Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
湖畔の温室は外なる凍てつく世界とは異質な呼吸をしていた。
ガラスの壁一枚隔てた向こう側では北海道の夜が吹雪という形の白い暴力を振りまわしている。氷点下の闇が、凍てついた風の刃を以て霊地を削り取らんとしていた。だが温室の内部は湿った熱気に満ちている。肺の奥まで染み込むような湿度と、腐りゆく果実の甘熟した芳香。南国の植物たちが人工の太陽光の下でざわめき生命の樹を模した配置に従って呼吸を重ねている。
アロイシア・バウムガートナーはその熱帯の密林のただ中に立っていた。彼女の手には、依然として剪定鋏が握られている。作業着の袖口から覗く白い腕は熱気にわずかに汗ばみ、黄金の髪が頬に張り付いていたがその瞳の冷徹さは微塵も揺らいでいない。彼女は植物科の魔術師として、また一つの庭の管理者としてただ必要な枝を落とすための道理を咀嚼していた。
「洞窟の結界は破壊しましたがバーサーカー本体の霊基は消滅していません。逃げた獣は必ずこの土地を荒らしに戻ってくる」
彼女は手近な枝に鋏を入れ、パチンと乾いた音を響かせた。
「それに、私たちが大魔術を行使したことは他の陣営にも筒抜けです。次に攻め込まれるのは、こちらかもしれない。キャスター防衛用の魔術種の準備を。攻め込まれた際に即座に成長し、敵を飲み込めるような…棘のある、 thorny な品種をお願いします」
「承知しました」
温室の奥、生命の樹の「美」に相当する位置に、男が立っていた。キャスター・モーシェ・デ・レオン。茶色の短髪のカバリストは厚い本――光輝の書ゾーハル――を胸に抱き、穏やかな微笑みを浮かべている。
「即座に成長する防衛種ですね。こちらの果樹園の土壌なら名のある魔獣の残滓を混ぜることで二年の成長を数秒に圧縮できます。用意しましょう」
キャスターは静かに本を開いた。ページの上に、ヘブライ語の文字が光の粒子となって浮かび上がる。彼はその中から四枚の頁を迷いなく指で切り離した。紙が裂ける音が、温室の湿った空気に吸い込まれる。
「それと同時に威力偵察を行います」
アロイシアは背を向けたまま冷淡に告げた。
「各陣営の能力が不明なままでは、剪定の順序も立てられない。セイバー陣営はある程度見えましたが残る四騎のサーヴァントとマスターの力量、反応速度対魔術能力を測る必要があります。単なる監視ではありません。相手の皮を一枚、剥いでくるつもりで」
「ええ。ちょうどよい使い魔では、彼らの懐には入れません」
キャスターは四枚の頁を空中に放った。彼の指が宙を滑り、古の言語が紙片の上に焼き烙印される。すると紙片は形を歪めた。折り畳まれ、組み合わさり光の群れとなって羽根を形成する。
それは鳥の形をした魔導書だった。
「行きなさい」
キャスターの声に応え四羽の光鳥が一斉に羽ばたく。温室の換気口から雪の隙間へと滑り込み、凍てつく夜の空へと飛び出した。
一羽は北西へ。霧の潛む旧市街を目指す。アサシンの気配を探る影。
一羽は南方へ。雪原の静寂に潛む見えない死、アーチャーの位置を炙り出すため。
一羽は上空へ。旋回する鉄の翼、ライダーの航路へと重なる軌跡。
そして最後の一羽は山間部へ。蜻蛉切の刃先を触媒に召喚されたであろう槍兵の気配を追って。
「四枚で足りますか。あのセイバーには送らないのですね」キャスターが、光の鳥たちを見送りながら静かに問うた。
アロイシアは答えず、まずは一つの枝を落とす。風の音が温室のガラスを叩いた。それから彼女は、ゆっくりと鋏を引き戻した。
「セイバーは既に、私たちの蜂が間近で観察しました。マスターの特性もサーヴァントの速度も、必要最低限の情報は手元にある。未知数なのは他の四騎です」
「あの若者は、残りの敵を知ることで最も変質する危険な芽ですが」
「芽だからこそ、まだ剪定するには早いのです。今は他を計ります」
キャスターは、深くうなずいた。
「では、私はあなたの目となり続けましょう。この吹雪が私たちの庭を見えなくしている間に」
「ええ。霧が深いうちに、枝を梳くのです」
それらは単に覗き見るための使い魔ではない。相手の結界に触れ、あえて魔力の波紋を広げ探知能力を刺激し、反応を引き出すための「挑発」を内包している。敵がどれほど早く気づき、どれほどの精度で迎撃しどれほどの魔術耐性を持つか。そのすべてが、頁を通してキャスターの元へと送られてくるはずだ。
「暗闇に毒餌を撒くのですね」
キャスターは、静かに残りの本を閉じた。
「毒餌などと人聞きの悪い。それはただの、試供品です」
アロイシアは振り返り、わずかに口元を緩めた。庭師の面孔のまま彼女は次に刈り込むべき枝の太さを量る。
「さあ、キャスター。彼らがどの程度の害蟲か──愉しみではありませんか」
その言葉には温度があった。ただしそれは興味からくる熱ではなく、標本を分類する学者の冷たい好奇心だ。
キャスターは目を伏せ、胸の前で聖書を模した本を片手に小さく祈るような仕草を見せた。
「私は、神の樹の下でその害蟲がどう群がるかを見届けましょう」
四つの光は、吹雪の闇に溶け込みそれぞれの標的へ向かって直線を引いていく。
キャスターは神殿の玉座に腰を下ろし閉じた瞼の裏で四つの視界を接続する準備を整えた。北海道の夜はまだ始まったばかりだ。