Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
朝の光が、ペンションの窓を白く染めていた。
零下八度。昨夜の吹雪が止んだ後の空気は、ガラス戸一枚隔てた外と中でまるで別世界のように温度を分断している。暖房の効いた室内は、乾燥した熱気がコーヒーの湯気と混ざって、薄い白い層を天井近くに漂わせていた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
ビルマ・レイフィールドは、朝の食堂で微笑んでいた。
ニキータという名の民宿の女主人。それがこのペンションに泊まる客が知る彼女の顔だ。人当たりの良い笑み。少し訛りの混じった日本語。季節外れの閑散期に、それでも三人の観光客を泊めている北海道の片隅の小さな宿。
ビルマの頬には、昨夜の寝不足の気配はない。いや、寝ていないのだが、顔色はむしろ充分な休息を取った者のそれだった。
「はい、これが宿泊者名簿です」
カウンターの上に、手書きの台帳が開かれている。三つの名前。昨日の夕方に到着した観光客たち。雪祭りの準備を見に来たという夫婦と、一人旅の青年。
ビルマは、台帳の三行を指先でなぞった。
夫婦は二階の奥の部屋。青年は一階の裏手にある離れ。それぞれの部屋割りは、空室の関係で自然に決まったように見える。だが、それは自然に決まったのではない。
ビルマが、決めたのだ。
「お朝食の準備が整いましたら、奥のダイニングへご案内しますね。今日のメニューは、自家製の果物ジャムと焼きたてのパンです」
女主人の声は、雪原を隔てた向こうの戦場とは無縁の温度を持っていた。観光客の夫婦は、暖かいコーヒーの香りに緩んだ顔でうなずく。一人旅の青年は、スマートフォンの画面から目を上げて、曖昧に微笑んだ。
ビルマは、三人の顔を順に見た。
夫婦の妻。頬が少し赤い。寒さのせいか、血行が良いのか。夫。やや太った体躯で、歩くと微かに膝が内側に流れる。青年。痩せている。手首が細い。よく眠れていない目をしている。
ビルマの瞳が、一瞬だけすっと細くなった。
(ああ、この人たちが死ぬ前にならどんな顔をするのかしら)
その思考は、表面には出なかった。微笑みの下で、ビルマの喉の奥だけが微かに動いた。
「それでは、ご案内いたしますね」
* * *
ダイニングは、ペンションの奥にあった。
廊下を通って、角を曲がる。途中で、暖房の音が変わった。廊下の壁が、少しだけ厚くなっている。ビルマが建て替えの際に追加した遮音材だ。壁の内側に、鉛板と魔力を帯びた蔓の層が挟み込まれている。
観光客の夫婦は、それに気づいていない。青年もだ。ただ廊下の温度が少しだけ下がったことを、無意識に肩を縮めることで感じ取っただけだ。
「こちらです」
ビルマが扉を開けた。
ダイニングは、窓のない長方形の部屋だった。
いや、窓はある。ただ、窓の外に広がるべき雪原が見えない。窓ガラスの向こう側に、蔦のような蔓がびっしりと張り巡らされている。朝の光が蔓の間を透けて、薄い緑色の部屋を照らしていた。
「あら、すみません。外の藤が蔓を伸ばしちゃってて。後で切りましょうか」
ビルマは、何でもないことのように言った。
観光客の夫婦は、その説明で納得した。北海道のペンションで、蔓が窓を覆う。ありえる話だ。特に冬の間に手入れを怠れば、植物は野生に戻る。
だが、その蔓は枯れていない。
零下八度の外気に晒されながら、蔦はなお緑色を保っていた。観光客の誰も、それには気づかなかった。
部屋の中央に、長いテーブルが置かれていた。白いテーブルクロス。三つのプレート。パンの載った籐のカゴ。ジャムの瓶が三つ。バターの載った小皿。そして、花が活けられた一輪挿し。赤い実をつけた小さな枝。
「お飲み物は、紅茶にしますか、コーヒーにしますか」
ビルマの声は、変わらず柔らかかった。
観光客たちが席についた。ビルマはその背後で、一瞬だけ右手の手首を返した。手の甲の令呪が、残り二画の内の一片をかすかに発光した。
いや、令呪ではない。
ビルマの手の甲に刻まれた令呪は、三日前に洞窟から撤退する際に一度使用されている。残り二画。その令呪の下に、別の紋様が脈動していた。魔術回路に連結された拘束術の刻印。ビルマがペンションの建て替えの際に、床と壁に仕込んだ術式の起動鍵だ。
パチン。
蔓が、動いた。
音はしなかった。ただ、壁の蔦が一斉に、微かに収縮した。観光客たちは気づいていない。ただ、青年だけが、テーブルの上のパンを取ろうとした手を一瞬止めた。
「……なんだか、少し空気が変わりましたね」
青年が、誰に言うでもなく呟いた。
ビルマは、微笑んだ。
「寒い朝ですから。暖房が少し入りきらないんですよ。お茶、温かいうちにどうぞ」
* * *
朝食が終わった頃には、観光客の夫婦は微かに眠そうな顔をしていた。
パンの酵母に、ジャムの果肉に、紅茶の葉に。ビルマが仕込んだ果実由来の魔力は、消化と共に体内へ浸透していく。即効性ではない。ゆっくりと、体の末端から、感覚を鈍らせていく。
夫婦の夫は、椅子に深く腰掛け直した。妻は、あくびを一つ噛み殺した。
「お部屋に戻られますか。それとも、もう少しゆっくりしていきましょうか」
ビルマの声は、毛布のように柔らかだった。
夫婦は、部屋に戻ることを選んだ。ビルマは廊下まで送った。角を曲がる直前に、夫の足が廊下の敷居に引っかかった。妻が、夫の肘を掴んだ。だがその手も、力が入りきらない。
(ああ、とろけていく。まだ生きているのに)
ビルマは、廊下の奥で立ち止まった。夫婦が二階へ上がる階段を、背中で聞いていた。足音が一段、二段、三段。途中で一度、夫の足が滑った。妻が支えた。四段、五段。やがて足音は薄くなり、消えた。
ビルマは、吐息を漏らした。
(いい。あの、もう一歩で足がもつれるところ。膝が笑い出す直前の、あの微かな震え。あれを見るのが好き)
感情は、声にならない。ただ喉の奥が甘く疼くだけだ。
「ビルマ」
廊下の闇から、声がした。
低い。落ち着いた。だが、その底に何かが常に渦巻いている声。ビルマは、その声に背を向けていた。
「ご飯はあと一人分よ。裏手の部屋の子。まだ、ダイニングにいる」
「……そやつは、まだ食べておるのか」
「ええ。よく噛む子だわ」
ビルマは、振り向かなかった。
廊下の薄暗がりに、バーサーカーの影が立っていた。正確には、その一部が立っていた。バーサーカーが展開する捕食端末。一族の血を分けた劣化端末が、壁の影に滲むように存在している。
バーサーカー自身の本体は、ペンションの地下にある。三日前に洞窟を失い、令呪一画で撤退した後、このペンションの地下へ潛んだ。右腕の欠損は、今なと灰汁色の瘢痕として残っている。脇腹の火傷は、新しい肉が薄く盛り上がりかけていたが、まだ完治には遠い。
「あの子は、どうする」
バーサーカーの声が問うた。
ビルマは、ようやく振り向いた。
「どうするかは、あなたが決めることよ。私は食事を出すだけ」
「……食事は、お前が選ぶ。誰を、どこで、いつ食べるかは、お前の庭の作りに従う」
「なら、今夜決めましょう。夜はあの子の感覚が鈍る。朝の果実は体を溶かすけど、夜は心を溶かす。だから」
ビルマは、廊下の先を眺めた。
「あの子の死ぬ前の顔を見たいの」
バーサーカーの端末は、答えなかった。ただ、影の中で何かが動いた。蔓が一本、床から伸びて端末の足元に巻きつき、再び消えた。
「……一つ、聞く」
「何」
「あの三人の、どれが一番、味が濃そうだ」
ビルマは、にっこりと笑った。
「まだ分からないわ。でも、あの若い子は、何かを我慢している目をしていた。我慢している子の味は、諦めた子より濁ってるけど、その分、噛み砕いた時に溢れるものが多いの」
ビルマの笑みは、暖房の効いた廊下の中で、ただの一瞬だけ室温を下げた。
* * *
ダイニングに戻ると、一人旅の青年がまだテーブルに残っていた。
パンは半分食べかけで、ジャムの瓶にはナイフが刺さったまま。紅茶の湯気は、もう消えている。青年は、窓の蔓を見ていた。
「……あの、女主人さん」
「はい。何でしょうか」
「この蔓、昨夜からずっとここにありましたっけ。昨夜は、窓の外に雪が見えたのに」
ビルマは、微笑んだ。
「あら。昨夜は暗かったから、見えにくかったのかもしれませんね。この時期、植物はけっこう元気なんですよ。北海道の冬は寒いけど、根は凍らないから」
青年は、自分の手を見た。
「……手が、少し痺れてて」
「あら。寒いから血行が悪くなっているのかもしれませんね。温かいお茶をもう一杯どうぞ」
ビルマは、テーブルの上から青年のカップを拾い上げた。その手が、一瞬だけ青年の手の甲に触れる。
青年の指が、ピクリと動いた。
(ああ、分かったのね。あなただけが一番早い)
ビルマの喉の奥が、また甘く疼いた。
青年は、椅子から立ち上がろうとした。だが、膝に力が入らなかった。手の痺れが、肘から肩へと這い上がっている。
「……何を、入れましたか」
「何も入れてませんよ。ジャムは手作りですけど」
ビルマは、青年の肩を押した。力は入れない。ただ手のひらを置いただけ。それだけで青年の体は、椅子の背に沈んだ。
「ゆっくり、おやすみください。明日には、何でもなくなります」
青年の目が、最後にビルマの顔を見た。その目に浮かんだのは、恐怖ではなかった。恐怖はまだ来ていない。今あるのは、理解と混乱の狭間で揺れる、微かな問いかけだけ。
(ああ、まだか。もっと早いかなと思ったけど、まだあの段階なのね。いい。いいわ。そこからが一番、楽しみなの)
ビルマは、青年の目が閉じるまで、その場に立っていた。
* * *
地下の、暗がりで。
バーサーカーの本体が、壁に背を預けていた。
右腕のない肩が、呼吸に合わせて微かに上下する。脇腹の火傷が、動くたびに低い熱を放っている。だがその顔に、痛みは浮かんでいない。ただ、暗闇の中で何かを聴くような表情だった。
「ビルマ」
地下の天井から、声が落ちてきた。
「何」
「あの三人。今夜、どうする」
「若い子から。あの子が一番、面白くなりそう」
「……残りの二人は」
「観客よ。あの子がどうなるかを見せてあげる。それで、あの夫婦の顔をもう一度見たいの」
バーサーカーの瞳が、暗闇の中でかすかに光った。
「……妾の一族を、どれほど出す」
「二人分。端末二体で十分。あの子は魔術師じゃない。ただの人間だもの」
「ただの人間か」
バーサーカーの声に、微かな響きがあった。それは飢えではなかった。ただの確認だった。理性を残したまま、その奥底で何かが蠢いていることを、自分自身に確かめるような声。
「二人分。承知した」
ビルマは、地下の階段を上りながら、右手の手首を返した。拘束術の刻印が、かすかに脈動する。ペンションの床と壁に仕込んだ蔓が、一斉に、ゆっくりと、根を伸ばしていく。
表の看板には、まだ「空室あり」の札がかかっていた。
冬の北海道。観光客を迎える小さなペンション。温かい朝食と、手作りのジャムと、柔らかな笑顔の女主人。
その足元で、蔓が這い、誰かの呼吸が薄くなりつつあることを、外の雪原は知らない。