堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
白い廊下。
消毒液の匂い。
遠くから聞こえる機械音と、看護師の足音。
花村陽介は苛立ったように拳を握っていた。
里中千枝は唇を噛み、天城雪子は顔色を悪くしたまま、けれど目を逸らさなかった。
巽完二は落ち着かない様子で壁を睨み、久慈川りせは胸元を押さえている。
白鐘直斗は、警官と短く言葉を交わしていた。
鳴上悠は、何も言わなかった。
菜々子の顔が頭から離れない。
病室の白いシーツ。
細い腕。
かろうじて続いている呼吸。
今すぐ戻りたかった。
戻って、菜々子のそばにいたかった。
それでも、ここへ来た。
生田目が何を知っているのか。
菜々子をどうして連れていったのか。
あのテレビの中で、何をするつもりだったのか。
聞かなければならなかった。
警官が渋い顔で扉を開ける。
「短く済ませろ」
直斗が頷く。
「分かっています」
病室に入ると、生田目はベッドの上にいた。
顔色は悪く、目の下には濃い隈がある。点滴の管が腕に繋がっていた。体は衰弱しているのに、目だけがぎらぎらしている。
眠れていない目だった。
生田目は鳴上たちを見ると、わずかに身を起こそうとした。
「菜々子ちゃんは……」
鳴上の足が止まる。
「菜々子は、生きています」
声は思ったより低く出た。
生田目の顔が、少しだけ緩む。
「そうか……よかった。本当によかった……」
花村が一歩踏み出した。
「よかった、じゃねぇだろ」
声が震えていた。
「あんたが連れてったんだろ。菜々子ちゃんを。あんな場所に」
生田目は顔を歪める。
「違う。俺は、助けようとしたんだ」
「助ける?」
千枝の声が鋭くなる。
「助けるって何? あんなところに入れて、菜々子ちゃんがどうなったか分かってるの?」
「外にいたら殺されると思ったんだ!」
生田目の声が跳ねた。
「テレビに映った人は狙われる。山野真由美も、小西早紀も、死んだ。だから、あの子も危ないと思った。俺が守らなきゃって……」
「だからテレビの中に入れたんですか」
直斗が静かに言う。
生田目は頷いた。
「中なら、犯人に見つからない。そう思った。最初は、それで助かったんだ。みんな戻ってきた。だから……」
「違います」
直斗の声は冷たかった。
「戻ってきたのは、僕たちが助けたからです」
生田目が目を見開く。
「君たちが……?」
鳴上は答えなかった。
生田目は震える手でシーツを掴む。
「じゃあ、俺は……」
「少なくとも、あなたが入れただけでは助かっていません」
直斗は続ける。
「テレビの中は安全な場所ではない。あなたも、自分で入って分かったはずです」
その言葉に、生田目の顔が強張った。
りせが小さく息を呑む。
「自分で……?」
生田目は視線を落とす。
「……あの人が」
病室の空気が変わった。
鳴上の目が、わずかに細くなる。
「あの人?」
生田目は唇を震わせた。
「あの人は、俺の話を聞いてくれた。俺が菜々子ちゃんを助けようとしているって、分かってくれた」
「誰のことですか」
直斗が問う。
生田目はすぐには答えなかった。
「責めなかった。警察に突き出そうともしなかった。ただ、言ったんだ。菜々子ちゃんを入れる前に、自分で確かめるべきだって。テレビの中が本当に安全なのか、まず自分で入って確認しろって」
花村が顔をしかめる。
「何だよ、それ……」
「俺は入った」
生田目の声は掠れていた。
「怖かった。暗くて、息が詰まりそうで、何かに追われた。あんな場所だとは思わなかった。だから、戻ってきて、その人に言った。菜々子ちゃんは入れない。絶対に入れないって」
「なのに」
雪子が小さく言った。
「どうして、また……」
生田目は両手で顔を覆った。
「また映ったんだ」
声が、手の中で潰れる。
「菜々子ちゃんが、またテレビに映った。前よりはっきり。あの子が、こっちを見ていた。外にいたら殺される。そう思った。中が危ないのは分かってた。でも、外も危ない。なら、今度は俺も一緒に入ればいい。俺がそばにいれば守れるって……」
千枝が震える声で言った。
「それ、守るって言わないよ」
「分かってる!」
生田目は叫んだ。
「今は分かってる! でも、あのときは……あのときは、そうするしかないと思ったんだ!」
完二が低く言った。
「その、あの人って誰だよ」
生田目は沈黙した。
鳴上は、生田目を見ていた。
嫌な予感があった。
予感というより、もう形になりかけているものだった。
鳴上は静かに言った。
「真白さんですか」
生田目が顔を上げた。
その反応だけで十分だった。
花村が振り返る。
「真白さんって……菜々子ちゃんの?」
千枝が信じられないという顔をする。
「何で? 何で真白さんが?」
生田目は混乱したように首を振る。
「俺は、あの人が悪いとは言ってない。あの人は止めようとしてくれた。話を聞いてくれた。俺が間違っているって、分からせてくれた」
直斗は表情を変えない。
「ですが、あなたは再び菜々子さんを連れ去った」
「俺が悪い!」
生田目は叫ぶ。
「俺が勝手にやった。あの人は関係ない。あの人は……俺を責めなかっただけだ」
その言葉に、鳴上は少しだけ目を伏せた。
責めないこと。
肯定すること。
理解するふりをすること。
それが、ときに相手を止めるより深く押すことを、鳴上は知っている気がした。
そのときだった。
廊下の向こうで、足音が乱れた。
看護師の声。
誰かを呼ぶ声。
急に増える人の気配。
りせが顔を上げる。
「待って……何か、変」
鳴上は振り返った。
胸の奥が冷えた。
次の瞬間、病院の廊下を走る音がした。
「堂島菜々子さんの病室!」
誰かが叫んだ。
鳴上は、生田目から視線を外した。
考えるより先に体が動いていた。
「相棒!」
花村の声を背中で聞きながら、鳴上は病室へ走った。
白い廊下が長い。
長すぎる。
足音が響く。
息が詰まる。
誰かが名前を呼んだ気がしたが、返事はできなかった。
菜々子。
菜々子。
病室の前には、医師と看護師が集まっていた。
扉が閉まっている。
その前に、真白と足立が立っていた。
真白の指先が震えていた。
足立は壁に背をつけ、顔色をなくしている。
鳴上は足を止めた。
「菜々子は」
声が出たかどうか、自分でも分からなかった。
扉が開いた。
医師が出てくる。
堂島が、ほとんど倒れ込むようにそこへ向かう。
「菜々子は!」
医師は重い顔をしていた。
「一度、心肺が停止しました」
誰も声を出さなかった。
音が消えた。
鳴上は、息を止めた。
「今は戻っています。ただ、非常に危険な状態です。予断は許しません」
戻っている。
その言葉だけが、耳に残った。
鳴上は壁に手をついた。
膝が折れそうになる。
花村が隣で息を呑む。
千枝が口元を押さえる。
雪子が泣きそうな顔で菜々子の病室を見る。
完二は何かを殴りそうな顔をして、拳を握りしめている。
りせは小さく「菜々子ちゃん」と呟いた。
直斗は目を伏せ、唇を固く結んでいた。
今は、何も考えられなかった。
生田目のことも。
真白のことも。
足立のことも。
ただ、菜々子が一度止まった。
それだけが、頭の中にあった。
堂島は医師の説明を聞いていた。
けれど、立っているのがやっとに見えた。看護師に支えられながら、何度も頷いている。
鳴上は真白を見た。
真白は泣いていなかった。
顔も崩れていない。
ただ、手が震えていた。
鳴上は、その手を見た。
それから足立を見た。
足立も、自分の手を握り込んでいた。
震えを隠すように。
鳴上は小さく息を吸った。
「真白さん」
真白が顔を上げる。
「生田目に会いましたね」
足立が、ほんのわずかに動いた。
真白は鳴上を見ていた。
長い沈黙のあと、頷いた。
「うん」
花村が声を荒げた。
「何で言わなかったんすか!」
真白は花村を見る。
「止めたつもりだった」
「つもりって……」
千枝の声が震える。
「菜々子ちゃん、死にかけたんですよ」
真白の顔が、わずかに固まった。
「分かってる」
「分かってない!」
千枝が叫ぶ。
「分かってたら、そんな顔できない!」
雪子が千枝の肩に手を置く。
けれど、止める声は出なかった。
鳴上は真白から目を逸らさない。
「生田目は、真白さんが分かってくれたと言っていました」
「私は、彼の話を聞いた」
「責めなかった」
「責めてもあの人は止まらない」
「責めなくても止まらなかった」
真白は黙った。
その沈黙は、肯定だった。
足立が笑った。
短く、乾いた笑いだった。
「やめなよ、鳴上くん」
全員が足立を見る。
足立は、いつもの軽い顔を作ろうとしていた。
けれど、うまく作れていなかった。
「今、菜々子ちゃんが大変なときにさ。真白を責めてどうすんの」
花村が眉をひそめる。
「真白?」
足立の表情が止まった。
りせが小さく呟く。
「呼び捨て……?」
千枝が真白と足立を見比べる。
「え、何? 二人って……」
足立は笑う。
「……いやだなぁ。昔からの知り合いってだけだよ」
鳴上は静かに言った。
「真白さんの部屋にいましたよね」
病院の空気が、さらに冷えた。
花村が鳴上を見る。
「相棒?」
鳴上は足立から目を逸らさなかった。
「菜々子が真白さんに会いたがった日、真白さんのアパートに足立さんがいました」
足立は肩をすくめた。
「飯食いに行っただけだって。ほら、僕、よく堂島さんにも連れてこられるし」
「堂島さんには言わないで、と真白さんは言いました」
真白は何も言わなかった。
足立は、ほんの少しだけ真白を見た。
その目を、直斗が見ていた。
「足立さん」
直斗が口を開く。
「あなたは、どこまで知っているんですか」
「何を?」
「テレビのことです」
堂島は医師と話している。
病室の扉は閉じている。
廊下には、彼らしかいなかった。
足立は笑った。
「テレビ? 何それ。マヨナカテレビの話? こんなときに都市伝説?」
「生田目太郎は、人をテレビの中へ入れていた」
直斗ははっきりと言った。
「彼は、山野真由美と小西早紀については、自分ではないと言っています」
足立の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「犯人の言うことを信じるんだ」
「事実と合います」
直斗は続ける。
「生田目が人を入れ始めたのは、小西早紀さんの事件の後です。少なくとも、最初の二件については別の人物がいる」
「へぇ」
足立の声が薄くなる。
「探偵くんはすごいねぇ」
鳴上は口を開いた。
「足立さん」
足立は鳴上を見る。
「山野アナと小西先輩をテレビに入れたのは、誰ですか」
その瞬間、足立の表情が消えた。
ほんの一瞬。
いつもの軽さも、頼りなさも、困ったような笑みも、全部消えた。
それを、鳴上は見た。
真白も見ていた。
「……何で僕に聞くわけ」
足立の声は低かった。
「知っているように見えるからです」
「ずいぶん失礼だな」
「足立さんは、何度も俺たちに情報をくれました」
「うっかりだよ」
「本当に?」
足立は笑う。
だが、目は笑っていなかった。
「君さぁ」
その声が、さっきよりも冷たい。
「菜々子ちゃんが死にかけてるときに、よくそんな探偵ごっこできるね」
鳴上の顔がわずかに歪む。
その一瞬を、足立は見逃さなかった。
「怒ってるんだろ? 悲しいんだろ? だったら生田目を責めればいいじゃん。あいつが連れてったんだから。君たちの目の前に犯人がいるんだからさ」
「生田目は犯人じゃない」
花村が低く言った。
足立は花村を見る。
「じゃあ何? 救済者? あんなのを?」
「そうじゃない!」
花村は声を荒げた。
「でも、あいつは最初の二人を殺してない!」
足立の口元が歪む。
「殺してない、ね」
その言い方に、直斗の目が鋭くなる。
「足立さん」
「何」
「あなたは、テレビに入れた人間が死ぬことを知っていましたか」
足立は黙った。
一秒。
二秒。
「……知るわけないでしょ」
その返事は、遅かった。
真白が小さく息を吸う。
「透」
足立が振り返った。
「呼ぶな」
その声は、鋭かった。
誰も動かなかった。
足立は真白を見ていた。
見られたくないものを、いちばん見てほしくない相手に見られた顔だった。
「お前さ」
足立の声が震える。
「ここで善人の顔すんの?」
真白の顔が固まる。
「私は」
「黙れよ」
足立は笑った。
壊れたような笑いだった。
「お前だって見てたじゃん。生田目をさ。止めるとか言いながら、どこまで行くか見てた。菜々子ちゃんがこうなって、今さら震えて、家族みたいな顔してさ」
花村が一歩前に出る。
「足立さん、何言って……」
「うるさいな」
足立は花村を見た。
その目に、もういつもの軽さはなかった。
「お前らもさ、何でそんな顔できるわけ? 高校生が事件解決? 人助け? 正義の味方? 馬鹿みたいだよ、本当に」
鳴上は足立を見る。
「足立さん」
「呼ぶな」
「あなたが、最初の二人を」
「だったら何?」
言った瞬間、空気が止まった。
足立自身も、止まった。
真白が、息を呑んだ。
足立はゆっくり笑った。
「……いやだなぁ」
声が震えている。
けれど、その震えは恐怖だけではなかった。
「何その顔。僕、何か変なこと言った?」
誰も笑わなかった。
鳴上は一歩近づく。
足立は一歩下がる。
「来んなよ」
「足立さん」
「来るなって言ってんだろ!」
声が廊下に響いた。
病室の中から堂島がこちらを見る。
医師の説明を聞いていた顔が、固まる。
「足立?」
その声を聞いた瞬間、足立の表情が歪んだ。
堂島に見られた。
鳴上に見られた。
高校生たちに見られた。
真白に見られた。
もう、戻れない。
足立は真白を見た。
真白は動かなかった。
泣いてもいない。
怒ってもいない。
ただ、見ていた。
その目が、足立には耐えられなかった。
「……見るな」
真白は小さく首を振った。
「透」
足立は近づいた。
一瞬、真白の手首を掴む。
強く。
逃がさないみたいに。
逃げ場に縋るみたいに。
真白は抵抗しなかった。
むしろ、一歩だけ足立に寄った。
「透」
その声は静かだった。
足立は真白を見た。
連れていく。
そう思った。
この女なら来る。
テレビの中でも、きっと自分を見る。
責めずに。
止めずに。
好きだと言って。
その想像に、足立はぞっとした。
そして、吐き気がした。
「……来んな」
足立は真白の手を離した。
真白の目が揺れる。
足立は笑った。
「お前はそこで見てろよ」
そう言って、背を向けた。
「足立!」
堂島の声が飛ぶ。
足立は走った。
病院の廊下を、走る。
看護師が驚いて道を開ける。
花村と完二が追いかける。
鳴上も走った。
「待て!」
足立は振り返らない。
待合室の奥。
休憩スペース。
古い大型テレビが置かれている。
電源は落ちていた。
黒い画面に、病院の白い光が映っている。
足立はその前で一度だけ立ち止まった。
振り返る。
鳴上たちが追ってくる。
堂島は来られない。
真白は廊下の向こうに立っている。
遠い。
それでいい。
足立は笑った。
「じゃあね」
鳴上が手を伸ばす。
「足立さん!」
足立はテレビ画面に手をついた。
指先が沈む。
花村が目を見開く。
千枝が叫ぶ。
完二が駆け出す。
足立の体が、黒い画面に飲まれていく。
最後に見えたのは、真白だった。
廊下の向こうで、足立を見ている。
足立は笑った。
見られたくない。
見ていてほしい。
そのどちらも、もう遅かった。
足立透は、テレビの中へ逃げた。
廊下には、誰もすぐには動けない沈黙が残った。
鳴上は黒い画面を見つめる。
拳を握る。
背後で、真白が小さく息を吐いた。
「……逃げた」
その声は、責めているようにも、愛おしんでいるようにも聞こえた。
鳴上は振り返る。
真白はまだ、足立の消えたテレビを見ていた。
鳴上は、その横顔を見て思う。
この人も、逃げていないだけで。