堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
菜々子は連れ去られた。
マヨナカテレビに、また菜々子が映った。
その次の日だった。
生田目は何も言わずに、菜々子を連れ、自分も一緒にテレビへ入ったらしい。
現実よりは、テレビの中のほうが安全だと。
外にいるより、自分がそばにいたほうが守れると。
そう思い込むところまで、彼は戻ってしまった。
真白が連絡を受けたとき、堂島家の空気は完全に壊れていた。
堂島は生田目を追って事故に遭い、病院へ運ばれた。
鳴上は顔色をなくしていた。
足立は妙に白い顔をしていた。
そして真白は、受話器を持ったまま、ほんの一瞬だけ何も考えられなくなった。
自分の計算が外れた。
その事実より先に、菜々子の顔が浮かんだ。
お姉ちゃん、と呼ぶ声。
卵焼きを見て笑う顔。
我慢する癖のある、小さな子ども。
真白は目を閉じた。
痛みがあった。
確かにあった。
けれど次の瞬間、頭は動き出した。
今、泣いても意味がない。
悔やんでも意味がない。
生田目を責めても、菜々子は戻らない。
戻す方法を知っているのは、鳴上くんたち。
頼るしかない。
それが、ひどく不愉快だった。
自分の手が届かない場所に菜々子がいて、助けられるかどうかは鳴上たちにかかっている。
真白は初めて、観察者の位置が安全ではないことを知った。
その夜、足立は真白のアパートに来なかった。
翌日も来なかった。
三日目、菜々子は戻ってきた。
だが、憔悴し、生死の境にいた。
白い病室。
機械の音。
小さな体に繋がれた管。
堂島は椅子に座って、娘の手を握っていた。
真白は菜々子の顔を見る。
あまりにも小さい。
テレビの中に入った人間がどうなるのか、自分は分かったつもりでいた。
分かっていなかった。
足立のとき。
鳴上の仲間たちのとき。
生田目のとき。
そのどれとも、菜々子は違った。
条件がない人間は、ただ削られる。
それを真白は、菜々子の呼吸で理解した。
堂島が振り返る。
「真白」
声が掠れていた。
真白はいつもの顔を作る。
「おじさん」
「……悪い」
「謝らないで」
真白は病室に入る。
菜々子の手に触れようとして、やめた。
触れる資格があるかどうかを考えたのではない。
触れたら、自分の手が震えるかもしれないと思ったから。
足立透は、ナースステーションの前で一度だけ足を止めた。
帰りたい。
そう思った。
署に戻るでもいい。
外で煙草を吸うでもいい。
車の中で寝たふりをするでもいい。
どこでもいいから、この白い匂いの中にいたくなかった。
だが、行かなければならなかった。
堂島に、署からの確認事項がある。
生田目の警備についても、病院側と話を詰めなければならない。
それを口実に、堂島を病室から呼び出す。
ただそれだけの仕事だ。
ただそれだけのはずだった。
病室の前に立つ。
扉は少しだけ開いていた。
中を覗くと、堂島は椅子に座り、菜々子の手を握っていた。事故で痛めた体をかばうように背を丸めているのに、目だけは娘から離れない。
鳴上悠も、そのそばに立っていた。
顔色は悪い。
けれど倒れない。
倒れてしまえばいいのにと思うほど、まだ立っている。
その後ろには、花村、里中、天城、巽、久慈川、白鐘。
高校生が、病室に詰めかけている。
普段なら堂島に追い払われてもおかしくない人数だった。
けれど今は、誰もそれを言わなかった。
そして。
真白がいた。
病室の壁際に、静かに立っていた。
薄い色のカーディガンを羽織り、髪は低くまとめられていた。顔は落ち着いている。落ち着いているように見せている。
真白が顔を上げる。
目が合った。
数日ぶりだった。
足立は目を逸らし、いつもの顔を作った。
「堂島さん」
病室の空気が、少しだけ動いた。
堂島が振り返る。
「足立」
声は掠れていた。
怒鳴る力も残っていないような声だった。
足立は笑った。
「すみません。ちょっとだけいいっすか。署の方から確認が来てまして」
「今じゃなきゃ駄目か」
「僕もそう言ったんですけどねぇ。上って、そういうとこ融通きかないんですよ」
軽い声。
少し困ったような顔。
いつもの足立透。
誰かがそれを信じてくれればいい。
誰でもいいから。
ちょうど看護師も病室に来た。
「堂島さん、処置の確認の時間です。出られますか?」
堂島は菜々子の手を離さなかった。
鳴上が静かに言った。
「俺がいます」
堂島は鳴上を見た。次に真白を見る。
それから、菜々子の顔を見る。
「……すぐ戻る」
誰に言ったのか分からない声だった。
堂島が立ち上がる。
足元が少しふらつき、真白が反射的に動きかけた。
けれど、先に看護師が支えた。
真白の手は、空中で一瞬だけ止まり、すぐ下ろされた。
足立はそれを見ないふりをした。
堂島が廊下へ出る。
看護師と一緒に、ナースステーションの方へ歩いていく。
足立もその後に続くつもりだった。
「足立さん」
鳴上の声がした。
足立は足を止めた。
振り返る。
鳴上はこちらを見ていた。
静かな目だった。
だが、いつもの高校生の目ではなかった。
「生田目は、どうなりましたか」
空気が、冷えた。
花村が一歩前に出る。
「俺たち、あいつからちゃんと話聞きたいんです。菜々子ちゃんに何したのか。今までの事件も、本当にあいつなのか」
「いやぁ……」
足立は後頭部をかいた。
「僕に聞かれても困るっていうか。捜査中のことだしさ」
里中の声が震えた。
「でも、菜々子ちゃんを連れてったんですよね」
「まあ、それは……」
「同じ場所にいた理由は話しましたか」
白鐘直斗が言った。
足立の目が、わずかに動いた。
直斗は見逃さなかった。
「僕たちが発見した際、生田目太郎は菜々子ちゃんのそばにいました。かなり衰弱していましたが、意識はありました。ただ、話は混乱していました」
足立は笑う。
「こっちもそれで話が進まなくて、もう大変」
直斗は頷いた。
「ですが、彼は何度も助けるつもりだった、と言っていました。そして、あの人が分かってくれた、とも」
その瞬間、足立は真白を見そうになった。
見なかった。
見なかったことが、かえってまずかったのかもしれない。
鳴上の目が、ほんの少し細くなる。
真白は何も言わなかった。
ただ、菜々子の眠るベッドの横で、静かに立っている。
足立は肩をすくめた。
「犯人の言うことなんか、まともに受け取らない方がいいよ。言い逃れかもしれないし、責任逃れかもしれない。何より、今はまだ病院からも出せない状態だしね」
言ってから、喉の奥が止まった。
花村が顔を上げる。
「病院?」
足立は笑った。
「……いや、まあ」
鳴上が一歩近づく。
「生田目は、この病院にいるんですか」
しまった。
そう思った。
思ったのに、もう遅かった。
足立は軽く手を振る。
「あー、いやいや。僕の判断じゃないよ? 今のは、その、状況的にっていうか」
「同じ病院なんですね」
鳴上の声は静かだった。
足立は、鳴上の目が嫌いだった。
責めているわけではない。
怒鳴っているわけでもない。
ただ、見ている。
真白と似ている。
そのことに気づいて、足立は胸の奥がざらついた。
「……仮にそうだとしても、会えるわけないでしょ。警察もついてるし、本人だってまだまともに歩ける状態じゃない。君たちが行ってどうにかなる話じゃないよ」
「何階ですか」
鳴上が言った。
「だから、行ったって無駄だって」
「何階ですか」
二度目。
足立は笑いそうになった。
笑える場面ではないのに。
「君さぁ」
声が少し低くなった。
「今、菜々子ちゃんがこんな状態なのに、犯人のところに行くわけ?」
花村が噛みつくように言った。
「だから行くんだろ!」
里中も拳を握っていた。
「何であんなことしたのか、聞かなきゃ分かんないじゃん!」
足立は、全員を見た。
馬鹿みたいだ。
高校生が、目を赤くして、正義も怒りも悲しみもごちゃ混ぜにして、一人の男を問い詰めに行こうとしている。
馬鹿みたいだ。
なのに、その馬鹿みたいなまっすぐさが、今はひどく邪魔だった。
生田目に会わせれば、何を言うか分からない。
真白のことを言うかもしれない。
「あの人が」と言うかもしれない。
そのあの人が誰なのか、鳴上が気づくかもしれない。
けれど、会わせなければ。
こいつらは別の方向から調べる。
足立を疑う。
真白を見る。
堂島家の周りを掘る。
どちらに転んでも、ろくなことにならない。
真白が、静かに口を開いた。
「足立さん」
他人行儀な呼び方だった。
足立は、少しだけ息を止めた。
「皆、心配なんです。それだけ」
真白はそう言った。
優しい親戚の声だった。
堂島家の姉の声だった。
だが足立は、その下にあるものを知っている。
知りたい。
確認したい。
生田目が何を覚えているのか。
何を言うのか。
どこまで壊れているのか。
真白はまだ、見ようとしている。
そのことに、足立はぞっとした。
そして、腹が立った。
「……三階」
言っていた。
全員の視線が足立に集まる。
足立は、自分の声が思ったより乾いていることに気づいた。
「三階の、奥の個室。警官がついてる。普通に行っても入れないけど、廊下までは行けるんじゃない」
「足立さん」
直斗が目を細める。
「それを僕たちに教えていいんですか」
「いいわけないでしょ」
足立は笑った。
「だから、聞かなかったことにしてよ。僕、何も言ってないから」
いつもの軽さに戻したつもりだった。
でも、戻りきらなかった。
鳴上は足立を見ていた。
そして真白を見た。
繋げるな。
足立はそう思った。
お前は菜々子ちゃんだけ見てろ。
事件なんか追うな。
正義の味方みたいな顔をするな。
真白を見るな。
僕を見るな。
そう思いながら、足立は笑った。
「まあ、行くなら自己責任で。僕は止めたからね」
花村がすぐに動いた。
「行こうぜ、相棒」
鳴上は頷いた。
けれど、病室を出る前に一度だけ菜々子を見た。
それから真白を見た。
「真白さん」
「うん」
「菜々子を、お願いします」
真白の顔が、ほんのわずかに歪んだ。
「……うん」
鳴上たちは病室を出ていく。
足立は廊下に立ったまま、その背中を見送った。
行くな、と思った。
行け、とも思った。
生田目を見ろ。
生田目を犯人にしろ。
そこから先へ来るな。
残されたのは、真白と足立だけだった。
病室の中は、急に広くなったように感じた。
さっきまであれだけ人がいたのに、今は菜々子の呼吸音と、機械の小さな電子音だけが響いている。
足立は入口のそばに立ったまま、しばらく動かなかった。
真白はベッドの横にいる。
菜々子の顔を見ている。
触れていない。
足立は喉の奥で笑った。
「……見てるだけ?」
真白は振り返らない。
「透もでしょ」
他人行儀な呼び方ではなかった。
病室の空気が、少しだけ変わる。
足立は眉を寄せた。
「ここでその呼び方すんなよ」
「誰もいない」
「菜々子ちゃんがいるだろ」
言ってから、自分でその言葉に引っかかった。
真白も、少しだけ黙った。
菜々子は動かない。
薄いまぶたを閉じたまま、機械の助けを借りて、かろうじてここにいる。
足立は視線を逸らした。
「……何で来なかったの」
真白が言った。
「何が」
「私の部屋」
「忙しかったんだよ」
「そう」
「警察だからね。誰かさんと違って」
「うん」
その肯定が、いつもより少しだけ遅かった。
足立は真白を見た。
「お前さ」
「うん」
「生田目が何喋ったか、気にならないわけ」
真白は菜々子を見たまま答えた。
「気になるよ」
「なら……」
「生田目さんは止まらなかった」
菜々子の細い呼吸音が、間に入る。
「私が見誤った」
足立は笑った。
短く、乾いた笑いだった。
「今さら反省?」
「反省じゃない」
「じゃあ何」
「事実の確認」
足立の顔が歪む。
「ほんと、そういうとこだよ」
真白はようやく足立を見た。
その顔は落ち着いていた。
でも、目の奥だけが少し赤い。
泣いたのか。
泣いていないのか。
足立には分からなかった。
「透は、残念だった?」
「は?」
「生田目さんは死ななかった」
足立の喉が詰まる。
「だから、私は透と同じにはならなかった」
足立は真白を睨んだ。
「黙れ」
「でも、菜々子ちゃんはこうなった」
「黙れって」
「同じじゃないだけで、何もないわけじゃなかった」
「真白」
低い声が出た。
真白は口を閉じた。
足立は一歩近づく。
怒鳴りたいのか、掴みたいのか、自分でも分からなかった。
「お前、今それ言う?」
「今だから言う」
「今ここで?」
その言葉に、真白の表情が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、足立は見た。
真白は傷ついた顔をした。
それを見て、足立の中でまた別の苛立ちが起きる。
傷つくな。
お前が傷つくな。
傷ついていい場所に立つな。
そう思った。
そう思ったのに、言葉にはならなかった。
代わりに、機械の音が変わった。
最初は、小さな違和感だった。
一定だった電子音が、わずかに乱れる。
菜々子の胸の上下が、浅くなる。
足立が先に気づいた。
「……おい」
真白が菜々子を見る。
菜々子の唇の色が、さっきより白い。
呼吸が小さい。
小さくなって、さらに細くなって。
止まった。
真白の顔から、表情が消えた。
一秒。
二秒。
そのたった数秒が、異様に長かった。
足立は菜々子の顔を見た。
モニターを見る。
意味は分からない。
分からないのに、よくないことだけは分かる。
「おい」
声が裏返りかけた。
「菜々子ちゃん?」
返事はない。
モニターの音が鋭くなる。
真白は動かなかった。
足立は振り返った。
「真白!」
その声で、真白の肩が跳ねた。
「呼べよ!」
真白はナースコールに手を伸ばした。
指先が、ボタンの上で一度だけ滑る。
震えていた。
足立がその手を掴みかける。
その前に、真白はボタンを押した。
「すみません、呼吸が」
声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
けれど、最後の音だけがわずかに掠れた。
すぐに看護師が駆け込んできた。
「下がってください!」
医師の声。
足音。
器具の音。
誰かが菜々子の名前を呼ぶ。
足立は、真白の腕を掴んで後ろへ引いた。
真白は抵抗しなかった。
二人は廊下へ押し出される。
扉が閉まる。
病室の中で、慌ただしい声が続いている。
足立は廊下の壁に背をつけた。
息が荒い。
自分が走ったわけでもないのに、胸が苦しかった。
真白は扉の前に立っていた。
手を下ろしている。
指先が震えている。
足立はそれを見た。
「……震えてんじゃん」
言った瞬間、自分の声がひどく掠れていることに気づいた。
真白は自分の手を見る。
それから、足立を見る。
「透も」
足立は自分の手を見た。
震えていた。
本当に。
指先が、みっともなく震えている。
足立はすぐに手を握り込んだ。
「……うるせぇ」
真白は何も言わなかった。
病室の中から、医師の短い指示が聞こえる。
看護師が走る音。
機械の音。
菜々子の名前。
足立は扉を見ていた。
山野アナの顔は、もうあまり覚えていない。
小西早紀の顔も、ニュースや資料の中のものになっていた。
でも菜々子の顔は違った。
堂島家の食卓。
足立さん、と呼ぶ声。
真白が大事そうに見ていた子供。
その呼吸が、今、目の前で止まった。
足立は口元を押さえた。
吐きそうだった。
真白が、扉の横に手をつく。
倒れそうになったわけではない。
ただ、そこに触れていないと立っていられないように見えた。
足立はそれを見て、何か言おうとした。
責める言葉。
茶化す言葉。
いつもの軽い言葉。
どれも出なかった。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
堂島だった。
看護師に止められながら、それでも無理やりこちらへ来る。
「菜々子は」
真白が振り返る。
「おじさん」
「菜々子は!」
真白は答えられなかった。
足立も答えられなかった。
堂島は二人の顔を見て、血の気を失った。
「……おい」
その声は、ほとんど呼吸だった。
やめろ。
見るな。
僕のせいじゃない。
そう思ったとき、病室の扉が開いた。
医師が出てきた。
全員が、同時にそちらを見る。
「一度、心肺が停止しました」
堂島の体が揺れた。
鳴上が、息を止める。
医師は続けた。
「今は戻っています。ただ、非常に危険な状態です。予断は許しません」
戻っている。
その言葉だけが、廊下に落ちた。
堂島は壁に手をついた。
看護師が慌てて支える。
真白は、ただ立っていた。
顔は崩れていない。
涙も流していない。
けれど足立は、真白の手がまだ震えているのを見ていた。
そして、自分の手もまだ震えていることを知っていた。
医師が何か説明している。
堂島がそれを聞いている。
足立は、その場から一歩も動けなかった。
生田目を犯人にすればいい。
全部、あいつがやったことにすればいい。
自分は知らなかった。
自分は今は何もしていない。
菜々子を連れていったのは生田目だ。
真白の読み違いも、足立の過去も、関係ない。
そう思おうとした。
思えなかった。
真白が小さく息を吸う。
「透」
足立は反射的に言った。
「呼ぶな」
声が、思ったより弱かった。
真白は黙る。
足立は病室の扉を見た。
その向こうに、菜々子がいる。
戻った。
けれど、止まった。
一度、確かに止まった。
その事実が、足立の中にあった言い訳の薄い膜を、音もなく裂いていた。