んだ。

 

「殿下は、いつもああなのか」

 

 俺が尋ねると、ミロは少し誇らしげに笑った。

 

「うん。自分より周りのことばっかり。エルナにも怒られてる」

 

「そうか」

 

「でも、それでいいんだと思う。殿下は、そういう人だから」

 

 そういう人だから。

 

 短い言葉が、妙に重かった。

 

 俺は知っている。

 この先、レオンハルトは変わる。

 周りのことばかり考えていた少年が、いつか敵も味方も駒として見るようになる。

 

 そうならざるを得ないだけのものを、俺が用意した。

 

「……変わらない方がいいな」

 

 思わず口に出ていた。

 

 ミロが首を傾げる。

 

「え?」

 

「あ、いや。殿下は、そのままの方がいいと思って」

 

 ミロは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。

 

「フミヤさん、怪しいけど、悪い人じゃなさそうだね」

 

「怪しいのは否定しないんだな」

 

「だって怪しいし」

 

 屈託のない返答だった。

 少しだけ笑いそうになった。

 

 その時、前方からセラフィナの声が飛んでくる。

 

「ミロ。無駄口を慎みなさい」

 

「はーい」

 

「はい、は短く」

 

「はい」

 

 ミロは小さく舌を出して前を向いた。

 

 セラフィナは一度だけこちらを見た。

 その視線は、相変わらず鋭い。

 

 ミロと親しくなるな。

 そう言っているようにも見える。

 

 当然だ。

 彼女からすれば、俺は正体不明の男だ。

 そんな男が、レオンハルトの従者に近づいている。

 警戒しない方がおかしい。

 

 俺は黙って歩いた。

 

 しばらくして、先頭のセラフィナが足を止める。

 

「目印がありました」

 

 その声に、全員が緊張する。

 

 セラフィナが指した先には、黒樹の幹に刻まれた古い傷があった。

 斜めに二本。

 その下に、苔で半ば埋もれた横線。

 

 俺が本に書き加えた、狩人の古い目印。

 

 あの時は、自分が生き延びるための一文だった。

 だが、今その一文が、一行の進路を変えようとしている。

 

「本当に、ありましたな」

 

 バルドが静かに言った。

 

 俺の方を見る。

 笑っているような、笑っていないような顔だった。

 

「フミヤ殿。あなたは、この目印を辿れば巡礼路に出るとおっしゃった」

 

「はい」

 

「では、先を案内できますかな」

 

 案内。

 

 俺はこの森を現実に歩いたことがない。

 地図上の設定としては知っている。

 狩人の目印も、巡礼路も、廃修道院も知っている。

 

 だが、どの木を曲がればいいか、どの斜面を越えればいいかまでは知らない。

 

 ただ、目印はある。

 それを辿ることはできる。

 

「……やってみます」

 

 俺は答えた。

 

 セラフィナが無言で俺の横に立つ。

 

 先導役にされたのか。

 監視役なのか。

 

 たぶん両方だ。

 

 俺は目印を探しながら進んだ。

 

 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。

 

 黒樹の幹に刻まれた古い傷。

 岩に積まれた小さな石。

 苔の下に半分埋もれた木杭。

 

 それらは確かに存在した。

 

 俺が書いた一文は、「古い目印が残っていた」というものだった。

 具体的にどのような目印かまでは書いていない。

 

 世界が、それを補完した。

 

 この本の力は、俺が思っている以上に曖昧で、柔軟だ。

 逆に言えば、危うい。

 

 書いた文章がどう解釈されるかは、俺にも完全には分からない。

 

「フミヤ殿」

 

 隣を歩くセラフィナが言う。

 

「はい」

 

「あなたは、何者です」

 

「さっきも答えました。流れの書記官です」

 

「私が聞いているのは肩書きではありません」

 

 彼女は前を向いたままだった。

 

「あなたは殿下のお名前を知っていた。東砦の内情も知っていた。古い巡礼路の目印も知っていた。さらには、殿下がこの先何かを失うかのような口ぶりだった」

 

「……」

 

「ただの書記官で知る話ではありません」

 

 その通りすぎて困る。

 

 俺は答えを探した。

 

 全部を話すことはできない。

 自分が作者だと言っても信じてもらえない。

 信じられたとしても、この世界の人間にとってそれはどんな意味を持つのか分からない。

 

 あなたたちは俺が作った登場人物です。

 俺はあなたの死ぬ場面を書きました。

 

 そんなことを言えるわけがない。

 

「知っていることが、多いだけです」

 

 俺は慎重に言った。

 

「それを何と呼ぶかは、人によって違うと思います。情報通と呼ぶ人もいる。予見と呼ぶ人もいる。まやかしと呼ぶ人もいる」

 

「では、あなた自身は何と呼ぶのです」

 

 セラフィナの問いは鋭かった。

 

 俺は少し黙る。

 そして、正直に答えた。

 

「……後悔、です」

 

 セラフィナが初めてこちらを見た。

 

「後悔?」

 

「ええ」

 

「誰に対する」

 

 俺はレオンハルトの背中を見た。

 

 小さな背中。

 包帯を巻いた腕。

 それでも前を向いて歩く少年。

 

「殿下に対するものです」

 

 セラフィナの目がさらに細くなる。

 

「なぜあなたが殿下に後悔する必要があるのです」

 

「それは……まだ言えません」

 

「言えないことばかりですね」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、説明を求めています」

 

「でしょうね」

 

 思わず素で返してしまった。

 セラフィナの眉が動く。

 

 まずい。

 今のは少し軽すぎた。

 だが、彼女はそれ以上追及しなかった。

 

 しばらく無言で歩いた後、セラフィナは低く言う。

 

「私は、あなたを信用していません」

 

「はい」

 

「殿下は人を信じようとなさる。それは美徳です。ですが、今はその美徳が命取りになる」

 

「分かります」

 

「本当に?」

 

 俺は即答できなかった。

 

 セラフィナはレオンハルトを守るために疑っている。

 その警戒は正しい。

 正しすぎる。

 

 俺が彼女を嫌う理由はない。

 むしろ、彼女がいてくれるからこそ、レオンハルトはここまで生きている。

 

 そして、彼女はいつかその忠誠のせいで死ぬ。

 

「本当に、分かっています」

 

 俺は言った。

 

「あなたが疑うのは正しい。俺だって、自分が怪しいことは分かっています」

 

「ならば、なぜ近づく」

 

「近づかないと、救えないからです」

 

 言ってから、また踏み込みすぎたと思った。

 

 だが、もう遅い。

 セラフィナはしばらく俺を見ていた。

 

「誰を」

 

「……殿下を」

 

「何から」

 

 その問いには、すぐ答えられなかった。

 

 敵。

 反乱軍。

 裏切り。

 喪失。

 復讐。

 

 違う。

 

 本当に救いたいのは、それらすべてを通った後の、あの冷え切った未来からだ。

 

「壊れることから」

 

 俺は小さく言った。

 

 セラフィナの表情が、一瞬だけ変わった。

 

 驚きか。

 怒りか。

 あるいは、もっと別のものか。

 

「殿下は壊れません」

 

 彼女は静かに言った。

 その声には、強い確信があった。

 

「私が、お守りします」

 

 胸が締め付けられた。

 

 あなたは守る。

 最後まで守る。

 そして、そのために死ぬ。

 

 俺は何も言えなかった。

 言えば、全部壊れてしまう気がした。

 

 隊列はさらに進む。

 

 森の気配が少しずつ変わってきた。

 黒樹の密度が薄くなり、地面の傾斜が緩やかになる。

 足元に石畳の欠片のようなものが混ざり始めた。

 

 巡礼路だ。

 

 かつて帝都から北西の聖地へ向かう巡礼者たちが使った古い道。

 数十年前の山崩れと疫病で廃れ、今ではほとんど使われていない。

 

 設定資料に書いた。

 読者の目にはほとんど触れなかった場所。

 

 それが今、俺たちの足元にある。

 

「道に出ましたな」

 

 バルドが言う。

 

 兵士たちの間にも、少し安堵の空気が流れた。

 

 森の中の獣道より、石畳の残骸がある道の方が歩きやすい。

 負傷者にとっても、その差は大きい。

 

 レオンハルトがこちらを振り返った。

 

「フミヤ殿」

 

「はい」

 

「助かった。あなたが言った通りだった」

 

「まだ、廃修道院に着いたわけではありません」

 

「それでも、道は見つかった」

 

 レオンハルトは微かに笑った。

 

 疲れた顔だった。

 腕の傷も痛むはずだ。

 それでも、彼は礼を言う。

 

 そういうところだ。

 

 俺は、その礼を素直に受け取れなかった。

 

「……殿下は、簡単に礼を言いすぎです」

 

 思わず言っていた。

 

 レオンハルトが目を瞬かせる。

 セラフィナがこちらを睨む。

 しまった。

 皇子に向かって言うことではない。

 

 だが、レオンハルトは怒らなかった。

 

「そうだろうか」

 

「少なくとも、怪しい相手にはもう少し警戒した方がいいです」

 

「セラにも同じことを言われる」

 

「でしょうね」

 

「だが、助けられたことをなかったことにはできない」

 

 レオンハルトは真っ直ぐに言った。

 

「疑うことと、礼を失うことは別だと思っている」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

 十四歳でこれか。

 

 王族として育てられたからか。

 それとも、彼自身の資質か。

 

 どちらにせよ、この少年はやはり主人公だった。

 

 そして俺は、この少年を折る展開を書いた。

 なんてことをしたんだ、俺は。

 

 隊列は巡礼路を進む。

 

 日が傾き始める。

 黒樹の森の中では分かりにくいが、空気が冷え、鳥の声が少なくなった。

 夜が近い。

 

 今日の追記は、すでに黒牙狼の襲撃で使ってしまった。

 今夜、何か起きても本の力は使えない。

 

 そのことが、ずっと胸に引っかかっていた。

 

 俺は、バルドに声をかけた。

 

「あの」

 

「何ですかな、フミヤ殿」

 

「本を確認してもよろしいでしょうか」

 

 隊列の空気がわずかに張る。

 

 セラフィナは即座にこちらを見る。

 兵士も警戒した。

 

 バルドは穏やかに問う。

 

「今、ですかな」

 

「はい。移動しながらではなく、立ち止まって確認します。何かするわけではありません」

 

「確認、とは」

 

「記録の確認です。今後の道程に関わる情報があるかもしれません」

 

 嘘ではない。

 少なくとも、俺にとっては。

 

 バルドは少し考え、頷いた。

 

「よろしい。ただし、セラフィナの前で」

 

「分かりました」

 

 俺は道端の岩に腰を下ろし、本を開いた。

 

 セラフィナがすぐ横に立つ。

 彼女の目がページに向く。

 

 まずい。

 

 もし文字が見えたらどうなる。

 

 そう思ったが、セラフィナは眉をひそめただけだった。

 

「……何も書かれていないように見えますが」

 

「え?」

 

「白紙です」

 

 俺はページを見た。

 

 そこには、はっきりと文章が書かれている。

 

『瀬尾文也は第三皇子レオンハルト一行に同行し、原作の東砦ルートから外れることになった』

 

『彼は狩人の目印を辿り、古い巡礼路へ一行を導いた』

 

『だが、彼自身にも、この先に何が待つかは分からなかった』

 

 読める。

 俺には読める。

 

 だが、セラフィナには白紙に見えるらしい。

 

 俺は心の中で息を吐いた。

 

 少なくとも、現時点では本の内容を他人に読まれる心配は薄い。

 ありがたい。

 いや、ありがたいが、同時に不気味だ。

 

 この本は、俺だけのものとして機能している。

 

 なぜ。

 誰が。

 何のために。

 

 考えても答えは出ない。

 

 ページの端には、予想通り薄い文字があった。

 

『本日の追記は終了した』

 

 その下に、さらに小さな文字が浮かんでいる。

 

『次の追記は夜明け以降に可能となる』

 

 確定だ。

 一日一度の更新は夜明け。

 

 俺はページを読み進めようとした。

 

 しかし、先は白紙。

 未来は開けない。

 

 過去のページも試す。

 やはり固い。

 閉じられたように動かない。

 

「どうしたのです」

 

 セラフィナが問う。

 

「いえ。やはり、現在の記録しか確認できないようです」

 

「現在の記録?」

 

「……私の流派では、そう呼びます」

 

 苦しい。

 そろそろ説明が継ぎ接ぎだらけになっている。

 

 セラフィナは納得していない顔だったが、追及はしなかった。

 

 その時、ページの下部に新しい文章が浮かんだ。

 

『レオンハルトは、フミヤが本を見つめる姿を不思議そうに見ていた』

 

 俺は顔を上げた。

 少し離れたところで、レオンハルトがこちらを見ていた。

 

 目が合う。

 彼は気まずそうに微笑んだ。

 

「すまない。珍しい本だと思って」

 

「……読めますか?」

 

 俺は思わず尋ねた。

 

 レオンハルトは首を横に振る。

 

「いや。俺にも白紙に見える」

 

「そうですか」

 

「だが、大切なものなのだろう?」

 

「はい」

 

「なら、なくさないようにしないと」

 

 あまりにも普通の言い方だった。

 俺は少しだけ笑ってしまった。

 

「そうですね。なくしたら、たぶん死んでしまうかもしれない」

 

 冗談のつもりだった。

 しかし、本心かもしれない。

 

 セラフィナがじろりとこちらを見る。

 

「それほどの魔導具だと?」

 

「ものの例えです」

 

「物騒な例えをしない事です」

 

「すみません」

 

 また素で返してしまった。

 ミロが小さく笑う。

 セラフィナに睨まれて、すぐに口を閉じた。

 

 短い休憩の後、一行は再び歩き出した。

 

 巡礼路は、途中から崩れていた。

 道の半分が斜面に呑まれ、石畳がめくれ上がっている。

 馬車はもちろん、人が歩くのも難しい。

 

 だが、進めないほどではない。

 

 セラフィナと兵士が先に安全を確認し、負傷者を支えながら一人ずつ進む。

 俺も足元に気をつけながら進んだ。

 その途中で、ふと谷底が見えた。

 

 深い。

 黒樹の枝に遮られて底は見えない。

 落ちれば助からないだろう。

 

 俺は背筋を冷やし、できる限り崖側を見ないようにした。

 

「怖いのですか」

 

 セラフィナが淡々と問う。

 

「怖いです」

 

 即答した。

 

「正直ですね」

 

「見栄を張って落ちるよりはましかと」

 

「それは賢明です」

 

 褒められたのか、呆れられたのか分からない。

 

 ただ、セラフィナの声から、ほんの少しだけ棘が薄れた気がした。

 気のせいかもしれない。

 

 やがて、森の奥に石造りの建物が見えてきた。

 

 廃修道院。

 

 かつて巡礼者を受け入れていた、小さな修道院。

 石壁は蔦に覆われ、屋根の一部は崩れている。

 門は片方が外れ、敷地の中には雑草が伸びていた。

 

 それでも、壁は残っている。

 礼拝堂らしき建物も立っている。

 少なくとも、野ざらしで夜を明かすよりは遥かにましだ。

 

「着いた……」

 

 俺は思わず呟いた。

 

 設定資料にしかなかった場所。

 本編では使わなかった場所。

 

 そこに、本当に辿り着いてしまった。

 

 バルドが慎重に周囲を見る。

 

「まずは中を確認しましょう。セラフィナ、兵を二人」

 

「はい」

 

 セラフィナが兵士二人を連れて中へ入る。

 

 俺は門の前で立ち尽くしていた。

 

 見覚えがあるようで、ない。

 知っているようで、知らない。

 

 廃修道院の設定は作った。

 名称も、位置も、歴史も、だいたい決めた。

 だが、礼拝堂の中の匂いや、崩れた柱の位置、床に散らばった割れた燭台までは知らない。

 

 ここから先は、俺の記憶が通じないかもしれない。

 

 俺が書かなかった空白。

 その空白に、レオンハルトたちを連れてきた。

 

 不安が胸の中で膨らむ。

 

 これでよかったのか。

 東砦での最初の犠牲は避けられたかもしれない。

 だが、その代わりに別の危険を呼び込んだらどうする。

 

 黒牙狼の時と同じだ。

 助けようとして、傷を増やすかもしれない。

 

「フミヤ殿」

 

 声をかけられ、俺は振り返った。

 

 レオンハルトが立っていた。

 

 エルナに支えられながらだが、まだ自分の足で立っている。

 顔色はよくない。

 だが、目はしっかりしていた。

 

「この場所を教えてくれて、ありがとう」

 

「……まだ安全と決まったわけではありません」

 

「それでも、森の中よりは休める」

 

「殿下はもう少し疑った方がいいです」

 

「それは、セラに言われた」

 

 レオンハルトは苦笑した。

 

 その笑顔に、俺は一瞬、言葉を失う。

 

 この少年は、まだ何も失っていない。

 いや、すでに帝都を失い、家族とも離れ、命を狙われている。

 十分すぎるほど失っている。

 

 それでも、まだ壊れていない。

 

 まだ、人を信じようとしている。

 

「……どうして」

 

 俺は思わず言っていた。

 

「どうして、そんなふうにいられるんですか」

 

 レオンハルトは少し驚いたように俺を見る。

 

「そんなふう、とは?」

 

「帝都を追われて、追手に狙われて、怪我までして。それでも、誰かに礼を言える。人を疑い切らない。普通なら、もっと……」

 

 言いながら、俺は自分が何を聞いているのか分からなくなった。

 

 これは作者がキャラクターに聞くことではない。

 作者なら知っているはずだ。

 性格設定も、背景も、台詞回しも。

 

 だが、目の前のレオンハルトは、俺の設定の中の人物ではない。

 

 彼は少し考え、それから言った。

 

「俺が疑い続けたら、俺についてきてくれた者たちまで疑うことになる」

 

 静かな声だった。

 

「もちろん、警戒は必要だ。セラの言うことも分かる。だが、俺は一人では何もできない」

 

 レオンハルトは廃修道院の中へ視線を向ける。

 

「ここまで来られたのも、セラが守ってくれたからだ。バルドが考えてくれたからだ。ミロやエルナが支えてくれたからだ。兵たちが命をかけてくれたからだ」

 

 彼は少しだけ笑った。

 

「それを忘れたら、俺はただ逃げているだけの皇子になる」

 

 俺は何も言えなかった。

 

 この少年は、自分が一人ではないことを知っている。

 誰かに支えられていることを知っている。

 だから、人を信じようとする。

 

 そして、だからこそ。

 

 その支えを奪われた時、彼は壊れる。

 

 俺が書いた青年編のレオンハルトは、誰も信じていないように見えた。

 だが、それは最初から信じなかったからではない。

 信じていたものを、根こそぎ失ったからだ。

 

 胸が痛い。

 

「フミヤ殿?」

 

「……いえ」

 

 俺は首を振る。

 

「殿下は、そのままでいてください」

 

 レオンハルトは不思議そうに俺を見る。

 

 俺は続けた。

 

「そのままでいるのは、たぶん難しいです。でも、できる限り」

 

「変なことを言う」

 

「よく言われます」

 

「そうなのか?」

 

「最近、特に」

 

 レオンハルトは小さく笑った。

 その笑い声に、エルナが少し安心したような顔をする。

 

 その時、廃修道院の中からセラフィナが戻ってきた。

 

「一通り確認しました。魔物や人の気配はありません。礼拝堂の屋根は一部崩れていますが、奥の宿坊は使えます」

 

「よかった」

 

 レオンハルトが息を吐く。

 

「ただし、古い建物です。火の扱いには注意を。見張りも立てます」

 

「分かった」

 

 レオンハルトは頷き、それから俺を見た。

 

「フミヤ殿も、中へ」

 

「はい」

 

 俺は廃修道院の敷地に足を踏み入れた。

 

 石畳は割れ、雑草が隙間から伸びている。

 壁には古い聖句らしき文字が刻まれていた。

 この世界の古代語だ。

 俺が雰囲気で作った文字体系のはずなのに、今は本当にそこに存在している。

 

 礼拝堂の扉は半ば朽ちていた。

 

 中に入ると、埃と湿気の匂いがした。

 正面には、翼を広げた女神像。

 片腕が欠け、顔も半分崩れている。

 

 俺はその女神像を見上げた。

 

 名前は、確かリュミナ。

 巡礼路の守護女神。

 本編では一度も出していない。

 設定資料にだけ書いた神。

 

 それが、ここにいる。

 

「……凄いな」

 

 思わず呟いた。

 

 世界の補完が。

 俺のいい加減な設定が、なぜここまで形になっているのか。

 

 軽く恐ろしくなる。

 

 宿坊の一室が、今夜の寝場所になった。

 床には古い藁が残っていたが、湿って使い物にならない。

 兵士たちが荷物から布を出し、最低限の寝床を作る。

 

 エルナはレオンハルトの手当てをやり直した。

 ミロが水を汲みに行こうとして、セラフィナに止められ、兵士と一緒に行かされる。

 バルドは地図を広げ、明日以降の進路を確認している。

 

 俺は部屋の隅に座らされた。

 

 近くにはセラフィナ。

 少し離れて兵士。

 監視付きの客分という立場は変わらない。

 

 食事は少しの黒パンと干し肉、それから薄い野草のスープだった。

 スープは、廃修道院の井戸がまだ使えたため、どうにか作れたらしい。

 

 温かいものを口にした瞬間、思わず泣きそうになった。

 

 味は薄い。

 塩気も少ない。

 野草の苦味が強い。

 

 それでも、温かい。

 

 昨日からの出来事を考えれば、贅沢すぎるくらいだった。

 

「泣いているのですか」

 

 セラフィナが言う。

 

「泣いてません」

 

「目が潤んでいます」

 

「湯気です」

 

「もう湯気が出るほど熱くはないはずですが?」

 

「心の湯気です」

 

「意味が分かりません」

 

 当然だ。

 

 ミロが横で笑いを堪えている。

 エルナも少しだけ口元を緩めた。

 

 セラフィナは呆れたように息を吐く。

 ほんのわずかだが、空気が緩んだ。

 

 そういう緩みが大事だった。

 

 原作の彼らには、こうした時間が確かにあった。

 逃亡中でも、少し笑う。

 くだらない会話をする。

 温かいスープに救われる。

 

 だからこそ、失った時に痛かった。

 

 いや。

 

 痛いなどと、作者の俺が言うな。

 俺は黙ってスープを飲んだ。

 

 夜が深くなる。

 

 見張りが交代で立つ。

 火は小さく抑えられた。

 礼拝堂の奥の壁に、炎の影が揺れる。

 

 レオンハルトは奥で横になっている。

 エルナにほとんど命令される形で休まされた。

 ミロはその近くで丸くなっている。

 バルドはまだ地図を見ている。

 セラフィナは入口近くで剣を抱えて座っていた。

 

 俺は眠れなかった。

 

 疲れている。

 身体は限界だ。

 だが、頭が冴えている。

 

 原作から外れた。

 

 その事実が、ずっと脳裏を回っていた。

 

 東砦へ向かわなかった。

 つまり、東砦で死ぬはずだった兵士は死なないかもしれない。

 その代わり、廃修道院で何か起きるかもしれない。

 

 俺は救っているのか。

 それとも、別の死に場所へ連れてきただけなのか。

 

 考えても答えは出ない。

 

 俺はそっと本を取り出した。

 セラフィナが視線を向ける。

 

「本ですか」

 

「はい。確認だけです」

 

「見ていますから」

 

「もちろん」

 

 俺は小さく息を吐き、本を開いた。

 ページには、廃修道院に辿り着いたことが記されている。

 

『第三皇子レオンハルト一行は、東砦ではなく、古い巡礼路の廃修道院へ辿り着いた』

 

『それは原作には存在しない夜だった』

 

 俺は指先を止めた。

 

 原作。

 

 その言葉が、本に書かれている。

 俺の心臓が、嫌な音を立てた。

 

 これまでも本は、俺の状況や認識を文章にしてきた。

 だが、今の一文は明らかに踏み込んでいる。

 

 原作には存在しない夜。

 

 まるで、この本自身が、ここが本来の物語ではないことを認識しているようだった。

 

 さらに下へ視線を移す。

 

 白紙の余白に、ゆっくりと文字が浮かんだ。

 

『だが、物語は代償を求める』

 

 息が止まった。

 

 俺はその一文を見つめる。

 

 代償。

 

 何の。

 誰の。

 何に対する。

 

 東砦での犠牲を避けた代償か。

 レオンハルトの傷か。

 それとも、これから起こる何かか。

 

 手が冷たくなる。

 

「どうしましたか」

 

 セラフィナの声が聞こえた。

 俺は慌てて本を閉じた。

 

「……何でもありません」

 

「何でもない顔では、ないようですが」

 

「少し、嫌な記録を見ただけです」

 

「嫌な記録?」

 

「まだ、確定していないものです」

 

 セラフィナの眉が寄る。

 俺は自分でも何を言っているのか分からなかった。

 

 ただ、嫌な予感だけがあった。

 

 その時。

 廃修道院の外で、かすかな音がした。

 

 石を踏む音。

 

 見張りの兵士が反応するより早く、セラフィナが立ち上がった。

 

 剣が抜かれる。

 

 礼拝堂の空気が一瞬で凍りつく。

 俺は本を抱えたまま、入口の方を見た。

 

 火の明かりが、崩れた扉の影を揺らしている。

 

 外は暗い。

 その暗闇の向こうから、誰かの声が聞こえた。

 

「……雷を落とす魔導士がいるってのは、ここか?」

 

 聞き覚えのない、荒れた声だった。

 俺の背筋に、冷たいものが走る。

 

 雷。

 魔導士。

 

 俺はまだ、雷なんて落としていない。

 

 いや、違う。

 

 確かに、手段の一つとして考えはした。

 雨を降らせ、雷を敵に落とし、高名な魔導士だと思わせる。

 

 だが、そんなものは考えただけ。本に書いてすらいない。

 

 なのに、なぜ。

 

 セラフィナが低く言う。

 

「全員、起きなさい」

 

 レオンハルトが身を起こす。

 ミロが短剣を掴む。

 バルドが地図を畳む。

 エルナが青ざめる。

 

 俺は本を抱きしめた。

 ページに浮かんだ一文が、脳裏から離れない。

 

 物語は代償を求める。

 

 廃修道院の扉の向こうで、複数の足音が止まった。

 そして、もう一度、声がした。

 

「出てこいよ、魔導士様。こっちは、あんたに用がある」

 

 俺は息を呑む。

 

 原作にない夜は、まだ終わっていなかった。

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