堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
警察学校は、思っていたよりずっと退屈で、思っていたよりずっと息苦しかった。
朝は早い。
声はでかい。
規則は細かい。
どいつもこいつも、同じ服を着て、同じ方向を向いて、同じ返事をする。
「はい!」
馬鹿みたいに腹から声を出す。
最初の頃は、それが少し面白かった。
自分を薄くして、周りに合わせるのは得意だ。
教官の前では真面目そうな顔をして、同期の前では軽い冗談を言う。怒られれば少し情けない顔をして、褒められれば「いやぁ、たまたまですよ」と笑う。
そうしていれば、大抵のやつは僕を深く見ない。
足立透。
少し頼りないが、要領は悪くない。
口は軽いが、悪いやつではなさそう。
そういう形に収まるのは簡単だった。
簡単すぎて、吐き気がした。
寮の部屋は狭かった。
ベッド。机。ロッカー。薄いカーテン。洗剤と汗と、支給品の布に染みた乾いた匂い。
夜になると、周りの部屋から笑い声が聞こえた。
「あの教官、マジで鬼だろ」
「今日の訓練、足パンパンなんだけど」
「卒業したらどこ行くんだろうな」
未来の話。
配属の話。
誰が優秀だ、誰が脱落しそうだ、そんな話。
僕はベッドに寝転がって、腕時計を見る。
真白にもらった腕時計。
革ベルトはまだ少し硬い。けれど、手首にはもう馴染み始めていた。文字盤の針は静かに進んでいる。秒針が動くたびに、部屋の静けさが少しずつ削られていく。
便利だからつけている。
そういうことにしていた。
外そうと思えば外せる。
捨てようと思えば捨てられる。
高かったら捨てられないかなって、あいつは言った。
馬鹿じゃないのか。
高いから捨てないんじゃない。
捨てられないから、値段のせいにしているだけだ。
僕は携帯を開いた。
真白の連絡先は、まだ残っている。
卒業式の日から、真白からの連絡はない。
僕からも、しなかった。
最初は意地だった。
向こうが何も言ってこないなら、こっちから送る必要なんかない。
恋人? 知らないね。
そんな感じで済ませるつもりだった。
でも、一週間経っても、二週間経っても、真白からは何も来なかった。
おはようもない。
元気? もない。
ちゃんと食べてる? もない。
真白、という名前すら画面に出ない。
その沈黙が、思ったより効いた。
忙しいんだろう。
司法修習だか何だか知らないが、あいつは真面目だから。
そう思えばいい。
でも真白なら、忙しくても一言くらい送れる。
送らないと決めたなら、送らない女だ。
それが分かるから、余計に腹が立つ。
ある夜、消灯前に携帯を開いて、メッセージ画面を出した。
何してんの。
打って、しばらく見た。
送るか迷う。
迷っている自分が馬鹿みたいだった。
結局、送った。
返事はなかった。
翌朝も、昼も、夜も。
ない。
訓練中、携帯は見られない。
それでも休憩のたびに、どうせ来ていないと分かっている画面を見た。
来ていない。
何してんだよ。
二日空けて、また送った。
おい。
返事はない。
さらに数日空けて、
生きてんの?
送ってから、すぐに後悔した。
心配しているみたいだった。
いや、している。
しているのが腹立たしい。
返事はなかった。
僕は携帯をベッドに投げた。
「何やってんだ、僕」
声に出してみると、余計に惨めだった。
同期には、彼女がいるとは言わなかった。
聞かれることはあった。
「足立、彼女いんの?」
「えー、僕? いないいない。そんな暇ないって」
「嘘くせぇ」
「ほんとだって。僕みたいなの、モテないし」
軽く流す。
真白のことを説明するのが面倒だった。
大学の同級生。
恋人。
犯罪者が好きで、僕の嫌なところを見て嬉しそうに笑う女。
僕が首を絞めても逃げずにキスしてきた女。
卒業祝いに高い腕時計を寄こして、ずっとつけててね、と言った女。
そんな説明、できるわけがない。
そもそも、彼女と言っていいのかも分からなくなっていた。
連絡がない。
僕から送っても返ってこない。
それでも腕時計はつけている。
馬鹿みたいだ。
何度か、連絡先を消そうとした。
携帯を開く。
真白の名前を選ぶ。
削除の画面まで行く。
そこで止まる。
消したら、完全に終わる気がした。
終わっているのかもしれない。
でも、こっちから終わらせるのは違う。
何が違うのか分からない。
分からないまま、僕はいつも携帯を閉じた。
警察学校の生活は、少しずつ僕を削っていった。
体力はついた。
規律にも慣れた。
拳銃訓練も、座学も、適当にこなした。
成績は悪くない。むしろ、そこそこ良かった。
それがまた面倒だった。
できてしまう。
できるから期待される。
期待されるから、期待される形を演じる。
「足立、お前はもっと真面目にやれば伸びるぞ」
教官がそう言った。
僕は笑った。
「いやぁ、僕なんかまだまだですよ」
内心では思う。
真面目にやって、何になるんだよ。
正しく努力して、正しく出世して、正しく人を守って、それで?
その先に何がある。
何もないだろ。
それでも、上に行けるなら行く。
落ちるよりはマシだ。
負けるよりはマシだ。
僕はそういう人間だった。
ある時期、同期の女と少し近くなった。
名前は、もう忘れた。
短い髪で、よく笑う女だった。体力訓練では負けず嫌いで、座学は少し苦手。飲み会のあと、僕にだけ愚痴をこぼすようになった。
「足立くんって、聞き上手だよね」
よく言われる。
聞いているふりが上手いだけだ。
相手が欲しい相槌を打って、少し笑って、少し自分を下げる。
そうすれば、相手は勝手に話してくれる。
そいつは、僕のことを優しいと思ったらしい。
優しい。
笑える。
ある夜、二人で飲んだ帰り、流れで部屋に行った。
寮ではない。
外泊許可を使った日だった。
安いホテルの部屋は、消臭剤と湿ったシーツと、誰かの煙草の残り香がした。壁は薄く、隣の部屋のテレビの音がかすかに聞こえた。
そいつは僕に抱きついてきた。
僕はそれを受け入れた。
別に嫌ではなかった。
見た目も悪くないし、好意もある。
普通なら、そこで適当に楽しめばいい。
実際、体は反応した。
でも、どうにも雑になった。
キスをしていても、息遣いを聞いていても、頭のどこかに真白の部屋があった。
醤油の匂い。
洗剤の匂い。
白いカーテン。
首に残った指の跡を嬉しそうに見ていた顔。
無性にイラついた。
そいつは痛いと言った。
僕は手を止めた。
「あ、ごめん」
口ではそう言った。
そいつは少し困ったように笑った。
「足立くん、なんか怖い」
その言葉で、急に冷めた。
怖い。
そうだろうな。
普通は怖がる。
真白みたいに笑ったりしない。
二度目はなかった。
同期の間で何か噂になったかもしれない。
でも、僕はいつも通り軽く振る舞った。彼女も馬鹿ではなかったから、必要以上には言わなかった。
ただ、そのあと彼女は僕を見ると少しだけ顔を逸らすようになった。
まあ、そうなるよね。
僕は自分の部屋に戻って、腕時計を外した。
机の上に置く。
文字盤を見る。
真白がくれた時計。
真白が落ち着くからと言った時計。
「聞いてんのかよ」
思わず呟いた。
馬鹿げている。
時計はただの時計だ。
向こうに聞こえるわけなんかない。
いや、真白なら何か仕込んでいてもおかしくないか。
そう思った瞬間、自分で笑った。
おかしいだろ、それ。
でも、完全に否定できない。
僕は腕時計を手に取った。
裏蓋を見る。
当然、何も分からない。
開けようと思えば開けられるのかもしれない。
調べればいい。
誰かに見せればいい。
しなかった。
もし何もなかったら、惨めだから。
もし何かあったら、もっと惨めだから。
結局、僕は腕時計をまた手首につけた。
冷たい金属が肌に触れて、少しずつ体温に馴染む。
「便利だからな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
それから、さらに連絡は途絶えた。
僕も送らなくなった。
送らなくなっただけで、忘れたわけではない。
警察学校を出て、配属が決まり、キャリアのレールに乗った。
周りはそれを羨ましがった。
「足立、すげぇじゃん」
「出世コース?」
「やっぱお前、要領いいよな」
僕は笑う。
「いやいや、たまたまだって」
内心では、少しだけ気分が良かった。
当然だ。
僕は馬鹿じゃない。
やればできる。
周りのやつらより、上手くやれる。
そう思っていた。
最初のうちは。
配属先では、周りもそれなりに賢かった。
賢いだけじゃない。
家柄、コネ、根回し、上司への見せ方、責任の押しつけ方。
都会の警察組織は、大学よりずっと面倒で、ずっと分かりやすく腐っていた。
僕はそこでも上手くやれるつもりだった。
実際、しばらくはやれた。
軽い顔で上司に合わせる。
同期には気を許したふりをする。
面倒な仕事は、適度に引き受け、適度に避ける。
自分より鈍いやつを見つければ、そいつの影に隠れる。
でも、上には上がいる。
僕みたいなやつが、僕より上手くやる場所だった。
足を引っ張られた。
失敗を押しつけられた。
上司に嫌われた。
言い訳もできたが、言い訳をするタイミングを間違えた。
少しずつ、レールがずれた。
そのずれは、最初は小さかった。
大丈夫だと思っていた。
取り戻せると思っていた。
でも、ずれたレールは戻らない。
最後に出た辞令を見たとき、僕はしばらく黙っていた。
稲羽市。
田舎。
地方。
左遷。
そして、真白の地元。
笑えた。
いや、笑えなかった。
「……何でよりにもよって」
一人の部屋で、辞令を見ながら呟いた。
壁には、特に何も貼っていない。都会の部屋は、真白の部屋より狭くて、居心地も悪かった。空気清浄機の乾いた匂いと、コンビニ弁当のプラスチック臭がしている。
手首の腕時計を見る。
まだつけている。
五年、いや六年近く経っているのに。
「地元だよな」
真白の。
生きてんのか、あいつ。
そう思った。
連絡先は、まだ消していない。
携帯を開けば、すぐに出せる。
稲羽に行くことになった、と送ればいい。
元気か、と送ればいい。
お前の地元に飛ばされたんだけど、と笑えばいい。
送らなかった。
どうせ返ってこない。
返ってこない画面を見るのは、もう嫌だった。
それに。
もし返ってきたら?
それはそれで、どうすればいいのか分からない。
僕は携帯を閉じた。