Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
洞窟の奥で、ビルマ・レイフィールドは決断した。
彼女の手に刻まれた令呪が、一つ、輝きを失う。三画あった聖痕のうち、最初の一画が赤熱し、皮膚を灼き、魔力となって虚空へ溶けていく。その痛みに、ビルマは笑った。惜しい、と思う。あのバーサーカーは最高の猟犬だ。獲物を追い、殺し、喰らうことに何の躊躇もない。手放すのは惜しい。だが――ここで失うのは、もっと惜しい。
「私のもとへ帰りなさい、バーサーカー」
令呪が発動した。
それは華麗な瞬間移動ではなかった。空間を跳躍する転移魔術でもなければ、霊体化して撤退する戦術的後退でもない。令呪の強制力がバーサーカーの霊基を無理やり掴み、洞窟の奥から引き裂くようにして引き戻す。霊核が軋み、クラス霊基が悲鳴を上げる。本来、サーヴァントが行うべき正常な転移とはかけ離れた、乱暴な召還だった。
坑道の途中で、バーサーカーが吼えた。
「――ギ、ィ――」
言葉ではない。飢えの咆哮だ。目の前に獲物がいる。天使がいる。アサシンがいる。そして、洞窟の奥には檻に満ちた捕虜たち。それをすべて放り出して撤退するなど、彼女の本能が拒否している。手斧を握る指が軋み、鉈を振るう腕が逆らおうと震える。令呪の光がバーサーカーの四肢に絡みつき、霊基を締め上げる。それでも彼女は一歩、前へ踏み出そうとした。
「――来なさい」
ビルマの声は冷たかった。だが、令呪は絶対だ。バーサーカーの身体が浮き上がり、光に包まれる。ちょうどその時、キャスターの大魔術が洞窟の入り口を粉砕した。光の矢が鍾乳石を溶かし、坑道を崩し、岩盤を蒸発させる。崩落の轟音が洞窟全体を揺らした。
残された端末たちが、一斉に動いた。
彼らは殿だ。バーサーカーが撤退するまでの時間を稼ぎ、追撃を防ぎ、そして――可能ならば、襲撃者に一矢報いる。もはや統制された戦術はない。あるのは、生まれながらに刻まれた捕食本能だけ。霧の中から、赤い眼が次々に浮かび上がる。天使の光が照らす坑道で、端末たちは最後の突撃を開始した。
一体目が天使へ飛びかかり、その腕に噛みつく。二体目がアサシンの残滓に向かって駆ける。三体目、四体目は崩落する天井をものともせず、坑道の入り口へ殺到する。彼らはバーサーカーの子供であり、分身であり、そして――使い捨ての駒だ。ビルマは端末を惜しまない。必要なだけ生み出し、必要なだけ捨てる。
「よくやってくれたわ」
ビルマは崩れゆく洞窟を見つめながら、そっと呟いた。その声には、わずかな名残惜しさと、それ以上の冷静さがあった。バーサーカーは生きている。令呪で手元に戻した。端末は全滅するだろうが、また作ればいい。捕虜はまだ檻の中にいる。大魔術の巻き添えで何人か死んだかもしれないが、それも仕方ない。食料は、また狩ればいい。
「でも――覚えたわ」
彼女の目が、崩落の向こうを見つめる。キャスター。あの魔術師は危険だ。バーサーカーのクラス霊基を直接標的にするなど、並大抵の術者ではない。それに――アサシンもいる。セイバーも近づいている。今回は引き際だと、ビルマは判断した。
「次の狩りは、もっと慎重に、もっと楽しく――ね」
洞窟の入り口が完全に崩壊した。雪と岩と霧が混ざり合い、山腹を覆い尽くす。残された端末たちの断末魔が、崩落の轟音にかき消されていく。そして、光が収まった時――そこにバーサーカーの姿はなかった。
ビルマの隣で、空間が歪む。
令呪の光が弾け、バーサーカーが叩きつけられるように出現した。片腕は千切れ、脇腹は裂け、全身が光に灼かれて炭化している。それでも、その目はまだ飢えていた。バーサーカーは床に倒れ伏しながら、ビルマを睨み上げる。なぜ撤退させた、と。なぜ獲物を喰わせなかった、と。その怒りは、サーヴァントがマスターへ向けるにはあまりにも獰猛だった。
「怒らないで。次は、もっと美味しい獲物を用意するから」
ビルマはしゃがみ込み、バーサーカーの焼け爛れた頬に手を触れた。冷たい。魔力が底をつきかけている。
「あなたは私の最高の猟犬。失いたくないの。だから――今は休みなさい」
彼女は懐から小瓶を取り出し、中身をバーサーカーの口に流し込む。魔力を濃縮した液体。鍾乳石から滴り落ちる、あの水溜まりと同じものだ。バーサーカーはそれを嚥下し、ようやく目を閉じた。霊基の損傷は深い。だが、死んではいない。
「この洞窟も、もう終わりね」
ビルマは立ち上がり、周囲を見回した。捕食端末の生成場。魔力の水溜まり。捕虜の檻。すべてが大魔術の衝撃でひび割れ、崩れかけている。キャスターは、この場所を完全に破壊するつもりだったのだろう。だが、間に合わなかった。ビルマは令呪を使い、バーサーカーを救出した。
「さて――引っ越しの準備をしないと」
彼女は檻の中の捕虜たちを見つめ、微笑んだ。生きている者、死んでいる者、半死半生の者。どれもこれも、まだ使える。
「あなたたちも、連れていくわ。せっかく育てた食料だもの」
洞窟の外では、霧が晴れ始めていた。キャスターの光が雲を裂き、月明かりが戦場を照らし出す。山腹には大穴が開き、雪崩が谷を埋め、端末の残骸が散乱している。その中を、アサシンが静かに移動し、セイバーが町から接近し、上空では旅人とライダーが見守っている。
聖杯戦争の夜は、まだ明けない。