蛞蝓の千年記 作:匿名の筆者
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俺は人間が好きだ。
80年の寿命でどんなことをするのか興味が湧くから好きだし、頼んでくれば庇護してあげる事もある。
気がつけば千年の時が流れ、王宮で飼われる珍獣か何かのような扱いを受けていた。
ちょっと毛の生えた蛞蝓みたいなものじゃないかと思いつつ、なぜこんなに世話役の待遇が悪いのか考えてみる事にした。
俺のことを認識している人の思考を覗いてみれば、やはり毛の生えた蛞蝓と思っている。神聖さを感じているとかそういう事がなく、気色の悪い何らかの生き物として見ている。
ふーむ、認識を改めさせてみようかな、と思うが。
ここで俺は、もし迂闊にいろんなことをして、そのせいで世話役の立場が悪くなったらどうしようかと考えるのだ。
アリシルという名前の世話役は3代目だが、平民だ。
身分が平民とはいえ、本来ならば貴族であるだろう。
血を辿って親を見てみれば、アリシルの親は、国の継承権を持っていた人間であった。
第4位とはいえ継承権がある人間だったのだ。
臣籍に降りたのは何故かと疑問であったが、因果を辿れば粗末さがよく分かる。
婚約していた複数の令嬢と結婚する間近であったものの、王から名指しで批判され、王位継承権が無くなった瞬間に婚約破棄を食らった。
結婚寸前の継承権喪失、家としても大変であろう。穏便に婚約を解消といけばよかったものを、本人が平民と同じ扱いになると絶望し、心を閉ざしたと。
生まれた時から得ていた立場が無くなったのだ、衝撃もあるだろう。王族ならばなおさらで、国を率いる心も崩れるというもの。
世話役の親はそんな人間ではあるが、本人は出生を知らぬらしい。
これだけの歪みを抱えていても、本人は知らぬままの方が幸せだ。政治については全く分からぬが、少なくともそれは人と人の歩みであるべきだし、今回も放置するべきか、と迷う。
アリシルは見目麗しい。
人の感性でも美しいはずだが、あまりに着飾らぬ。
俺の毛を櫛で梳かす間に、鏡を見つめては火傷の痕に鉛の化粧品を塗る。
可哀想な世話役だ。
政治に利用され、貴族との結婚などができる人生であれば、むしろ幸せに出会えたのではなかろうか。
平民でありながら王宮に仕えられるほどの努力をして、得体の知れない獣の世話役など、屈辱ではないのか?
華の二十五歳を勉学に費やし、給金を持てば本を買い漁る。
本ばかり読んでいる。
人との付き合いを避けているようにも見える。
それが本人の望みなのか、諦めなのか、俺にはまだ分からぬ。
出世がしたいのならば社交的にならなければいけないだろう。自分の部屋で勉強だけして、俺の世話を伝統として受け入れるだけなのか?
これが賢い人間の選択なのか、と……呆然としたような心地で、俺はアリシルについて悩んでいた。
千年見ても、人間の幸福が分からぬ。
現状維持が最も幸せだと答えた者は聖職者であった。
もっと、もっと、と絶えず大きな船を求めた者は裕福な商人であった。
人それぞれなのだ。
アリシルにはそれが無い。
一貫した幸福の基準が、アリシルには無かった。
幸福とは何か?
唯物の欲望さえあれば叶えてやれる。
全ての知識が書かれた本でも作ってやれるし、その時代に合わせた最高の家具も作ってやれる。
だがアリシルに願いが無い。
何をしたいのか、それがさっぱり分からないのだ。