Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
雪が、町を埋めていた。
商店街のアーケードを吹き抜ける風が、割れたガラス戸を鳴らす。シャッターの下げられた薬局。閉店したままの書店。年の瀬の賑わいなど、とうの昔に失われた地方都市の夜だ。街灯だけが規則正しく並び、誰もいない歩道を橙色に照らしている。
その明かりの下を、黒い影が横切った。
最初は一匹だった。次に二匹。四匹。八匹。雪原から流れ込んだ飢えの影――捕食端末――が、無人の商店街を這いずり、路地に分け入り、住宅地の方角へと散っていく。彼らは四つん這いで走り、時折立ち止まっては空気を嗅いだ。嗅いでいるのは魔力ではない。生命だ。体温だ。雪の向こうに隠れている、人間の匂い。
駅前の交差点から二百メートル。古いアパートの一階で、まだ起きていた住人がいた。カーテンの隙間から漏れるテレビの光。深夜のニュース番組が、北海道の記録的豪雪を報じている。住人はソファに座り、缶ビールを片手に画面を眺めていた。窓の外で何かが動いたことに、気づかない。
ガラスが割れた。
悲鳴が、アパートの廊下に反響した。隣の部屋の住人が飛び起き、慌てて玄関を開ける。そこに立っていたのは、人間ではなかった。痩せ細った四肢。異様に長い腕。顔には目鼻もなく、ただ口だけが大きく裂けている。それは四つん這いで廊下を走り、逃げようとした住人の足首を掴んだ。
引きずる音が、雪の上を滑っていく。
端末は獲物を食い殺さなかった。腕を掴み、衣服を掴み、あるいは髪を掴んで、雪の上を引きずっていく。抵抗する者には、必要最低限の力だけを加えて動けなくする。骨を折るが、殺さない。血を流させるが、失血死はさせない。まるで、食材の鮮度を保つかのように。
アパートの外では、別の端末が別の住人を引きずり出していた。老人だ。寝間着姿のまま、雪の上を滑っていく。口から悲鳴が漏れているが、吹雪にかき消されて誰にも届かない。端末は老人の襟首を咥え、犬が子犬を運ぶような仕草で雪原へ向かう。
商店街のアーケードでは、コンビニの深夜バイトが逃げ遅れていた。バックヤードに隠れ、震えながらスマートフォンを握っている。警察に電話するのか。いや、何を言えばいい。化け物がいる、と? 通報ボタンを押すより早く、シャッターが外から引き剥がされた。金属の悲鳴。吹き込む雪。若い店員の足首を、黒い手が掴んだ。
「たすけ――」
声は途中で途切れた。端末が店員を引きずり出し、雪の上を滑らせる。レジ袋が破れ、おにぎりとペットボトルが路面に散らばった。それを踏み潰しながら、端末は雪原へと戻っていく。
街灯の下を、いくつもの黒い影が横切る。それぞれが人間を一人ずつ引きずり、あるいは担ぎ、雪の中を進んでいく。まるで蟻の行列だ。狩りを終えた蟻が、獲物を巣へと運ぶように。彼らは殺さない。喰わない。ただ、運ぶ。
廃工場の二階。割れた窓枠に腰掛けたビルマ・レイフィールドは、吹雪の向こうを見つめていた。手には使い魔から送られてくる情報を映し出す小さな鏡。彼女はそれを見ながら、指を折っている。
「三人、四人、五人――あら、お年寄りもいるのね。お肉、硬くないかしら」
くすくすと笑う声。人懐こく、穏やかで、それでいて根本的に何かが欠落した笑い方。ビルマは獲物の数を数えている。その顔には、食材の仕入れを確認する主婦のような満足があった。
「若い子が少ないのは残念だけど――まあ、いいわ。セイバーのマスターとサーヴァントがいれば、メインは充分だから」
彼女は鏡を閉じ、窓の外を見る。吹雪の向こうに、端末たちの行列が見える。それぞれが人間を運び、雪原の彼方――洞窟の方角――へと向かっている。ビルマはそれを見送りながら、小さくため息をついた。
「バーサーカーには、ちょっと刺激が強すぎたかしら。次は、もう少し落ち着いて狩らせないと。食材が逃げちゃうものね」
彼女は立ち上がり、廃工場の階段を降りていく。その後ろ姿を、雪が追いかけるように吹き込んでいた。
*
住宅地から外れた雪原で、一匹の端末が獲物を引きずっていた。若い女だ。コンビニの店員だった者。意識はまだある。泣きながら、雪の上を滑りながら、必死に端末の腕から逃れようともがいている。爪が剥がれ、血が雪に染みる。だが、端末は止まらない。無言で、無表情で、ただ獲物を運び続ける。
その背中に、小さな影が張りついた。
蜂だ。ただし、普通の蜂ではない。冬の北海道に存在するはずのない、異様に大きな黒蜂。それは端末の背中に止まり、羽を休めている。気づかれない。端末は獲物を運ぶことに集中しており、背中の小さな侵入者に注意を払う余裕はない。
蜂は、端末の魔力をなぞっていた。どこから来て、どこへ向かうのか。その足跡に刻まれた魔力の痕跡を、遠く離れた場所へと送信している。
湖のほとり。雪に覆われた温室の中で、アロイシア・バウムガートナーは目を閉じていた。手には剪定鋏。足元には切り落とされた枝。その意識は、雪原を這う蜂の視界と重なっている。
「洞窟、か」
彼女は呟いた。蜂が追跡している端末の進行方向には、山間部に穿たれた洞窟がある。かつて鉱山か何かだった場所だ。今は閉鎖され、地図にも載っていない。だが、そこに魔力の流れが集まっている。
「バーサーカー陣営の拠点。それで――あの捕食行動は、ただの暴走ではない」
アロイシアは目を開け、剪定鋏を置いた。蜂型使い魔が送ってくる情報は、まだ断片的だ。洞窟の内部までは見えない。だが、あの端末たちが人間を運んでいる理由は推測できる。バーサーカーの宝具か、あるいはマスターの魔術か。いずれにせよ、捕食は聖杯戦争の枠を超えて拡大している。
「キャスター」
温室の隅で、厚い本を読んでいたキャスターが顔を上げた。モーシェ・デ・レオン。ゾーハルの光をまとうカバリスト。彼は静かに頁を閉じ、アロイシアを見る。
「バーサーカー陣営は、一般人の捕獲を始めています。このままでは、土地そのものが穢れる」
「それは――聖杯戦争の隠蔽原則にも触れるのでは?」
「ええ。時計塔から派遣された監督役も、おそらく動くでしょう。ですが、それよりも問題なのは――」
アロイシアは温室の窓から外を見た。吹雪が、湖の向こうの山を隠している。
「――バーサーカー陣営は、聖杯戦争を勝ち抜くつもりがないのかもしれない。あれは、ただ喰うためにここにいる。そして、喰えば喰うほど強くなる。放置すれば、手がつけられなくなる」
「では、どう動きますか」
キャスターの声は、あくまで穏やかだった。彼はアロイシアの剪定思想を理解している。理解しているが、賛同はしていない。その微妙な距離を保ったまま、彼は主の判断を待っている。
「まずは、様子見を続けます。蜂はそのまま洞窟へ。内部の構造と、捕獲された人間の状態を探る。それから――」
アロイシアは、再び剪定鋏を手に取った。
「――セイバー陣営がどう動くか。バーサーカーと接触した以上、あの若いマスターも他人事ではないはず。次の動きを観測しましょう」
彼女は枝を一本、パチンと切り落とした。温室の中に、甘い果実の香りが漂う。生命の樹を模した果樹は、まだ剪定の途中だった。不要な枝を落とし、必要な枝だけを残す。それはアロイシアの魔術の本質であり、彼女の聖杯戦争における役割でもあった。
「それにしても」
キャスターが、ぽつりと言った。
「運ばれている人々は、まだ生きているのですね」
「ええ。それが、最も悪質な点です」
アロイシアの声は冷たかった。怒りではない。ただ、庭師としての評価だ。
「殺してから運べば、死体はただの物です。でも、生きたまま運んでいる。あれは、鮮度を保つためだ。捕食の瞬間まで、魔力と生命力を損なわないために」
彼女は鋏を置き、温室の扉を開けた。吹雪が、室内に雪の粒を運んでくる。
「バーサーカー陣営は、聖杯戦争を狩場ではなく食卓と見なしている。敵対陣営だけではなく、この土地に住むすべての人間を食材として扱っている。これは――」
アロイシアは、吹雪の向こうを見つめた。その瞳に、かすかな光が宿る。
「――剪定が必要な枝だわ」
温室の外で、黒蜂が羽ばたいていた。一匹、また一匹と、使い魔たちが雪原へ散っていく。洞窟へ。町へ。そして、セイバー陣営の方角へ。
聖杯戦争の夜は、まだ明けない。