Fate/Last Snow Grail   作:ボルメテウスさん

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本日から連載される『Fate/Last Snow Grail』。今回は、6人の作者が各々のサーヴァントとマスターを作り、主人公陣営と聖杯戦争を行っていきます。
今後とも、よろしく御願いします


逸れ者のマスターとセイバー

願いとは、呪いである。

 

人は、生きるだけではなく、それを叶えるために他者を犠牲にする。

 

生きるだけでも厳しいというのに、人間は夢のために自分から地獄へと墜ちる。

 

「……ここで死ぬのか」

 

日本の中でも、極寒という言葉が合う地、北海道。

 

全身を覆うほどの黒いコートを身にまとった青年・吠は、住み込みのバイト先である古い倉庫の奥で、何かが軋む音を聞いた。

 

鉄骨の擦れる音ではなかった。あれは、骨だ。人間の骨が、歯で砕かれる音だ。遠野吠はフォークリフトの陰で膝を折り、息を殺した。吐く息が白く立ちのぼる。氷点下の倉庫内で、背筋だけは汗で濡れていた。

 

(田崎が、死んだ)

 

つい三時間前、カップ麺を啜りながら「今月の給料安すぎだろ」とぼやいていた同僚。その男の腹が裂かれ、中身が露出している。赤い非常灯の下で、しゃがみ込んだ影が両手でそれを掬い上げ、顔を埋めている。咀嚼音。湿った肉が千切れる音。骨が歯に砕かれる、あの嫌な音。

 

影は、倉庫で見かけたことのある顔だった。四十代の作業着の男。だが、目は白濁し、顎は外れかけ、口が異常に広がっている。両腕の先で爪が伸び、床を引っ掻いていた。

 

(食屍鬼。あるいは、死体に何かが入り込んだか)

 

魔術の知識は、断片的にしかない。遠野の家系はとっくに廃れていて、吠が受け継いだものは魔術回路とも呼べないほど弱い。だが、それでもこの肌を刺す嫌な感覚だけは、本物だった。

 

——殺気。捕食者の気配。

 

食屍鬼が、動きを止めた。顔を上げる。白濁した眼球が、ぐるりと回る。鼻の穴が、ひくついた。

 

(匂いを、嗅いでる)

 

嗅覚か、それとも魔術的な感知か。どちらにせよ、このまま隠れていられる時間は短い。吠は右手を見つめた。指先が震えている。恐怖のせいだ。だが、それだけじゃない。

 

魔術回路を開く——そんな大層なものじゃない。吠にできるのは、体内の微弱な魔力を皮膚のすぐ下に巡らせ、外界の気配を感じ取ることだけだ。攻撃魔術も、結界も、ろくに使えない。ただ、この「気配感知」だけが、吠の唯一の武器だった。

 

食屍鬼の気配が、倉庫内を這いずり回る。腐肉と血の臭い。その奥に、微かな魔術の残滓——誰かが、あれを操っている?

 

(いや、今は考えるな)

 

吠は、ゆっくりと後退した。フォークリフトの陰から、積まれた段ボールの隙間へ。床に散らばった梱包材のクズを踏まないよう、慎重に。食屍鬼はまだ、田崎の死体に夢中だ。

 

五メートル。十メートル。非常灯の赤が、吠の足元をかろうじて照らす。倉庫の裏口までは、あと二十メートル。外に出れば、雪がある。足跡は残るが、吹雪が消してくれるかもしれない。

 

(田崎、悪い)

 

置き去りにするしかない。死体はもう、ただの肉だ。食屍鬼が食い終わるまでに、距離を稼ぐ。そう考えた瞬間だった。

 

ぴしり、と。

 

何かが割れる音がした。天井を見上げると、古い蛍光灯のカバーが凍結でひび割れ、今にも落ちそうに揺れている。そして——落ちた。

 

ガシャアアアン。

 

耳をつんざく破裂音が、倉庫中に響き渡った。

 

食屍鬼の首が、百八十度回る。白濁した眼球が、吠を捉えた。口が開き、血と肉片を滴らせる喉の奥から、声にならない叫びが迸る。

 

「——っ、!」

 

吠は駆け出した。段ボールを蹴散らし、裏口へ向かって一直線に走る。背後で、食屍鬼が四つん這いになって追いかけてくる。人間の走り方じゃない。獣のそれだ。爪がコンクリートの床を引っ掻き、肉の削れる音が迫る。

 

(速い——!)

 

気配感知が叫んでいる。殺気が、背後から背骨を這い上がってくる。振り返らずに、吠は右手を後方へ突き出した。魔術回路——と呼ぶのもおこがましい、ただの魔力の通り道。そこに、全身の恐怖を叩き込む。

 

「——ッ!」

 

発動したのは、魔術と呼べる代物ですらなかった。吠の体内を巡る微弱な魔力が、皮膚から霧のように噴き出す。ただの魔力の霧。攻撃力はない。だが——食屍鬼の鼻先に、吠の匂いが拡散する。

 

食屍鬼が、一瞬、戸惑った。空中に漂う匂いの粒子に、獲物の位置を見失う。

 

その隙に、吠は裏口のドアに体当たりした。凍りついた鉄扉が、悲鳴を上げて開く。外は吹雪だった。氷点下の風が、汗に濡れた顔を刺す。雪が、視界を白く塗り潰す。

 

(雪原に出れば、足跡が残る。でも——)

 

振り返ると、食屍鬼が裏口の枠に爪をかけて、のそりと這い出してくる。白濁した目が、吹雪の中でぎらりと光った。風向きが変わり、吠の匂いが食屍鬼の鼻に届く。惑いは、もう解けた。

 

(このままじゃ追いつかれる)

 

吠は、ポケットをまさぐった。出てきたのは、使い捨てライターと、バイト先でくすねた消毒用アルコールの小瓶。魔術師の道具じゃない。ただの日用品だ。だが、吠の魔力は微弱で、攻撃魔術には使えなくても——物に込めることくらいはできる。

 

アルコールの瓶を、歯で開ける。中身を手近な木箱にぶちまけて、ライターを擦った。魔力を、火に込める。ただの火が、わずかに青みを帯びる。

 

「——燃えろ!」

 

木箱に火がついた。倉庫の外壁に積まれた廃材に燃え移り、吹雪の中で異様なオレンジ色が広がる。食屍鬼が、火を嫌って一歩下がった。死体を動かす魔術は、火に弱いことが多い——そんな断片的な知識が、吠の足を前に進ませる。

 

走る。雪原を、あてもなく。

 

倉庫の明かりが遠ざかる。食屍鬼は、火の周りを迂回して追ってくるのか。それとも、倉庫の中に残った田崎の死体に戻るのか。吹雪の音で、追跡の気配は掻き消されていた。

 

(どこへ逃げる)

 

住み込みの倉庫は、もう駄目だ。町までは遠い。この吹雪の中で、いつまでも走り続けられる体力はない。気配感知が、雪原の向こうに何かを感じ取っていた。嫌な気配だ。さっきの食屍鬼よりも、もっと深い。もっと古い。

 

(死徒、か?)

 

遠野の家系に伝わる、吸血鬼の名。魔術師の世界では、あれは人間の敵だと教えられた。だが、この気配はそれとは違う。もっと別の——理解できない何か。

 

気がつくと、吠は古い廃屋の前に立っていた。雪に埋もれかけた、小さな木造家屋。扉は半開きで、中は闇だ。だが、気配感知が告げている。この中に、何かがある。そしてそれは——食屍鬼よりも、ずっと危険だ。

 

振り返る。雪原の向こうに、四つん這いの影が見えた。食屍鬼が、まだ追ってきている。火を迂回して、吠の足跡を辿って。

 

(入るしか、ない)

 

吠は廃屋に飛び込んだ。床板が軋み、埃と黴の臭いが鼻を突く。吹雪の音が、遠くなる。闇の中で、吠は息を整えながら目を凝らした。

 

そして、見た。

 

床に、描かれている。

 

幾何学模様。円。文字。血のような、あるいはもっと別の何かで描かれた、巨大な魔法陣。

 

(何だ、これは——)

 

知らない言葉が、頭の中に浮かんだ。いや、知っている。遠野の家系に伝わる、断片的な記録の中に、この名があった。だが、それが何を意味するのか、吠にはわからない。

 

ただ一つ、確かなことがある。

 

この魔法陣は、まだ生きている。

 

そして今、扉の外から、食屍鬼の爪が木戸を引っ掻く音が聞こえ始めた。

 

廃屋の闇の中で、魔法陣が脈打っていた。

 

描線が呼吸するように明滅し、幾何学模様が床板の上でゆっくりと回転している。埃をかぶった空気が、魔力の残滓で澱んでいた。遠野吠は膝をつき、その輝きを呆然と見つめた。

 

(何なんだ、これは)

 

背後で、木戸を引っ掻く音が激しさを増す。食屍鬼の爪だ。古びた木の扉が、みしりと悲鳴を上げる。もう持たない。あと数十秒で、あれは中に侵入してくる。

 

吠は周囲を見回した。廃屋の中はがらんどうだった。崩れかけた神棚。割れた窓ガラス。雪が吹き込み、床に白く積もっている。そして、部屋の中央に広がる魔法陣。直径三メートルほどの円。円周に沿って刻まれた文字——読めるはずのない文字が、なぜか頭の中で意味を成している。

 

(召喚。英霊。サーヴァント——)

 

単語が、浮かんでは消える。遠野の家系に伝わる魔術書の断片。幼い頃、祖父が読み聞かせてくれた、意味もわからない言葉の羅列。それが今、脳裏でひとつに繋がっていく。

 

(なぜだ。なぜ、俺はこれを——)

 

理解できない。だが、身体が覚えている。血が覚えている。遠野の血筋に刻まれた何かが、この魔法陣に呼応している。

 

木戸が、ひび割れた。

 

「——ッ!」

 

食屍鬼の爪が、ついに扉を貫通した。腐敗した指が三本、穴から覗く。白濁した眼球が、隙間から吠を覗き込む。口が開き、血と肉片を滴らせる喉の奥から、かすれた咆哮が迸った。

 

吠は立ち上がった。逃げ場はない。窓から出ようにも、外は吹雪で視界が利かない。雪原で囲まれれば終わりだ。ならば——。

 

魔法陣の前に立つ。

 

何かが、吠の中で言葉を紡ぎ始める。自分の意志ではない。もっと深い場所から、呪文がせり上がってくる。肺が勝手に膨らみ、喉が震え、口が開く。

 

「——満たせ、満たせ、満たせ、満たせ、満たせ」

 

自分の声が、遠くに聞こえた。

 

「繰り返す、ただし五度を以って——」

 

木戸が、粉々に砕けた。

 

食屍鬼が、飛び込んでくる。四つん這いのまま、獣のように跳躍した。爪を振りかざし、吠の喉笛めがけて一直線に突っ込んでくる。白濁した眼球。外れた顎。血に濡れた歯列が、眼前に迫る。

 

吠は、叫んでいた。

 

「——破却すべきはこの世全て!」

 

魔法陣が、爆発した。

 

光が廃屋の中を満たす。床板が震え、積もった雪が一瞬で蒸発する。幾何学模様が天井まで立ち上がり、円が柱となり、文字が鎖となって空間を縦横に駆け巡る。吠は目を開けていられず、腕で顔をかばった。

 

光が、収まった。

 

それまで廃屋を満たしていた白い輝きが、幾何学模様の中心へと吸い込まれるように消えていく。床板に刻まれた円と文字はまだかすかに燐光を放っていたが、それも間もなく闇に沈んだ。

 

吠は腕を下ろした。目の前が、まだちかちかと明滅している。耳の奥で、自分の心臓だけがやけにうるさく鳴っていた。さっきまでいた食屍鬼の姿は、もう見えない。ただ、粉々に砕けた木戸から吹雪が吹き込んで、床に白く渦を巻いている。

 

そして、そこに——彼女が立っていた。

 

桜色の着物。淡い桃色の帯。袖には白い縁取り。髪は腰のあたりまで流れ、光の残滓がその毛先に絡んでは消える。右手には、すでに抜かれた刀。刃渡りは長くなく、細身で、どことなく華奢な印象さえある。だが、その切っ先から立ちのぼる白い蒸気のようなものだけが、この場でただひとつ、動いていた。

 

少女は、ゆっくりと周囲を見渡した。崩れかけた神棚。割れた窓ガラス。床に積もった雪。それらをひとつひとつ確認するように、視線を動かす。その横顔には表情がなく、ただ静かな瞳だけが、暗闇の中でかすかに光を宿していた。

 

やがて、その目が吠を捉えた。

 

吠は、息を止めた。

 

(——何だ、この、感じは)

 

身体が、動かない。恐怖とも違う。圧迫感とも違う。目の前にいるのは、自分より背の低い、年の頃も変わらないか、むしろ年下に見える少女だ。なのに——なぜだ。自分の中の何かが、頭を垂れようとしている。膝を折ろうとしている。獣じみた本能が、この存在の前ではただひれ伏すしかないと、そう叫んでいる。

 

少女が、口を開いた。

 

「新選組一番隊隊長、沖田総司推参」

 

声は、静かだった。抑えられていて、けれど冷たくはない。まるで、大事なことを確認するように、一語一語を区切って彼女は言った。

 

「あなたが私のマスターですか?」

 

吠は答えられなかった。口が、開かない。舌が、動かない。頭の中が真っ白で、なのに心臓だけは早鐘を打っている。マスター。サーヴァント。契約。そんな言葉が、さっき自分が口にした呪文の断片が、脳裏でぐるぐると渦を巻く。

 

(俺が、呼んだのか。こいつを)

 

理解が追いつかない。遠野の血筋。祖父が読み聞かせた魔術書。魔法陣。そして——英霊召喚。それは、聖杯戦争という殺し合いの儀式だ。魔術師が英霊を呼び出し、最後の一組になるまで戦う。そんな与太話だと、ずっと思っていた。

 

だが、目の前にいる。この少女は、間違いなく本物だ。人間ではない。生きている者の放つ気配じゃない。もっと深くて、濃密で——それでいて、ひどく澄んだ何か。

 

「……聞こえていますか?」

 

沖田が、わずかに首をかしげた。右手の刀を下ろし、切っ先を床に向ける。その仕草に、ようやく吠は息を吐き出した。肺が、凍った空気を求めて痙攣する。吸って、吐いて、もう一度吸って。

 

「……あんたが、俺の——」

 

声が、かすれた。喉が張りついて、言葉にならない。吠はぐっと唾を飲み込み、震える指で自分の胸を指した。

 

「……俺が、マスターだってのか」

 

「左様です」

 

沖田は、あっさりとうなずいた。感情の読めない顔だったが、どこか不思議そうに吠を見つめている。

 

「この霊基には、あなたとの契約が刻まれています。あなたが私を呼び、ここに繋ぎ止めている。間違いではありません」

 

「……そうか」

 

吠は、床を見下ろした。魔法陣はもう完全に消えている。だが、右手の甲に、何かが浮かんでいた。赤い痣。幾何学模様。令呪——知識が、嫌でもそれを認識する。サーヴァントに絶対命令を下せる三画の呪い。聖杯戦争に参加する者の証。

 

(俺は、巻き込まれたのか。いや——)

 

違う。巻き込まれたんじゃない。自分から、ここに逃げ込んだ。魔法陣の前に立ち、自分から、呪文を唱えた。なぜあの言葉を知っていたのかはわからない。だが、間違いなく、自分の意志で。

 

沖田が、すっと刀を鞘に納めた。音もなく、刃は柄に収まる。そして、もう一度吠を見上げた。

 

「マスター。ひとつ、確認してもよろしいですか」

 

「……なんだ」

 

「外に、妙な気配が三体ほどおりますが——」

 

言い終わる前に、廃屋の外で何かが吠えた。

 

吹雪の向こうから、四つん這いの影が三つ。さっきの食屍鬼だけじゃない。仲間を呼んだのか、それとも別の死体に何かが入り込んだのか。いずれにせよ、獣じみた殺気が廃屋を取り囲みつつある。気配感知が、背筋を冷たい針でなぞっていく。

 

「——あれは、あなたの敵ですか?」

 

沖田の声は、さっきと同じ静けさを保っていた。だが、その瞳の奥で、何かがかすかに光ったように吠には見えた。

 

「……たぶんな」

 

「了解しました」

 

沖田は、ゆっくりと廃屋の入り口に向き直った。粉々になった木戸の向こうに、雪と闇が渦巻いている。その中で、三対の白濁した目がぎらぎらと光っていた。

 

「マスター。お手数ですが、少しだけ下がっていてください」

 

沖田は、刀を抜いた。鞘走りの音が、廃屋の静寂を切り裂く。細身の刃が、吹雪の白を映して一瞬だけ輝いた。

 

「私は少々——手が早いので」

 

その声が、終わらないうちに。

 

桜色の着物が、雪の向こうへ消えていた。

 

雪はまだ、降り止まない。

 

遠野吠は、崩れかけた廃屋の入り口に立ち尽くしていた。粉々になった木戸の枠から吹き込む風が、顔を刺す。吐く息は白く、心臓はまだ早鐘を打っている。だが、それらすべてが遠くに感じられた。

 

目の前で、桜色が舞っている。

 

いや、舞っているのは着物の袖ではない。沖田総司という女が、雪原を駆けているのだ。

 

「――いち」

 

声が、聞こえた。風の音でも、食屍鬼の咆哮でもない。ただの呟き。それが、吠の耳のすぐそばで囁かれたように鮮明に届く。

 

次の瞬間、先頭を走っていた食屍鬼の首が、胴から離れていた。

 

切断面が、凍った空気に晒されて白く煙る。腐敗した血液が、黒い霧のように噴き出した。首のない胴体が、あと数歩だけ走ってから、雪の上に崩れ落ちる。遅れて、首がどさりと落ちた。

 

沖田は、もうそこにはいなかった。

 

「――に」

 

右側面から迫っていた二体目の食屍鬼が、突然その場で縦に割れた。頭蓋から股下まで、真っ直ぐに。左右に分かれた死体が、雪を赤く染めながら左右に倒れる。その向こうで、沖田が刀を振り抜いた姿勢のまま、次の標的へと視線を向けている。

 

(何だ、あれは)

 

吠は、自分の感覚を疑った。いや、感覚の問題ではない。目で追えていないのだ。沖田が刀を振る瞬間が、まるで見えない。移動の軌跡も、踏み込みの動作も、すべてが欠落している。ただ、結果だけが残る。首が落ち、胴が割れ、血が噴く。

 

(速い、なんてもんじゃない)

 

気配感知が、必死に沖田を追おうとしている。だが、それも無駄だった。沖田の気配は、ある一点に留まることがない。常に移動し、常に変化し、存在そのものが曖昧だ。まるで、雪原に溶けているかのように。

 

「――さん」

 

三体目の食屍鬼が、咆哮を上げた。仲間が二体やられたことへの怒りか、それとも単なる捕食本能か。四つん這いのまま、沖田めがけて跳躍する。伸びた爪が、彼女の喉笛を狙って一直線に突き出された。

 

沖田は、避けなかった。

 

いや、避ける必要がなかったのだ。食屍鬼の爪が彼女の首に届くより早く、その両腕が肩から切断されていた。続いて両脚が股関節から切り離される。胴体だけになった食屍鬼が、雪の上に落ちて、それでもまだ歯を鳴らして沖田に噛みつこうとする。

 

沖田は、無言でその頭を貫いた。刀を突き入れ、えぐり、引き抜く。白濁した眼球が、光を失う。顎がだらりと開き、もう動かない。

 

すべてが、十秒とかからなかった。

 

沖田は刀を一振りして、血を払う。雪の上に、黒い線が描かれた。彼女はそのまま、ゆっくりと廃屋の方へ歩き始める。桜色の着物には、血の一滴もついていない。雪を踏む足音さえ、驚くほど静かだった。

 

「マスター、ただいま戻りました」

 

沖田が、吠の前で立ち止まる。刀を鞘に納めながら、感情の読めない顔で吠を見上げた。その瞳は、さっきと同じ静けさを保っている。まるで、今の出来事が日常の延長であるかのように。

 

「あ、ああ……」

 

吠は、ようやく息を吐き出した。指先が震えている。寒さのせいじゃない。目の前の少女が、人間ではないことを、今この瞬間に骨の髄まで思い知らされたからだ。

 

(これが、英霊。これが、サーヴァント)

 

人を殺すために研ぎ澄まされた技術。歴史に刻まれた本物の剣士。それが、今は自分のサーヴァントとして契約している。右手の甲に浮かんだ令呪が、嫌でもその事実を突きつけてくる。

 

「あの程度の相手なら、私ひとりで十分です。マスターはどうか、ご無事で」

 

沖田はそう言って、わずかに首をかしげた。その仕草があまりに人間じみていて、吠は何も言えなくなる。

 

吹雪が、強くなってきた。死体の臭いを、風がさらっていく。廃屋の周囲には、もう食屍鬼の気配はない。気配感知が、そう告げている。

 

だが、それと同時に、もっと遠くで何かが動いている気配も感じ取っていた。町の方角。山の方角。川の方角。いくつもの――異質な存在が、この夜の北海道に目を覚ましつつある。

 

(何かが、始まってる)

 

吠は、沖田の背後の雪原を見つめた。闇と白の境界が、吹雪で曖昧に溶けている。その向こうで、何かが自分たちを見ている。そんな予感だけが、やけに鮮明だった。

 

「なあ、沖田」

 

「なんですか」

 

「これは、何なんだ。お前は、何なんだ。俺は――何に巻き込まれたんだ」

 

沖田は、少しだけ黙った。それから、ゆっくりとまばたきをして、静かに答える。

 

「聖杯戦争です、マスター」

 

その言葉は、吹雪の音に消されることなく、まっすぐに吠の耳に届いた。

 

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