Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
洞窟の入口は、雪に埋もれていた。
かつて鉱山の坑道として使われていたらしいその穴は、山肌にぽっかりと口を開け、中から生温かい風を吐き出している。周囲の雪だけが溶けて地面が露出し、黒ずんだ土には無数の足跡が刻まれていた。人間の足跡もある。裸足の足跡もある。そして、引きずられた跡が何筋も、洞窟の奥へと続いている。
ビルマ・レイフィールドは、坑道を歩いていた。足元にはランタン。鉱山用の古い照明が、壁に沿って等間隔に並んでいる。彼女はマフラーを外し、コートの前を開けながら進む。洞窟の奥へ行くほど、気温が上がっていくのだ。外は吹雪だというのに、ここは生温かい。いや、温度だけではない。空気そのものが違う。湿っていて、甘ったるくて、それでいて鉄臭い。
「ただいま」
ビルマの声が、坑道に反響した。返事はない。代わりに、壁に刻まれた魔術式がぼんやりと光る。古い血で描かれたそれは、捕食端末を生み出すための術式だ。生贄の生命力を変換し、バーサーカーの飢えを形にして外界へ放つ。ビルマは壁に手を触れ、術式の輝きを確認した。魔力はまだ充分に満ちている。今晩の狩りで消費した分も、すぐに補充できるだろう。
坑道の脇には、積まれた荷物があった。最初はただの鉱山資材かと思われたが、近づくと違う。衣類だ。コート、マフラー、手袋、靴。雪に濡れたそれらは、脱がされたのか、引き剥がされたのか、無造作に山と積まれている。その奥には、もっと小さな山がある。携帯電話、財布、鍵束。持ち主の名前が書かれた診察券や、家族写真の入ったパスケースも混じっていた。
ビルマはそれらを一瞥しただけで、足を止めなかった。彼女の興味は、物ではなく中身にある。食材の包装など、どうでもいいのだ。
坑道が広がり、大きな空洞に出る。かつては採掘場だったのだろう。天井は高く、鍾乳石が垂れ下がっている。その先端に、赤黒い魔力が流れているのが見えた。鍾乳石が血管のように脈打ち、滴る水が血の色に染まっている。いや、あれは水ではない。魔力が凝固した液体だ。それが地面に落ち、黒い水溜まりを作っている。
水溜まりは、動いていた。
表面が盛り上がり、形を取る。最初は泥の人形のようだったが、次第に手足が伸び、口が裂け、捕食端末の形になる。一匹ではない。水溜まりから次々と這い出し、坑道の闇に溶けていく。ビルマはその様子を、満足げに見つめていた。
「いい子たちね。今夜もたくさん働いて」
空洞のさらに奥。坑道が枝分かれする場所に、檻があった。いや、檻というよりは囲いだ。鉱山の資材置き場だった場所を、簡易な鉄柵で仕切っている。その中に、人がいた。
何人いるか、すぐにはわからない。十数人か、あるいはもっと多いか。彼らは身を寄せ合い、寒さと恐怖に震えている。老人もいる。若い女もいる。学生服を着た少年もいた。コンビニのバイト服を着た女は、爪が剥がれ、血まみれの手を胸に抱いている。彼らは声を出さない。出すことができない。すでに叫び疲れたのか、それとも声を出せば何かが来ると学習したのか。
壁には、爪痕があった。
それは規則的に、何筋も何筋も刻まれている。指が剥がれ、骨が露出してもなお、壁を引っ掻き続けた跡だ。その痕跡は檻の奥へと続き、途中で途切れている。途切れた場所には、黒く変色した染みだけが残っていた。
呻き声が、聞こえた。
檻の中の誰かが、うめいている。名前を呼んでいる。家族の名前か、あるいは神の名前か。その声はすぐに途切れ、洞窟の静寂に飲み込まれた。代わりに、別の音が聞こえる。水滴の音だ。鍾乳石から滴る魔力の液体が、水溜まりに落ちる音。それが規則的に反響し、洞窟全体が心臓のように脈打っている。
ビルマは檻の前で立ち止まり、中を覗き込んだ。その顔に、残酷な喜びはない。ただ、食材の状態を確認する料理人のような目がある。
「もう少しね。あと数日、ここで寝かせておけば――魔力がもっと凝縮されるわ」
彼女は檻から離れ、空洞の中央へ戻った。そこには簡易なテーブルと椅子が置かれ、魔術の道具が並んでいる。彼女は椅子に座り、懐から小さな鏡を取り出した。使い魔からの報告を確認するためのものだ。鏡の表面に、町の様子が映る。端末たちの狩りは順調だ。セイバー陣営はまだ逃げている。他の陣営の動きは――。
ビルマの手が、止まった。
鏡の端に、映り込んでいるものがある。蝶だ。黒い、異様に大きな蝶。それは鍾乳石の陰に止まり、羽を休めている。冬の洞窟に蝶がいるはずがない。それが意味することは、一つだけだ。
「――使い魔」
ビルマは鏡を置き、立ち上がった。慌ててはいない。むしろ、その顔にはかすかな笑みが浮かんでいる。
「あら、お客様かしら。こんな汚い工房に、物好きな方もいるのね」
彼女は蝶に近づいた。捕まえようとはしない。ただ、その姿をはっきりと見える位置に立つ。蝶の向こう側に、誰かがいる。この洞窟を覗き込んでいる何者かが。それを承知の上で、ビルマは両手を広げた。
「ようこそ、私の工房へ。狹いでしょう? でも、なかなか機能的でしょう。見ての通り、食材は新鮮なものしか使っていないの。安心してほしいわ」
彼女はくるりと回り、洞窟の中を見せつけるように腕を振った。檻の中の捕虜たち。魔力の水溜まり。鍾乳石を伝う血のような液体。壁に刻まれた魔術式。すべてを見せつけながら、ビルマは笑う。
「あなたはどこの陣営かしら。キャスター? それともアサシン? まあ、どちらでもいいわ。せっかく来たんだから、ゆっくり見ていって――」
その瞬間、ビルマの背後で空気が裂けた。
手斧が、蝶を真っ二つにした。
バーサーカーだ。いつの間に現れたのか、彼女はビルマの背後に立ち、右手を投擲後の姿勢で静止している。手斧は蝶を正確に捉え、そのまま壁に突き刺さった。蝶は一瞬で霧散し、魔力の粒子が散る。使い魔は破壊された。
「あら、せっかちね」
ビルマは振り返り、バーサーカーを見上げた。バーサーカーは無言で、壁に刺さった手斧を引き抜く。その動きに、怒りはない。ただ、虫を払っただけだという無関心さがある。
「でも、まあいいわ。どうせあの蝶じゃ、洞窟の奥までは見られなかったでしょうし」
ビルマは再び椅子に座り、足を組んだ。その顔には、まだ余裕がある。監視されていると気づいても、慌てるどころか、むしろ楽しんでいるようにさえ見える。
「見せつけてやったわ。これが私たちの工房。これが私たちの聖杯戦争。隠れるつもりも、取り繕うつもりもない。さあ――どう出る?」
彼女の問いに答える者は、洞窟の中にはいなかった。
*
湖畔の温室で、アロイシアは目を開けた。
手に持っていた剪定鋏を置き、小さく息を吐く。蝶型使い魔が破壊される直前、送信してきた断片がある。座標。洞窟の正確な位置。内部の魔力構造。そして――捕らわれている人々の数と状態。
「バーサーカー陣営のマスターは、こちらの観測に気づいていた。そして――隠すどころか、見せびらかすように工房を開示した」
アロイシアの声は冷静だった。だが、鋏を置く指に、わずかな力がこもる。
「これは挑発ではありません。あれは――もっと悪質だ。自分のしていることが、どれほど異常か理解していない。理解した上で、あえて見せつけているのとは違う。理解する能力そのものが、欠落している」
「罪の意識がない、ということですか」
キャスターが静かに言った。彼はアロイシアの隣に立ち、温室の窓から吹雪を見つめている。
「ええ。あのマスターは、聖杯戦争を殺し合いとも戦争とも思っていない。あれは、料理人が食材を仕入れ、調理し、味わうのと同じ感覚で人を捕らえている。倫理の外にいるのではなく、倫理という概念を持っていない」
アロイシアは立ち上がり、温室の中央にある果樹へ歩み寄った。生命の樹を模して育てられたそれは、まだ枝が伸び放題だ。剪定が必要な枝が、いくつもある。
「このまま放置すれば、バーサーカー陣営は町全体を食い尽くすでしょう。聖杯戦争の隠蔽原則も何もない。神秘の秘匿どころか、一般人の大量失踪事件になる。時計塔は動く。聖堂教会も動く。そして――この聖杯戦争そのものが、なかったことになる」
「剪定が必要、と」
キャスターはアロイシアの言葉を引き取った。その声には、賛同も否定もない。ただ、事実を確認する響きがある。
「バーサーカー陣営は、あなたの目的にとって障害になる。だから排除する。そういうことですね」
「ええ。でも、それだけじゃない」
アロイシアは果樹の枝を一本、指でなぞった。まだ若い枝だ。実をつけるには、あと数年かかる。
「私は魔術師として、根源に到達したい。そのために、この聖杯戦争を利用する。でも――あれは、魔術師ですらない。ただの異常者だ。魔術の名を借りた捕食者。同じ魔術師として、あれを放置するのは――」
彼女は言葉を切り、枝から指を離した。
「――趣味が悪い」
温室の外で、黒蜂が羽ばたいていた。洞窟から戻った蜂が、アロイシアの周囲を飛び回り、情報を伝達する。座標は正確だ。魔力構造も把握した。捕虜の数も、ほぼ特定できた。
「キャスター。準備を。バーサーカー陣営の工房を叩く」
アロイシアの声に、初めて明確な意志が宿った。
「私の魔術は、生命を扱う。植物を育て、枝を剪定し、実を収穫する。あの洞窟は――病んだ木だ。根こそぎ取り除く必要がある」
「承知しました。しかし、単独での攻略は危険です。バーサーカーの特性を考えると――」
「ええ、わかっている。だから――」
アロイシアは温室の扉を開け、吹雪の中へ一歩踏み出した。
「――他の陣営も、巻き込みましょう。セイバー。アーチャー。アサシン。ランサー。誰でもいい。あの洞窟を放置することが、どれほど危険か。それを知らせれば、必ず動く者がいる」
吹雪が、彼女の金髪を揺らした。アロイシアは湖の向こう、山の方角を見つめる。あの洞窟で、今も端末が生み出され、人々が震え、ビルマが笑っている。
「バーサーカー陣営には、聖杯戦争のルールを教えてあげなければ。これは戦争だ。晩餐会じゃない」
彼女の言葉は、吹雪にかき消されて誰にも届かなかった。だが、湖のほとりの温室から、無数の蜂が飛び立つ。それぞれが情報を運び、それぞれが陣営を探す。聖杯戦争の勢力図が、少しずつ動き始めようとしていた。