Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
山間部の夜は、音を拒んでいた。
雪が降り積もった針葉樹の森はあらゆる物音を吸い込んでしまう。零が足を踏み出すたび、膝まで沈む雪が軋む音を立てるのだがそれすらも数メートルと届かずに消えていく。世界そのものが綿に包まれたような、息苦しい静寂であった。
零は岩陰に背を預け、吐く息を白く染めながら空を見上げていた。曇天の切れ間から、月の光が細く差し込んでいる。その光が雪面を照らす角度で、今が夜半を過ぎたことを知る。
「零殿」
不意に、隣から声がかかった。忠勝である。黒糸威の胴丸を纏った巨躯が、雪の闇の中に浮かんでいる。兜の鹿角の脇立が月明かりを受けて、かすかに鈍い光を放っていた。
「どうしたんですか、いきなり」
「静かに」
忠勝の声は、低く、しかしはっきりとしていた。零は背筋を伸ばした。忠勝がこの声を出すときは、決まって何かが起きている。
「何か……来てるんですか」
「左様。三町ほど先、杉の枝に」
零は目を凝らした。だが暗闇と雪の反射の向こうに、何も見えない。忠勝は動かなかった。蜻蛉切の柄を握る手も、雪の上に置いた足の位置も微動だにしない。
「動かぬ方がよい。あれは、こちらを探っておる」
「使い魔か」
「うむ。紙で出来ておる。魔術師の手のものよ」
零は唾を飲み込んだ。キャスター陣営の使い魔だ。山岳方面を偵察していた、あの紙片使い魔。事前に忠勝から聞いていた。四枚の使い魔が四方へ放たれ、そのうちの一つがこの山間部へ向かっていると。
「どうしますか。すぐに叩き落としますか」
「待て」
忠勝は短く制した。
「拙者が気づいたのは、あれが杉の枝に留まってから一刻ほど前のこと。すでにこちらの位置をある程度は把握しておろう。だが、未だに動かぬ。何故か分かるか」
「……こちらの出方を探ってる」
「それもある。だが、もう一つある。あれは我らが何者であるかを知らぬ。単なる魔術師の使い魔よ。拙者の正体も、零殿の素性もまだ見えておらぬ」
零は息を詰めた。忠勝の言わんとしていることが、遅れて胸に落ちてくる。使い魔はこちらを観察している。だが、向こうもまたこちらの情報を持っていない。だから、下手に壊すよりも泳がせた方が得るものがある。
「わざと……見せてるんですか」
「左様。拙者がここにおること、零殿が魔術師であること。それだけは見せておく。だが、蜻蛉切の間合いも零殿の魔術の質も、令呪の数も見せぬ。必要なだけ観察させ不要となった時点で落とす」
忠勝の声には感情の揺れがなかった。ただ、戦場での当たり前の判断としてそう告げている。零は、自分の手のひらが汗ばんでいることに気づいた。雪の冷気の中で、それだけが妙に生温かかった。
「……分かりました。じゃあ、俺は何をすれば」
「何もするな。普段通りにしておれ。ただし、令呪を光らせるな。魔力を纏わせるな。己の内側だけで、静かに息をしておれ」
零はうなずいた。そして、岩陰に背を預けたまま動かずにいることにした。忠勝は依然として、蜻蛉切を握ったまま雪の上に立っている。まるで、そこに最初から生えている古木のように動かない。
どれほどの時間が経っただろうか。雪が、零の肩に薄く積もり始めていた。
杉の枝に留まっていた紙片がゆっくりと動いた。羽ばたくような動きではない。まるで、風に流されるように滑るように、忠勝の背後へと回り込もうとしている。
その瞬間だった。
忠勝が振り向いた。いや、振り向く前にすでに動いていた。蜻蛉切の石突が、雪を削って円を描く。柄を握る手が返り穂先が、紙片の位置を正確に捉えていた。
「疾ッ」
声と同時に、槍が薙がれた。
風圧が、雪を巻き上げた。紙片は逃げる暇もなく、槍の穂先が生んだ衝撃波に触れて粉々に砕け散った。光の粒子が、雪の結晶と混ざり合って闇に散っていく。
忠勝は、振り向きもしていなかった。
零は、息を呑んだ。槍を振ったのは確かに忠勝の背中側である。しかし忠勝は、杉の枝の方へは向いていない。ただ蜻蛉切を振り抜いただけ。それだけで、紙片は消えた。
「……終わったか」
忠勝は静かに槍を収め、雪の上に柄を突き立てた。
「はい……終わりました」
「うむ。零殿、あれは最後の一枚よ。残りはすでに他の陣営が落としておる。この使い魔が消えれば、キャスター陣営はこの山間部の視界を完全に失う」
零は、ようやく肩の力を抜いた。だが胸の奥には、まだ小さな火が残っている。
「忠勝さん」
「何か」
「あんた、最初から気づいてたんですね。あの使い魔が来ることも、それが最後の一枚だってことも」
忠勝は、初めて零の方を向いた。兜の奥の瞳が月明かりを映して、静かに零を見下ろしている。
「拙者は、武人にござる。戦場では敵の気配を読むことこそが、第一の務め。あの使い魔が杉の枝に留まった時点で、その魔力の流れの質からあれが最後の一枚であることは察しておった」
「だったら、もっと早く落とすことも出来たんじゃ」
「出来た。だが、それでは零殿が何を見て何を学ぶかが分からぬ。主君を守るは拙者の役目。されど、主君が自ら戦場を読む目を養うこともまた拙者の務めにござる」
零は、言葉に詰まった。忠勝は決して零を子供扱いしない。だが、こうして時折戦場の厳しさを、問いではなく行動で教える。その距離感が零にはまだ慣れない。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。さて、これでキャスター陣営の目は潰えた。だが問題はこれからよ」
忠勝は、山の稜線の向こう雪の闇を見つめた。
「あの使い魔が消える前に、何かを見ておった。恐らく拙者の槍の間合いの一端を。そして、零殿が魔術師であるという事実を。それはキャスター陣営に伝わる」
「でも、全部を掴んだわけじゃない」
「左様。だが、掴まれた情報は確かにある。さればこそ我らも動かねばならぬ。同じ場所に留まるは、愚策よ」
零は、立ち上がった。雪が、コートの裾からはらはらと落ちる。手足の先は冷え切っているが、胸の奥には妙な熱があった。忠勝の言葉が、まだ耳に残っている。主君が自ら戦場を読む目を養うこと。それは、零自身がまだ自分を主君と呼ぶことに慣れていないという自覚と、静かに共鳴した。
「次は、どこへ」
「湖畔は避ける。あれだけの使い魔を放ち、防衛を固めておる。こちらから近づくは網に飛び込むに等しい。南へ下る。アーチャー陣営が潛伏しておる雪原へ」
「狙撃手のところか」
「左様。だが、あれは撃ってはこぬ。我らを撃つ必要がまだないからよ。ならば、こちらの存在を伝え情報を引き出す」
零は、忠勝の背中を追った。雪の森を深く、静かに歩いていく。忠勝の足跡は、零のそれよりもはるかに深く力強く、雪面に刻まれていた。
*
湖畔の温室庭園では、キャスターが静かに目を開けていた。
「……ランサー。彼は、こちらを最初から見ていました」
アロイシアは剪定鋏を止めた。その声は驚きではなく、確認するような響きだった。
「見ていた?」
「はい。使い魔が杉の枝に留まった瞬間から、彼は気づいていました。それでもすぐには壊さなかった。拙者を、見せておりました」
「見せた……?」
「はい。槍の間合いの一端を。そして、マスターが魔術師であるという事実を。彼は、こちらに情報を与えてから壊しました」
アロイシアは鋏を置いた。窓の外では、吹雪がますます強まっている。山間部の方角は、もう完全に白い闇に閉ざされている。
「わざと、見せたのね」
「左様。あの武人は、ただの守護者ではありません。戦場を読む目を持っている。こちらの偵察を、逆に利用した」
アロイシアは、しばらく黙っていた。温室の熱気が彼女の頬を薄く赤く染めている。しかし、その瞳は冷たく何かを計算している。
「ランサー陣営。脅威度、中……いいえ、高。あの武人はこちらの手の内を探るだけでなく、こちらの目を潰すことにも成功した。そして、こちらには何も見せなかった」
「我々が得た情報は、ランサーが武人であること。マスターが魔術師であること。それだけです。真名も、宝具も令呪の数も、何も」
「そう。あの使い魔は、見せられただけだった。……モーシェ」
「何でしょう」
「次は、蝶を送りましょう。紙片ではあの武人には通じない。命を宿したものでなければ、意味がない」
キャスターは、静かにうなずいた。ヘブライ語の文字が彼の手の中で、かすかに光を放っている。
「承知しました。ですが、アロイシア。彼はすでに南へ向かっている可能性があります」
「アーチャーのところへ?」
「はい。あの武人は、こちらの使い魔を壊す前に何かを判断した。おそらく、同じ場所に留まることを愚策と見たのでしょう」
アロイシアは窓に手を触れた。冷たいガラスが、彼女の指先を凍えさせる。
「なら、こちらも動かねばならない。この温室庭園は、いつまでも安息の地ではない。いずれ誰かが必ず、この湖に辿り着く」
吹雪が、窓を叩いていた。山間部の闇はもう見えない。だが、その向こうで確かに何かが動き始めている。零と忠勝は、雪の森を南へと進んでいた。