堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
足立透がテレビの中へ消えたあと、病院の休憩スペースには、奇妙な静けさが残った。
黒い画面は、何事もなかったようにそこにある。
さっきまで人間が沈んでいった場所とは思えないほど、ただのテレビの顔をしていた。
鳴上は、しばらく動けなかった。
足立が逃げた。
目の前で。
堂島の前で。
真白の前で。
自分たちの前で。
そして、最後に真白の手を掴み、離した。
連れていくように。
置いていくように。
その両方に見えた。
「……相棒」
花村の声で、鳴上は息を吸った。
追わなければならない。
ここで止まっている時間はなかった。
「行こう」
鳴上が言うと、千枝が頷いた。
「うん」
「今度こそ逃がさねぇ」
完二が低く吐き捨てる。
雪子は菜々子の病室の方を一度見た。
唇を噛み、それから前を見る。
りせは胸元を押さえたまま、黒い画面を睨んでいた。
「まだ近い。足立さんの気配、今なら追える」
直斗は周囲を確認してから、顔を上げる。
「ここから全員で入るのは危険です。ジュネスへ向かいましょう」
「そんな悠長なことしてる場合かよ」
花村が焦った声を出す。
「無理に入って帰れなくなったら、それこそ終わりです」
直斗の声は冷静だった。
冷静であろうとしている声だった。
鳴上は頷いた。
「ジュネスへ行く」
「悠」
低い声がした。
堂島が立っていた。
看護師に支えられながら、それでもこちらへ来ていた。顔色は悪い。事故の痛みも、菜々子の容態も、何もかもがその体にのしかかっているようだった。
それでも、目だけは鋭かった。
「今のは何だ」
誰も、すぐには答えられなかった。
鳴上は堂島を見る。
「あとで、全部話します」
「今言え」
堂島の声は低かった。
怒鳴る力は残っていない。
だからこそ、余計に重かった。
鳴上は少しだけ目を伏せ、それから言った。
「テレビの中に、人が入れます」
堂島の顔が強張る。
「……ふざけるな」
「ふざけてません」
「菜々子も」
堂島の声が掠れる。
鳴上は頷いた。
「そこから戻ってきました」
堂島の目が、黒いテレビへ向く。
足立が消えた場所。
菜々子が連れ去られた場所。
鳴上たちが、ずっと隠していた場所。
堂島は、怒りを飲み込むように息をした。
「お前ら、ずっと」
「すみません」
「謝って済む話か」
「済みません」
鳴上は真っ直ぐに言った。
堂島は鳴上を見た。
殴りたい顔だった。
怒鳴りたい顔だった。
けれど、病室の方から聞こえる機械音が、それを止めていた。
菜々子がいる。
今は、それがすべてだった。
「足立は、そこにいるんだな」
「はい」
「追えるんだな」
「追えます」
「戻ってこられるんだな」
鳴上は一拍だけ置いてから、答えた。
「戻ります」
堂島は目を閉じた。
長い沈黙だった。
それから、絞り出すように言う。
「……行け」
花村が息を呑む。
堂島は鳴上を睨む。
「ただし、全員戻ってこい」
「はい」
鳴上が頷く。
そのとき、真白が一歩前に出た。
「私も行く」
空気がわずかに張り詰める。
真白は黒いテレビを見ていた。
足立が消えた場所から、目を離さない。
その顔は落ち着いていた。
落ち着いているように見せていた。
けれど、指先はまだ小さく震えている。
「真白さんは、残ってください」
鳴上が言う。
真白は鳴上を見る。
「私なら、透と話せる」
「話せていたなら」
鳴上の声は低かった。
「止められたはずです」
真白の表情が、ほんの少しだけ止まった。
花村が鳴上を見る。
千枝も息を呑んだ。
雪子は何も言えず、ただ真白を見ていた。
鳴上は続ける。
「菜々子のそばにいてください」
真白は黙った。
それは頼みだった。
同時に、罰でもあった。
菜々子を守れなかった自分が、菜々子のそばに残る。
足立を追いたい自分が、足立の逃げた先を見られない。
真白には、それが分かった。
堂島が低く言う。
「真白」
真白は振り返る。
「お前は残れ」
「おじさん」
「菜々子のそばにいろ」
その声は命令だった。
だが、同時に縋っている声でもあった。
真白は堂島を見る。
疲れきった顔。
怒りを抱えたまま、娘の元に残らなければならない男の顔。
そして、病室の向こうに菜々子がいる。
一度止まった小さな呼吸が、かろうじて戻っている。
真白は目を伏せた。
「……分かった」
鳴上は短く頷いた。
「行こう」
花村たちが走り出す。
病院の廊下を、白い光が流れていく。
警備の警官や看護師たちが驚いたように道を開けた。
鳴上は一度だけ振り返った。
真白は、まだテレビを見ていた。
黒い画面。
足立が消えた場所。
その前に立つ真白は、まるで置き去りにされた人間のようだった。
だが、鳴上には分かっていた。
あの人は、置き去りにされたから泣く人ではない。
本当にいいのか。
「悠!」
花村の声が飛ぶ。
鳴上は前を向き、走った。
ジュネスの大型テレビから落ちた先で、りせとクマが足立の気配を探っていた。
そのあいだ、誰もほとんど喋らなかった。
花村は拳を握っていた。
「……小西先輩も」
誰に言うでもなく呟く。
「足立さんが」
千枝は黙っていた。
雪子も何も言えない。
完二は地面を睨んでいる。
直斗は目を閉じ、静かに頭の中で情報を組み直しているようだった。
りせが小さく言う。
「居たよ。足立さんの気配、追える」
鳴上は前を見ていた。
足立を止める。
それだけだった。
今は、それだけを考えなければならなかった。
菜々子のことを考えたら、足が止まる。
堂島の顔を思い出したら、息が詰まる。
真白の震えた手を思い出したら、何かが絡まる。
だから、今は足立だけを見る。
逃げた男を、連れ戻す。
「行くぞ」
鳴上が言う。
全員が頷いた。
病院に残った真白は、菜々子の病室の前にいた。
堂島は病室の中へ戻った。
医師の説明を聞き、菜々子の傍で何度も頷いている。
真白はその姿を、扉の外から見ていた。
中へ入ることはできた。
堂島も、真白を拒まないだろう。
けれど足が動かなかった。
菜々子のそばにいろ。
堂島の言葉が耳に残っている。
その通りだと思った。
そうするべきだと思った。
そうしなければならないとも思った。
それでも、足立が消えた黒い画面が頭から離れなかった。
透が逃げた。
テレビの中へ。
自分の知らないところへ。
真白は手を見た。
まだ、少し震えている。
ナースコールを押したときの震えが残っている。
醜いな、と思った。
自分の手が。
自分の迷いが。
菜々子のそばにいるべきだと分かりながら、足立の逃げた先を見たいと思っていることが。
真白は病室に背を向けた。
少しだけ。
ほんの少しだけ、確認するだけ。
そう自分に言い訳をした。
病院の廊下を戻る。
休憩スペースは、さっきよりさらに静かだった。
足立が消えたテレビが、そこにある。
黒い画面。
病院の蛍光灯を映し、真白自身の姿をぼんやり返している。
真白はテレビの前に立った。
「……透」
返事はない。
手を伸ばす。
指先が画面に触れる。
固い。
ただのガラスだった。
もう一度、触れる。
沈まない。
真白は少しだけ目を細める。
入れない。
分かっていたことだった。
自分は鳴上たちのように自由に中へ行けるわけではない。
足立や生田目のように、テレビに人を入れられるわけでもない。
見ることは好きなのに。
知ることは好きなのに。
そこへ入る資格はない。
真白は黒い画面に映る自分を見る。
「……そうだよね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
そのとき、画面の奥で何かが揺れた。