Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
函館の朝は、雪の白と海の灰色が混ざり合った色をしていた。
白峰旅人は、郊外の林の中で機体を降りた瞬間、膝にきた。長時間の偵察飛行。上空一千メートル、気温は零下十度以下。アメリアが風除けの結界を張ってくれていたとはいえ、旅人の体力は限界に近かった。指先の感覚はとっくにない。耳の奥がキンと痛む。まぶたの裏で何かがチカチカと点滅している。
「白峰さん、大丈夫ですか」
アメリアが振り返った。霊体化せず、コックピットから降りたままの姿で立っている。飛行帽を被った彼女の頬も、さすがに赤くなっていた。魔力消費を抑えるためとはいえ、さすがに長く飛びすぎた。
「……大丈夫。ちょっと、膝が笑ってるだけ」
「笑ってるだけ、ねえ」
アメリアは肩をすくめた。この人のそういうところ、と口に出さないのが彼女の優しさだ。旅人もそれを知っているから、余計な強がりを重ねるのをやめた。
「機体はここに隠す。雪に埋めて、簡易結界で覆う。午後まで動かさない」
「了解。魔力の残量は?」
「四割を切った。これ以上飛び続けるのは得策じゃない」
「じゃあ、着陸は正解ってことだ」
旅人は手袋を外し凍えた指を息で温めた。白い息がもわっと広がって、すぐに消える。林の中は静かだった。雪が音を吸っている。遠くでカラスが鳴いたが、それもすぐに綿の中へ沈んでいった。
「飯、食おうぜ。温かいやつ」
アメリアは一瞬目を丸くした。それから、飛行帽を脱いで髪を振りほどいて、ふっと笑った。
「いいですね。温かいやつ」
* * *
函館の市街地は、平日の午前でも人で溢れていた。
雪祭りの準備なのか、通りには提灯の骨組みが並び始めている。観光客がスマートフォンを構えて写真を撮り、店先からは湯気が漏れていた。ラーメンの匂い。焼き魚の匂い。甘い、たぶんバターかチーズの匂い。
旅人は、なるべく人目の少ない路地を選んで歩いた。アメリアはその半歩後ろを、きょろきょろと周囲を見回しながらついてくる。
「すごい人ですね。こんなに寒いのに」
「函館は観光地だからな。冬でも人は来る」
「へえ。私が生きてた頃とは、ずいぶん違うんだろうなあ」
「あんた、飛行機乗りだったんだろ。街並みより空ばっかり見てたんじゃねえの」
「失礼ですね。ちゃんと地上も見てましたよ。……たまに、ですけど」
アメリアはそう言って笑った。旅人も、口元が少しだけ緩んだ。この人と話していると、妙に調子が狂う。聖杯戦争の最中だというのに、今がどういう状況なのか忘れそうになる。
ふと、路地の奥に小さな定食屋が見えた。暖簾が出ている。湯気が白く立ち上っている。旅人は足を止めた。
「あそこにするか」
「はい。……白峰さん、あれ、何て書いてあるんですか」
「『鮭のちゃんちゃん焼き定食』だって」
「ちゃんちゃん?」
「説明は後でする。とりあえず入ろう」
* * *
店内は、思ったより広かった。
カウンターが六席。奥に小上がりが二つ。壁には漁港の写真と、誰かの色紙が飾ってある。ストーブが赤々と燃えていて、入った瞬間に眼鏡が曇った。旅人は眼鏡をしていないが、それでも目の前が白くなるような熱気だった。
「いらっしゃいませー。お好きな席どうぞ」
店員は若い女性だった。手際よくおしぼりとお茶を運んでくる。旅人はカウンターの端に座った。アメリアは少し迷ってから、その隣に座った。
「何にする?」
「えーっと……白峰さんと同じものでいいです。ちゃんちゃん焼き、食べたことないので」
「じゃあ、二つ。あと、ご飯大盛りで」
「はいよー」
店員が厨房へ引っ込むと、店内にはストーブの音と他の客の話し声だけが残った。小上がりには家族連れが一組。カウンターの反対側には、作業服を着た男が二人。地元の人らしい。聖杯戦争のことなど、微塵も知らない顔をしている。
(そうだよな。みんな、普通に生きてるんだよな)
旅人は、お茶を一口含んだ。熱い。喉がじんわりと温まる。指先の感覚が、少しずつ戻ってくる気がした。
「白峰さん」
アメリアが、小さな声で言った。
「聖杯戦争の最中に、こんなことしていていいんですか」
旅人は、カップを置いた。
「あんた、そういうこと聞くんだ」
「聞きますよ。私はサーヴァントですから。マスターが道を誤らないか、確認する義務があります」
「義務ねえ」
旅人は、ストーブの炎を見た。赤い光が、目に染みる。
「飛行機だって、飛び続けるだけじゃ駄目なんだろ」
アメリアが、こちらを見た。
「着陸して、補給して、整備して。それでまた飛ぶ。ずっと飛びっぱなしじゃ、いつか落ちる。違うか」
「……違わないです」
「なら、同じだろ。俺たちも飛びっぱなしじゃいられない。飯食って、休んでまた飛ぶ。それだけのことだ」
アメリアは、少し黙った。それから小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのかその境目はよく分からない。
「白峰さんって、そういうこと言う人なんですね」
「悪いか」
「いいえ。……ちょっと、安心しました」
その理由は、聞かなかった。聞いたらなんとなく負けた気がしたからだ。
* * *
ちゃんちゃん焼きは、熱かった。
鉄板の上で、味噌がぐつぐつと沸いている。鮭の身が白く崩れ、野菜がしんなりと甘くなっている。キャベツ、玉ねぎにんじん。湯気が顔に当たって、まつげが少し濡れた。
「うわ、これ、すごい」
アメリアが、箸を止めて言った。
「うまいだろ」
「はい。味噌が、こんなに合うなんて」
「北海道の味噌は甘めなんだよ。あんたの時代には、あったか?」
「いえ、こんな味噌、食べたことないです。……なんか、得した気分」
アメリアは、そう言って笑った。サーヴァントとして召喚されて、聖杯戦争に巻き込まれて。それなのに、得したと言う。その言葉が、旅人には妙に嬉しかった。
「なあ、アメリア」
「何ですか」
「あんた、この戦争が終わったら何したい」
アメリアは、箸を動かしながら考えた。味噌が少し、口の端についている。旅人はそれを指摘しなかった。
「そうですね。……また、飛びたいです」
「飛ぶ?」
「はい。聖杯とか、そういうのじゃなくて。ただ空を見たい。この時代の空を、もっと」
旅人は、ご飯を一口食べた。米が甘い。噛むたびに、じんわりと腹に落ちていく。
「そっか」
「白峰さんは?」
「俺は……とりあえず、生きて帰りたいな」
「それは、私もです」
アメリアは、箸を置いて、まっすぐに旅人を見た。その目は、笑っていなかった。ただ静かに、強く、何かを確かめるように。
「白峰さん。私は、あなたを乗せて飛ぶ。でも着陸する場所も、一緒に決めたい。それが私のわがままです」
旅人は、少しだけ目を細めた。
「わがままか、それ」
「はい。マスターの命令に従うだけじゃ、つまらないので」
「……そうかよ」
旅人は、味噌をすくって鮭の身に塗った。ぐつぐつと、鉄板が鳴っている。
「じゃあ、着陸地点は、お前が探せ。俺が決めるから」
「はい。任せてください」
アメリアは、また笑った。今度はさっきよりずっと柔らかい笑顔だった。
* * *
食後、二人は少しだけ市街地を歩いた。
旅人は時計を見た。午後一時を回ったところだ。偵察は三時から。それまでに機体の最終確認を済ませなければならない。
「午後は、北東の山間部を見る。さっきの偵察で、あの辺りの魔力の流れが妙に乱れてた」
旅人が言うと、アメリアはうなずいた。
「私も気になっていました。自然の霊脈にしては、脈動が不規則です。誰かが手を加えている可能性があります」
「ランサー陣営か?」
「分かりません。でも、あの方向には何かがある。少なくとも、調べる価値はあります」
「魔力の残量は」
「四割。往復で一割。偵察に一割。帰還に一割。予備が一割。ぎりぎりです」
「じゃあ、着陸地点は?」
「函館の西、海岸沿いに小さな入り江があります。あそこなら人目につかない。緊急着陸も可能です」
「よし。じゃあ、その線で行こう」
旅人は、立ち止まった。店先に木彫りの熊が並んでいる。観光土産だ。値札がついている。三千円。高くはないが、安くもない。
「買うんですか」
「買わねえよ。荷物になる」
「でも、見てるじゃないですか」
「見てるだけだ。……あんたは、何か欲しいもんあるか」
アメリアは、少し考えた。
「そうですね。……地図が欲しいです」
「地図?」
「はい。この時代の北海道の地図。紙のやつ。飛行中に見るのには、やっぱり紙が一番なので」
旅人は、少し笑った。
「あんた、ほんとに飛行機乗りなんだな」
「今更ですか」
アメリアは、少しむくれた顔をした。その顔が、旅人には妙に面白かった。
* * *
午後二時半。
旅人とアメリアは、市街地を離れた。郊外の林へ続く道を、雪を踏みしめながら歩いていく。旅人は、自分の身体が軽くなっていることに気づいた。指先の感覚は完全に戻っている。耳の奥の痛みも消えた。腹が満ちている。それだけで、こんなにも違うのか。
「白峰さん、足元、滑りますよ」
アメリアが前を歩きながら言った。
「分かってる」
「ほんとに分かってますか。さっき、一回転びかけてましたよ」
「……見てたのか」
「見てました。ちゃんと、見てますから」
その言葉が、妙に胸に残った。旅人は雪を踏む足に意識を向けた。ぎゅ、ぎゅ、と雪が鳴る。林が近づいてくる。機体を隠した場所だ。
「アメリア」
「何ですか」
「午後の偵察、終わったら、また飯食おうぜ」
アメリアは、振り返った。少し驚いた顔をして、それからくすっと笑った。
「はい。今度は、何を食べましょうか」
「考えておく」
「楽しみにしてます」
林の中に入ると光が急に薄くなった。雪の重みでしなった枝が、頭の上で軋んでいる。機体はまだそこにあった。雪に半分埋もれて、簡易結界の膜がかすかに揺れている。
旅人は、手袋を嵌め直した。指先に力が入る。
「さて、と」
「はい。準備、始めましょう」
アメリアは、飛行帽を被り直した。その横顔は、もう飛行士のものだった。旅人は、自分の手のひらを見た。令呪は、まだ三画。使っていない。使わずに済むなら、それに越したことはない。
「午後の偵察、終わったら、すぐに戻る。無理はしない」
「はい。約束ですよ」
「ああ。約束だ」
旅人は、機体の結界を解き始めた。雪が、はらはらと落ちてくる。冷たい風が、頬を切る。それでもさっきよりは寒くなかった。腹の中に、まだちゃんちゃん焼きの熱が残っている。
離陸の準備を始めたところで、旅人は一度だけ空を見上げた。
曇っている。だがところどころに青が見える。午後の偵察は、視界に恵まれそうだ。
「行くぞ、アメリア」
「はい、白峰さん」
機体のエンジンが、低く唸り始めた。