初夏の太陽というやつは、実にもって不躾極まる天体である。アスファルトの裂け目から立ち昇る陽炎は、高架線の最上部にしがみつく僕の趾の裏へ、亜鉛メッキの不愉快な熱を容赦なく伝えてくる。尾羽を心持ち扇型に広げ、盛り場から漂う生ゴミの饐えた、脂ぎった湿気を孕んだ突風をやり過ごそうと試みるものの、喉の渇きはいよいよ激しくなるばかりだ。僕の嘴は頑強な黒い刃だ。額の肉厚な隆起の下で、傲慢なまでの湾曲を描いている。この鋭利な兇器を以て、僕は都会のあらゆる不浄を突き、路地裏の覇権を争う同類どもを威嚇してきた。人間の眼には決して映らぬ大気の微細な渦や、紫外線がもたらす燐光めいた空間の歪みが、僕の双眸には絶え間なく明滅している。地上を這い回る二本足の群れなどは、どいつもこいつも煤けた灰色か、さもなければ己の欲望の重みで弛緩した肉の塊にしか見えぬ。彼らは自らの足元に転がる極上の腐肉にすら気づかぬほどに五感が退化しており、その癖、僕らが一歩地上へ降り立つや否や、呪わしい棒切れや傘を振り回して大仰に騒ぎ立てるのだから、真に救いがたい愚物である。あの硝子窓の向こうにいる彼女だけは、どうもその退屈な規則性から逸脱していた。僕らの網膜が捉える色彩の領野において、彼女の髪は、一筋縄ではいかぬ陰影を孕んでいる。陽が斜めに差し込む刹那には、それはかつて僕が神社の境内で見かけた、数百年を経てなお油気を失わぬ古い「檜皮色」の湿り気を帯びて輝き、光が遮られる部屋の奥深くへと引きこもれば、濃厚に焦がした糖蜜の如き「黒茶」の底へと沈んでいく。その複雑な頭髪のただ中に、一個の星が留まっている。彼女がわずかに首を傾げるたび、その星型の飾りがぎらりと鋭い金属光を放ち、僕の眼球の奥を小さく刺した。何より僕の注意を惹いたのは、その双眸の奥に湛えられた深い青である。それは夏の宵闇が降りる直前の、あの恐ろしいほどに深い「紺青」であり、人間どもが尊ぶ古い器の「呉須色」のようでもあり、夜の底に引きずり込まれるような「瑠璃紺」の静謐を宿している。人間にしては、あまりに濁りがない。この街の不浄から、そこだけが綺麗に切り取られている。今日の彼女は、いつもの厚ぼったい白い上着を脱いでいた。代わりに、白磁を思わせる軽妙な夏服をまとっている。袖のないその衣服は、彼女のしなやかな肩口を涼しげに露出させ、頭上には相変わらず群青の帽子が、陽差しを遮るように深く冠られていた。その衣服の白さは、真夏の暴力的な光をすべて撥ね返している。人間というものは概して、自らの肉体を無細工な布切れで隠したがる臆病な習性を持っているが、彼女のまとうその白衣は、隠蔽のためではなく、むしろ周囲の光を調和させるために存在しているかのように見えた。彼女が腕を少し動かすだけで、その白磁の布地は優美な陰影を描き、まるでそれ自体が一個の独立した生き物であるかのように、彼女の肉体の線に沿ってしなやかに躍動する。
彼女は部屋の中で、じっと前を見据えていた。そこには大きな硝子のレンズが置かれている。彼女の行動には、奇妙なほど迷いがない。レンズの向こうに見えない無数の仲間――彼女がよく口にする「あなた」や「みんな」、あるいは「そらとも」といった存在――が確かに蠢いているのを、彼女は確信しているようだった。背筋を一本の竹のように直立させ、右手を軽く胸の前に掲げてみせる。その指先をわずかに遊ばせる仕草は、僕ら鳥類が羽を整えるのとは違い、明確な親愛を外へ示すためのものだ。うるさいほどの光のただ中で、彼女はただ、一本の楔のようにそこに立ち続けていた。僕が面白いと思ったのは、そうした澄ました振る舞いの合間に漏れ出る、彼女の肉体の無意識の身じろぎだった。言葉がふと途切れる瞬間、彼女の左の爪先が、内側を向いて床をトントンと小さく叩く。焦っているのではない。自らの内に湧き上がる過剰な生命力を、そうして地へと逃がしているのだろう。また、何かを深く想う刹那、彼女の深い青色の瞳は、ほんの一瞬だけ右上へと泳ぐ。長い睫毛が細かく震え、いつもの完璧な笑顔の裏にある、等身大の少女の脆さが露わになる。彼女の心は常に「みんなを幸福にする」という途方もない約束へ向かって走っているが、その無意識は、その重責に耐えうる自らの足場を、一歩一歩確かめるように、静かに身体の末端を揺らしている。僕らの眼から見れば、彼女のその微細な身じろぎは、まるで捕食者が獲物を狙う前に全身の筋肉を震わせる緊張感にも似ていた。しかし、彼女の緊張は破壊のためではなく、むしろ自らの内にある「美」という絶対的な均衡を維持するための、必死の防衛反応なのである。人間どもは彼女の完璧な微笑ばかりを有難がって眺めているようだが、真の芸術というものは、その完璧さが破綻しかける一瞬の亀裂にこそ宿るものだ。その爪先の微かなリズム、泳ぐ視線の刹那の空白に、僕は人間の生が持つ最も純粋な戦慄を感じずにはいられない。
言葉の響きが、開け放たれた窓の隙間から僕の耳へと漏れてくる。僕には人間の言葉の意味などわからない。ただ、音の連なりとしてそれを聴くだけだ。彼女の喋り方は、余計な飾り気がなく、凛としていた。「私ね」と彼女が呟くとき、その「私」という響きは、傲慢な自己主張ではなく、暗がりにぽつんと灯る一本の蝋燭のようだった。そして「あなた」や「そらとも」と呼びかけるとき、その母音は驚くほど均等に、丁寧に引き伸ばされる。言葉の語尾がわずかに上がるのは、聴き手に対する無条件の肯定なのだろう。声のテンポは、まるで正確な律動を刻む時計のようだ。感情が昂る瞬間、あるいは見えない相手からの想いを受け止めた瞬間、彼女の声の間に、一瞬の「無音」が挿入される。それは息を整えるためのものではない。自らの胸の奥に湧き上がる純粋な歓喜を、言葉という不完全な器に盛る前に、一度喉の奥で咀嚼するための、祈りのような沈黙だった。そのとき、声の調子は半音ほど高くなり、少女らしい、いささか無防備な響きへと変わる。「――うん、そうだね。私はね、みんながそこにいてくれるだけで、本当に嬉しいんだよ。だから、これからもあなたと一緒に、この景色を見ていたいなって、そう思うの」夏の熱気にのって、彼女の声が届く。その喋り方には迷いがない。彼女の思考は、自らを「不変の北極星」として規定しているかのようだ。この街も、人間の心も、移り変わり、腐っていくのが常だ。自らが揺らげば、従う者たちが迷子になってしまう。だからこそ、彼女は常に正しく、清廉でなければならない。しかし、その思考の裏側で、彼女は自らの孤独をじっと抱きしめている。誰も歩んだことのない荒野の先頭を歩む恐怖。それを彼女は決して口にしない。ただ、服の紐を無意識に指先で弄び、布地をきゅっと握りしめるその一瞬の行動だけが、彼女の無意識の内に潜む「私」への微かな懐疑を物語っていた。彼女のその姿は、まさに未来への不動の意思を示す「勇往邁進」の体現であった。いかなる困難が立ちはだかろうとも、自らの定めた光の道をただ一筋に突き進むその精神の烈しさは、僕ら野生の鳥類が生存のために翼を動かす執念とも、どこか深く通じ合うものがある。彼女は自らの弱さを知るがゆえに、より強く前へと足を踏出す。その一歩一歩が、見えない無数の魂を牽引していくのだ。
僕は、その光景をただ見つめていた。乾いた喉を鳴らし、嘴を開いて「カー、カー」と、太く濁りのない声を二度放った。僕らのこの声は、人間にとっては不吉の予兆か、あるいはただの騒音に過ぎない。だが、僕にとっては、この劇烈な生を営む彼女に対する、僕なりの敬意の表現だった。彼女は僕の声に気づいたのか、ふと窓の外へと顔を向けた。その呉須色の瞳が、陽光を反射して眩しそうに細められる。彼女は驚いたように目を見張り、それから、形の良い唇を崩して、いつもの微笑を浮かべた。「あ、カラスさん。こんにちは。あなたも、暑いのに大変だね。お水、ちゃんと飲んでる?」彼女は、僕のような街の嫌われ者にさえ、その「あなた」という丁寧な言葉を投げかける。その喋り方のテンポは、先ほどよりも心持ち緩やかで、親密だった。この行動は計算ではない。彼女の魂の骨組みが、そもそも地上のあらゆる生あるものを慈しむように、精巧に組み立てられているのだ。彼女は無意識に、ノースリーブから露出した白い腕を伸ばし、窓枠に手を置いた。指先が、古い木枠の埃を微かに払う。その一連の動作の滑らかさは、まるで訓練された舞踊家のようであったが、それを彼女は全くの無意識に行っている。僕は、彼女のその眼差しにこれ以上耐えることができなくなった。あまりに純粋な光は、僕のような闇の色彩をまとった鳥類の網膜を灼く。僕は一歩、電線の上で足を踏かえ、爪が金属と擦れ合って小さな音を立てた。
僕は翼を大きく広げた。
ハシブトカラスの飛行は、風を切り裂く重厚な暴力だ。羽ばたきの一打一打が、大気を激しく圧縮し、僕の重い身体を上空へと押し上げる。頭部を低く構え、大きな嘴を鋭く前方に突き出し、脚を胴体の肉の中へと完全に引き込む。その姿勢は、一分の無駄もない漆黒の弾丸のようであり、大気という抵抗の壁を、自らの意志で穿っていく意思の表明にほかならない。尾羽を固く閉じ、翼を深く羽ばたかせながら、僕は初夏の青空へと急上昇した。眼下では、白い夏服をまとった彼女の姿が、急速に小さくなっていく。しかし、あの栗皮色の髪の揺らめきと、瑠璃紺の瞳の輝きは、僕の脳裏に焼き付いて離れない。彼女はこれからも、あの硝子の部屋で、あるいは見えざる巨大な網の目の空間で、「私」として生き、無数の「あなた」を魅了し続けるのだろう。その意識的な美しさと、無意識的な不完全さの火花散る境界線で、彼女という奇跡は、永遠にその純度を増していく。僕はもう一度、高く、太く、「カー」と鳴き、彼女の頭上を覆う真夏の太陽に向かって、ただ真っ直ぐに羽ばたきを続けた。その飛翔の軌跡は、彼女の生きる純白の世界への、僕なりの永遠の敬礼であった。
隣の電柱へ若い同類が滑り込んできた。せわしなく羽をばたつかせ、喉の奥から「クワァ、クワァ」と浅薄で品のない音を立てる。まるで「僕ちんにもあそこの肉片を分けろ、お前はさっきから何を惚けているんだ」とでも言いたげな、じっとりとした催促の響きだった。その無粋な雑音を黙殺し、僕はさらに高い大気の層へと一人身を躍らせる。世界はどこまでも俗悪で、しかしあの部屋だけが冷徹に透き通っていた。あの愚かな同類には、この大気の中に残された彼女の純粋な香気など、到底理解できぬに相違ない。僕は自らの孤独を誇るように、ただ高く、暗い宇宙の淵を目指して羽ばたきを続けた。