堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。   作:an-ryuka

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12.

 

鳴上たちが落ちた先は、稲羽だった。

 

いや、稲羽に似た場所だった。

 

濡れたアスファルト。

遠くに見えるジュネスの看板。

商店街の古いシャッター。

電柱に引っかかった、赤い布のような影。

空は暗く、雨は降っていないのに、地面だけが濡れている。

 

りせとクマは、先頭で霧の向こうを探っていた。

 

花村が周囲を見回す。

 

「ここ、稲羽……だよな?」

 

「似てるけど、違う」

 

千枝が呟く。

 

稲羽に似た街は、走るほど形を変えた。

 

商店街の先が、大学の講義棟の廊下に繋がっている。

雨上がりの埃っぽい匂い。

安い香水と缶コーヒーの匂い。

教室の中から、学生たちの声が聞こえる。

 

——どんな事情があっても、人を傷つけるのは許されないと思います。

 

——社会が救えなかった面もあるんじゃないかな。

 

その声の中に、足立の声が混じった。

 

——馬鹿だろ、こいつ。

 

花村が顔をしかめる。

 

「何だよ、これ」

 

直斗が落ちていた資料を拾い上げる。

 

刑事事件の判例。

赤いペンで線が引かれている。

 

責任能力。

動機。

社会的背景。

 

そのとき、廊下の奥から、真白の声が聞こえた。

 

——この人は、分かられたくなかったのかもしれません。

 

鳴上は足を止める。

 

真白の声だった。

 

——私はこの人、人間らしくて好きですよ。

 

千枝が小さく呟く。

 

「真白さん……」

 

講義棟の廊下が歪む。

 

次の瞬間、そこは狭い部屋になった。

 

白いカーテン。

低いテーブル。

小さなキッチン。

ソファ。

ベッド。

 

真白のアパートに似ている。

だが、少し古い。

鳴上が菜々子を連れて行った部屋とは、家具の配置も空気も少し違っていた。

 

大学時代の真白の部屋なのだろう。

 

テーブルの上には肉じゃがが置かれている。

湯気が立っている。

味噌汁の匂い。

醤油と砂糖の甘い匂い。

 

だが、窓の外には稲羽署の廊下が見える。

ソファの横には警察学校の予定表が貼られている。

床には病院の白いタイルが混ざっている。

 

場所が、記憶が、無理やり縫い合わされている。

 

「……真白さんの部屋だ」

 

鳴上が言った。

 

花村が振り返る。

 

「悠、分かるのか」

 

「今の部屋に似てる。でも、違う」

 

完二が舌打ちした。

 

「何なんだよ。足立の場所なのに、あの人の部屋ばっかじゃねぇか」

 

 

 

病院の休憩スペースで、真白は黒いテレビの前に立っていた。

 

画面の奥で何かが揺れている。

 

砂嵐ではなかった。

白い霧が、黒いガラスの向こうに広がっていく。

 

真白は息を止める。

 

霧の向こうに、人影が立っていた。

 

くたびれたスーツ。

気だるげな立ち方。

薄い笑み。

 

足立透。

 

けれど、違う。

 

本物より、目がよく笑っている。

本物より、声に迷いがない。

本物より、真白を見ることを隠していない。

 

「真白」

 

画面の向こうの足立が言った。

 

「来ないの?」

 

真白は黒い画面を見つめる。

 

「入りたいけど、入れないみたい」

 

影の足立は笑った。

 

「真白らしくないね」

 

「そう?」

 

「見たいものがあるなら、もっと無理するでしょ」

 

真白は自分の指先を見る。

何度触れても、画面は沈まなかった。

 

「してる」

 

「足りないんじゃない?」

 

影は楽しそうに首を傾げる。

 

真白は問う。

 

「あなたは透?」

 

「さぁ。どう見える?」

 

「透より素直」

 

「ひどいなぁ」

 

影は嬉しそうに笑う。

 

「でも、そういうところ、好きでしょ」

 

真白は否定しなかった。

 

「うん」

 

影の足立は満足そうに目を細めた。

 

「ほら。やっぱり真白はこっち側だ」

 

画面の奥から、手が伸びる。

 

普通なら届くはずのない距離だった。

けれどその手は、黒い画面を越えて、真白の手首を掴んだ。

 

冷たくはない。

熱くもない。

ただ、現実から切り離される感覚。

 

真白は抵抗しなかった。

 

「透が呼んでるの?」

 

「呼んでないよ」

 

影は笑う。

 

「僕は呼べないから、僕が呼ぶんだよ」

 

真白は少し笑った。

 

「そう」

 

病院の休憩スペースが遠ざかる。

蛍光灯の白い光が滲む。

消毒液の匂いが薄れる。

 

最後に、病室の方から聞こえる機械音が小さく残る。

 

菜々子のそばにいろ。

 

堂島の声が、遠くなる。

 

次の瞬間、真白の体は画面の中へ引き込まれた。

 

 

 

りせが目を閉じる。

 

「足立さんの気配は、もっと奥。でも……」

 

そこで、りせの表情が変わった。

 

「増えた」

 

「増えた?」

 

鳴上が聞く。

 

りせは顔を上げる。

 

「真白さん……? うん。真白さんの気配。今、こっちに入ってきた」

 

鳴上の胸が冷えた。

 

置いてきたはずだった。

 

菜々子のそばに残ってください、と言った。

堂島も残れと言った。

真白は分かったと答えた。

 

それなのに。

 

「何でだよ……!」

 

花村が歯を食いしばる。

 

「てかどうやって来たんだよ、あの人!」

 

鳴上は答えなかった。

 

自分が休憩スペースを振り返ったときに浮かんだ言葉が、頭に戻る。

 

本当にいいのか。これで。

 

「急ごう」

 

鳴上は言った。

 

「真白さんも探す」

 

「足立を追うんじゃないのかよ」

 

花村が焦ったように言う。

 

「両方だ」

 

鳴上は前を向く。

 

「どちらも、ここにいる」

 

その時部屋の奥の扉が、勝手に開いた。

 

声がした。

 

「そうだよ」

 

全員が振り返る。

 

部屋の中に、足立透が立っていた。

 

くたびれたスーツ。

気だるげな姿勢。

薄い笑み。

 

だが鳴上は、すぐに違うと分かった。

 

本物より、目がよく笑っている。

本物より、言葉に迷いがない。

本物より、こちらを見ても何も隠そうとしない。

 

そして、その隣に真白がいた。

 

真白は、影の足立の少し後ろに立っている。

怯えた様子はない。

むしろ、興味深そうに部屋を見ていた。

 

花村が叫ぶ。

 

「真白さん!」

 

真白はゆっくり顔を上げる。

 

「悠くんたちも来たんだ」

 

鳴上は剣を握り直す。

 

「どうしてここに」

 

「呼ばれたから」

 

「誰に」

 

真白は隣の足立を見る。

 

目の前の足立が軽く手を上げた。

 

「僕」

 

千枝が身構える。

 

「あんた、足立さんじゃない」

 

「ひどいなぁ。足立透だよ?」

 

直斗が前に出る。

 

「シャドウ、ですか」

 

影の足立は笑う。

 

「さぁ? そう見えるなら、そうなんじゃない?」

 

鳴上は真白を見る。

 

「真白さん、こちらへ」

 

影の足立が楽しそうに目を細める。

 

「ねぇ、鳴上くん」

 

その声は軽かった。

軽いのに、足元の霧を黒くするような響きがあった。

 

「真白を味方だと思ってた?」

 

鳴上は答えなかった。

 

影は続ける。

 

「残念。真白は最初から、こっち側だよ」

 

「違います」

 

鳴上が言う。

 

「違う?」

 

影は笑った。

 

「犯罪者が好きで、人が踏み外すところを見たくて、僕が落ちるのを待ってて、二人死んだあとに、僕を呼びつけた女が?」

 

真白の目が、ほんの少しだけ動いた。

 

花村が真白を見る。

 

「二人目って……」

 

影の足立は、嬉しそうに続ける。

 

「小西早紀」

 

花村の顔が変わった。

 

鳴上が一歩前に出る。

 

「足立さん」

 

「ん?」

 

「本物はどこですか」

 

「さぁね。逃げるの、得意だから」

 

影は肩をすくめる。

 

「でも、真白が来たなら出てくるかも」

 

 

そのとき、霧の奥から足音がした。

確かにこちらへ向かってくる足音。

 

真白が顔を上げる。

 

本物の足立透が現れた。

 

顔色が悪かった。

スーツは乱れ、髪も崩れている。呼吸は少し荒い。

だが目だけは鋭く、真白と影の足立を見た瞬間、明らかな苛立ちが走った。

 

「……何やってんだよ」

 

声は低かった。

 

影の足立が振り返る。

 

「遅かったね、僕」

 

「黙れ」

 

本物の足立は影を睨み、それから鳴上を見る。

 

「鳴上くん。もう来てたんだ。ほんと、ヒーロー気取りだねぇ」

 

その口調は、いつもの足立に似せていた。

けれど、奥にいる真白へ視線が向いた瞬間、崩れた。

 

「真白」

 

名前だけで、温度が変わる。

 

「……なんで来てんだよ」

 

鳴上が動く。

 

「真白さん、下がってください」

 

足立は鳴上を見なかった。

近づいて真白の腕を掴む。

 

強い。

逃がす気のない手だった。

 

真白は掴まれた腕を見下ろす。

痛い。

けれど、振りほどく気はなかった。

 

むしろ、胸の奥が甘く疼いた。

 

「足立さん!」

 

鳴上が一歩踏み出す。

 

足立はようやく鳴上を見る。

 

笑っていた。

だが、目は笑っていなかった。

 

「悪いけど、ここから先は部外者お断りなんだよね」

 

「真白さんを離してください」

 

「嫌だね」

 

影の足立が楽しそうに笑った。

 

「僕、必死じゃん」

 

「黙ってろって言ってんだろ!」

 

本物の足立の声が荒れる。

その一瞬に、影の足立の笑みが深くなった。

 

「図星?」

 

足立は影を睨む。

だが、真白の腕を離さない。

 

鳴上の視線が真白に向く。

 

「真白さん」

 

真白は鳴上に向かって、少しだけ笑った。

 

「大丈夫だから」

 

「大丈夫じゃありません」

 

「悠くんは、透を止めに来たんでしょ」

 

鳴上は黙る。

 

「私は、透と話す」

 

「今、それを信じる理由がありません」

 

鳴上の声は静かだった。

だが、そこには明確な拒絶があった。

 

真白は少しだけ目を細める。

 

「そうだね」

 

足立が真白の腕を引く。

 

霧の奥に、扉が開いていた。

その向こうには、また部屋がある。

真白の部屋に似た場所。

大学時代の部屋とも、今のアパートともつかない、足立の記憶が作った部屋。

 

鳴上が追おうとする。

 

影の足立が、その前に立った。

 

「行かせないよ」

 

「どいてください」

 

「やだなぁ。そんな怖い顔して」

 

影は笑う。

 

「君たち、正義の味方なんでしょ? だったらまず、僕の話も聞いてよ」

 

鳴上は剣を構える。

 

花村が横に立つ。

千枝も、雪子も、完二も、直斗も前に出る。

りせが後ろで息を呑む。

 

真白は最後に一度だけ、鳴上を見た。

 

その目には、助けを求める色がなかった。

 

むしろ、欲しい場所へ連れていかれる人間の顔だった。

 

鳴上は歯を食いしばる。

 

足立が真白を連れて、扉の向こうへ入る。

 

扉が閉まる直前、真白は本物の足立に言った。

 

「迎えに来てくれたんだ」

 

足立の返事は、低く、苦かった。

 

「……お前が勝手に来たんだろ」

 

扉が閉まった。

 

 

霧の中に、鳴上たちと影の足立だけが残る。

 

影の足立は肩をすくめた。

 

「さて」

 

その声が、薄く笑う。

 

「じゃあ、鳴上くん。僕たちは僕たちで話そうか」

 

霧が濃くなる。

 

真白が連れていかれた部屋の灯りだけが、遠くでぽつりと点いていた。

 

鳴上はその灯りを見た。

 

真白は、足立を止めに行ったのではない。

助けられに行ったのでもない。

 

見に行った。

 

そして足立は、それを分かっていて連れていった。

 

鳴上は剣を握り直す。

 

影の足立が笑った。

 

「いい顔するねぇ」

 

黒い霧が足元を這う。

 

「君もさ、本当は分かってるんじゃない?」

 

「何を」

 

「人間なんて、そんな綺麗に分けられないってこと」

 

影は軽やかに言う。

 

「真白は足立透を止めたい。助けたい。見たい。飼いたい。逃がしたくない。全部本当。君たちが正しいのも本当。僕が最低なのも本当」

 

鳴上は答えなかった。

 

影は笑う。

 

「だから面白いんだよ」

 

霧の中で、無数のテレビ画面が点いた。

 

山野アナの輪郭。

小西早紀の影。

堂島家の食卓。

病室の白い光。

腕時計の秒針。

真白の部屋。

 

そして、足立透の薄い笑み。

 

影は両手を広げる。

 

「さぁ。正義の味方らしく、僕を倒してみなよ」

 

鳴上は前へ出た。

 

「倒すだけじゃありません」

 

影の足立が目を細める。

 

「連れ戻します」

 

「どこに?」

 

「現実に」

 

影は笑った。

 

「ひどいなぁ」

 

黒い霧が膨れ上がる。

 

「そんなところ、僕が一番嫌いなのに」

 

次の瞬間、影が弾けるように動いた。

 

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