Fate/Last Snow Grail   作:ボルメテウスさん

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雪夜の撤退戦

雪は、まだやまない。

 

遠野吠は、廃屋の入り口に突っ立ったまま動けずにいた。粉々になった木戸の枠から吹き込む風が顔を刺す。吐く息は白く、それさえも凍りつきそうな夜だ。足元には魔法陣の残滓がかすかに燻り、その光はもう消えかけている。

 

右手の甲を見つめた。赤い痣。幾何学模様が三画。これが令呪だ。英霊に絶対命令を下せる三回の呪い。魔術師の世界に疎い吠でも、それだけはなぜか理解できた。いや、理解させられた。この痣が皮膚に刻まれた瞬間、知識が流れ込んできたのだ。

 

(聖杯戦争)

 

沖田が口にしたその言葉が、頭の中でこだまする。聖杯。万能の願望機。七人の魔術師が七騎の英霊を召喚し、最後の一組になるまで殺し合う儀式。そんなものは御伽噺だと思っていた。遠野の家系に伝わる魔術書の端っこに、ほんの数行だけ記された与太話だと。

 

「マスター?」

 

沖田の声が、吠を現実に引き戻した。桜色の着物を着た少女が、感情の読めない顔で吠を見上げている。右手はすでに刀の柄にかかっていた。その指先に、先ほど三体の食屍鬼を斬り伏せた余韻は微塵も感じられない。

 

「あんた、さっき言ったな。聖杯戦争だって」

 

「左様です」

 

「俺は魔術師なんかじゃない。遠野の家はとっくに廃れてる。まともに魔術も使えねぇ。なのになんで、俺が」

 

「私に訊かれましても」

 

沖田は、あっさりと言った。困っている様子もない。ただ、事実を述べただけだ。

 

「理由はともあれ、あなたが私を呼び、私は応じた。契約は成立しています。それが全てです」

 

「全て、か」

 

吠は唇を噛んだ。言い返す言葉が見つからない。自分が魔法陣の前に立ち、自分が呪文を唱えた。なぜあの言葉を知っていたのかはわからない。だが、確かに自分の意志だった。誰かに操られたわけでも、強制されたわけでもない。

 

(俺が、呼んだんだ。この人斬りを)

 

外で、何かが吠えた。

 

風の音ではない。もっと湿った、喉の奥から絞り出すような咆哮。気配感知が、一気に警鐘を鳴らし始める。吠の背筋を冷たい針がなぞり、心臓が嫌な速さで脈打つ。

 

「来る」

 

沖田が、静かに言った。刀を抜く。鞘走りの音が、廃屋の闇に鋭く響いた。

 

「何が来るんだ」

 

「さっきの連中と、似た気配です。ただ——」

 

沖田はわずかに眉をひそめた。初めて見せる、違和感の表情。

 

「斬った感触が、妙でした」

 

「妙?」

 

「はい。手応えはありました。確かに斬りました。ですが、死体のそれとは違う。生きている者の感触とも違う。まるで——」

 

言葉を探すように、沖田は一瞬だけ宙を見た。

 

「——飢えそのものを斬ったような」

 

その言葉の意味を考えるより早く、吠の気配感知が最大の警告を発した。廃屋の周囲。雪原の向こう。吹雪の白い幕の奥から、複数の気配が迫っている。ひとつやふたつじゃない。五つ、六つ——いや、もっとだ。

 

「囲まれてる」

 

吠は声を低くした。気配感知が正確な数を掴めないほど、それらは雪原に溶け込んでいる。飢え。沖田の言葉が脳裏で反芻される。腐敗した死体の臭いじゃない。もっと原始的で、もっと切実な、生そのものを貪ろうとする飢餓の気配。

 

「ここに留まるのは危険です」

 

沖田が、吠の前に立った。その背中は細く、刀も細身で、とても頼りになるようには見えない。だが、その立ち位置は完璧だった。吠を背後に庇い、廃屋の入り口を正面に据え、逃げ道を確保している。自然すぎる動きで、それが戦場で生きてきた者の本能だと理解させられる。

 

「マスター。ご指示を」

 

「指示って——」

 

言いかけて、吠は口を閉じた。指示。命令。サーヴァントに何をさせるか。聖杯戦争でどう戦うか。そんなこと、考えたこともない。今の吠にあるのは、ただひとつだけだ。

 

「逃げるぞ、沖田」

 

「了解しました」

 

沖田は、わずかに口元を緩めた。笑ったのかもしれない。あるいは、ただの気のせいか。

 

「私、逃げ足も速いんです」

 

そう言うが早いか、沖田は廃屋の入り口から雪原へと踏み出した。桜色の着物が、吹雪の白に一瞬で溶ける。刀を構えたまま、周囲の気配を探るように低く身を屈める。

 

吠も、その背中を追った。廃屋を出る。途端に、吹雪が全身を叩いた。氷点下の風が、汗に濡れた顔を容赦なく冷やす。足元の雪は膝まで積もり、一歩ごとに体力を奪っていく。

 

(どこに逃げる)

 

倉庫はもう駄目だ。町までは遠い。この吹雪の中で、いつまでも走り続けられる体力はない。だが、留まれば死ぬ。それは気配感知が、嫌というほど訴えている。

 

雪原の向こうで、影が動いた。

 

四つん這いのシルエット。さっきの食屍鬼と同じ姿だ。だが、何かが違う。数が多いだけじゃない。その飢えの質が、より深く、より濃密になっている。吠の気配感知が、そちらを見るなと叫んでいる。

 

沖田が、走る。吠も走る。雪を蹴り、闇を駆け、ただ生き延びるために。

 

背後で、飢えた影たちが一斉に動き始めた。

 

(何なんだ、あれは。本当に死徒なのか。それとも——)

 

考えを振り切るように、吠は前だけを見た。沖田の背中が、雪原の向こうにかすかに見える。細くて、頼りなくて、それでも確かに、自分のサーヴァントだ。まだ名前を知ったばかりで、何者なのかもよくわからない。だが、今はあの背中を追うしかない。

 

聖杯戦争。殺し合い。願望機。

そんなものに巻き込まれた理由も、意味も、まだわからない。ただひとつだけ、本能が告げている。

 

(生き残る。死んでたまるか)

 

雪は、骨の髄まで凍みる夜だった。

 

遠野吠は走っていた。吐く息は白く凍り、まつげに氷が張る。足元の雪は膝まで積もり、一歩ごとに体力を奪っていく。それでも走るしかなかった。背後から、飢えが迫っている。

 

「左です、マスター」

 

沖田の声が、吹雪の切れ間から聞こえた。振り返るより早く、桜色の着物が闇を裂く。刀の軌跡は見えない。ただ、吠の左側で雪が爆ぜ、そこにいた何かが崩れ落ちる音だけがした。

 

四つん這いだったもの。人だったもの。だが、もう人ではない。飢えそのものが人の形を借りて、雪原を這いずっている。沖田の刀がそれを斬り伏せるたび、死体は崩れた。腐肉が落ちるのではなく、灰のように、霧のように、形を失って消えていく。

 

「なんなんだ、あれは」

 

吠は立ち止まらずに叫んだ。倉庫で見た食屍鬼とは違う。田崎を食い殺したあの怪物は、確かに血肉を持っていた。だが、こいつらは違う。死体ですらない。もっと根本的な——。

 

「さあ。ただ、斬った感触はやはり妙です」

 

沖田は刀を一振りし、血の代わりに立ちのぼる黒い霧を払った。その横顔は冷静だが、眉がわずかに寄っている。

 

「手応えはある。斬っています。けれど、死んでいない。死ぬという概念そのものが、あれには希薄です」

 

「概念?」

 

「ええ。あれは、おそらく——」

 

沖田の言葉が途切れた。同時に、吠の気配感知が警鐘を鳴らす。正面だ。雪原の向こう、吹雪の白い幕の奥から、三体の影が同時に飛び出してくる。

 

「沖田!」

 

「承知」

 

沖田は動かなかった。いや、動く必要がなかった。吠が叫んだ瞬間には、すでに三体の首が落ちていた。胴体が崩れ、灰と霧になる。沖田は最初からそこに立っていたかのように、同じ位置で刀を構えている。

 

(速い——なんてもんじゃない)

 

吠は歯を食いしばった。目で追えない。気配感知でさえ、沖田の動きを捉えきれない。彼女が刀を振るったという結果だけが、死体の崩れる音で証明される。これが英霊。これがサーヴァント。人間の理を外れた存在。

 

「マスター、右に迂回してください。あの廃屋の影に、まだ潛んでいます」

 

「わかってる」

 

気配感知が、雪原のあちこちから飢えの気配を拾い続けている。数は減っていない。沖田が斬っても斬っても、次から次へと湧いてくる。まるで雪そのものが敵に変わっていくかのようだ。

 

(おかしい。数が多すぎる)

 

死徒の使い魔だとしても、この数は異常だ。これだけの数を操れる魔術師がいるのか。それとも、もっと別の——。

 

考えを振り切り、吠は沖田の指示通り右に走った。雪に足を取られ、転びそうになるのを堪える。肺が冷気で焼けるように痛い。倉庫からここまで、どれだけ走ったかもわからない。

 

(田崎——)

 

脳裏に、腹を裂かれて倒れていた同僚の姿が浮かんだ。三時間前まで一緒にカップ麺を啜っていた男。今はもう、冷たい倉庫の床で動かなくなっている。あの死体は、まだあそこにあるのか。それとも、仲間の食屍鬼に食い尽くされたか。

 

「マスター、気を確かに」

 

沖田の声が、吠を現実に引き戻した。いつの間にか立ち止まっていたらしい。沖田がすぐ横に並び、刀を構えたまま周囲を警戒している。その瞳は吠を見ていなかったが、声にはわずかに咎めるような響きがあった。

 

「戦場で過去を思うのは感心しません。今はただ、生き延びることだけを」

 

「——わかってる」

 

吠は再び走り出した。そうだ、今は生き延びるしかない。死んだ者を思うのは、生き延びてからでいい。

 

背後で、沖田がまた何かを斬り伏せる音がした。崩れる音。消える音。そして——。

 

「——ッ!」

 

吠の気配感知が、かつてない警鐘を鳴らした。立ち止まる。心臓が、嫌な速さで脈打つ。沖田も同時に足を止め、刀を構え直した。

 

「感じましたか」

 

「ああ。なんだ、あれは」

 

雪原のずっと向こう。町とは反対の方角。山間部の闇の中に、何かがいる。飢えの気配の発生源。今まで沖田が斬り伏せてきた影たちはすべて、あそこから湧き出ている。そして——。

 

黒い霧が、雪原の上を這うように流れていく。沖田が斬った影の残滓。魔力の名残。それがすべて、同じ方角へ吸い込まれている。

 

「本体が別にいる」

 

沖田が、静かに言った。

 

「あれらは使い魔です。あるいは、もっと原始的な——飢えそのものから生まれた分霊。いずれにせよ、本体を叩かなければ数は減りません」

 

「本体、って」

 

「この気配。数は減っても、飢えの総量は変わっていない。つまり、倒した端から魔力が回収され、新たな影を生み出している。無限増殖に近い。相手は——」

 

沖田は言葉を切り、吠の顔を見た。その瞳が、初めて真剣な光を帯びる。

 

「——おそらく、サーヴァントです」

 

「サーヴァント。お前と同じ、英霊か」

 

「はい。クラスはわかりませんが、この数の暴力と、飢えの質から察するに——バーサーカーか、あるいは」

 

沖田は言い淀んだ。その顔に浮かんだのは、嫌悪と呼ぶには淡すぎる、警戒と呼ぶには深すぎる何か。

 

「——いえ、今は推測を控えます。マスター、町へ急ぎましょう。この吹雪なら、気配を撹乱できる。あの本体と戦うのは、準備を整えてからです」

 

「わかった」

 

吠はうなずいた。反論の余地はない。沖田の言う通り、このまま野原で戦い続ければ、いずれ魔力が尽きる。沖田がいくら最速の剣士でも、無限に湧く敵を相手に消耗戦を続ければ、いつかは綻びが出る。

 

(まずは、町だ)

 

雪原を駆けながら、吠はちらりと背後を振り返った。遠く、山間部の闇。あの中に、本体がいる。あれがこの聖杯戦争の参加者だというのか。殺し合いの相手だというのか。

 

まだ実感は湧かない。ただ、気配感知が捉えた飢えの大きさだけが、嫌な現実感を伴って吠の背筋に貼りついていた。

 

「沖田」

 

「なんですか」

 

「俺は、まだ戦うって決めたわけじゃない。聖杯がなんだか知らねぇが、俺には願いなんてない。ただ——」

 

吠は前を向いた。町の灯りが、吹雪の向こうにかすかに見え始めている。

 

「——死にたくねぇ。それだけだ」

 

沖田は、少しだけ黙った。それから、小さく息を吐く。

 

「充分です、マスター。生き延びたい。それだけで、戦う理由になります」

 

その声が、ほんの少しだけ柔らかかったのは、吹雪のせいか、それとも。

 

吹雪が、温室のガラスを叩いていた。

 

湖畔のほとりに建つそれは、外から見ればただの大きなガラス箱だった。雪に埋もれた骨組みが、月明かりを鈍く反射している。凍てつく風が湖面を渡り、氷の粒をガラスに打ちつける。零下の闇がすべてを覆う夜だった。

 

だが、一歩足を踏み入れれば、そこは別の世界だった。

 

湿度が、肌にまとわりつく。熱が、肺を満たす。吐く息は白くならない。むしろ、熱帯の果樹園のような甘ったるい空気が、訪問者を包み込む。巨大な温室の中には、マンゴー、パパイヤ、バナナ、そして北海道の気候では決して育たないはずの果樹が、青々と葉を茂らせていた。

 

果樹は、整然と並んでいた。通路に沿って植えられたそれらは、一見するとただの熱帯植物のコレクションだ。だが、配列を上空から見下ろせば——あるいは、魔術師の目で見れば——そこには明確な意味が浮かび上がる。円。枝分かれ。セフィラ。生命の樹の幾何学模様が、果樹の配置そのものに刻み込まれている。

 

温室の中央で、女がひとり、剪定鋏を手にしていた。

 

アロイシア・バウムガートナー。金髪を後ろで束ね、汚れを気にしない作業着姿の女主人。剪定鋏の刃が、不要な枝を断つ。パチン、という小気味よい音が、湿った空気に吸い込まれていった。

 

「——少し、騒がしいわね」

 

彼女は顔を上げずに言った。言葉は独り言のようでもあり、誰かに向けたものでもあった。剪定鋏がもう一本の枝を落とす。手入れの行き届いた果樹は、彼女の手によって少しずつ理想の形に整えられていく。余分なものを削ぎ落とし、必要なものだけを残す。それは彼女の魔術の本質でもあった。

 

「夜の町で、何か動いているわ」

 

アロイシアの周囲を、蜂が舞っていた。いや、蜂だけではない。蝶もいる。蛾もいる。それらはすべて使い魔だった。複眼と翅を通じて、彼女は夜の町の情報を収集している。一匹一匹は微細な魔力しか持たないが、群れとなれば広範囲の観測網になる。

 

蜂が、一匹、彼女の指先に止まった。翅を震わせ、触角で情報を伝達する。アロイシアは目を閉じ、その映像を受け取った。

 

雪原を走る人影。若い男。それから——桜色の着物の少女。サーヴァント。セイバークラスか。令呪の気配もある。

 

(セイバー陣営。召喚されたばかりのようね)

 

彼女はまぶたの裏で、もうひとつの光景を見た。雪原を這いずる飢えの影。人の形をしているが、人ではない。あれはおそらく、バーサーカーの分霊か何かだろう。数の暴力で押すタイプの英霊らしい。

 

「聖杯戦争、始まったわ」

 

アロイシアはゆっくりと目を開けた。その瞳に浮かぶのは、興奮でも、恐怖でもない。ただ、観測と判断の光だけだった。庭師が庭の状態を確認するような、冷静な視線。

 

「観測網、順調ですね」

 

声がした。温室の奥、生命の樹の「美」に相当する位置に、男が立っている。茶色の短髪に、穏やかな顔立ち。麻のチュニックに緑のローブを重ね、白いマントを肩からかけている。胸元には、幾何学模様のブローチが光っていた。

 

キャスター・モーシェ・デ・レオン。彼は片手に分厚い本を持ち、もう一方の手で、空中に浮かぶ光の文字をなぞっていた。文字はヘブライ語だ。それらが線となり、円となり、温室の果樹の配置と共鳴しながら、新たな魔術式を構築していく。

 

「あなたの工房は素晴らしい。果樹の配置がすでに生命の樹を模している。私はそれに言葉を与えるだけで、神殿は完成します」

 

「ありがとう、キャスター。でも、神殿の構築は急いで。すでに二つの陣営が動き始めているわ」

 

アロイシアは剪定鋏を置き、手を拭きながら振り返った。彼女の顔は整っていた。年齢はニ十代半ばだろうか。しかし、肌にはまだ若々しさが残り、瞳だけが妙に老成している。何度も剪定を繰り返してきた者の目だった。

 

「セイバーと、それからバーサーカーかしら。バーサーカーは——あまり上等な英霊ではなさそうね」

 

「飢えの気配が、ここまで届いています」

 

キャスターは本のページをめくった。柔らかな微笑みを浮かべたまま、視線だけは鋭く、温室のガラスの向こう——雪原の闇を見つめている。

 

「捕食。増殖。人間を喰らい、それを端末に変える。あれはおそらく、バーサーカー・アレクサンダー・ソニー・ビーン。スコットランドの人肉食の伝承が英霊化したものだ。クラスはバーサーカー。狂化と飢餓が合わされば、理性は期待できませんが——」

 

「——その分、厄介、か」

 

アロイシアはうなずいた。厄介な相手だ、と彼女は思う。だが、同時にこうも思う。あれは聖杯戦争の本質とは違う。あれはただの汚染だ。狩場を荒らす獣に過ぎない。

 

「セイバー陣営のマスターはどう見る? 若い男だったけれど」

 

「魔術師としては、未熟。ほとんど素人に近い。ですが——」

 

キャスターは言葉を切り、空中の文字をひとつ、指先で弾いた。文字が砕け、光の粒子が温室に散る。

 

「——不思議な感応特性を持っていますね。獣性に寄った気配感知能力。魔術回路は弱いのに、あれだけの精度で敵を察知できるのは、訓練だけでは身につかない。血筋か、あるいは個体変異か」

 

「どちらにせよ、脅威度は低いわ。問題は、そのサーヴァントの方」

 

アロイシアは蜂を一匹、指先から放った。蜂はガラス天井の換気口から外に出て、吹雪の中へ消えていく。

 

「セイバー。沖田総司。幕末の人斬り集団の一番隊長。剣の速度はおそらく、この聖杯戦争でも最速クラス。ただし、耐久力と防御面に難がある。長期戦か、あるいは一撃離脱で削るのがセオリーね」

 

「よくご存じで」

 

「魔術師なら、英霊の真名を見抜くのは基本でしょう?」

 

アロイシアは微笑んだ。それは冷たい笑みではなかった。ただ、必要なことを確認しただけの、庭師の表情だった。

 

「私の願いは根源到達。神秘が薄れ、本気で根源を目指す魔術師が減った時計塔に、私は危機感を抱いている。このままでは、あと百年もすれば、魔術そのものが枯れる。誰かが到達しなければ——誰かが、剪定しなければ」

 

彼女は手近な枝を一本、指でなぞった。若い枝だ。だが、栄養を吸いすぎている。放っておけば、他の枝の成長を阻害する。

 

「あなたは、それを剪定と呼ぶ」

 

キャスターが、静かに言った。

 

「ええ。庭師の仕事は、全体を見て、不要な枝を落とすこと。魔術も同じだわ。衰退する前に、枝を整理し、根に栄養を集中させる。そのために、私は根源へ至る」

 

「その過程で、誰かが犠牲になっても?」

 

キャスターの声は、穏やかだった。問い詰めるような響きはない。ただ、ひとつの疑問を、丁寧に差し出しただけだ。

 

アロイシアは、少しだけ黙った。それから、剪定鋏を手に取り、もう一度パチンと枝を落とす。

 

「——そうならなければ、理想だけれど」

 

「そうですか」

 

キャスターはそれ以上、何も言わなかった。ただ、分厚い本を胸に抱え、温室の中を見渡す。生命の樹を模した果樹の配置。その中心で、不要な枝を落とし続ける女主人。

 

彼は、彼女の危機感を理解していた。神秘の衰退。根源への焦り。それは魔術師として当然の衝動だ。だからこそ、否定はしない。だが、賛同もしない。彼の中にあるのは、別の問いだった。

 

(誰かを犠牲にしてまで、到達すべき場所なのか)

 

その問いを口にすることはなく、キャスターは再び、空中に文字を刻み始めた。神殿の構築はまだ途中だ。聖杯戦争は始まったばかり。戦いは、これから。

 

温室の外では、吹雪が強まっていた。蜂と蝶が、夜の町へと散っていく。それらはアロイシアの目であり、耳であり、やがて刃にもなる。

 

北海道の雪原で、飢えの影が動き、桜色の剣士が走り、そして湖畔の温室では、庭師が剪定の準備を整えていた。

 

雪は、まだやまない。

 

廃工場の二階、割れた窓ガラスの向こうで、吹雪が渦を巻いていた。剥き出しの鉄骨に氷が張り、足元のコンクリートは凍てついている。暖房もない。灯りもない。だが、この場所には奇妙な熱があった。

 

ビルマ・レイフィールドは、窓枠に腰掛けて足をぶらぶらと揺らしていた。三十代半ばだろうか。くすんだ金髪を無造作に束ね、厚手のコートを着込んでいる。その姿だけを見れば、山小屋で休暇を過ごす気のいい旅行者だ。彼女は微笑んでいた。吹雪の夜だというのに、その顔は上機嫌だった。

 

「ねえ、起きてる?」

 

彼女は、廃工場の闇に向かって声をかけた。返事はない。だが、彼女は気にしなかった。むしろ、その沈黙を楽しんでいるように、口元をほころばせる。

 

闇の中で、何かが息をしていた。

 

深く、長く、湿った呼吸。肺ではなく、もっと別の器官で空気を味わっているような音だ。鉄骨の陰に、人影がある。座り込んでいるのか、うずくまっているのか。暗くてよく見えない。ただ、時折、白い息が闇に浮かんでは消えた。

 

「外がね、騒がしいの。端末たちが、なにか見つけたみたい」

 

ビルマは窓の外を見た。彼女の目は、吹雪の向こうを見通している。いや、彼女自身の目ではない。雪原を這いずる飢えの影——捕食端末——の視界が、彼女に情報を送っているのだ。セイバー。若いマスター。倉庫から逃げ出し、廃屋でサーヴァントを召喚したらしい。

 

「へぇ、セイバーなんだ、すごく速いんだって。端末が三体、あっという間にやられちゃった」

 

彼女はくすくすと笑った。まるで友達の噂話でもするかのような、屈託のない笑い声。

 

「でもね、マスターの方が弱そうなの。若い男の子。魔術もろくに使えないみたい。なのに、感覚だけは鋭いんだって。獲物がこっちに気づくの、久しぶり」

 

闇の中で、呼吸のリズムが変わった。興味を示したのだ。ビルマはそれに気づいて、さらに笑みを深くする。

 

「でしょう? あなたもそう思う?」

 

彼女は窓枠から飛び降り、廃工場の床に降り立った。ブーツの底が、凍ったコンクリートを叩く。ゆっくりと、闇の中の人影に近づいていく。

 

「いいわよ、行っておいで」

 

人影が、動いた。

 

鉄骨の陰から、女が立ち上がる。赤い髪。短く切り揃えられ、前髪が目を隠している。その下から覗くのは、飢えそのものの色だった。彼女はスコットランド風のキルトを身に纏い、両手には鉈と手斧を握っている。裸足だ。凍ったコンクリートの上に、素足で立っている。

 

バーサーカー・アレクサンダー・ソニー・ビーン。スコットランドの闇に生きた人肉食の一族。四十八人の一族を率いて旅人を狩り、その肉を喰らい、骨を洞窟に積み上げた伝承の英霊。狂化と飢餓がその霊基を歪め、彼女は今、かつてない飢えを抱えてここにいる。

 

「あの子たち、まだ若いのよ。きっと、柔らかいわ」

 

ビルマはバーサーカーの頬に手を伸ばした。氷のように冷たい肌。人間の温度ではない。彼女はそれを気にせず、愛おしげに撫でる。バーサーカーは動かない。ただ、喉の奥で低く唸った。腹の底に響くような、空腹の唸り。

 

「マスターの方は、あなたにあげる。でもね、サーヴァントの方は——ちょっとだけ、味見させてほしいな」

 

ビルマの目が、笑った。口元は穏やかなまま、瞳孔だけが獲物を値踏みするように細くなる。

 

「英霊の肉って、どんな味がするのかしら」

 

バーサーカーは答えない。彼女に言葉はほとんどない。あるのは飢えだけだ。だが、その飢えが、ビルマの言葉に反応して膨れ上がる。腹の奥から、ぐう、と鳴った。人間の空腹音ではない。もっと深い、霊基そのものが魔力を欲している音。

 

「行っておいで。狩りの時間よ」

 

ビルマが手を離すと、バーサーカーはゆっくりと歩き出した。裸足が凍ったコンクリートを踏むたび、ひび割れが走る。ただ歩いているだけなのに、廃工場の空気が重くなる。

 

彼女が窓の外——雪の町の方角——を向いた瞬間、周囲の温度が一段と下がった。凍てつくような寒さではない。もっと根本的な、生命の熱を吸い取るような冷たさ。吐く息が白く凍るのではなく、吐く息そのものが奪われるような感覚。

 

バーサーカーは窓枠に手をかけ、身を乗り出した。吹雪が彼女の赤い髪を揺らす。前髪の下から、飢えた瞳が雪原の向こうを見つめている。獲物は遠い。だが、彼女の飢えは距離を問題にしない。

 

彼女は、跳んだ。

 

窓枠を蹴り、吹雪の中へ身を投げ出す。二階からの跳躍。着地の衝撃で雪が爆ぜ、地面にひびが入る。彼女はそのまま、四つん這いになって走り出した。獣の姿勢。獣の速度。裸足が雪を蹴り、手斧と鉈が闇に光る。

 

ビルマは窓辺に残り、その背中を見送った。吹雪の中に消えていく赤い髪。狩りに向かう獣の後ろ姿。彼女はそれを、まるでペットが散歩に出るのを見送るような顔で眺めている。

 

「楽しんでいらっしゃい」

 

彼女は微笑んだ。その声は、吹雪にかき消されて誰にも届かない。

 

廃工場の外では、バーサーカーが走る。彼女の周囲で、雪が溶けている。いや、溶けているのではない。雪そのものが、彼女の飢えに魔力を吸われて消えているのだ。通り過ぎた跡には、黒い地面が露出し、草は枯れ、土はひび割れる。

 

雪原に潛んでいた捕食端末たちが、彼女に気づいて道を開ける。飢えの化身が、自らの本体のために獲物を狩る。端末はすでにセイバー陣営の位置を把握していた。町へ向かう雪原。若いマスターと、桜色の剣士。彼らはまだ、自分たちを追う飢えの正体を知らない。

 

バーサーカーは、速度を上げた。

 

雪の町が見えてくる。人家の灯り。街灯の明かり。そこに、獲物がいる。彼女の喉が鳴った。腹が鳴った。手斧を握る指に力がこもる。彼女が求めるのは肉ではない。血ではない。魔力だ。英霊の霊核。サーヴァントの本質。それを喰らうことで、彼女の飢えはわずかに満たされる。

 

彼女の背後で、雪がさらに深く沈み込む。足跡には黒い染みが広がり、そこから二度と草は生えないだろう。彼女が通った跡は、それだけで土地を死なせる。

 

吹雪の向こうに、町の灯りが滲んでいた。

 

バーサーカーは、その灯りに向かって走る。獲物がいる。飢えが叫ぶ。喰らえ。喰らえ。喰らえ。

 

彼女の口が、わずかに開いた。白い歯の間から、飢えた息が漏れる。それはほとんど言葉にならない囁きだった。

 

「——にく——」

 

雪の町が、近づいていた。

 

そして、その上空で、それらを見つめる影が。

空の上では、吹雪はなかった。

 

雲を抜ければ、そこは静寂の世界だ。月が白く輝き、星々が凍てつくように瞬いている。眼下には雲海が広がり、その下で北海道の夜が吹雪に沈んでいる。気温はマイナス四十度を下回る。プロペラ機の窓に氷の結晶が張りつき、機体は時折、風に揺られて小さく軋んだ。

 

白峰旅人は、副操縦席で息を吐いた。白くはならない。コックピット内はかろうじて暖が取れている。彼は分厚いダウンジャケットを着込み、膝の上には北海道の地図を広げていた。ペンライトを口にくわえ、赤鉛筆で現在位置をなぞる。

 

「町の灯りが見える。この辺りだな、異常反応は」

 

「ええ。かなり派手に動いてるわね、地上」

 

声は、操縦席から聞こえた。ライダー。二十代の女性だ。金髪のウェーブがかったボブヘアが、コックピットの計器の明かりを受けて揺れている。彼女は革の飛行服を着込み、首元には白いスカーフを巻いていた。手袋をはめた両手は操縦桿を握り、その目は前方の闇を見つめている。戦闘機のパイロットのようにも見えるが、もっと古い、冒険飛行の時代の飛行士のようにも見えた。

 

「セイバー陣営だと思う。召喚したばかりみたいだな。それと——」

 

旅人は地図を指でなぞり、別の地点を指す。

 

「こっち。バーサーカー陣営。こいつが厄介だ。捕食端末をばらまいてる。数が多すぎる」

 

「まるで航路上に突然現れた積乱雲ね」

 

ライダーはくすりと笑った。知的な笑みだった。状況を楽しんでいるわけではない。ただ、危険を危険として認識し、それを言葉にする時に、こんな表現になるのだろう。

 

「迂回する? それとも、雲の中に突っ込んでみる?」

 

「迂回、かな。まだ戦う時じゃない」

 

旅人はペンライトを消し、窓の外を見下ろした。雲海の下、吹雪の向こうに、かすかに町の灯りが滲んでいる。その一点に、魔力の反応が集中していた。セイバー。バーサーカー。二つの陣営が、雪の町で接触しようとしている。

 

(若いマスターだったな)

 

旅人は、先ほど一瞬だけ観測した気配を思い出す。男。おそらく、自分とそう変わらない年齢だ。魔術師としての訓練は受けていない。素人だ。なのに、聖杯戦争に巻き込まれた。召喚したサーヴァントはセイバー。最優のクラスを引き当てたのは幸運だが、相手が悪い。バーサーカーのあの飢えの気配は、まともに戦ってどうにかなるものじゃない。

 

「気になる?」

 

ライダーが、操縦桿を握ったまま横目で旅人を見た。

 

「気になる、かな。見捨てるのは——寝覚めが悪い」

 

「だろうと思った」

 

ライダーは微笑んだ。非難する響きはない。むしろ、そう言うと思っていた、という声だった。

 

「でも、今はまだ降りられない。まずは全体を見る。どの陣営がどこにいて、何をしようとしているのか。航路を決めるのはそれからよ」

 

「わかってる」

 

旅人はうなずいた。彼は魔術師ではない。魔術回路は持っているが、時計塔で学んだわけでも、家系の訓練を受けたわけでもない。ただ、英霊との共感適性だけが異常に高かった。それが彼を聖杯戦争に引き込み、今はライダーのマスターとして、この空の上にいる。

 

「それにしても——」

 

ライダーが、ふと声を低くした。

 

「あのバーサーカー、只者じゃないわね。捕食端末をあれだけの数ばらまいて、なお本体の魔力がほとんど減衰していない。まるで——喰うたびに強くなっているみたい」

 

「英霊を喰ってるのか」

 

「おそらく。端末が倒されても、魔力が本体に還元されている。あれは消耗戦を仕掛けるタイプじゃない。戦えば戦うほど、相手が強くなる。いわば——」

 

ライダーは一瞬、言葉を切った。

 

「——航路上の嵐が、機体の燃料を吸い取っていくようなものね」

 

「洒落にならないな」

 

旅人は顔をしかめた。眼下の町では、セイバー陣営が走っている。若いマスターと、桜色の剣士。彼らはまだ、自分たちを追う飢えの正体を知らない。知ったとしても、逃げ切れるかどうか。

 

「ライダー、もしもの時は——」

 

「降りる?」

 

「ああ。見捨てるな、とは言わない。でも、降りられる余地は残しておきたい」

 

ライダーは少しだけ黙った。それから、操縦桿を握り直し、機体をゆっくりと旋回させる。翼が月明かりを受けて銀色に光った。

 

「あなたは優しいのね、マスター」

 

「優しいんじゃない。ただ——」

 

旅人は窓の外を見た。雲海の下で、誰かが死のうとしている。それを見ているだけというのは、性に合わない。

 

「——寝覚めが悪いのは、嫌いなんだ」

 

「そう。じゃあ、私も副操縦士として、それに付き合うわ」

 

ライダーは軽やかに言って、機体の高度を少し下げた。まだ雲の中に隠れているが、いつでも降下できる位置取りだ。

 

「今は観測。戦う時が来たら、その時は——まっすぐ風の中に飛び込むのよ」

 

機体は旋回を続ける。眼下の町で、飢えの影が動き、桜色の剣士が走る。聖杯戦争の幕は切って落とされたばかりだ。まだ誰も死んでいない。まだ誰も勝っていない。

 

だが、この空の上から見下ろせば、すべては盤上の駒のように小さく見えた。そして旅人は、盤の外から眺める者ではなく、いずれ盤上に降りる者だ。彼は地図を畳み、息を吐く。眼下の町に、雪が降り続いていた。

 

町を、霧が這っていた。

 

雪ではない。もっと重く、もっと湿った、海から流れ込んだような霧だ。街灯の明かりが滲み、アスファルトの路面をぼんやりと白く覆っている。時刻は深夜を回り、商店街のシャッターはすべて下りていた。人影はない。ただ、霧だけが、生き物のように路地を埋めていた。

 

樺守斎一は、霧の中に立っていた。

 

20代半ば。無骨なダウンジャケットを着込み、手には猟銃もナイフも持っていない。代わりに、右手の甲に令呪が浮かんでいた。彼は目を閉じ、風を読む。雪の匂い、鉄の匂い、そして——腐臭。いや、腐敗とは違う。もっと深い、土地そのものが病んでいるような異臭。

 

「……穢れだ」

 

彼は低く呟いた。北海道の山と川と雪に生きてきた狩人として、この気配は許容できないものだった。狩りとは秩序だ。獲物を追い、仕留め、血肉を無駄にしない。土地の恵みに感謝し、必要以上に殺さない。だが、今この町に満ちているのは、そういう狩りではない。

 

これは、食い荒らしだ。

 

「狩りじゃねぇ。ただの喰い散らかしだ」

 

樺守が顔を上げると、街灯の光が彼の横顔を照らした。彫りの深い、年輪のような皺が刻まれた顔。目は細く、その奥の瞳だけが異様に若々しい光を宿している。彼はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。ライターの火が一瞬、霧をオレンジ色に染める。

 

「ねえ、樺守」

 

声がした。

 

振り返らない。振り返る必要はない。その声は、樺守のすぐ背後——いや、もっと近く、肩越しに囁くようにして聞こえてきた。子供の声だ。少女か少年か、判別のつかない中性的な声。だが、その響きには、子供らしい無邪気さと、殺人鬼のような暗さが同居していた。

 

「このにおい、なあに?」

 

「血の匂いだ。それも、人間の血じゃねぇ」

 

樺守は煙を吐き出した。白い煙が霧に混ざり、すぐに見えなくなる。

 

「サーヴァントの血だ。英霊を喰らってる奴がいる」

 

「へえ、英霊を食べるんだ。どんな味がするのかな」

 

霧の奥で、くすくすと笑う声がした。街灯の明かりが届かない闇の中を、何かが動いている。

 

「でも、なんか変なの。血の匂いだけじゃない。もっと違う——地面が、変なにおい」

 

アサシンの声から、笑みが消えた。代わりに、かすかな不快感が混じる。

 

「土地が喰われてる。あれはただの殺しじゃない。通った跡が、死んでる。草も、虫も、土の中の小さな生き物も、みんな死んでる。なにあれ、きらい」

 

「俺もだ」

 

樺守は煙草を携帯灰皿に押し込み、ポケットにしまった。彼は霧の中を歩き出す。足音はほとんどしない。雪の上でも、アスファルトの上でも、彼の歩みは狩人のそれだった。

 

「バーサーカーだな。クラスは狂戦士。理性はねぇ。飢えのままに動いてる。問題は、あれが聖杯戦争の枠を無視して、土地そのものを食い荒らし始めてるってことだ」

 

「狩りじゃないんだ?」

 

「狩りじゃねぇ。あれは、害虫だ」

 

樺守の声は平坦だった。だが、その言葉には明確な判断があった。彼は殺しを楽しむ男ではない。聖杯戦争に参加したのも、願いのためだ。土地を守り、血を繋ぎ、この北海道という場所に生き続けること。それが彼の願いであり、その願いのために令呪を手にした。

 

「セイバー陣営が逃げてる。若いマスターと、剣士のサーヴァント。バーサーカーはあれを追ってる」

 

「ふうん。セイバーって、強いの?」

 

「さあな。だが——」

 

樺守は足を止めた。彼の目が、霧の向こうを見据える。雪原から町へと続く道。そこに、飢えの気配が集まっていた。バーサーカーの本体。そして、その先に逃げるセイバー陣営。

 

「——あの若いマスターは、まだ壊れてねぇ。殺気はある。警戒もある。だが、人を捨てちゃいねぇ。それが、どこまで保つか」

 

「樺守は、あの子が気になるの?」

 

アサシンが、樺守のすぐ横に現れた。霧が形を取ったかのように、ふわりと姿を見せる。顔は闇に隠れてよく見えない。ただ、口元だけが三日月のように笑っていた。

 

「気になる、か」

 

樺守は、少しだけ黙った。それから、再び歩き出す。

 

「——昔の俺を見てる気がするだけだ」

 

「ふうん」

 

アサシンは樺守の横に並び、小さな手を霧の中に差し入れた。その指先が、何かを探るように動く。

 

「あのバーサーカー、きらい。狩りじゃないもん。でも——」

 

アサシンは顔を上げた。闇の中で、目だけが異様に光っている。

 

「——血の匂いは、わるくない。ねえ、樺守。あのバーサーカー、殺していい? それとも、まだダメ?」

 

「まだだ。まずは状況を見る」

 

樺守は、霧の向こうに広がる町の中心部を見つめた。駅前広場。セイバー陣営が逃げ込むなら、おそらくあそこだ。そして、バーサーカーもあそこに向かっている。

 

「セイバー陣営がどう出るか。それを見てから、俺たちの動きを決める」

 

「わかった」

 

アサシンは素直にうなずいた。だが、その口元はまだ笑っている。樺守の言うことを聞くつもりはある。だが、血の匂いに興奮していないわけでもない。その危うさを、樺守はよく知っていた。

 

「行くぞ」

 

二人は、霧の中に消えた。街灯の明かりが揺れ、アスファルトの上に影が伸びる。狩人と殺人鬼。その組み合わせは異様でありながら、この夜の町には奇妙に馴染んでいた。

 

彼らが向かう先で、飢えの化身が走り、桜色の剣士が逃げる。聖杯戦争の夜は、まだ始まったばかりだ。

 

雪は、まだやまない。

 

町の灯りはもうすぐそこだった。駅前の街灯が、吹雪の幕の向こうに滲んで見える。あと二百メートルも走れば、人家のある通りに出る。そこまで行けば、少なくとも雪原よりは身を隠せる場所があるはずだ。

 

「右、二体!」

 

吠は走りながら叫んだ。息が切れ、声がひっくり返りそうになるのを堪える。肺が冷気で痛い。脚の筋肉が悲鳴を上げている。それでも、気配感知だけは正確だった。廃屋の影から飛び出してきた飢えの影を、沖田が振り返りざまに斬り捨てる。刀の軌跡は見えない。ただ、影が崩れ、灰になって消える。

 

「マスター、前方の路地は?」

 

「まだ大丈夫だ。気配はない」

 

「では、あちらへ」

 

沖田は刀を構えたまま、吠を先に行かせるように位置を変えた。自然な動きだった。いつの間にか、二人の間には役割分担ができている。吠が気配を探り、沖田がそれを斬る。魔術も使えない素人のマスターと、最速の剣士。本来なら噛み合うはずのない組み合わせが、この雪の夜では奇妙に機能していた。

 

(俺の感覚が、使えるのか?)

 

吠は走りながら、自分の気配感知を意識的に広げた。倉庫で田崎が死んだ時は、ただ恐怖するだけだった。廃屋で沖田を召喚した時も、わけがわからないままだった。だが、今は違う。沖田が自分の感覚を信じて動いてくれている。それが、ほんの少しだけ吠の背筋を伸ばさせた。

 

「左の廃ビル、二階に一つ。動いてない。待ち伏せか」

 

「承知。無視して走り抜けます。あれが動いたら斬ります」

 

「わかった」

 

短いやりとり。無駄がない。沖田はもう、吠を「守るだけの対象」とは見ていなかった。戦場で使える感覚を持つマスターとして、認識を修正しつつある。それを吠も感じ取っていたからこそ、余計な言葉は必要なかった。

 

路地を抜ける。雪が深い。足を取られそうになるのを、沖田がさりげなく支える。手を貸すわけではない。ただ、転びそうな方向に先回りして、敵を斬りながら道を作っている。その判断の速さが、幕末の戦場を生き抜いた剣士の本領だった。

 

「包囲が、薄くなってる」

 

吠は息を整えながら言った。気配感知が捉える飢えの影の数が、明らかに減っている。追手はまだいる。だが、さっきまでのような全方位からの包囲ではない。むしろ、何かが——何かが、こちらを誘導しているような。

 

「マスター、止まってください」

 

沖田が、突然立ち止まった。刀を正面に向け、低く構える。その顔から、それまでの冷静な表情が消えている。初めて見せる、明確な警戒の色。

 

「どうした、沖田」

 

「——来ます」

 

その一言で、吠の気配感知が最大の警鐘を鳴らした。

 

違う。今までのとは、格が違う。雪原を這いずっていた飢えの影は、すべて前座だった。これは、その本体だ。飢えそのものが形を取ったような——。

 

雪道の先。街灯の明かりが滲む交差点に、人影が立っていた。

 

赤い髪。短く切り揃えられ、前髪が目を隠している。スコットランド風のキルト。裸足。両手には鉈と手斧。雪が、彼女の周囲だけ溶けている。いや、違う。雪が彼女の魔力に吸われて、消えているのだ。

 

バーサーカー。

 

名前を知らなくても、本能が理解する。あれは英霊だ。沖田と同じ、歴史に刻まれた人外。だが、沖田とは決定的に違うものを持っている。飢え。腹の底から湧き上がる、絶対的な空腹。魔力を喰らい、血肉を喰らい、それでも満たされることのない飢餓。

 

「——あれが、本体か」

 

吠の声は、かすれていた。気配感知が、まともに機能しない。正確に言うなら、機能しすぎている。あらゆる方向から「死」の警告が届き、どれが正しい情報なのか判別できない。それほどの存在感だった。

 

バーサーカーが、ゆっくりと顔を上げる。前髪の下から、飢えた瞳が覗いた。その視線が、吠を——そして沖田を——捉える。

 

「下がっていてください、マスター」

 

沖田の声は、静かだった。だが、その背中が、これまでにない緊張で強張っている。刀を構えたまま、彼女は半歩前に出た。吠を背後に庇い、バーサーカーと正対する。

 

「今までのとは、訳が違います。あれは——」

 

沖田は言葉を切った。バーサーカーが、動いたからだ。ただの一歩。裸足が雪を踏み締める。それだけで、交差点の空気が重くなる。温度が下がる。生命の熱そのものが、あの女に吸い寄せられている。

 

バーサーカーの口が、わずかに開いた。白い歯。その間から、飢えた息が漏れる。

 

「——にく——」

 

それは、ほとんど言葉にならない囁きだった。だが、その一言だけで充分だった。あれが求めているのは、血肉ではない。魔力だ。サーヴァントの霊核。英霊の本質。それを喰らい、それでも飢え続ける永遠の空腹。

 

「マスター」

 

沖田が、吠の名前を呼んだ。振り返らない。刀を構えたまま、正面の敵を見据えている。その横顔は、廃屋で見せた無表情でも、雪原で見せた冷静さでもなかった。初めての、戦士の顔だった。

 

「逃げますか。それとも——戦いますか」

 

選択を、委ねられた。今までは、沖田が判断し、沖田が動き、吠はそれに従うだけだった。だが、今は違う。沖田は吠を「守るべき対象」から「決断すべきマスター」へと、格上げしたのだ。

 

吹雪が、強まる。交差点の向こうで、バーサーカーがもう一歩、踏み出した。鉈と手斧が、街灯の明かりを受けて鈍く光る。

 

吠は、拳を握り締めた。令呪が疼く。右手の甲に刻まれた三画の呪いが、使われる時を待っている。沖田を強化するか。撤退を命じるか。あるいは——。

 

(決めなきゃならねぇ)

 

聖杯戦争に巻き込まれて、まだ数時間。願いもなければ、戦う理由もない。ただ、死にたくない。それだけだった。だが、今は——。

 

(こいつを、死なせたくねぇ)

 

その感情が、どこから湧いてきたのか、吠自身にもわからなかった。ただ、目の前の背中が、この吹雪の中で消えることを想像した瞬間、腹の底から何かがせり上がってきたのだ。

 

「沖田」

 

「はい」

 

「やれるのか、あいつを」

 

沖田は、少しだけ黙った。それから、小さく息を吐く。その横顔に、かすかな笑みが浮かんだ。

 

「やってみせます」

 

雪が、舞い上がる。

 

交差点を挟んで、最速の剣士と、飢えの化身が対峙していた。聖杯戦争の幕開けは、すでに終わっている。これから始まるのは、殺し合いの本番だ。

 

雪の向こうで、赤い髪が揺れた。

 

それだけで、吠の身体は死を理解した。

 

気配感知が、もう悲鳴を上げていない。警鐘を鳴らすことすらやめて、ただ震えている。今まで感じていた飢えの影とは、根本から違う。あれは端末だ。群れだ。数で押すタイプの脅威だった。だが、今、雪道の向こうから歩いてくるのは、飢えそのものだった。

 

バーサーカー。

 

裸足が雪を踏む。一歩。また一歩。ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。その足跡の周囲だけ、雪が黒く染まっているように見えた。いや、気のせいではない。彼女が踏み締めた場所から、雪が溶け、土が露出し、そして変色していく。生命の色が吸い取られ、死んだ土地の黒だけが残る。

 

「逃げるぞ、沖田」

 

吠は言った。口が勝手に動いていた。脳が命令するより先に、生存本能が言葉を吐き出したのだ。

 

「いや、待て。待て待て待て」

 

自分の声が震えている。違う。震えているのは声だけじゃない。膝が、指先が、歯の根が、勝手に震えている。寒さのせいじゃない。恐怖だ。生まれて初めて味わう、純粋な死の気配。

 

「あれはダメだ。あれは——狩られる側の感覚だ」

 

沖田は答えない。ただ、刀を構えたまま半歩前に出て、吠を背後に庇っている。その背中は細くて、頼りなくて、それでも微動だにしなかった。

 

「マスター、私が止めます。その隙に——」

 

「ふざけるな!」

 

吠は叫んだ。喉が裂けるかと思った。自分でも驚くほど大きな声だった。

 

「お前に何ができる! 斬っても斬っても湧いてくるんだぞ、あんなの相手に——」

 

「マスター」

 

沖田が、振り返った。雪の中で、その瞳だけが異様に静かだった。恐怖も、焦りも、諦めもない。ただ、事実を確認するような目で、吠を見つめている。

 

「私は、あなたのサーヴァントです」

 

その声は、不思議と耳の奥に残った。沖田はそれだけ言って、再び前を向く。刀を正眼に構え、バーサーカーとの距離を測っている。

 

「ちくしょう——」

 

吠は拳を握り締めた。令呪が疼く。右手の甲に刻まれた三画の呪い。これを使えば、沖田に命じられる。逃げろと。撤退しろと。絶対命令で、あの場から離脱させられる。だが、その瞬間、沖田はバーサーカーに背を向けることになる。最速の剣士でも、背中からあの鉈を受ければ——。

 

「逃げていいわよ」

 

声がした。

 

吠の背筋が凍った。沖田の肩が、わずかに跳ねる。バーサーカーの声ではない。あの飢えた女は、まだ何も喋っていない。これは別の——もっと、人間に近い声。だが、その響きには明確な異質さがあった。人懐こくて、優しくて、それでいて根本的に何かが違う声。

 

「その方が、味が締まるから」

 

声は続けた。楽しそうに、まるで料理の話でもするかのように。

 

「獲物は追い詰めてからが美味しいのよ。血が巡って、筋肉が締まって、恐怖で魔力が引き締まる。あなたたち、若いでしょう? きっと美味しいわ」

 

吠は周囲を見回した。声の主は見えない。だが、気配はある。バーサーカーの背後。あの飢えの化身を操っている何かが、どこかからこちらを見ている。

 

「さあ、逃げて。逃げて逃げて逃げまわって——それから、いただきます」

 

くすくすと笑う声。それが、吹雪に紛れて消えた。

 

「——あの、野郎」

 

吠は奥歯を噛み締めた。恐怖が、別の感情に変わり始める。これは殺し合いじゃない。狩りでもない。これは、食卓だ。あの声の主は、聖杯戦争を晩餐か何かと勘違いしている。

 

だが、それでも——それでも、足が動かない。

 

逃げたい。死にたくない。その二つが、吠の脳内で激しくぶつかり合っている。沖田を置いて逃げるのか。それとも、あの化け物を相手に戦うのか。どちらを選んでも、死の可能性は消えない。違うのは、一人で死ぬか、二人で死ぬかだけだ。

 

「沖田——」

 

「大丈夫です」

 

沖田はもう、振り返らなかった。ただ、刀を握る手に、ほんの少しだけ力がこもる。

 

「あなたは死なせません。私が、守りますか」

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