自作小説の世界に落ちた作者、闇落ち予定の第三皇子を救うために筆を執る   作:けもの

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第六話 書かれなかった襲撃

 廃修道院の中に、誰のものともつかない息遣いだけが広がる。

 外から聞こえてきた声は、決して大きなものではなかった。どこかこちらの反応を試すような、湿った夜気に紛れて忍び込んでくる声だった。

 

 しかも、その言葉が問題だった。

 

 雷を落とす魔導士。

 

 俺は、まだこの世界で雷など落としていない。

 頭の中に、最初に考えていた接触案が蘇る。レオンハルト一行が襲われているところに割って入り、雨を降らせ、敵に雷を落とし、高名な魔導士だと思わせる。そうやって彼らに取り入るはずだった。少なくとも、考えただけの案だ。

 

 なのに、扉の向こうの男は、そう言った。

 

 『雷を落とす魔導士がいるってのは、ここか』

 

 さっきまで開いていた本に目を落とす。

 そこには、確かにこう書かれていた。

 

 ――だが、物語は代償を求める。

 

 俺の背中を、冷たい汗が伝った。

 

「セラフィナ」

 

 レオンハルトが低く名を呼ぶ。

 

 彼の声に怯えはなかった。腕の傷を庇いながら体を起こした少年は、寝床代わりの布の上に膝をつき、状況を確認しようと周囲へ視線を巡らせている。

 

「人数は」

 

「声だけでは分かりません。ですが、少なくとも四人以上。足音は散っています」

 

 セラフィナは入口近くに立ち、抜いた剣を低く構えていた。小さく抑えた火の明かりが、彼女の鎧に鈍く映る。白い外套は埃と泥で汚れ、銀色の髪にも疲労の色が濃い。それでも、その背中は一切揺らがなかった。

 

 あの背中がある限り、レオンハルトは簡単には死なない。

 そう信じたくなる強さがあった。

 

 だが俺は、知っている。

 強い者でも死ぬ。忠義の厚い者ほど、守るものの前に立つ。そして、物語はそういう人間から順に死んでいく。

 

 俺が、そう書いた。

 

「見張りは」

 

 バルドが静かに尋ねる。

 

 老臣はすでに地図を片づけ、壁際に置いていた杖を手にしている。杖と言っても、ただの歩行補助ではない。柄の内側には細い刃が仕込まれている。

 バルドが若い頃に使っていた護身用の仕込み杖だ。そんな設定を作った覚えがある。

 

「戻っていません」

 

 入口近くの兵士が答えた。

 その声には、わずかな震えがあった。

 

 見張りの兵は二人いた。一人は外門の近く、もう一人は礼拝堂の裏手。どちらからも合図はない。つまり、声をかけてきた連中は、少なくとも見張りの目をすり抜けたか、あるいは黙らせた。

 その事実が、宿坊代わりに使っていた部屋の空気をさらに重くした。

 

 エルナはレオンハルトのそばで治療鞄を抱えている。顔は青ざめているが、手は動いていた。万一のために包帯と薬草を取り出し、暗がりでも使えるよう膝元に並べている。

 

 ミロは短剣を握っていた。

 彼の手は震えている。だが、それでもレオンハルトの前に出ようとしていた。従者として、友人として、主を守ろうとしている。

 

 俺はそれを見て、胸の奥が重くなるのを感じた。

 

 ミロは死ぬ予定のキャラクターだった。

 俺が、死ぬように書いた。

 レオンハルトを壊すために。

 

「フミヤ殿」

 

 バルドの声が、俺の思考を引き戻した。

 

「外の者に心当たりは?」

 

 全員の視線が、俺に向いた。

 

「ありません」

 

 俺は答えた。

 

「少なくとも、俺が知っている相手ではありません」

 

「では、雷を落とす魔導士という言葉には」

 

「心当たりは……」

 

 ない、と言おうとして口が止まった。

 

 ない。

 実際には、ない。

 

 だが、その展開を考えていたのは俺だ。まだ起きていないはずの案が、なぜか敵の口から出てきた。心当たりがあるかないかで言えば、ある。けれど、それを説明することはできない。

 

 俺が言い淀んだ瞬間、セラフィナの目が細くなった。

 

「あるのですね」

 

「違います」

 

 信じてもらえないだろうか、こんな怪しい男の言葉など。

 だが、今はそういうしかない。

 

 セラフィナも、これ以上の言及は避けたようだった。

 軽く息を吐き、外を睨む。

 

 扉の向こうで、男の声がまた響いた。

 

「聞こえてんだろ。こっちはあんたらを皆殺しにしに来たわけじゃねえ。魔導士を一人渡せば、それで済む話だ」

 

 その言葉の後、別の男が低く笑った。

 

「まあ、皇子様がいるなら別だがな」

 

 レオンハルトの表情がわずかに強張る。

 セラフィナは剣を握る手に力を込めた。自分たちが皇子の一行だと知られている。その事実を、彼女は一瞬で飲み込み、脅威の段階を引き上げた。

 

 外の連中は、ただの山賊ではない?

 誰かに雇われている?

 

 反乱軍か。

 東砦にいるはずだった裏切り者か。

 あるいは、もっと別の勢力か。

 

 俺は必死に記憶を探った。

 

 廃修道院。

 原作には出てこない夜。

 魔導士を狩る連中。

 

 該当するエピソードはない。そもそも、レオンハルト一行はこの場所に来ない。本来なら東砦へ向かい、そこで裏切りに遭う。だからこの襲撃は、原作には存在しない。

 

 ただし、似た集団なら設定にあった。

 

 魔導士狩り。

 

 正式な組織ではなく、魔導士や魔導具を狙って荒稼ぎする傭兵崩れの総称。戦争が長引いた地域では、魔法使いは高く売れる。殺せば名が売れ、捕らえれば身代金や研究機関への売却で金になる。そういう連中がいる、と設定資料に書いた覚えがある。

 

 たしか、灰斧団。

 

 元は北方戦線で魔導士対策を請け負っていた傭兵団で、今はほとんど盗賊同然になっている。魔導士を相手にするため、煙幕や投げ網、聖灰と呼ばれる目潰し用の灰、術式を乱す鉄鎖などを使う。

 

 俺はその設定を、青年編の敵候補として作った。

 だが、使わなかった。

 没にした。

 

 なのに、今ここにいるのか。

 

「灰斧団」

 

 思わず、その名が口から漏れた。

 セラフィナがこちらを見る。

 

「今、何と」

 

「……魔導士狩りの傭兵団です。北方で魔導士対策をしていた連中が、反乱後に流れてきた可能性があります」

 

「なぜそれを知っている」

 

 セラフィナの問いはもっともだったが、今はそれに答えている余裕がない。

 

「魔導士の相手に慣れています。煙や網、灰、鉄鎖を使うはず。扉の近くに固まると、煙を入れられた時にまずい。あと、火のそばも危険です。灰を撒かれると目が開けられなくなる」

 

 俺が一気に言うと、バルドの表情が変わった。

 疑いではなく、判断の顔だった。

 

「セラフィナ」

 

「はい」

 

「火を奥へ。入口正面から人をずらしなさい。ミロ、エルナを連れて壁際へ。兵は二人、左右に散れ」

 

 バルドの指示で、部屋の中が一斉に動いた。

 小さく抑えていた火は、兵士の一人が布で囲いながら壁際へ移す。エルナはレオンハルトの包帯を押さえたまま、ミロに促されて奥へ下がった。レオンハルトは立とうとしたが、バルドが目で制した。

 

「殿下は中央へ。動かれるなら、我らの後です」

 

「だが」

 

「殿下が動けば、全員がそちらを守ろうとします。今はお控えを」

 

 レオンハルトは悔しそうに唇を噛んだが、それでも頷いた。

 扉の向こうで、何かが転がる音がした。

 

 それが何かを理解するより早く、入口の隙間から灰色の煙が流れ込んできた。

 ただの煙ではない。乾いた灰を混ぜたような、ざらついた霧だった。喉に入った瞬間、焼けるような刺激が走る。

 

「口を覆え!」

 

 セラフィナの声が飛ぶ。

 俺も慌てて袖で口元を押さえた。だが、現代のパーカーの袖など、この世界の悪意を遮るにはあまりにも頼りない。目が痛い。喉が痛い。視界が滲む。

 煙の向こうで、窓枠が砕ける音がした。

 扉ではなく、横の崩れかけた窓から侵入してくる。

 

 そう思った瞬間、黒い影が煙の中から飛び込んできた。

 

「左!」

 

 セラフィナが叫ぶ。

 

 剣戟が鳴った。

 

 狭い宿坊の中で、金属音が反響する。古い石壁がその音を跳ね返し、どこから何人来たのか一瞬分からなくなった。灰煙の中で人影が揺れ、兵士の怒鳴り声と、ミロの短い悲鳴が重なる。

 俺は本を抱えたまま、壁際へ後ずさった。

 剣は預けている。そもそも持っていても役に立たなかっただろうが、今の俺には本当に何もない。手にあるのは本とペンだけ。だが、本日の追記は終了している。今この瞬間、どれだけ書きたくても、世界を動かすことはできない。

 

「フミヤ殿!」

 

 バルドの声が飛ぶ。

 俺は歯を食いしばり、本を抱えたまま周囲を見る。

 

 煙で視界は悪い。だが、敵の装備の一部は見えた。灰色の外套。革鎧。短い斧。片手用の弩。顔の下半分を布で覆い、目だけを出している。

 

 灰斧団。

 

 本当に、没設定の連中が動いている。

 

「殿下、下がってください!」

 

 セラフィナが一人を斬り伏せながら叫ぶ。だが、その声に反応して、別の敵が逆方向から動いた。正面からではセラフィナを抜けないと判断し、煙に紛れてレオンハルトの側面を狙ったのだ。

 

 俺には見えた。

 

 いや、戦闘の動きが読めたわけではない。相手の技量を見抜いたわけでもない。ただ、灰斧団のやり口を設定として知っていた。

 魔導士狩りは、護衛を正面に引きつけてから、本命を横から攫う。

 

 そう書いた覚えがある。

 

「右です!」

 

 俺は叫んだ。

 

 レオンハルトが反応するより早く、バルドが仕込み杖を抜いた。細い刃が煙を裂き、横から迫っていた敵の手首を打つ。刃は深くは入らなかったが、弩の狙いを逸らすには十分だった。

 短い矢が、レオンハルトの肩先をかすめ、背後の石壁に弾かれる。

 エルナが息を呑む。ミロがレオンハルトの前に出ようとする。

 

「殿下!」

 

「俺は大丈夫だ!」

 

 レオンハルトはそう言ったが、顔色は悪い。腕の傷が開いたのか、包帯の赤が濃くなっていた。

 

 俺は奥歯を噛み締める。

 

 まただ。

 また、原作にない傷が増える。

 

「フミヤ殿、伏せなさい!」

 

 バルドの声に、俺は反射的に身を低くした。

 

 直後、頭上を何かが通り過ぎる。鉄鎖だった。先端に小さな鉤がついた鎖が、俺のいた場所を薙ぎ、背後の棚に絡みつく。古い木材が嫌な音を立てて砕け、埃が舞った。

 

「そいつだ!」

 

 煙の向こうで男が叫んだ。

 

「本を持ってる! あいつが魔導士だ!」

 

 敵の一人がこちらへ向かってきた。

 セラフィナは別の敵に足止めされている。兵士も煙の中で交戦中。バルドはレオンハルトの側から離れられない。

 俺は壁を背にして、後ずさる。

 

 逃げ場がない。

 

 男の手には短斧があった。大きな斧ではない。片手で振れる、刃幅の広い武器だ。魔導士の腕を潰すためのものだと、俺は設定資料に書いた覚えがある。術式を組ませないために、まず手を狙う。

 その設定を思い出した瞬間、男の視線が俺の右手に向いていることに気づいた。

 

 ペンを握る手。

 

 血の気が引いた。

 

「おい、魔導士様」

 

 男が煙の中で笑う。

 

「その手、一本貰うぜ」

 

 俺は本を抱えたまま、横へ逃げようとした。だが足元に転がっていた燭台に踵を取られ、体勢が崩れる。情けないほど簡単に、俺の身体は壁にぶつかった。

 

 男が短斧を振り上げる。

 その時、横から小柄な影が飛び込んできた。

 

 ミロだった。

 

「やめろ!」

 

 彼は短剣を両手で握り、男の腕へ体当たりするように突っ込んだ。戦士としては無謀な動きだった。力も体格も足りていない。だが、完全に不意を突かれた男の腕はわずかに逸れ、短斧は俺の右手ではなく、石壁を打った。

 

 火花が散る。

 

「ミロ!」

 

 俺は叫んだ。

 

 ミロは男に弾き飛ばされ、床に転がった。

 その瞬間、別の敵が煙の中から現れ、ミロの襟首を掴んだ。あまりにも手際がよかった。偶然ではない。最初から、誰かを人質に取るつもりで動いていたのだ。

 

 まずい。

 そう思った時には、もう遅かった。

 

 敵はミロの背後に回り、短剣をその首筋に当てていた。

 

 セラフィナが動こうとして、止まる。

 レオンハルトの顔から血の気が引いた。

 

「ミロ!」

 

「動くな!」

 

 ミロを捕らえた男が怒鳴る。

 

 煙は少しずつ薄れてきていた。灰に咳き込みながらも、敵味方の位置が見えるようになる。灰斧団の人数は五人。うち一人はセラフィナに斬られ、床に倒れている。もう一人は兵士と刃を交えている。残り三人。そのうち一人がミロを捕らえ、二人が逃げ道を確保するように入口と窓の近くへ立っていた。

 

 こちらも無傷ではない。

 

 兵士の一人が肩を押さえている。

 レオンハルトの包帯は血で赤い。

 エルナは震えながらも、治療鞄を抱えている。

 セラフィナはまだ戦えるが、人質がいるため踏み込めない。

 

 そして俺は、壁際で本を抱えているだけだ。

 俺のせいで、ミロが捕まった。

 

 本来なら、少年編終盤で死ぬはずだった少年が、今、俺を助けるために首に刃を当てられている。

 

「……冗談じゃない」

 

 声が漏れた。

 

 誰にも聞こえないほど小さい声だった。

 

 本当に、冗談じゃない。

 

 俺は救うために来たはずだ。

 レオンハルトを壊さないために。

 セラフィナを死なせないために。

 ミロやエルナを、物語の犠牲にしないために。

 

 なのに、俺がここにいることで、ミロが死にかけている。

 

 捕らえた男は、ミロの首筋に刃を押し当てながら、こちらを見た。

 

「魔導士を渡せ」

 

 その視線は、俺に向いている。

 

「そこの本持ちだ。そいつを渡せば、このガキだけは生かしてやる」

 

 部屋の中が、凍りついた。

 

 レオンハルトが一歩踏み出そうとする。

 セラフィナが目だけで制した。

 

 ミロは青ざめている。首に当たった刃の端から、細い血が流れていた。それでも、彼は泣かなかった。震えながら、唇を噛みしめ、レオンハルトの方を見ている。

 

「殿下……」

 

 小さな声だった。

 それだけで、レオンハルトの顔が歪んだ。

 

 俺は本を握る手に力を込める。

 

 渡せばどうなる。

 

 俺は捕まる。

 魔導士として拷問されるか、売られるか、殺される。

 

 渡さなければどうなる。

 

 ミロが死ぬかもしれない。

 本来より、ずっと早く。

 俺の目の前で。

 

 頭の中が、嫌なほど静かになっていく。

 

 ペンはある。

 本もある。

 だが、追記は使えない。

 

 なら、夜明けまで待つか。

 無理だ。

 

 あと何時間あると思っている。

 それまで人質が生きている保証などない。

 

 どうする。

 どうすればいい。

 

 俺は周囲を見た。

 

 古い宿坊。

 石壁。

 崩れかけた棚。

 移動させた小さな火。

 灰煙。

 壊れた燭台。

 天井を支える黒ずんだ梁。

 

 梁。

 

 この建物は古い。

 廃修道院だ。

 礼拝堂だけでなく、宿坊も長年放置されていた。湿気を吸い、木材は腐り、石壁にもひびが入っている。さっき敵が煙を入れ、窓を壊し、短斧が壁を打った。戦闘の衝撃もあった。

 

 俺はセラフィナを見た。

 彼女は動けない。動けばミロの首が裂かれる。

 

 バルドも同じだ。レオンハルトを守りながら、隙を探している。

 

 敵は俺を要求している。

 つまり、俺の動きには必ず視線が集まる。

 なら、俺が何かをするしかない。

 

 情けないことに、膝は震えていた。喉は乾き、胃は縮み、頭のどこかでは逃げたいと叫んでいる。けれど、ここで逃げたら、俺は何のためにこの世界に来たのか分からなくなる。

 自分で書いた悲劇を、ただ眺めるために来たわけではない。

 

「……分かった」

 

 俺は言った。

 

 セラフィナが鋭くこちらを見る。

 

「フミヤ殿」

 

「動かないでください」

 

 俺は小さく言った。

 俺は本を抱えたまま、ゆっくりと一歩前に出る。

 

 敵の視線が俺に集まる。

 ミロを捕らえた男が、口元を歪めた。

 

「そうだ。それでいい。魔導士様は物分かりがいいな」

 

「俺は魔導士じゃない」

 

「あ?」

 

「書記官だ」

 

 男が一瞬だけ怪訝そうな顔をした。

 その一瞬でいい。

 俺は言葉を続ける。

 

「雷は落とせない。ただ、お前たちのことは知っている」

 

「何の話だ」

 

「灰斧団」

 

 その名を口にした瞬間、男の表情が変わった。

 ほんのわずかだが、動揺した。

 

「元北方戦線の魔導士狩り。団長はゲラルド・ハイン。右耳が欠けていて、左膝に古傷がある。部下には、捕らえた魔導士の指を落として持ち帰る趣味の悪い男がいた」

 

 俺は、覚えている設定を必死に並べた。

 

 没になった敵役。

 青年編の中盤で使うつもりだったが、展開が重くなりすぎるため削った連中。

 その設定がどこまで現在の彼らに当てはまるかは分からない。だが、敵の顔に走った緊張が、少なくとも一部は正しいことを示していた。

 

「なぜ、それを」

 

 男の声が低くなる。

 

「知っているからだ」

 

 俺は本を掲げた。

 

「お前たちが何をしてきたか。誰に雇われ、誰を売り、どの村を焼いたか。そういうものは、どこかに残る」

 

 完全なハッタリだった。

 俺は彼らの現在の行動を知らない。誰に雇われたのかも分からない。過去の細かい悪事など、設定資料にも書いていない。

 

 俺はさらに一歩進む。

 

「俺が死ねば、お前らに不都合なことが世に出る。俺の死を知った者が流す」

 

 嘘だ。

 そんなヤツなんていない。

 男の視線が揺れた。

 

 ミロの首に当てた刃が、ほんの少しだけ浮く。

 

 俺はもう一歩進もうとした。

 その時、入口側にいた別の敵が怒鳴った。

 

「乗るな! 時間稼ぎだ!」

 

 まずい。

 短弩を構えた男が、俺に狙いをつける。

 

「魔導士だろうが違かろうが、殺さなけりゃいいんだろ!」

 

 弩の先が、俺の方へ向く。

 

 避けられない。

 そう思った瞬間、宿坊の奥からレオンハルトの声が響いた。

 

「やめろ!」

 

 少年の声だった。

 

「ミロを放せ。代わりに、俺を――」

 

 その言葉が終わる前に、バルドが動いた。

 老臣の仕込み杖が、床を強く打つ。

 乾いた音が、宿坊の中に響いた。

 

 それは合図だった。

 

 セラフィナが踏み込む。

 

 同時に、入口近くの兵士が火のついた布を敵の足元へ投げた。

 灰煙に混ざっていた細かな粉に、火が走る。大きな爆発ではない。だが、乾いた灰と古い藁が一瞬だけ炎を上げ、敵の視線を奪った。

 

「くそっ!」

 

 ミロを捕らえていた男が一瞬、刃を緩める。

 セラフィナの剣が、その手首を打った。

 

 斬り落とすのではなく、刃を持つ力を奪う一撃。見事な制御だった。男の短剣が床に落ち、ミロが解放される。

 だが、次の瞬間、別の敵がミロの背中を蹴った。

 

 ミロの身体が前へ倒れる。

 そこへ短弩の男が狙いを変える。

 

 狙いはミロ。

 間に合わない。

 

 俺は本を抱えたまま、反射的に飛び込んでいた。

 何かを考えたわけではない。小説の主人公のように格好よく身を投げ出したわけでもない。ただ、目の前でミロが撃たれると思った瞬間、身体が勝手に動いた。

 

 短い矢が放たれる。

 

 俺の肩に、鈍い衝撃が走った。

 

「――っ!」

 

 痛みは、少し遅れてやってきた。

 焼けるような、突き刺すような痛みが左肩に広がる。身体が後ろへよろめき、壁にぶつかった。

 ミロが床に倒れたまま、目を見開いて俺を見ていた。

 

「フミヤさん!」

 

 声が遠い。

 

 視界の端で、セラフィナが敵を斬り伏せる。バルドがレオンハルトを下がらせる。兵士が入口の敵と組み合う。灰煙と火の匂い、血の匂い、古い木材の焦げる匂いが混ざり、宿坊の中がぐにゃりと歪む。

 

 俺は壁にもたれながら、自分の肩を見た。

 矢が刺さっている。

 短い矢だった。深さは分からない。ただ、痛い。信じられないくらい痛い。

 

「フミヤ殿!」

 

 レオンハルトの声が聞こえる。

 彼がこちらへ来ようとするのを、バルドが止めている。

 

「殿下、お下がりを!」

 

「だが、彼が!」

 

「今はセラフィナを!」

 

 戦いは続いていた。

 敵は撤退に移り始めている。

 窓から一人が飛び出し、入口側の男が煙玉を床に叩きつける。

 再び煙が広がった。

 

「逃がすな!」

 

 セラフィナの声。

 だが、煙の中で追撃は難しい。

 

 灰斧団の足音が外へ遠ざかっていく。

 数秒後、廃修道院の外で笛のような音が鳴った。撤退の合図だろう。さらに遠くで、馬ではなく、何か軽い荷車のような音がした。

 やがて、剣戟の音が消える。

 

 俺は壁にもたれたまま、ずるずると床に座り込んだ。

 

 肩が熱い。

 指先が冷たい。

 視界がぼやける。

 

 ミロが這うようにして俺のそばへ来た。

 

「フミヤさん、なんで……!」

 

「いや……」

 

 声を出すだけで、肩に響いた。

 

「俺も、よく分からない」

 

 本当に分からない。

 自分が誰かを庇って矢を受けるような人間だとは思っていなかった。昨日までの俺なら、そんな場面を書きながら、キャラクターの覚悟を描写することはできただろう。だが、自分が同じことをするなど、考えたこともない。

 

 怖かった。

 今も怖い。

 痛い。

 逃げたい。

 

 それでも、ミロが死ぬのだけは嫌だった。

 

「エルナ!」

 

 レオンハルトの声。

 エルナが青い顔で駆け寄ってくる。彼女は俺の肩を見て、一瞬だけ息を止めたが、すぐに表情を引き締めた。

 

「矢を抜かないでください。抜いたら血が出ます。ミロ、布を。清潔なものを」

 

「う、うん!」

 

「フミヤさん、意識はありますか?」

 

「あります……たぶん」

 

 セラフィナが煙の向こうから戻ってくる。剣には血がついていた。彼女自身も左腕に浅い傷を負っている。だが、立ち姿は変わらない。

 

 彼女は俺を見下ろした。

 その表情は読めなかった。

 

「なぜ、ミロを庇ったのです」

 

「……俺のせいで、捕まったので」

 

「あなたのせいとは限りません」

 

「でも、俺を庇ってくれた」

 

 セラフィナは黙った。

 その沈黙が、責めるものではなかったことに、俺は少しだけ驚いた。

 バルドが入口の方から戻ってくる。

 

「一人は捕らえました。二人は死亡。残りは逃走。外の見張りは一人が負傷、もう一人は気絶させられておりましたが命はあります」

 

 その報告を聞いて、レオンハルトが深く息を吐いた。

 

「ミロは」

 

「無事です、殿下」

 

 ミロが震えた声で答える。

 

「フミヤさんが、助けてくれました」

 

 その言葉が、胸に刺さった。

 

 助けた。

 本当にそうなのか。

 

 ミロは生きている。

 それはよかった。

 心からよかった。

 

 だが、敵は逃げた。俺たちの居場所も、レオンハルトがここにいることも知られた。灰斧団が誰に雇われているのかも分からない。

 これが次にどう影響するのか分からない。

 

 俺が傷を負ったことで、移動は遅れる。移動が遅れれば、追手に捕まる可能性が上がる。助けたつもりで、別の危険を増やしたかもしれない。

 物語を変えるとは、こういうことなのか。

 一つの死を避けるために、別の傷が増える。原作の道を外れれば、作者の知らない敵が現れる。俺が何かをするたびに、世界は別の形で均衡を取り戻そうとする。

 

 代償。

 

 あの一文が、また頭をよぎる。

 

 エルナが俺の肩の周囲を布で押さえる。痛みに視界が白くなった。

 

「少し我慢してください」

 

 ミロが涙目で俺の手を握っている。

 レオンハルトは少し離れたところで立ち尽くしていた。近づこうとして、セラフィナに止められている。皇子として安全を守らなければならない立場と、目の前で傷ついた者に駆け寄りたい少年の心が、彼の中でぶつかっているのが分かった。

 

 俺は彼に、そんな顔をさせたくなかった。

 させたくなかったのに。

 

「フミヤ殿」

 

 レオンハルトが言う。

 声が震えていた。

 

「俺は、皆に助けられてばかりだ」

 

 レオンハルトは拳を握った。

 

「俺は、また守られた」

 

 また。

 

 そうだ。

 彼はずっと守られている。

 セラフィナに、バルドに、ミロに、エルナに、兵士たちに。

 そして、これから彼は、その守ってくれた者たちを失う。

 守られている自分を責めるようになり、やがて、守られる側から奪う側へ変わっていく。

 

 青年編のレオンハルトが、脳裏に浮かぶ。

 

 やめろ。

 

「殿下」

 

 俺は痛みに耐えながら言った。

 

「守られたことを、責めないでください」

 

 レオンハルトがこちらを見る。

 

「守られたなら、次に守ればいいだけです」

 

 自分で言っていて、ひどくありきたりな言葉だと思った。だが、今の俺にはそれしか言えなかった。

 レオンハルトは、何かを言おうとして、言えずに唇を噛んだ。

 エルナが処置を終える。

 

「応急処置はしました。矢はまだ抜けません。ちゃんとした場所で処置しないと」

 

「動けますか」

 

 バルドが尋ねる。

 エルナは厳しい顔で首を横に振った。

 

「今すぐ長く歩くのは危険です。出血もあります。熱が出るかもしれません」

 

 まずい。

 俺は内心でそう呟いた。

 

 灰斧団の仲間が戻ってくるかもしれない。

 反乱軍に情報が渡るかもしれない。

 東砦を避けたことで稼いだはずの時間が、ここで失われる。

 

 バルドも同じことを考えているのだろう。深い皺の刻まれた顔に、苦いものが浮かんでいた。

 

「朝まで休みます」

 

 レオンハルトが言った。

 セラフィナが振り返る。

 

「殿下、危険です」

 

「分かっている。だが、フミヤ殿をこの状態で動かすことも危険だ。負傷した兵もいる。見張りを増やし、捕らえた男から情報を聞き出す」

 

「しかし」

 

「俺は、彼を置いていかない」

 

 レオンハルトの声は静かだった。

 けれど、そこには譲らない強さがあった。

 

 俺は言葉を失う。

 

 置いていけばいい。

 そう言うべきだったのかもしれない。

 

 俺はもともと、この一行の正式な仲間ではない。怪しい男。そして今は移動の足手まといになっている。

 ここで俺を置いていけば、レオンハルトたちは少なくとも先へ進める。

 だが、彼はそうしない。

 それが少年編のレオンハルトだ。

 

 そして、その優しさが、いつか彼自身を苦しめる。

 

「……殿下」

 

 声を出そうとしたが、エルナに止められた。

 

「喋らないでください。傷に響きます」

 

「でも」

 

「喋らないでください」

 

 エルナの声は小さいが、妙に強かった。

 俺は黙るしかなかった。

 

 セラフィナはしばらくレオンハルトを見ていたが、やがて短く息を吐く。

 

「見張りを倍にします。入口は塞ぎ、窓も補強します。捕虜の尋問は私が」

 

「頼む」

 

「ただし、殿下もお休みください。傷が開いています」

 

「……分かった」

 

 レオンハルトは渋々頷いた。

 

 宿坊の中は、戦闘後の処理に追われ始めた。倒れた敵の武器を遠ざけ、入口の扉に机や棚を寄せて塞ぎ、壊れた窓には板と布を張る。床の血を布で拭い、灰煙を外へ逃がすために、セラフィナが慎重に風の通り道を作る。

 

 捕らえた灰斧団の一人は、礼拝堂の柱に縛られた。

 逃げた連中が戻る可能性は高い。だが、彼らも無傷ではない。すぐに再襲撃できるかは分からない。

 

 俺は壁際に寝かされた。

 左肩は熱を持ち始めている。痛みで呼吸が浅くなる。

 

 ミロが俺の近くに座っていた。

 

「フミヤさん」

 

「ん?」

 

「ごめん」

 

「なんで、ミロ君が謝るんですか」

 

「俺が捕まったから」

 

「俺を庇ってくれたからでしょう」

 

「でも、フミヤさん怪我した」

 

「それは……まあ、俺の運動神経が悪かったせいです」

 

「そういう問題かな」

 

「そういう問題」

 

 ミロは泣きそうな顔で、けれど少しだけ笑った。

 俺はその顔を見て、心の底から思った。

 

 死なせたくない。

 

 レオンハルトだけじゃない。

 セラフィナだけじゃない。

 ミロも、エルナも、バルドも、できるなら兵士たちも、名前のない村人たちも。

 

 書いた時には数行で済ませた命が、今は全部、目の前にある。

 

 全部救えるのか。

 

 たぶん、無理だ。

 

 一日に一度の追記では、全員は救えない。

 俺自身も弱い。

 原作知識も、ルートを外れればどんどん当てにならなくなる。

 

 それでも、最初から諦める理由にはならない。

 

 俺は本の表紙に右手を置いた。

 

 夜明けが来れば、また一度だけ書ける。

 

 その一文を、何に使うべきか。

 選ばなければならない。

 

 きっと、これから何度も。

 

 俺は痛みで滲む視界の中、薄暗い礼拝堂の天井を見上げた。

 

 崩れかけた梁が、火の明かりに照らされている。

 古い木材は黒ずみ、ところどころにひびが入っていた。今にも落ちそうで、しかしまだ落ちていない。まるでこの物語そのもののようだった。

 崩れるべきだったものが、まだ耐えている。

 

 俺は目を閉じないように、奥歯を噛んだ。

 

 夜明けまで、まだ遠い。

 

 その間にも、物語は静かに進んでいた。

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