Fate/Last Snow Grail   作:ボルメテウスさん

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雲上の観測者

雲の上は、静寂だった。

 

月光が翼を照らし、機体の影を雪原に落としている。白峰旅人は副操縦席から地上を見下ろしていた。雲の切れ間から、北海道の山並みが白く浮かび上がる。吹雪は止んでいた。だが、それは嵐が去ったからではない。嵐の目に入っただけだ。雲の下では、まだ風が雪を巻き上げ、視界を閉ざしている。

 

「三時の方向。山腹に霧がかかっている」

 

旅人は窓に手を当てた。指先がかすかに震える。寒さではない。魔術回路を持たない彼の身体が、地上から立ち上る魔力に反応しているのだ。魔術師ではない旅人にできるのは、感じ取ることだけだ。空気の違和感。肌を刺すような敵意。そして――悲鳴のような、助けを求めるような、微かな気配。

 

「霧の下に、何かいる。数は――五つ。いや、もっとだ。小さな反応が霧の周囲に散らばっている」

 

「端末だな」

 

操縦桿を握るライダーが、静かに言った。アメリア・イアハート。彼女は計器をほとんど見ていない。代わりに、自分の目と経験で地上を読んでいる。雲の動き。風向き。そして、旅人が感じ取った魔力の痕跡。

 

「洞窟は霧の中心、山腹の窪地にある。見えるか? あの尾根の陰。霊脈が集中している」

 

「ああ。湖畔から魔力線が伸びて、洞窟に吸い込まれている。それと――」

 

旅人は息を呑んだ。洞窟から、黒い染みが広がっている。魔力の汚染だ。それが雪の上を這い、山腹を下り、川沿いに町へ向かっている。その染みの中を、無数の小さな影が動いている。捕食端末だ。数は数十――いや、もっとか。洞窟から次々と湧き出し、散開していく。

 

「これから襲撃が始まる。バーサーカー陣営が、町へ狩りに出るつもりだ」

 

ライダーの声は冷静だった。だが、その手が操縦桿を握り直す。機体がわずかに震え、旋回を始めた。

 

「他のサーヴァントは?」

 

「確認できるだけで三騎。あの霧の中にアサシンがいる。気配を消しているが、霧の流れが不自然だ。それと――」

 

旅人は目を閉じ、意識を地上へ向けた。英霊共感適性。魔術回路の代わりに彼が持つ、ただ一つの特異性。それは、英霊の存在を感じ取る力だ。

 

「――セイバー。町の方角から洞窟へ向かっている。単独だ。それと、湖畔からキャスター。動きは遅いが、着実に洞窟へ近づいている」

 

「アーチャーは?」

 

「わからない。気配がなさすぎる。雪原のどこかに潛んでいるか、あるいはまだ動いていないか」

 

ライダーはしばらく沈黙し、それから機体をさらに旋回させた。洞窟を中心に、大きな円を描く。地上からは豆粒ほどの機影も見えない高度だ。エンジン音も、風にかき消されている。

 

「捕虜はいると思うか」

 

ライダーの問いに、旅人は答えられなかった。洞窟の周囲に散らばる小さな反応。あれは端末だけではない。もっと弱く、もっと必死な――人間の気配が混じっている。生きている。まだ死んでいない。だが、それも時間の問題だろう。

 

「たぶん――いる」

 

「救出は」

 

「無理だ。俺たちだけじゃ、地上に降りてもどうにもならない。それに、今降りれば、バーサーカーと鉢合わせる」

 

旅人は唇を噛んだ。偵察に徹しろ。ライダーはそう言っている。それは正しい判断だ。だが、正しさがいつも最善とは限らない。眼下では、今この瞬間も、誰かが捕らえられ、引きずられ、洞窟の奥へ運ばれている。それを雲の上から見ているだけの自分が、ひどく無力に思えた。

 

「罪悪感か」

 

ライダーが、初めて旅人の顔を見た。その目は、驚くほど穏やかだった。

 

「いいんだ。そういうのは、持っていていい。むしろ、感じなくなったら終わりだ」

 

「ライダーは――感じないのか」

 

「感じるさ。私だって、空から地上を見ているだけの時があった。救助に行けなくて、通信だけ聞いている夜もあった。でも、それでも飛び続けた。飛ばなければ、次に助けられる誰かも助けられない」

 

彼女は操縦桿を引き、機体をさらに旋回させた。眼下に、谷筋が見える。洞窟から町へ抜ける、細い川沿いの道だ。

 

「あの谷、見えるか。洞窟の南側を流れている川。あれが、地上部隊の逃走路になる」

 

「逃走路?」

 

「襲撃が始まれば、バーサーカー陣営と他のサーヴァントが激突する。その時、捕虜を連れて逃げるなら、あの谷しかない。川沿いの道は雪が深くて車は使えないが、徒歩なら山を迂回するより早い」

 

ライダーは片手で地図を広げ、谷筋の位置を記録した。もう片方の手で操縦桿を握り、機体を安定させる。その手つきに迷いはない。

 

「セイバーは町から洞窟へ向かっていると言ったな。なら、セイバーがバーサーカーを引きつけている間に、誰かが捕虜を連れ出す可能性がある。その時、逃走路を確保できれば――」

 

「救出の目がある、か」

 

「あくまで可能性だ。でも、ゼロじゃない」

 

旅人は谷を見つめた。雪に覆われた細い道。川は凍り、両岸に灌木が生い茂っている。隠れ場所は多いが、足場は悪い。捕虜を連れての移動は難しそうだ。

 

「ライダー、もう少し高度を下げられるか。谷の終点を見たい」

 

「了解」

 

機体がゆっくりと降下する。雲の切れ間を抜け、吹雪の上層部に入った。視界が悪くなるが、旅人の感知能力なら、魔力の痕跡を追える。谷の終点には、廃村があった。かつて鉱山で栄えた集落の跡だ。今は誰も住んでいない。家々は雪に埋もれ、屋根だけが見えている。

 

「廃村に、誰かいる」

 

「サーヴァントか」

 

「いや――人間だ。魔術師だと思う。気配が違う」

 

旅人は目を凝らした。廃村の中で、かすかに動く影がある。一人か二人。洞窟からは離れている。逃げ遅れた住人か、それとも――。

 

「アサシンのマスターかもしれない。この土地の者だ。地の利を活かして、洞窟の動きを監視している」

 

「なるほど。それなら――」

 

ライダーは地図に廃村の位置を書き込んだ。

 

「――あそこも、逃走路の候補になる。地元の人間がいるなら、山道や廃坑の抜け道も知っているはずだ」

 

彼女は機体を水平に戻し、再び雲の上へと上昇した。月光が機体を照らし、翼の影が雪原を滑っていく。

 

「そろそろ引き返す。燃料も無限じゃないし、これ以上旋回していれば、キャスターかアーチャーに気づかれる」

 

「ああ」

 

旅人は最後に、もう一度だけ地上を見た。洞窟から広がる黒い染み。その中を這う端末たち。そして、町の方角から洞窟へ向かう、一筋の光のような魔力。セイバーだ。若いマスターと、剣士のサーヴァント。彼らはこれから、バーサーカーの本拠地に突入する。おそらく、捕虜を助けるために。

 

「セイバー陣営は、捕虜のことを知っているのか」

 

「さあな。でも――」

 

ライダーは機体を旋回させながら、静かに言った。

 

「――あの方向へ、迷いなく進んでいる。たぶん、知っているんだろう。知っていて、それでも行くんだ」

 

機体は雲の上を滑り、月光の航路を進む。眼下では、戦いが始まろうとしていた。セイバー。キャスター。アサシン。そしてバーサーカー。四騎のサーヴァントが洞窟を中心に集結しつつある。それは聖杯戦争の一幕であると同時に、もっと原始的な何か――狩る者と守る者、喰う者と抗う者のぶつかり合いでもあった。

 

旅人は操縦席の窓に手を当て、地上の気配を感じ続けた。魔術師ではない彼にできることは、見て、感じて、記録することだけだ。でも、それが誰かの逃げ道になるなら。それで救われる誰かがいるなら。

 

「ライダー」

 

「なんだ」

 

「ありがとう」

 

ライダーは答えなかった。ただ、少しだけ口元を緩め、機体をさらに速めた。月光の航路を北へ。雲の上を飛びながら、二人は地上の戦いを見守り続けた。

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