Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
雨の音が、消えていた。
つい先ほどまで耳元で騒いでいた足音も、泥を噛む靴底の響きも、血の臭いも、すべてが遠い。代わりに、障子越しの薄明かりが瞼の裏を橙色に染めている。静かだった。静かすぎるほどに。自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
(どこだ、ここは)
身体が、動かない。
いや、正確には動かそうとする意思が空回りしている。脳が発した命令が、神経を伝わり、筋肉を収縮させる。そのはずなのに、身体は鉛のように重く、指一本持ち上げるのにも途方もない努力を要する。さっきまでの軽さは、もうどこにもなかった。浅葱色の羽織を着た身体が、布団の上で横たわっている。
障子の向こうで、誰かが話している。
「――もう出るのか」
「ああ。夜が明けるまでに出立する」
「奴らは河原町に集まっているらしい。数は二十。どうする」
「どうもこうも、斬るだけだ」
声が、遠ざかっていく。靴音が、玄関の方へと移動する。何人もの足音。重く、力強く、戦いへ向かう者のそれ。腰に刀を差し、羽織を翻し、決して振り返らずに歩いていく。
(俺も、行かなくちゃ)
身体が、起き上がろうとする。肘をつき、上体を起こそうとする。それだけで、肺が悲鳴を上げた。呼吸が、急に浅くなる。酸素が足りない。口を開けて空気を吸い込もうとしても、肺がそれを拒む。咳が込み上げる。激しい咳だ。口元を手で押さえ、喉の奥からせり上がるものを必死に堪える。
視界が、霞む。
障子の外の灯りが滲み、自分の手が二重に見える。細い手だ。骨ばって、青白く、刀を握るにはあまりにも頼りない。そんな手が、布団の脇に置かれた刀へと伸びる。鞘に収まったままの、自分の刀。鯉口を切ろうとして、指が滑る。以前はこんなではなかったはずだ。もっと軽く、もっと速く、もっと自由に身体は動いていたはずなのに。
刀が、重い。
ただの鉄の塊だ。それを理解しているのに、持ち上げることすらできない。指先から力が抜けていく。まるで、自分の身体が自分のものではないかのように。
(違う。俺は――)
誰だ。どこからが俺で、どこまでが俺じゃないのか。境界が、溶けていく。
外で、最後の足音が遠ざかる。仲間たちの声が、もう聞こえない。取り残された。守るべき主君も、共に戦うべき隊士たちも、みな戦場へ向かう。自分だけが、この布団の上に置き去りにされた。
(待ってくれ。俺はまだ――)
動け。
動いてくれ。
こんなところで終わるために、今まで生きてきたわけじゃない。
歯を食いしばる。奥歯が軋み、顎が震える。呼吸が、さらに乱れる。咳が止まらない。口の中に鉄の味が広がる。それでも、指は刀を離さない。離せない。離したら、終わりだ。戦うことをやめたら、自分はもう自分ではなくなる。
刀の柄を握る。
鞘から抜く。ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのか。手が震える。指が、思うように動かない。それでも、少しずつ、少しずつ、鯉口が切れていく。刀身が、鞘から覗き始める。鋼の輝きが、障子越しの灯りを反射して、細く光る。
(あと、少し――)
その時だった。
誰かの手が、自分の手に重なった。
暖かい手だった。骨太で、節くれだって、それでいて驚くほど優しい手。その手が、刀を抜こうとする指を、そっと制止する。
「――もういい」
声がした。誰の声かはわからない。だが、その響きだけで理解できた。自分を案じてくれる者の声。戦場に立てない自分を、それでも見捨てずにいてくれる者の声。
指から、力が抜けた。
刀が、鞘に戻る。かちり、という乾いた音。それが、やけに大きく響いた。外では、もう誰の足音も聞こえない。障子の向こうの灯りだけが、変わらずに自分を照らしている。戦いは、続いている。自分がいないまま、戦いは続いていく。
(俺は――)
悔しさだけが、胸の奥で燻っていた。
悲しいのではない。泣きたいのでもない。ただ、握った指が震える。歯を食いしばる。呼吸だけが荒くなる。それだけだ。それだけしか、できない。
障子の向こうの灯りが、急に白く膨れ上がった。
景色が、弾ける。
自分の手と、誰かの手が、重なったまま、光の中に溶けていく。細くて、青白くて、刀すら握れなかった手。その手に、今、別の手が重なっている。同じように節くれだって、同じように震えていて、それでも必死に何かを掴もうとしている手。
遠野吠の手だ。
「――ッ」
吠は、自分の手を見つめていた。いつの間にか、右手を差し伸べている。布団の上に横たわる誰かに向かって。いや、違う。あれは自分だ。自分が、自分の手を掴もうとしている。
光の中で、二つの手が重なる。
細い手と、荒れた手。戦えなかった者と、戦うことを知らない者。その指先が触れ合った瞬間、吠は理解した。これは夢だ。沖田の夢だ。彼女がかつて経験した、どうしようもない無力の記憶。そして、その記憶に、今、自分が触れている。
「沖田――」
名前を呼んだ瞬間、景色が砕け散った。