堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
鳴上たちが落ちた先は、稲羽だった。
いや、稲羽に似た場所だった。
濡れたアスファルト。
遠くに見えるジュネスの看板。
商店街の古いシャッター。
電柱に引っかかった、赤い布のような影。
空は暗く、雨は降っていないのに、地面だけが濡れている。
りせとクマは、先頭で霧の向こうを探っていた。
花村が周囲を見回す。
「ここ、稲羽……だよな?」
「似てるけど、違う」
千枝が呟く。
稲羽に似た街は、走るほど形を変えた。
商店街の先が、大学の講義棟の廊下に繋がっている。
雨上がりの埃っぽい匂い。
安い香水と缶コーヒーの匂い。
教室の中から、学生たちの声が聞こえる。
——どんな事情があっても、人を傷つけるのは許されないと思います。
——社会が救えなかった面もあるんじゃないかな。
その声の中に、足立の声が混じった。
——馬鹿だろ、こいつ。
花村が顔をしかめる。
「何だよ、これ」
直斗が落ちていた資料を拾い上げる。
刑事事件の判例。
赤いペンで線が引かれている。
責任能力。
動機。
社会的背景。
そのとき、廊下の奥から、真白の声が聞こえた。
——この人は、分かられたくなかったのかもしれません。
鳴上は足を止める。
真白の声だった。
——私はこの人、人間らしくて好きですよ。
千枝が小さく呟く。
「真白さん……」
講義棟の廊下が歪む。
次の瞬間、そこは狭い部屋になった。
白いカーテン。
低いテーブル。
小さなキッチン。
ソファ。
ベッド。
真白のアパートに似ている。
だが、少し古い。
鳴上が菜々子を連れて行った部屋とは、家具の配置も空気も少し違っていた。
大学時代の真白の部屋なのだろう。
テーブルの上には肉じゃがが置かれている。
湯気が立っている。
味噌汁の匂い。
醤油と砂糖の甘い匂い。
だが、窓の外には稲羽署の廊下が見える。
ソファの横には警察学校の予定表が貼られている。
床には病院の白いタイルが混ざっている。
場所が、記憶が、無理やり縫い合わされている。
「……真白さんの部屋だ」
鳴上が言った。
花村が振り返る。
「悠、分かるのか」
「今の部屋に似てる。でも、違う」
完二が舌打ちした。
「何なんだよ。足立の場所なのに、あの人の部屋ばっかじゃねぇか」
病院の休憩スペースで、真白は黒いテレビの前に立っていた。
画面の奥で何かが揺れている。
砂嵐ではなかった。
白い霧が、黒いガラスの向こうに広がっていく。
真白は息を止める。
霧の向こうに、人影が立っていた。
くたびれたスーツ。
気だるげな立ち方。
薄い笑み。
足立透。
けれど、違う。
本物より、目がよく笑っている。
本物より、声に迷いがない。
本物より、真白を見ることを隠していない。
「真白」
画面の向こうの足立が言った。
「来ないの?」
真白は黒い画面を見つめる。
「入りたいけど、入れないみたい」
影の足立は笑った。
「真白らしくないね」
「そう?」
「見たいものがあるなら、もっと無理するでしょ」
真白は自分の指先を見る。
何度触れても、画面は沈まなかった。
「してる」
「足りないんじゃない?」
影は楽しそうに首を傾げる。
真白は問う。
「あなたは透?」
「さぁ。どう見える?」
「透より素直」
「ひどいなぁ」
影は嬉しそうに笑う。
「でも、そういうところ、好きでしょ」
真白は否定しなかった。
「うん」
影の足立は満足そうに目を細めた。
「ほら。やっぱり真白はこっち側だ」
画面の奥から、手が伸びる。
普通なら届くはずのない距離だった。
けれどその手は、黒い画面を越えて、真白の手首を掴んだ。
冷たくはない。
熱くもない。
ただ、現実から切り離される感覚。
真白は抵抗しなかった。
「透が呼んでるの?」
「呼んでないよ」
影は笑う。
「僕は呼べないから、僕が呼ぶんだよ」
真白は少し笑った。
「そう」
病院の休憩スペースが遠ざかる。
蛍光灯の白い光が滲む。
消毒液の匂いが薄れる。
最後に、病室の方から聞こえる機械音が小さく残る。
菜々子のそばにいろ。
堂島の声が、遠くなる。
次の瞬間、真白の体は画面の中へ引き込まれた。
りせが目を閉じる。
「足立さんの気配は、もっと奥。でも……」
そこで、りせの表情が変わった。
「増えた」
「増えた?」
鳴上が聞く。
りせは顔を上げる。
「真白さん……? うん。真白さんの気配。今、こっちに入ってきた」
鳴上の胸が冷えた。
置いてきたはずだった。
菜々子のそばに残ってください、と言った。
堂島も残れと言った。
真白は分かったと答えた。
それなのに。
「何でだよ……!」
花村が歯を食いしばる。
「てかどうやって来たんだよ、あの人!」
鳴上は答えなかった。
自分が休憩スペースを振り返ったときに浮かんだ言葉が、頭に戻る。
本当にいいのか。これで。
「急ごう」
鳴上は言った。
「真白さんも探す」
「足立を追うんじゃないのかよ」
花村が焦ったように言う。
「両方だ」
鳴上は前を向く。
「どちらも、ここにいる」
その時部屋の奥の扉が、勝手に開いた。
声がした。
「そうだよ」
全員が振り返る。
部屋の中に、足立透が立っていた。
くたびれたスーツ。
気だるげな姿勢。
薄い笑み。
だが鳴上は、すぐに違うと分かった。
本物より、目がよく笑っている。
本物より、言葉に迷いがない。
本物より、こちらを見ても何も隠そうとしない。
そして、その隣に真白がいた。
真白は、影の足立の少し後ろに立っている。
怯えた様子はない。
むしろ、興味深そうに部屋を見ていた。
花村が叫ぶ。
「真白さん!」
真白はゆっくり顔を上げる。
「悠くんたちも来たんだ」
鳴上は剣を握り直す。
「どうしてここに」
「呼ばれたから」
「誰に」
真白は隣の足立を見る。
目の前の足立が軽く手を上げた。
「僕」
千枝が身構える。
「あんた、足立さんじゃない」
「ひどいなぁ。足立透だよ?」
直斗が前に出る。
「シャドウ、ですか」
影の足立は笑う。
「さぁ? そう見えるなら、そうなんじゃない?」
鳴上は真白を見る。
「真白さん、こちらへ」
影の足立が楽しそうに目を細める。
「ねぇ、鳴上くん」
その声は軽かった。
軽いのに、足元の霧を黒くするような響きがあった。
「真白を味方だと思ってた?」
鳴上は答えなかった。
影は続ける。
「残念。真白は最初から、こっち側だよ」
「違います」
鳴上が言う。
「違う?」
影は笑った。
「犯罪者が好きで、人が踏み外すところを見たくて、僕が落ちるのを待ってて、二人死んだあとに、僕を呼びつけた女が?」
真白の目が、ほんの少しだけ動いた。
花村が真白を見る。
「二人目って……」
影の足立は、嬉しそうに続ける。
「小西早紀」
花村の顔が変わった。
鳴上が一歩前に出る。
「足立さん」
「ん?」
「本物はどこですか」
「さぁね。逃げるの、得意だから」
影は肩をすくめる。
「でも、真白が来たなら出てくるかも」
そのとき、霧の奥から足音がした。
確かにこちらへ向かってくる足音。
真白が顔を上げる。
本物の足立透が現れた。
顔色が悪かった。
スーツは乱れ、髪も崩れている。呼吸は少し荒い。
だが目だけは鋭く、真白と影の足立を見た瞬間、明らかな苛立ちが走った。
「……何やってんだよ」
声は低かった。
影の足立が振り返る。
「遅かったね、僕」
「黙れ」
本物の足立は影を睨み、それから鳴上を見る。
「鳴上くん。もう来てたんだ。ほんと、ヒーロー気取りだねぇ」
その口調は、いつもの足立に似せていた。
けれど、奥にいる真白へ視線が向いた瞬間、崩れた。
「真白」
名前だけで、温度が変わる。
「……なんで来てんだよ」
鳴上が動く。
「真白さん、下がってください」
足立は鳴上を見なかった。
近づいて真白の腕を掴む。
強い。
逃がす気のない手だった。
真白は掴まれた腕を見下ろす。
痛い。
けれど、振りほどく気はなかった。
むしろ、胸の奥が甘く疼いた。
「足立さん!」
鳴上が一歩踏み出す。
足立はようやく鳴上を見る。
笑っていた。
だが、目は笑っていなかった。
「悪いけど、ここから先は部外者お断りなんだよね」
「真白さんを離してください」
「嫌だね」
影の足立が楽しそうに笑った。
「僕、必死じゃん」
「黙ってろって言ってんだろ!」
本物の足立の声が荒れる。
その一瞬に、影の足立の笑みが深くなった。
「図星?」
足立は影を睨む。
だが、真白の腕を離さない。
鳴上の視線が真白に向く。
「真白さん」
真白は鳴上に向かって、少しだけ笑った。
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃありません」
「悠くんは、透を止めに来たんでしょ」
鳴上は黙る。
「私は、透と話す」
「今、それを信じる理由がありません」
鳴上の声は静かだった。
だが、そこには明確な拒絶があった。
真白は少しだけ目を細める。
「そうだね」
足立が真白の腕を引く。
霧の奥に、扉が開いていた。
その向こうには、また部屋がある。
真白の部屋に似た場所。
大学時代の部屋とも、今のアパートともつかない、足立の記憶が作った部屋。
鳴上が追おうとする。
影の足立が、その前に立った。
「行かせないよ」
「どいてください」
「やだなぁ。そんな怖い顔して」
影は笑う。
「君たち、正義の味方なんでしょ? だったらまず、僕の話も聞いてよ」
鳴上は剣を構える。
花村が横に立つ。
千枝も、雪子も、完二も、直斗も前に出る。
りせが後ろで息を呑む。
真白は最後に一度だけ、鳴上を見た。
その目には、助けを求める色がなかった。
むしろ、欲しい場所へ連れていかれる人間の顔だった。
鳴上は歯を食いしばる。
足立が真白を連れて、扉の向こうへ入る。
扉が閉まる直前、真白は本物の足立に言った。
「迎えに来てくれたんだ」
足立の返事は、低く、苦かった。
「……お前が勝手に来たんだろ」
扉が閉まった。
霧の中に、鳴上たちと影の足立だけが残る。
影の足立は肩をすくめた。
「さて」
その声が、薄く笑う。
「じゃあ、鳴上くん。僕たちは僕たちで話そうか」
霧が濃くなる。
真白が連れていかれた部屋の灯りだけが、遠くでぽつりと点いていた。
鳴上はその灯りを見た。
真白は、足立を止めに行ったのではない。
助けられに行ったのでもない。
見に行った。
そして足立は、それを分かっていて連れていった。
鳴上は剣を握り直す。
影の足立が笑った。
「いい顔するねぇ」
黒い霧が足元を這う。
「君もさ、本当は分かってるんじゃない?」
「何を」
「人間なんて、そんな綺麗に分けられないってこと」
影は軽やかに言う。
「真白は足立透を止めたい。助けたい。見たい。飼いたい。逃がしたくない。全部本当。君たちが正しいのも本当。僕が最低なのも本当」
鳴上は答えなかった。
影は笑う。
「だから面白いんだよ」
霧の中で、無数のテレビ画面が点いた。
山野アナの輪郭。
小西早紀の影。
堂島家の食卓。
病室の白い光。
腕時計の秒針。
真白の部屋。
そして、足立透の薄い笑み。
影は両手を広げる。
「さぁ。正義の味方らしく、僕を倒してみなよ」
鳴上は前へ出た。
「倒すだけじゃありません」
影の足立が目を細める。
「連れ戻します」
「どこに?」
「現実に」
影は笑った。
「ひどいなぁ」
黒い霧が膨れ上がる。
「そんなところ、僕が一番嫌いなのに」
次の瞬間、影が弾けるように動いた。