Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
冷たい。
背中に当たる感触が、硬くて冷たい。コンクリートの床か、あるいは剥き出しの鉄骨か。遠野吠は、意識が沈んでいくのを感じていた。肉体が重い。魔力回路は空っぽに近く、指先一つ動かすのにも、鉛を水に溶かしたような倦怠感がまとわりつく。バーサーカーとの戦闘。洞窟での端末掃討。アサシンとライダーの気配。記憶が、損傷した映写機のように断片的に明滅する。生き延びた。ただそれだけのことが、骨の髄を削る仕事だった。
隣に気配がある。座っている。動かない。沖田だ。彼女は霊体化せず、実体のまま吠の傍らで膝を抱え、刀を手放さずに周囲の闇を凝視している。警戒しているのだ。アサシンの気配遮断も、ライダーの空からの視線も、信用していない。いつ敵が襲ってきても、あの最速の剣で迎撃できるように。その信頼——あるいは同種の獣としての共感——だけが、今の吠にやすらぎを与えていた。
まぶたが、落ちる。
意識が、泥の中へ沈殿していく。
雨の音がした。
いや、雨ではない。もっと重く、湿った音。足音だ。何人もの足音が、ぬかるんだ地面を踏みしめている。靴底が泥を噛む。鼻を刺す臭い。鉄錆と、腐った水と、そして生々しい血の臭い。
(……ここは、どこだ)
目を開けているはずなのに、見えない。いや、見えているのだ。だが、それが自分の目ではないような違和感がある。視点が低い。周囲の光景が、傾いているように揺れる。
古い町並み。
白壁の土蔵が並び、木造の家屋が軒を接している。狹い路地。石畳。見覚えがない。北海道ではない。湿気が肌にまとわりつき、空気自体が呼吸を阻害するような重さだ。
手が、ある。
自分の手だ。だが、違う。もっと細く、もっと白い。袖口から覗く腕は、浅葱色の羽織に包まれている。その手が、柄に手をかけている。刀だ。鯉口を切り、いつでも抜ける体勢。指先の感覚が鋭敏すぎる。柄の鮫皮のざらつき、鍔の冷たさ、それらが直接、脳髄に響いてくる。
(俺の手じゃ、ない)
そう理解するよりも早く、身体が動いた。
前から、誰かが来る。複数。殺気。敵意。刀の柄にかけた手が、無意識に抜刀の姿勢を取る。呼吸が、整う。肺が、空気を吸い込む。
(動くな。息を殺せ)
自分の思考ではない。もっと研ぎ澄まされた、戦場の本能だ。
踏み込む。
足元の感覚が消えた。泥濘を歩いていたはずの足が、一歩で間合いを詰める。身体が、空を切るように軽い。重力がないのか。肉と骨だけで作られた人間が、これほどまでに速く動けるものなのか。目の前の敵が、反応すらできずに剣を振りかぶるのが、スローモーションに見える。
刃が、閃く。
肉を断ち、骨を断つ。手応えはある。だが、それは阻害を取り除くだけの物理現象に過ぎない。感情が伴わない。ただ、邪魔なものを切り払う。返り血が、浅葱色の袖に散る。温かい。生々しい。
(速い。なんて、軽いんだ)
身体の軽さに、戦慄する。これが、剣士の感覚なのか。恐怖も、迷いも、葛藤も、すべてが置き去りにされた純粋な運動。殺すために生まれてきたかのような、恐ろしいまでの適合。
斬り抜けた。
路地の向こう側へと抜ける。敵は、ことごとく地に伏している。勝った。生き残った。そう感じた瞬間だった。
肺が、拒絶した。
「――ッ、ゴホッ……!」
咳が、込み上げる。
ただの咳ではない。肺の奥底から、臓腑そのものを引き裂くような激しい発作。身体の軽さと、肺の重さ。そのあまりの矛盾に、意識が混乱する。身体はまだ動ける。足は地を蹴れる。剣は振るえる。なのに、肺だけが、腐った風船のように空気を求めて喘ぐ。
口元に手をやる。
掌に、粘つく液体が付着した。血だ。自分の血。鉄の臭いが、鼻腔を逆撫でする。
(俺は、病気なんかじゃない。俺は……)
思考が、割れる。
俺は、遠野吠だ。北海道に住む、しがないバイトの青年だ。魔術もロクに使えない、巻き込まれ型のマスターだ。剣士なんかじゃない。人斬りなんかじゃない。
なのに、この手は。この浅葱色の袖は。この、血に塗れた口の中の味は。
(どこからが、俺だ)
目の前の光景が、歪む。古い町並みが、雪の吹き荒ぶ北海道の夜へと重なる。浅葱色の羽織が、桜色の着物へと滲む。手にした刀の感触だけが、変わらずにある。
「マスター」
声がした。耳元で囁くような、静かな声。
目を、開けた。
コンクリートの天井が見えた。剥き出しの配管。薄い埃の臭い。背中の冷たさ。現実の感覚が、泥水のように押し寄せてくる。自分の手を見る。細くはない。使い捨てのライターで煤けた、自分の荒れた手だ。
「……沖田」
声が嗄れた。喉が渇いている。心臓が、早鐘を打っていた。
隣に、彼女がいた。
桜色の着物の少女は、吠が目を覚ましたことに気づきもせず、ただ入口の方角を鋭い眼差しで見据えていた。刀は膝の上。いつでも動ける体勢。彼女の背中は、夢の中で見た浅葱色の羽織とは違う。だが、その纏う空気は、同じものだった。
人を斬るために研ぎ澄まされた、刃のような気配。
「悪い夢でも見ましたか」
沖田は振り返らずに言った。
「……ああ。ちょっと、な」
吠は身を起こした。身体が重い。だが、それが逆に安心できた。あの夢の中の、病的なまでの軽さは、自分のものではない。口の中に残る鉄の味を、唾と共に飲み込む。
「お前は、夢を見るか?」
「サーヴァントに夢は不要です。過去は記録として在るだけで、再生されることはありません」
彼女の声は平坦だった。だが、その肩がかすかに強張っているのを、吠の敏感な感覚は見逃さなかった。過去。記録。彼女が剣士として在った場所。そこに何があったのか。史実も真名も、吠は知らない。知りたいとも、思わなかった。
ただ、あの感覚だけが、皮膚の下に残っていた。
身体は動くのに、肺だけが追いつかない。斬ることしかできず、生きることを許されない矛盾。それが、彼女の抱えているものなのだと、夢枕に触れた感覚だけが、無言で告げていた。
「……寝ろ。俺が見てる」
「いえ。マスターが休んでください。あなたの回路は、まだ回復していません」
沖田は、吠の方を向きもしなかった。
だが、その瞳の奥に、かすかに揺らぐ光があったかもしれない。自分の見てきたものを、誰かが覗き込んだことへの、名状しがたい不安と、それでも拒絶しきれない微かな安堵。
吠は壁に背を預け、再び目を閉じた。
夢の残滓が、意識の隅で黒く渦巻いている。それは彼女の痛みであり、彼女の本質だ。それを受け入れるわけにはいかない。だが、背を向けることも、もうできなかった。
外では、雪がまだ降り続いていた。