Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
街灯の下で、雪と黒い血が舞った。
沖田が踏み込んだのは、バーサーカーが三歩目を踏み出した瞬間だった。間合いはまだ遠い。通常の剣士なら、あと二歩は詰めなければ刀は届かない。だが、沖田にとって、その距離はすでに射程内だった。
踏み込み。
雪が爆ぜた。彼女の足が路面を蹴った瞬間、身体が消えたように見えたのは、吠の目がその速度に追いつかなかったからだ。沖田の身体は低く、水平に、まるで矢のようにバーサーカーの懐へ滑り込む。刀はまだ鞘に収まったまま。抜刀は、斬撃の瞬間まで遅延される。
――速い。
吠は息を呑んだ。これが沖田総司。幕末の京で幾多の人斬りを葬った一番隊組長。その剣の本質は、切れ味でもなければ技術でもない。ただ純粋に、最初の一歩の速さだった。相手が認識するより早く間合いを潰し、相手が反応するより早く刀を抜き、相手が痛みを感じるより早く斬撃を終える。
バーサーカーの鉈が、反射的に振り下ろされた。速い。沖田ほどではないが、狂化による強化が反応速度を底上げしている。刃は沖田の頭頂部を狙い、雪を切り裂きながら落ちてくる。
だが、沖田はすでにそこにはいなかった。
彼女はバーサーカーの右脇をすり抜けざま、刀を抜いていた。鞘走りの音すら置き去りにする速度。抜刀と同時に、刀はバーサーカーの右脇腹を水平に斬り裂く。キルトが裂け、その下の皮膚が開き、黒い血が噴き出した。
「――ッ!」
バーサーカーが唸った。痛みではない。自分が斬られたことに気づいた驚きの声だ。彼女は振り返りざま、左手の手斧を横薙ぎに払う。沖田はすでに後方へ跳んでいた。手斧の刃が、彼女の前髪を数本切り裂いて空を薙ぐ。
(手応えはあった。だが――)
沖田は着地と同時に再び刀を構えた。眉をひそめる。斬った。確かに斬った。だが、バーサーカーの動きに衰えはない。脇腹の傷は深いはずだ。普通の英霊なら、霊核に近い部位を斬られれば無視できない損傷を受ける。しかし、この女は――傷を認識することすら遅延している。それほどまでに、飢えが痛覚を塗り潰しているのか。
「沖田、右だ!」
吠の声が飛んだ。沖田は確認するより早く、右へ跳ぶ。次の瞬間、彼女が立っていた場所を鉈が垂直に叩き割った。路面のアスファルトが砕け、凍った地面が低く唸る。破片が散り、雪が舞い、黒い血がその上に降りかかる。
バーサーカーは、傷を負ってなお速度を落とさない。むしろ、血を流すたびに飢えが強まっているように見えた。彼女の前髪の下で、瞳孔が異様に開いている。獲物を逃がすまいと、その目は沖田だけを追っていた。違う。沖田だけではない。時折、その視線は吠の方を向く。マスター。若い。柔らかそうだ。あの肉も、きっと――。
「マスター、動かないでください!」
沖田は吠とバーサーカーの間に割って入った。刀を正眼に構え、バーサーカーの視線を遮断する。だが、バーサーカーは意に介さない。彼女は鉈と手斧を両手に広げ、まるで抱きしめるようにして突進してきた。沖田を殺すのではない。沖田ごと、その背後にいる吠を捕まえるつもりだ。
(まずい)
沖田は咄嗟に判断した。回避は可能だ。だが、自分が避ければ、その背後にいる吠が鉈の直撃を受ける。受け止めるか。いや、力勝負では分が悪い。狂化したバーサーカーの筋力は、セイバークラスである沖田のそれを上回る。ならば――。
沖田は、前に出た。
自殺行為に見えた。だが、これは最も合理的な選択だった。バーサーカーの両腕が内側へ絞られる前に、その懐へ飛び込む。鉈と手斧の内側、つまり最も危険な場所へ、最も安全なタイミングで侵入する。沖田の身体が、バーサーカーの胸元に吸い込まれるようにして消えた。
刀が、バーサーカーの左肩を斬り裂く。
さらに、返す刀で右の二の腕を斬る。
二撃。どちらも深い。黒い血が噴き出し、雪を黒く染める。だが、バーサーカーは笑った。口が裂けるように開き、その奥から飢えた息が漏れる。
「――にく――」
手斧が、沖田の後頭部を狙って振り下ろされた。沖田は身を捻って回避する。髪の毛が数本、手斧の刃に触れて散った。彼女はバーサーカーの脇をすり抜け、再び距離を取る。息が弾んでいる。消耗しているのは沖田の方だった。何度斬っても、バーサーカーは怯まない。それどころか、斬られるたびに動きが鋭くなっているようにさえ見える。
(倒されることを、恐れていない)
吠は、その事実に戦慄した。沖田の斬撃は確実に当たっている。戦闘の流れだけを見れば、沖田が圧倒しているようにも見える。だが、これは優勢ではない。沖田がどれほど斬っても、バーサーカーは傷を意に介さない。むしろ、血を流すことが彼女の飢えを刺激し、攻撃性を増幅させている。これは消耗戦ですらない。沖田が一方的に魔力を削られ、バーサーカーは一方的に興奮している。
「沖田、こいつ――」
「ええ、わかっています」
沖田は刀を握り直した。その手に、わずかな震えがある。疲労ではない。これは、別の種類の緊張だ。
「倒すのが目的じゃない。これは、時間を稼いでいるだけです」
その言葉の意味を、吠はすぐに理解した。バーサーカーの背後。雪原の方角から、何かが近づいてくる。飢えの影――捕食端末たちだ。本体が沖田を引きつけている間に、端末が回り込んで吠を襲うつもりなのだ。
バーサーカーが、低く唸った。それは言葉ではない。命令だ。彼女の飢えが、端末たちに狩りの指示を出している。雪原に潛んでいた影たちが、一斉に動き始めた。町の路地を抜け、廃屋の陰をすり抜け、吠の背後へと回り込もうとしている。
「マスター、私の背後から離れな――」
沖田が言い終わる前に、バーサーカーが動いた。手斧を投擲したのだ。手斧は回転しながら沖田の顔面を狙って飛ぶ。沖田は刀でそれを弾いた。金属音が交差点に響き、手斧は雪の中に突き刺さる。だが、その一瞬の隙に、バーサーカーは距離を詰めていた。鉈を両手で握り、垂直に振り下ろす。
沖田は横へ跳んだ。鉈が路面を砕き、アスファルトの破片が散る。着地と同時に、沖田は反撃に移ろうとした。
――だが。
バーサーカーの動きが、止まった。
突然のことだった。鉈を振り下ろした姿勢のまま、彼女は動かない。前髪の下で、飢えた瞳が何かを見つめている。遠くの何かを。虚空の一点を。
「――まだ、狩りの時間じゃないの?」
声がした。吹雪の中から聞こえてくる、女の声。人懐こく、優しく、それでいて根本的に何かが違う声。ビルマの声だ。使い魔か、遠隔の魔術回線か。その声はバーサーカーだけに届いているのか、それとも吠たちにも聞こえるように発せられているのか。
「戻っていらっしゃい。あの子たち、まだ柔らかすぎるわ。もっと追い詰めて、もっと恐怖で締めてからじゃないと――味がしないもの」
バーサーカーの喉が鳴った。不服そうな、空腹を訴えるような唸り声。だが、彼女は命令に逆らわない。鉈を下ろし、ゆっくりと後退する。その目はまだ、沖田を――そして吠を――捉えたままだ。
「次に会う時は、もっと美味しくなっていてね」
ビルマの声が笑った。それが、吹雪に紛れて消える。
バーサーカーは、跳んだ。後方へ、雪原の方角へ、獣のような跳躍で離脱する。同時に、雪の中から何十もの飢えの影が湧き上がった。端末たちだ。彼らは沖田と吠の間に割って入り、壁を作る。追撃を許さないための捨て駒だ。
沖田は刀を構えたまま、追わなかった。正しい判断だと、吠は思う。今追っても、端末に足を止められている間に本体は逃げ切る。それに、沖田の魔力も無限ではない。
「――行ったのか」
吠は、ようやく息を吐いた。膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになるのを堪える。指先がまだ震えていた。歯の根も、膝も、声も。全部が震えている。
「ええ。今回は、見逃してくれたようです」
沖田は刀を鞘に収めた。その顔に、安堵はない。ただ、状況を冷静に分析する目だけがあった。
「次の遭遇までに、対策を考えなければなりません。あのバーサーカー――おそらく、伝承にある人肉食の英霊です。傷を負っても怯まず、むしろ血を流すほどに興奮する。私の剣とは、相性が最悪です」
「最悪、って」
「私は相手を斬り殺すことで戦闘を終わらせる。ですが、あれは斬られることを前提に戦っている。倒すには、おそらく――完全に消し飛ばすか、マスターを先に仕留めるしかない」
沖田の声は淡々としていた。それが逆に、状況の深刻さを吠に突きつける。今の戦闘で、沖田は何度も斬撃を当てた。だが、バーサーカーは一歩も退かなかった。むしろ、次に会う時はもっと強くなっているかもしれない。
「――ビルマ、って言ったか」
吠は雪の上に座り込んだ。冷たい。尻が凍りそうだ。だが、立ち上がる気力がまだ戻らない。
「あの声の女。バーサーカーのマスターか」
「ええ。おそらく。そして――」
沖田は言葉を切り、吠の顔を見た。その瞳に、初めてかすかな曇りが浮かぶ。
「――おそらく、あの女は聖杯戦争をゲームか晩餐か何かと勘違いしています。私たちを殺すのではなく、味わうつもりでいる。その余裕が、今は救いですが――いずれ、致命的な隙を突かれる」
吹雪が、まだやまない。交差点には、バーサーカーの黒い血と、砕けたアスファルトと、沖田の刀で斬り裂かれた雪だけが残っていた。端末たちも、いつの間にか消えている。主人に従って撤退したのだろう。
「――生き延びた、のか」
吠は、自分の手を見た。まだ震えている。でも、動く。死んでいない。沖田も、立っている。
「ええ。今回は」
沖田は、吠に手を差し伸べた。細い手だ。こんな手で、あの化け物と渡り合っていたのか。
「でも、次はわかりません。だから――」
沖田は、少しだけ口ごもった。それから、初めて見せる微かな苦笑を浮かべる。
「――作戦を立てましょう。私だけでは、あれは倒せない。あなたの目が、必要です」
吠は、その手を握った。冷たい手だった。でも、確かにそこにあった。
これが、最初の戦闘だった。