堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
退屈な大学生活の中で、真白の部屋だけが妙に濃かった。
人間らしくて好き、と犯罪者のことを言った女。
僕の性格の悪さを見て嬉しそうに笑う女。
自分がまともじゃないことを、あまり隠さない女。
その女が、僕のために朝飯を作る。
僕の名前を呼ぶ。
僕の手首を取る。
変な話だ。
変なのに、馴染んでいく。
だからたぶん、あの日の僕は油断していた。
真白なら、何を言っても平気だと思っていた。
真白なら、こっちの嫌なところを見ても逃げないと思っていた。
それは、ある意味では正しかった。
正しかったからこそ、最悪だった。
その日、僕は朝から苛立っていた。
理由はいくつもあった。
講義で教授がくだらない理想論を喋った。
ゼミのやつが僕を見下したような顔をした。
就職だ進路だ将来だと、周りが勝手に浮ついていた。
みんな、自分はちゃんとどこかへ行けると思っている。
馬鹿みたいだ。
僕は真白の部屋に着いても、しばらく黙っていた。
真白は気づいていたはずだ。
気づいていて、いつもより少しだけ距離を近くしてきた。
「ご飯、食べる?」
「いらない」
「お腹空いてる顔してる」
「いらないって言ってんだろ」
真白は怒らない。
「じゃあ、お茶だけ」
「いらねぇ」
「そう」
そこで黙ればいいのに、真白は黙らなかった。
「今日、何かあった?」
「別に」
「別に、の顔じゃない」
「うるさいな」
「透」
名前を呼ばれた。
その声が、やけに耳についた。
「何」
「嫌なことがあったなら、言って」
「言ったらどうすんの」
「聞く」
「聞いてどうすんだよ」
「透が、少し楽になるかも」
その言葉に、僕は笑った。
楽になる。
何だそれ。
正しい人間みたいなことを言うなよ。
お前はそっちじゃないだろ。
「お前まで、そういうこと言うんだ」
真白は僕を見た。
「そういうこと?」
「話せば楽になるとか、誰かに聞いてもらえば救われるとか。馬鹿みたいなこと」
「私は、救われるとは言ってないよ」
「似たようなもんだろ」
「違うよ」
真白は近づいてきた。
「透が何を考えてるか、知りたいだけ」
その言葉は、優しさではなかった。
興味。
いつもの真白だった。
なのに、その日はそれすら腹立たしかった。
「知ってどうすんの」
「透をもっと好きになるかも」
僕は顔を上げた。
真白は静かにこちらを見ている。
その目に、嘘はなかった。
だから、余計にむかついた。
「気持ち悪いな、お前」
言った瞬間、真白は少し笑った。
「透に言われるの、好きだよ」
その笑い方だった。
僕の中で、何かがずれた。
気づいたときには、真白の肩を掴んでいた。
真白は少し目を見開く。
でも、逃げない。
「透?」
その声も、落ち着いていた。
落ち着いているのが、許せなかった。
僕は真白を壁際に押しつけた。
背中が壁に当たる音がした。
小さな部屋に、どん、と鈍く響く。
「何でも分かったみたいな顔すんなよ」
声が、自分でも低かった。
「透」
「呼ぶな」
「……」
「どいつもこいつも、馬鹿にしやがって」
言葉が勝手に出る。
「正しい顔して、努力してます、将来考えてます、みたいな顔してさ。お前もどうせ、僕を見て笑ってんだろ」
真白は黙っていた。
僕は、気づいたら真白の首に手をかけていた。
細い首だった。
手のひらの下に、体温がある。
脈がある。
少し力を入れるだけで、真白の呼吸が変わった。
その感覚に、頭の奥が真っ白になる。
やばい。
そう思った。
でも、手を離せなかった。
「お前もどうせ」
指に力が入る。
「僕のこと、見下してんだろ」
真白の目が見開かれる。
喉が圧迫されて、息が詰まる音がした。
普通なら、ここで暴れる。
怖がる。
手を剥がそうとする。
真白は、僕の手に触れた。
剥がそうとする力じゃなかった。
確かめるみたいな指だった。
そして。
笑った。
苦しそうに。
目を潤ませて。
それでも、確かに嬉しそうに。
笑った。
その顔を見た瞬間、血の気が引いた。
僕は手を離した。
真白の体が少し崩れる。
咳き込む。
壁に背を預けて、喉を押さえる。
「……っ、げほ、……」
僕は後ずさった。
手が震えていた。
「違う」
何が違うのか分からないまま、言った。
「違う。そんなつもりじゃ」
真白は咳をしながら、顔を上げた。
首には僕の指の跡が薄く残っている。
それを見て、胃の奥が冷えた。
「真白」
初めて、自然に名前が出た。
真白は少しだけ目を細めた。
まだ咳が残っているのに、彼女は僕に近づいた。
「来んな」
言ったのに、真白は止まらなかった。
そして、僕にキスをした。
軽いキスだった。
でも、息を奪うみたいなキスだった。
僕は動けなかった。
真白は僕の背中に腕を回し、抱きしめる。
落ち着かせるみたいに。
逃がさないみたいに。
耳元で、掠れた声がした。
「いつかすると思ってた」
僕は、全身が冷たくなるのを感じた。
「……お前」
声が出ない。
「怖くねぇのかよ」
真白はゆっくり顔を上げた。
首は赤い。
声も少し掠れている。
それなのに、目は静かで、嬉しそうだった。
「怖いより」
真白は僕を見る。
「今の透の方が、すごく好きって思う」
本気だった。
本気で言っていた。
僕は少し引いた。
「お前、やっぱりおかしいだろ」
「透も、じゃダメ?」
その声が、初めて少しだけ寂しそうだった。
僕は答えられなかった。
僕はおかしくない。
お前よりマシだ。
そう言いたかった。
言いたかったのに、喉につかえた。
真白は小さく笑う。
悲しそうな顔だった。
その顔を見た瞬間、なぜか胸が痛んだ。
僕は、ゆっくり手を伸ばした。
今度は首じゃない。
真白の背中に腕を回す。
抱きしめる。
真白の体は少し震えていた。
恐怖ではないのかもしれない。
興奮かもしれない。
安堵かもしれない。
分からなかった。
分からないのに、離せなかった。
「……ほんと、最悪だな」
僕が言うと、真白は僕の胸元で小さく笑った。
「うん」
「うんじゃねぇよ」
「でも、透が好き」
僕は目を閉じた。
雨も降っていない夜だった。
窓の外は静かで、部屋には冷めたお茶の匂いが残っている。
僕の手には、まだ真白の首の感触があった。
細くて、熱くて、簡単に壊れそうで。
それを嬉しそうに受け入れた女が、今、僕の腕の中にいる。
逃げろ。
そう思った。
こんな女からは逃げたほうがいい。
こんな自分からも逃げたほうがいい。
でも真白が僕の背中を掴んでいた。
そして僕も、真白を離さなかった。