浅瀬の澱んだ水膜を、不敵な鉄色の翼で叩き割ることは、僕にとって夕暮れの儀式というよりは、むしろ世界に対する執拗な復讐に似ていた。川面の冷気は僕の頑強な黒い皮膚を刺し、脂ぎった風切羽の隙間に潜む都会の煤煙や、昼間に引き裂いた肉の残渣を冷酷に洗い流していく。嘴で執拗に尾脂腺を突き、分泌された油を全身の羽毛へと塗りつけるたびに、僕の肉体は金属的な鈍い光沢を放ち、いかなる汚濁をも撥ね退ける完全な装甲へと新生するのだ。水飛沫を散らす僕の額は大きく突き出た特有の湾曲を誇り、人間の退化した双眸が知覚し得ぬ紫外線の明滅、すなわち世界の真の輪郭たる、紫がかった不気味な光の対流を凝視している。水浴びを終え、重くなった身体を飛翔の姿勢へと移行させる。頭部を前方に低く突き出し、尾羽を水平に固定して大気を滑るように低空を征く僕の姿勢は、獲物を狙う弾丸の如く冷酷だ。そのまま河川敷の高架線へと鋭く舞い上がり、夕暮れの光線のなかへと自らを位置遣り直す。この時間の人間の群れは、己の吐き出す二酸化炭素の泥濘に足を取られながら、ただ一列になって地下の穴倉へと吸い込まれていく無細工な蟻に過ぎぬ。その退屈極まる行列の遥か後方、日没の光が傾斜を長く、細く引き延ばす領野において、彼女だけが、まるで歩行する一柱の彫像のように洗練された速度で現れた。陽光が背後から彼女の頭部を包み込む瞬間、その毛先はかつて僕が雨上がりの神社で見かけた、湿気を含んで重く沈んだ「檜皮色」の陰影を醸し出し、風が吹いて一筋の毛束が揺らめけば、濃厚に焦がした糖蜜をさらに煮詰めたような「黒茶」の深みがそこに現れ、光の加減によっては「栗皮色」の、乾いた大地の持つ温かみさえ一瞬だけ垣間見せる。その髪のただ中で、星型の飾りが、傾いた太陽の最後の光を捉えて、刺すような金属性の火花を放っている。僕が何よりも驚倒したのは、その双眸の奥に宿る色彩の深さであった。それは、まさに今、西の空から光が失われようとする刹那の、あの冷徹極まる「紺青」であり、古びた磁器の底に沈殿する「呉須色」の寂寥を湛え、夜霧が都会を包む直前の「瑠璃紺」の、絶対の静謐を宿している。そこには生ゴミの饐えた臭いも、人間の濁った吐息も一切届かない。
夕刻の彼女の装いは、昼間のあの白磁の衣服の上から、薄手の、しかし奇妙な立体感を持った群青の夏用上着を引っ掛けていた。頭上の帽子はそのままに、上着のフードが彼女の項から肩口にかけて、不規則な布の襞を作り出している。その上着は、夕闇の迫る街の背景に彼女の存在を溶け込ませるための保護色のようでありながら、彼女が歩を進めるたびに、その布地が光を複雑に屈折させ、逆に彼女という存在を、周囲の凡庸な景色から峻烈に際立たせていた。彼女は、自分が僕のような高架線の住人に観察されていることなど、露ほども気づいていない。彼女の歩行には、奇妙な自律性がある。道行く人間どもは、互いの肩が触れ合うたびに不快そうに顔を歪め、あるいは己の影の長さに怯えるように足早に去っていくが、彼女の歩調は、まるでメトロノームの針が刻む正確な律動そのものであった。背筋を一筋の竹のように直立させ、両手はポケットの中に軽く収められている。しかし、その完璧な均整の裏側で、彼女の肉体は常に、無意識の身じろぎという名の小刻みな反乱を起こしていた。土手の段差の手前で、彼女の歩行が一瞬だけ滞る。それは躊躇ではない。彼女の左の爪先が、ほんの数ミリだけ内側を向き、アスファルトの乾いた砂をトントンと踏みしめる。自らの内に渦巻く、見えない無数の仲間――彼女が心の中で常に呼びかけている「あなた」や「みんな」、あるいは「そらとも」といった広大な存在――への、言葉にならぬ語りかけを、そうして身体の末端から地へと逃がしているのだろう。また、曲がり角に差し掛かる刹那、彼女の深い青色の瞳は、ほんの一瞬だけ右上へと泳ぐ。長い睫毛が影を作り、いつもの毅然とした表情の裏にある、等身大の少女の、頼りなげな内省が露わになる。彼女の意識は、常に「みんなとともに歩む」という不動の約束へ向かって直進しているが、その無意識は、その約束の重みに耐えうる己の細い足首を、一歩ごとに確かめるように、静かに、そして烈しく戦慄させているのだ。僕らの眼から見れば、その微細な身じろぎは、まるで深海に棲む美しき捕食者が、水流の僅かな変化を察知して鰭を微振動させる緊張感に似ていた。言葉は、彼女の唇から漏れてはいない。ただ、彼女がすれ違う迷子の子供に一瞬だけ目を向け、またすぐに前を見据えたとき、その喉の奥から、かすかな、言葉にならぬ吐息の響きが僕の耳へと届いた。僕には人間の言葉の意味などわからない。
ただ、彼女の声が持つ固有の周波数、その「音響」だけを聴く。彼女の存在から発せられる響きは、余計な虚飾を削ぎ落とした、一振りの抜身の刀のように硬質であった。彼女が何かを想うとき、その気配は、暗がりにぽつんと灯る一本の蝋燭のようでありながら、いかなる突風にも決して立ち消えぬ、異様な強靭さを秘めている。その思考のテンポは、常に一定の、狂いのない速度を保っている。感情が揺らぐはずの夕暮れの河川敷にあっても、彼女の精神は、自らを「揺るぎなき光の目印」として冷徹に規定しているかのようだ。この街も、人間の移り気な心も、すべては夕闇とともに腐敗し、形を失っていくのが常だ。自らが一歩でもよろめけば、その後ろに従う無数の魂が、暗黒の深淵へと転落してしまう。だからこそ、彼女は常に正しく、清廉で、構造を維持し、「勇往邁進」の姿勢を崩してはならない。しかし、その強靭な思考の底辺において、彼女は自らの孤独を、誰にも見せぬようにじっと抱きしめている。誰も歩んだことのない、光と影の交錯する荒野の最前線を一人で歩む恐怖。それを彼女は決して表情に出さない。ただ、上着の裾の紐を無意識に指先で小さく弄び、布地をきゅっと握りしめるその一瞬の、不器用な指の動きだけが、彼女の無意識の内に潜む「私」という存在への微かな哀切を物語っていた。彼女は自らの脆弱さを完全に統御し、それを燃料として、さらに高く、遠くへと足を踏み出す。その一歩一歩が、都会の沈濁した大気を切り裂き、見えない光の軌跡を路地裏に刻みつけていく。僕は、その光景をただ上空から見つめていた。乾いた喉を震わせ、嘴を開いて「カー、カー」と、太く濁りのない声を二度、夕闇の迫る街へと放った。僕らのこの声は、人間にとっては不吉の予兆か、あるいはただの騒音に過ぎない。だが、僕にとっては、この劇烈な生を営む彼女に対する、僕なりの、最高度の敬意の表現だった。彼女はその声に気づくことはない。僕の存在など眼中にはないかのように、ただ真っ直ぐに、夕暮れの長い影を従えて歩き続ける。その呉須色の瞳は、すでに西の空の残光ではなく、これから訪れるであろう、より深い夜の向こうの、輝かしい未来の光を見据えているようだった。
僕は羽を休めた。
高架線の冷え切ったボルトに爪を掛け、大きく波打っていた胸の上下を静かに収める。ハシブトカラスの着地は、激しい大気の圧縮を強引に遮断する、厳粛な制動の儀式だ。突き出た額を水平に保ち、漆黒の風切羽を一枚一枚、精緻な扇を畳むようにして脇腹の肉へと密着させる。その瞬間、空を切り裂いていた兇猛な弾丸は、都会の構造物の一部へと完全に同化し、周囲の喧騒をただ黙殺する不動の監視者となるのだ。尾羽をわずかに下げて重心を安定させ、電線の震えを趾の裏で殺しながら、僕は急速に輪郭を失っていく夕暮れの街を凝視した。眼下では、群青の上着をまとった彼女の姿が、夕闇の波に飲まれるように小さくなっていく。しかし、あの栗皮色の髪の揺らめきと、瑠璃紺の瞳の輝きは、僕の脳裏に焼き付いて離れない。彼女はこれからも、あの見えざる巨大な網の目の空間で、「私」として生き、無数の「あなた」を牽引し続けるのだろう。その意識的な美しさと、無意識的な不完全さの火花散る境界線で、彼女という奇跡は、永遠にその純度を増していく。街の灯が点々とともる頃、僕は主を失った給水塔の錆びた天辺へ降り立った。そこは昼の熱気も失せ、冷たい夜風が吹き抜けるだけの、孤高の領野であるはずだった。背後の闇から不意に羽音が聞こえ、見慣れぬ若い同類が滑り込んってきた。そいつはせわしなく羽を動かし、喉の奥から「クワァ、クワァ」と浅薄で品のない音を立てて僕の領域を侵す。その音響は、僕の静謐な余韻をぶち壊す不快な雑音であり、まるで「僕ちんにもあそこの生ゴミの在処を教えろ、お前はさっきから何を惚けているんだ」とでも言いたげな、卑俗な催促の響きを帯びていた。世界はどこまでも俗悪な騒音に満ちており、しかし彼女が先ほどまで歩いていた、あの静かな軌跡の記憶だけが、僕の脳裏で冷徹に透き通っている。僕はその無粋な雑音を黙殺し、ただ、静かに目を閉じた。
川向こうの煤けた煙突から一本の細い煙が立ち上り、高架線の冷え切った鉄骨を這う夜霧が、すべての人工的な輪郭を曖昧に拒んでいく。あの鮮烈な足跡を遺した女の影はもうどこにもなく、ただ川面が微かな星灯りを撥ね返して冷淡に蠢くだけである。人間どもが勝手に名付けた美の規範など、この絶対の暗黒の前には一場の諧謔に過ぎぬ。僕は嘴を深く胸の羽毛へと埋め、滑稽なほどに静粛な、この世界の終わりをただ無心に眺めていた。