堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
扉が閉まると、外の霧の音が遠くなった。
真白は腕を掴まれたまま、部屋の中へ連れ込まれる。足立の手は強い。痛いくらいだった。逃がす気がないのが分かる握り方で、それだけで真白の胸の奥が少しだけ甘く疼いた。
部屋は、真白のものだった。
大学時代のワンルーム。
キッチンには鍋が置かれている。中身は見えないのに、焦げかけた醤油と肉じゃがの甘い匂いだけが立っていた。 テーブルには二人分の箸。ソファの背には、足立が昔よく雑に脱ぎ捨てていた上着に似たものがかかっている。
ベッドのシーツは白く、妙に乱れていて、誰かがさっきまでそこにいたみたいだった。
「……本当に、よく覚えてるね」
真白が言うと、足立は乱暴に腕を離した。
「黙れよ」
声が低い。
外で使う、軽くて薄い声ではなかった。
真白は掴まれていた腕を見た。
指の跡がうっすら残っている。
赤くなったところを親指でなぞると、足立が嫌そうに顔を歪めた。
「何してんだよ」
「跡、ついたなって」
「だから何」
「嬉しい」
足立の顔が、さらに歪む。
「お前、ほんと……」
言いかけて、やめる。
言い飽きた言葉だったのだろう。
真白は部屋を見回した。
「ここ、透の中なんだね」
「見りゃ分かるだろ」
「私の部屋ばっかり」
「……勝手にそうなってんだよ」
「そう」
真白は小さく笑った。
「うれしい」
「うれしがるな」
足立は苛立ったように髪をかき上げる。
手首の腕時計が、霧の薄明かりを受けて鈍く光った。
それを見て、真白は目を細める。
「まだつけてる」
「……便利だからだって言ってんだろ」
「ここでも?」
足立は黙った。
現実ではない。
ここに時間の概念があるかは分からない。
時計が必要ないのならば、それはただの執着であり、手放せなかったものだ。
真白はそれを言葉にしなかった。
言葉にしたら、足立はきっと怒る。
怒るところも見たいが、今はまだ早い。
部屋の外から、何かがぶつかる音がした。
鳴上たちと影が戦っているのだろう。
霧が壁の隙間から薄く流れ込んでくる。
真白はその音を聞いて、少しだけ笑った。
「悠くん、強いね」
「……」
「羨ましい?」
足立の視線が鋭く戻る。
「何が」
「正しくて、強くて、仲間がいて、菜々子ちゃんにも懐かれてて、おじさんにも信頼されてる」
「うるさい」
「透が欲しかったもの、結構持ってるよね」
足立が真白の胸倉を掴んだ。
「黙れって言ってんだろ」
真白は抵抗しなかった。
胸元を掴まれたまま、足立を見上げる。
「怒った?」
「当たり前だろ」
「図星?」
足立の指に力が入る。
「お前さぁ、何しに来たわけ」
声が震えていた。
怒りで。
恐怖で。
それとも、見透かされたくなさで。
「僕を助けに来た? それとも見せ物? どっち?」
真白は瞬きもせずに答えた。
「両方」
足立が息を止める。
「私は透を助けたい。でも、透がどこまで落ちるかも見たい」
「……」
「捕まってほしくない。でも、捕まった透も見たい」
「……」
「私だけを選んでほしい。でも、私以外を全部捨てるところも見たい」
足立の顔から、少しずつ表情が抜けていく。
真白は胸倉を掴まれたまま、柔らかく笑った。
「良い恋人じゃないね」
「最低だな」
「うん」
「ほんと、最低だ」
「透もでしょ」
足立は手を離した。
突き放すような動きだった。真白は一歩よろけるが、倒れなかった。
「僕は……」
足立は言いかけて、口を閉じた。
僕は違う。
そう言うには、もう遅すぎる。
部屋の奥のテレビが、ひとりでに点いた。
砂嵐。
その中に、山野アナの顔が揺れる。
次に、小西早紀。
二人とも、はっきりした映像ではない。濡れた紙の上に描いた顔みたいに、輪郭が滲んでいる。
足立は見ないように顔を背けた。
真白は見た。
「透」
「見るな」
「見てるのは私じゃなくて、透でしょ」
「黙れ」
テレビの砂嵐が強くなる。
小西早紀の声のようなものが混じる。言葉にはならない。責めているのか、泣いているのか、笑っているのかも分からない。
足立は耳を塞がなかった。
ただ、顔を歪めた。
「殺す気なんてなかった」
「うん」
「テレビに入れたら死ぬなんて、分かるわけない」
「うん」
「僕は……ただ、ムカついただけで」
「うん」
「ちょっと、脅かしてやろうって」
「うん」
「……死ぬなんて」
「でも死んだ」
足立の呼吸が止まる。
真白は、そこだけは逃がさない。
「透が入れて、死んだ」
足立は真白を睨んだ。
泣きそうな顔ではない。
殺しそうな顔でもない。
ただ、逃げ道を塞がれた人間の顔だった。
「お前がそれ言うんだ」
「私が言うよ」
「僕の味方じゃなかったのかよ」
「味方だよ」
「じゃあ何で」
「味方だから、言う」
真白は一歩近づいた。
「透は殺したかったわけじゃない。けど、死んでもいいくらいには思ってた」
「違う」
「違わない」
「違う!」
足立の声が部屋を揺らした。
その瞬間、扉の向こうで、影の足立の笑い声が、ここまで響いてくる。
『違わないよ』
本物の足立が扉を見る。
『だって僕、ちゃんと思ってたもん。あんな女、消えればいい。あんな子、泣けばいい。こいつらみんな、自分が特別だと思って生きてる。だったら落ちればいい。誰も見てないところで、ぐちゃぐちゃになればいい』
影の声は、楽しそうだった。
『ねぇ、僕。何でそんな顔してんの? 僕、ずっとそうだったじゃん』
足立の顎が震える。
真白は扉を見た。
それから、本物の足立を見た。
「透」
「……」
「受け入れなよ」
足立は、信じられないものを見るように真白を見た。
「お前まで、それ言うわけ」
「うん」
「僕があれを認めたら、どうなると思ってんの」
「透になる」
「今も僕だろ!」
「半分くらい」
足立は笑った。
ひどく乾いた、壊れかけた笑いだった。
「やっぱりお前、僕を助けに来たんじゃないだろ」
「助けに来たよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
真白は足立の腕時計に触れた。
今度は許可を取らず、革ベルトの上から手首を握る。
「透が自分で自分を見ないなら、誰のところにも戻れない」
「戻るところなんかない」
「あるよ」
「どこに」
真白は足立を見上げた。
「私のところ」
足立は黙った。
その顔が、ほんの一瞬だけ歪む。
怒りでも嫌悪でもなく、縋りたい気持ちが漏れたような歪み。
真白はそれを見て、嬉しいと思った。
本当に、嬉しいと思った。
かわいそうだとは思わなかった。
救いたいとも、正しい意味では思わなかった。
ただ、足立が自分のところにしか戻れないなら、それはとてもいいことだと思った。
真白には分かっていた。
自分には、影は出ない。
「透」
真白は囁くように言った。
「逃げたいなら、私のところに逃げて」
足立の目が揺れる。
「一人では逃がさない」
「……檻じゃん」
「うん」
「否定しろよ」
「こういう時に嘘はつかないの」
足立は笑った。
泣きそうな顔で、笑った。
「ほんと、嫌な女」
「知ってる」
扉が軋んだ。
外の戦いが近づいている。
影の足立が押されているのか、あるいはわざとこちらへ導いているのか。
足立は腕時計を握ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、低く言う。
「……僕があれを受け入れたら」
「うん」
「お前、引かないの」
真白は笑った。
「今さら?」
足立も笑った。
今度の笑いは少しだけ、本物だった。
「そうだよな。今さらだ」
扉の外では、霧が黒く渦巻いていた。
鳴上たちは影の足立と向き合っている。
影は軽やかに動き、攻撃をかわしながら笑っていた。
「遅い遅い。そんなので僕を捕まえるつもり?」
花村が斬りかかる。
影は半歩で避ける。
「小西先輩を……!」
「まだ怒ってるんだ」
影は笑う。
「いいねぇ。君、分かりやすくて好きだよ。大事な先輩を殺されて怒ってる。うん、正しい正しい」
「てめぇ!」
花村の攻撃が荒くなる。
鳴上が横から入る。
「陽介、落ち着け!」
「落ち着けるかよ!」
「足元!」
りせの声が響く。
黒い霧が足元から絡みつく。
千枝が蹴りで霧を散らし、雪子の炎がその隙間を焼いた。
直斗が影の動きを読む。
「彼は挑発しています。怒りで動きを乱させるつもりです」
「分かってるよ!」
花村は叫ぶ。
だが、呼吸は荒い。
影の足立は楽しそうに首を傾げた。
「ねぇ、鳴上くん」
鳴上は答えず、剣を構える。
「君は怒らないの?」
影は笑う。
「真白は生田目を見誤った。生田目が菜々子ちゃんを連れていった。僕は山野アナと小西早紀を入れただけ」
霧の中に、堂島家の食卓が浮かぶ。
菜々子の小さな椅子。
鳴上が拭いた皿。
真白の作った卵焼き。
足立の前に置かれた缶ビール。
「楽しかったよねぇ、あの家」
影が言う。
「何も知らない菜々子ちゃんが笑ってさ。堂島さんが疲れた顔で飯食ってさ。真白が家族みたいな顔してさ。僕も、そこにいた」
鳴上の手に力が入る。
影は嬉しそうに続ける。
「君は思わなかった? この人たちを守りたいって。なのに、全部嘘だったんだよ。僕も、真白も、ずっと何か隠してた」
「真白さんは」
鳴上が口を開く。
「菜々子を傷つけようとはしていない」
影が笑う。
「でも傷ついた」
鳴上の目が鋭くなる。
「それと、あなたがしたことは別です」
影は初めて、少しだけ笑みを薄くした。
「つまんないなぁ」
「つまらなくて結構です」
鳴上は前へ踏み出す。
「あなたを倒すために来たんじゃありません」
「へぇ?」
「足立さんを、現実に戻すために来ました」
影はしばらく鳴上を見た。
それから、肩を震わせて笑い始めた。
「あはは。現実」
その声が、霧の中に広がる。
「現実って、あの病院? 菜々子ちゃんが死にかけた場所? 堂島さんが足立透を見る場所? 真白が僕を囲おうとする場所?」
直斗が眉を寄せる。
「囲う?」
影は笑う。
「そういう女だよ、真白は。救うんじゃない。逃がさない。自分の手の届くところに置きたいだけ」
「それでも」
雪子が静かに言った。
影が雪子を見る。
「それでも、菜々子ちゃんの前で震えてた」
千枝が続ける。
「最低でも、全部嘘じゃない」
完二が舌打ちする。
「人間なんて、そんな簡単に白黒つくもんじゃねぇだろ」
影の目が細くなる。
鳴上は剣を構えた。
「足立さんは、あなたを否定している」
「そうだね」
影は楽しそうに言った。
「でも、そろそろ無理だと思うよ」
その言葉と同時に、奥の扉が開いた。
霧と一緒に、真白と本物の足立が現れる。
足立は真白の前に立っていた。
守るようにも、隠すようにも見える位置。
真白はその背中を見る。
細い背中だと思った。
大学のころより痩せている気がした。警察官の制服やスーツで誤魔化しているが、この人はずっと擦り減っていた。
影の足立は、本物を見る。
同じ顔。
同じ声。
違うのは、逃げているか、逃げることをやめているか。
影が楽しそうに手を広げた。
「で? どうするの、僕。僕を否定する? 鳴上くんたちみたいに、綺麗に乗り越えてみる?」
本物の足立はしばらく黙っていた。
それから、笑った。
「綺麗に?」
その声は低く、妙に落ち着いていた。
「馬鹿じゃないの」
影の笑みが少し止まる。
足立は続ける。
「お前は僕だよ。そういうことでいいんだろ」
空気が変わった。
鳴上が息を呑む。
直斗が目を細める。
花村が「え」と呟く。
影の足立は、初めて満足そうに笑った。
「へぇ」
「僕は山野アナをテレビに入れた。小西早紀も入れた」
足立の声は、霧の中にまっすぐ落ちた。
「死ぬとは思ってなかった。殺す気はなかった。……そう言えば少しは軽くなるかと思ったけどさ」
彼は鳴上たちを見る。
「でも、死んだんだよね。結果として」
千枝が唇を噛む。
雪子は青ざめる。
花村の顔から血の気が引く。
「小西先輩を……」
花村の声が震える。
足立は花村を見た。
「うん。僕が落とした」
その言い方は軽くなかった。
けれど、謝罪でもなかった。
花村が殴りかかろうとする。
鳴上が腕で制した。
「相棒!」
「今は」
鳴上の声も震えていた。
足立は笑う。
「偉いねぇ、鳴上くん。ちゃんと我慢できるんだ」
「足立さん」
鳴上は一歩前に出る。
「あなたを連れ戻します」
「連れ戻す?」
足立の顔が歪む。
「どこに? 警察? 堂島さんのところ? 菜々子ちゃんの病室?」
その名前が出た瞬間、空気がさらに張りつめる。
足立は一瞬だけ目を伏せた。
すぐに笑顔を作る。
「無理だよ。僕はもう、そっちに戻れない」
真白がその背中を見る。
戻れない、と言う声に、ほんの少しだけ期待が混じっていた。
だから真白は言った。
「私のところには戻るんだよね」
全員の視線が、真白に向いた。
鳴上の顔が硬くなる。
「真白さん」
真白は足立の横に並んだ。
鳴上たちの前に立つ。
直斗の声が冷える。
「彼が何をしたか、分かって言っていますか」
「分かってるよ」
「二人、死んでいるんです」
「うん」
「それでも?」
「それでも」
真白の声は揺れなかった。
花村が怒りで顔を歪める。
「ふざけんなよ……小西先輩は、戻ってこないんだぞ」
「知ってる」
「知ってて、それかよ!」
「知ってるから、言ってる」
真白は花村を見る。
「あなたが怒るのは正しい。足立透を許さないのも正しい。私を軽蔑するのも正しい」
「じゃあ何で!」
「正しいからって、私がそっちに立つ理由にはならない」
花村は言葉を失った。
鳴上が静かに言う。
「足立さん。戻りましょう」
足立は目を開けた。
「戻ってどうすんの」
「罪を償ってください」
花村が一歩前に出る。
「そうだ。小西先輩のこと、ちゃんと……」
声が詰まる。
怒りで震えている。
足立は花村を見た。
「ごめんって言えば満足?」
花村が拳を握る。
鳴上が制した。
足立は笑う。
だが、もうさっきのような勢いはない。
「満足するわけないよね。君たちは正しいもん。正しく怒って、正しく僕を裁きたい。いいんじゃない。そういうの」
「足立さん」
鳴上の声が低い。
足立は鳴上を見た。
「分かってるよ。もう逃げられないんでしょ」
真白は足立の横顔を見ていた。
逃げられない。
そう言いながら、足立はまだ逃げ道を探している顔をしていた。
自分のところへ。
真白のところへ。
それが分かって、真白は小さく笑った。
鳴上がその笑みを見た。
何も言わなかったが、目だけが問いかけていた。
あなたは、本当にこの人を止める気があったのか。
真白はその問いに答えなかった。
テレビの外へ戻ると、現実の空気は冷たかった。
ジュネスの家電売り場。
蛍光灯の白さ。
床に反射する光。
大型テレビの黒い画面。
足立は出ると膝から崩れかけた。
完二と花村が反射的に支える。
すぐに花村は嫌そうに手を離しかけたが、鳴上の視線で何とか踏みとどまる。
「……触んなよ」
足立が掠れた声で言う。
「こっちの台詞だっつの」
花村が吐き捨てる。
真白は一歩遅れてテレビから出た。
足元がふらつく。鳴上が手を伸ばしかけたが、真白は自分で体勢を戻した。
「大丈夫ですか」
「うん」
「……本当に?」
真白は鳴上を見た。
その目は、さっきよりも明らかに疑っていた。
「大丈夫じゃない顔をしたほうがいい?」
鳴上の眉がわずかに動く。
「真白さん」
「ごめん」
真白は少しだけ目を伏せた。
「今のは、よくなかったね」
謝罪の形だけは整っていた。
だが鳴上には、それが本当に悪いと思っている声ではないことが分かった。
直斗が近づいてくる。
「この後の説明を考える必要があります」
「足立透が自供した、でいいでしょう?」
真白が軽く言うと、直斗は鋭く見る。
「テレビの中の出来事は、通常の証拠にはなりません」
「そうだね」
「あなたは、それを分かって言っていますね」
「弁護士だからね」
真白は静かに返す。
「証拠がなければ、裁けない」
花村が声を荒げる。
「何言ってんだよ! こいつ、自分で言ったんだぞ!」
「ここで?」
真白は花村を見る。
「誰に? どこで? どうやって? 録音は? 任意性は? テレビの中で聞いた自白を、どこの法廷に出すの?」
花村が言葉を失う。
真白は責めていない。
ただ、事実を並べている。
だからこそ冷たかった。
鳴上が低く言う。
「真白さん」
真白は鳴上を見る。
「分かってる。今すぐ逃がしたりはしないよ」
「今すぐ、ですか」
「うん」
鳴上の目が険しくなる。
足立が、床に座り込んだまま小さく笑った。
「こわ……弁護士って怖いねぇ」
その口調だけ、少し外向きに戻っていた。
だが真白には、それが虚勢だと分かった。
彼は疲れている。
負けている。
なのに、まだこちらを見ている。
真白は足立に近づき、しゃがんだ。
「透」
「何」
「しばらく黙ってて」
足立は眉を寄せる。
「は?」
「余計なこと言わないで。今のあなた、頭回ってないから」
「……お前さぁ」
「助けてほしいなら、私の言うこと聞いて」
周囲の空気が変わった。
助ける。
その言葉を、真白は隠さなかった。
鳴上たちの前で。
足立は真白を見た。
少しだけ笑う。
「誰が助けてほしいって?」
「私が助けたい」
真白は言った。
足立の笑みが止まる。
「だから、黙って」
足立はしばらく真白を見ていた。
やがて、顔を逸らす。
「……勝手にしろよ」
それは、同意だった。
その後の現実は、ひどく面倒だった。
足立は病院での騒ぎのあと、姿を消した容疑者として扱われた。
ジュネスで発見されたことになった。
鳴上たちは、足立が逃げ込んでいたところを見つけた、と説明した。細部は曖昧だったが、誰もテレビの中の話などできない。
警察が来るまでのあいだ、真白は足立のそばにいた。
触れない。
寄り添わない。
ただ、少し離れたところに立っている。
まるで何も知らなかった女のように。
警察官たちが足立を連れて行くとき、彼は一度だけ真白を見た。
真白はただ、見つめ返した。
病院へ戻ると、堂島は菜々子の病室の前にいた。
顔色は悪く、怪我のせいで動きもぎこちない。それでも刑事の目だけは死んでいなかった。
「……足立は捕まったか」
真白は立ち止まる。
堂島は真白を見る。
その目には、怒り、困惑、疑い、そして父親としての痛みがあった。
刑事としてなら、疑えた。
足立と真白の距離。
今までの違和感。
菜々子が巻き込まれる前後の真白の動き。
足立が真白を見る目。
足立を追って消えた真白。
疑える材料はいくらでもある。
だが、そこにいるのは、かつて自分が引き取った子どもでもあった。
父親が死んだ葬儀の日、誰にも行き場を決められなかった少女。
台所に立って、料理をした少女。
弁護士になると言ったとき、真面目に父親の跡を継ぐのだと思わせた少女。
堂島は拳を握った。
「……いや」
低く言う。
「今はいい」
真白は何も言わない。
鳴上は、そのやり取りを見ていた。
真白が作った顔を。
堂島が見なかったふりをした瞬間を。
そして、自分が今ここで何かを言えば、菜々子の病室の前で全部が壊れることも分かっていた。
病室からは、機械の音が聞こえる。
小さく、規則的な音。
真白はその音を聞きながら、目を伏せた。
罪悪感はあった。
けれど、それは真白を正しい人間にはしなかった。
足立が連れて行かれた。
菜々子はまだ目を覚まさない。
堂島は疑いながらも、今は飲み込んだ。
盤面はひどく悪い。
それでも、足立は生きている。
喋れる。
裁かれるには証拠が足りない。
非現実が多すぎる。
真白は静かに息を吸った。
ここからが、自分の仕事だった。