堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。   作:an-ryuka

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足立視点。過去話。


10.5

 

警察学校は、思っていたよりずっと退屈で、思っていたよりずっと息苦しかった。

 

朝は早い。

声はでかい。

規則は細かい。

どいつもこいつも、同じ服を着て、同じ方向を向いて、同じ返事をする。

 

「はい!」

 

馬鹿みたいに腹から声を出す。

 

最初の頃は、それが少し面白かった。

 

自分を薄くして、周りに合わせるのは得意だ。

教官の前では真面目そうな顔をして、同期の前では軽い冗談を言う。怒られれば少し情けない顔をして、褒められれば「いやぁ、たまたまですよ」と笑う。

 

そうしていれば、大抵のやつは僕を深く見ない。

 

足立透。

少し頼りないが、要領は悪くない。

口は軽いが、悪いやつではなさそう。

 

そういう形に収まるのは簡単だった。

 

簡単すぎて、吐き気がした。

 

寮の部屋は狭かった。

ベッド。机。ロッカー。薄いカーテン。洗剤と汗と、支給品の布に染みた乾いた匂い。

 

夜になると、周りの部屋から笑い声が聞こえた。

 

「あの教官、マジで鬼だろ」

「今日の訓練、足パンパンなんだけど」

「卒業したらどこ行くんだろうな」

 

未来の話。

配属の話。

誰が優秀だ、誰が脱落しそうだ、そんな話。

 

僕はベッドに寝転がって、腕時計を見る。

 

真白にもらった腕時計。

 

革ベルトはまだ少し硬い。けれど、手首にはもう馴染み始めていた。文字盤の針は静かに進んでいる。秒針が動くたびに、部屋の静けさが少しずつ削られていく。

 

便利だからつけている。

 

そういうことにしていた。

 

外そうと思えば外せる。

捨てようと思えば捨てられる。

高かったら捨てられないかなって、あいつは言った。

 

馬鹿じゃないのか。

 

高いから捨てないんじゃない。

捨てられないから、値段のせいにしているだけだ。

 

僕は携帯を開いた。

 

真白の連絡先は、まだ残っている。

 

卒業式の日から、真白からの連絡はない。

 

僕からも、しなかった。

 

最初は意地だった。

向こうが何も言ってこないなら、こっちから送る必要なんかない。

恋人? 知らないね。

そんな感じで済ませるつもりだった。

 

でも、一週間経っても、二週間経っても、真白からは何も来なかった。

 

おはようもない。

元気? もない。

ちゃんと食べてる? もない。

真白、という名前すら画面に出ない。

 

その沈黙が、思ったより効いた。

 

忙しいんだろう。

司法修習だか何だか知らないが、あいつは真面目だから。

 

そう思えばいい。

 

でも真白なら、忙しくても一言くらい送れる。

送らないと決めたなら、送らない女だ。

 

それが分かるから、余計に腹が立つ。

 

ある夜、消灯前に携帯を開いて、メッセージ画面を出した。

 

何してんの。

 

打って、しばらく見た。

 

送るか迷う。

 

迷っている自分が馬鹿みたいだった。

 

結局、送った。

 

返事はなかった。

 

翌朝も、昼も、夜も。

 

ない。

 

訓練中、携帯は見られない。

それでも休憩のたびに、どうせ来ていないと分かっている画面を見た。

 

来ていない。

 

何してんだよ。

 

二日空けて、また送った。

 

おい。

 

返事はない。

 

さらに数日空けて、

 

生きてんの?

 

送ってから、すぐに後悔した。

 

心配しているみたいだった。

いや、している。

しているのが腹立たしい。

 

返事はなかった。

 

僕は携帯をベッドに投げた。

 

「何やってんだ、僕」

 

声に出してみると、余計に惨めだった。

 

同期には、彼女がいるとは言わなかった。

 

聞かれることはあった。

 

「足立、彼女いんの?」

「えー、僕? いないいない。そんな暇ないって」

「嘘くせぇ」

「ほんとだって。僕みたいなの、モテないし」

 

軽く流す。

 

真白のことを説明するのが面倒だった。

 

大学の同級生。

恋人。

犯罪者が好きで、僕の嫌なところを見て嬉しそうに笑う女。

僕が首を絞めても逃げずにキスしてきた女。

卒業祝いに高い腕時計を寄こして、ずっとつけててね、と言った女。

 

そんな説明、できるわけがない。

 

そもそも、彼女と言っていいのかも分からなくなっていた。

 

連絡がない。

 

僕から送っても返ってこない。

 

それでも腕時計はつけている。

 

馬鹿みたいだ。

 

何度か、連絡先を消そうとした。

 

携帯を開く。

真白の名前を選ぶ。

削除の画面まで行く。

 

そこで止まる。

 

消したら、完全に終わる気がした。

 

終わっているのかもしれない。

でも、こっちから終わらせるのは違う。

 

何が違うのか分からない。

 

分からないまま、僕はいつも携帯を閉じた。

 

警察学校の生活は、少しずつ僕を削っていった。

 

体力はついた。

規律にも慣れた。

拳銃訓練も、座学も、適当にこなした。

成績は悪くない。むしろ、そこそこ良かった。

 

それがまた面倒だった。

 

できてしまう。

できるから期待される。

期待されるから、期待される形を演じる。

 

「足立、お前はもっと真面目にやれば伸びるぞ」

 

教官がそう言った。

 

僕は笑った。

 

「いやぁ、僕なんかまだまだですよ」

 

内心では思う。

 

真面目にやって、何になるんだよ。

 

正しく努力して、正しく出世して、正しく人を守って、それで?

その先に何がある。

 

何もないだろ。

 

それでも、上に行けるなら行く。

落ちるよりはマシだ。

負けるよりはマシだ。

 

僕はそういう人間だった。

 

ある時期、同期の女と少し近くなった。

 

名前は、もう忘れた。

短い髪で、よく笑う女だった。体力訓練では負けず嫌いで、座学は少し苦手。飲み会のあと、僕にだけ愚痴をこぼすようになった。

 

「足立くんって、聞き上手だよね」

 

よく言われる。

 

聞いているふりが上手いだけだ。

 

相手が欲しい相槌を打って、少し笑って、少し自分を下げる。

そうすれば、相手は勝手に話してくれる。

 

そいつは、僕のことを優しいと思ったらしい。

 

優しい。

 

笑える。

 

ある夜、二人で飲んだ帰り、流れで部屋に行った。

 

寮ではない。

外泊許可を使った日だった。

 

安いホテルの部屋は、消臭剤と湿ったシーツと、誰かの煙草の残り香がした。壁は薄く、隣の部屋のテレビの音がかすかに聞こえた。

 

そいつは僕に抱きついてきた。

 

僕はそれを受け入れた。

 

別に嫌ではなかった。

見た目も悪くないし、好意もある。

普通なら、そこで適当に楽しめばいい。

実際、体は反応した。

 

でも、どうにも雑になった。

 

キスをしていても、息遣いを聞いていても、頭のどこかに真白の部屋があった。

 

醤油の匂い。

洗剤の匂い。

白いカーテン。

首に残った指の跡を嬉しそうに見ていた顔。

 

無性にイラついた。

そいつは痛いと言った。

僕は手を止めた。

 

「あ、ごめん」

 

口ではそう言った。

そいつは少し困ったように笑った。

 

「足立くん、なんか怖い」

 

その言葉で、急に冷めた。

 

怖い。

 

そうだろうな。

普通は怖がる。

 

真白みたいに笑ったりしない。

 

二度目はなかった。

 

同期の間で何か噂になったかもしれない。

でも、僕はいつも通り軽く振る舞った。彼女も馬鹿ではなかったから、必要以上には言わなかった。

 

ただ、そのあと彼女は僕を見ると少しだけ顔を逸らすようになった。

 

まあ、そうなるよね。

 

僕は自分の部屋に戻って、腕時計を外した。

 

机の上に置く。

 

文字盤を見る。

 

真白がくれた時計。

真白が落ち着くからと言った時計。

 

「聞いてんのかよ」

 

思わず呟いた。

 

馬鹿げている。

 

時計はただの時計だ。

向こうに聞こえるわけなんかない。

いや、真白なら何か仕込んでいてもおかしくないか。

 

そう思った瞬間、自分で笑った。

 

おかしいだろ、それ。

 

でも、完全に否定できない。

 

僕は腕時計を手に取った。

裏蓋を見る。

当然、何も分からない。

 

開けようと思えば開けられるのかもしれない。

調べればいい。

誰かに見せればいい。

 

しなかった。

 

もし何もなかったら、惨めだから。

もし何かあったら、もっと惨めだから。

 

結局、僕は腕時計をまた手首につけた。

 

冷たい金属が肌に触れて、少しずつ体温に馴染む。

 

「便利だからな」

 

誰に言うでもなく、そう呟いた。

 

それから、さらに連絡は途絶えた。

 

僕も送らなくなった。

 

送らなくなっただけで、忘れたわけではない。

 

警察学校を出て、配属が決まり、キャリアのレールに乗った。

周りはそれを羨ましがった。

 

「足立、すげぇじゃん」

「出世コース?」

「やっぱお前、要領いいよな」

 

僕は笑う。

 

「いやいや、たまたまだって」

 

内心では、少しだけ気分が良かった。

 

当然だ。

僕は馬鹿じゃない。

やればできる。

周りのやつらより、上手くやれる。

 

そう思っていた。

 

最初のうちは。

 

配属先では、周りもそれなりに賢かった。

 

賢いだけじゃない。

家柄、コネ、根回し、上司への見せ方、責任の押しつけ方。

都会の警察組織は、大学よりずっと面倒で、ずっと分かりやすく腐っていた。

 

僕はそこでも上手くやれるつもりだった。

 

実際、しばらくはやれた。

 

軽い顔で上司に合わせる。

同期には気を許したふりをする。

面倒な仕事は、適度に引き受け、適度に避ける。

自分より鈍いやつを見つければ、そいつの影に隠れる。

 

でも、上には上がいる。

 

僕みたいなやつが、僕より上手くやる場所だった。

 

足を引っ張られた。

失敗を押しつけられた。

上司に嫌われた。

言い訳もできたが、言い訳をするタイミングを間違えた。

 

少しずつ、レールがずれた。

 

そのずれは、最初は小さかった。

 

大丈夫だと思っていた。

取り戻せると思っていた。

 

でも、ずれたレールは戻らない。

 

 

最後に出た辞令を見たとき、僕はしばらく黙っていた。

 

稲羽市。

 

田舎。

地方。

左遷。

 

そして、真白の地元。

 

笑えた。

 

いや、笑えなかった。

 

「……何でよりにもよって」

 

一人の部屋で、辞令を見ながら呟いた。

 

壁には、特に何も貼っていない。都会の部屋は、真白の部屋より狭くて、居心地も悪かった。空気清浄機の乾いた匂いと、コンビニ弁当のプラスチック臭がしている。

 

手首の腕時計を見る。

 

まだつけている。

 

五年、いや六年近く経っているのに。

 

「地元だよな」

 

真白の。

 

生きてんのか、あいつ。

 

そう思った。

 

連絡先は、まだ消していない。

携帯を開けば、すぐに出せる。

 

稲羽に行くことになった、と送ればいい。

元気か、と送ればいい。

お前の地元に飛ばされたんだけど、と笑えばいい。

 

送らなかった。

 

どうせ返ってこない。

 

返ってこない画面を見るのは、もう嫌だった。

 

それに。

 

もし返ってきたら?

 

それはそれで、どうすればいいのか分からない。

 

僕は携帯を閉じた。

 

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