堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
稲羽署は、想像していたより古かった。
壁の色はくすんでいて、廊下には紙と埃と、薄いコーヒーの匂いが染みついていた。都会の署とは違う。人の数も少ないし、空気もぬるい。忙しそうにしているやつはいるが、その忙しさにもどこか田舎特有の間延びした感じがあった。
ここが、僕の行き先。
笑えない冗談だった。
「足立透です。本日付でこちらに配属になりました。よろしくお願いします」
そう言うと、目の前の男が僕を見た。
堂島遼太郎。
背が高く、肩幅がある。目つきは悪い。無精髭が似合うタイプの男で、安い缶コーヒーと煙草の匂いがした。スーツはくたびれているが、だらしないわけじゃない。刑事として長く現場にいる人間の、嫌な重さがある。
そして、苗字。
堂島。
真白と同じ苗字。
いや、同じ苗字なんて珍しくもない。
そう思おうとした。
思おうとしたのに、堂島さんの履歴確認の視線が僕の経歴に落ちた瞬間、嫌な予感がした。
「……同じ大学か」
ぼそっと、堂島さんが言った。
心臓が一度、変に鳴った。
同じ大学。
誰と。
聞くまでもない。
僕は、何も知らない顔で笑った。
「え? ああ、都会の方の大学っすか? いやぁ、こんなところで大学の話されるとは思いませんでしたよ」
「こんなところ、とは何だ」
「あ、いや、失礼しました。田舎って意味じゃなくてですね」
「田舎だよ」
堂島さんは短く言った。
「都会と違って何もないかもしれんが、気は抜くなよ」
「……はぁ、了解です」
軽く頭を下げる。
内心は、全然軽くなかった。
あいつも同じ大学だったか。
堂島さんは、確かにそういう意味のことを言った。
「あいつ」と言った。
そしてこの苗字。
娘さんですか。
その一言が、喉まで出かかった。
出なかった。
聞いてどうする。
真白のことを、堂島さんに聞く?
大学時代に付き合ってました。五年以上連絡ありません。卒業祝いにもらった腕時計、まだつけてます。あなたの知ってる堂島真白ですか。
馬鹿か。
「何だ、ぼうっとして」
堂島さんの声で、意識が戻る。
「いえいえ。新天地で緊張してまして」
「お前が緊張してるようには見えんがな」
「ひどいなぁ。僕、結構繊細なんですよ?」
堂島さんは鼻で笑った。
「使えるかどうかは、これから見る」
「お手柔らかにお願いしますよ」
そう言いながら、僕は手首の腕時計に触れていた。
気づいて、指を離す。
馬鹿みたいだ。
署での初日は、挨拶と引き継ぎと、どうでもいい雑務で終わった。
田舎の事件なんて、と思っていた。
実際、しばらくは退屈だった。
酔っ払い。
万引き。
近所同士の揉め事。
交通事故。
なくし物。
都会の面倒くささとは違う種類の面倒くささが、薄く広がっている。人間関係が狭い。誰かが誰かの知り合いで、噂が早い。店に入れば、誰がどこの家の人間かという話になる。
最悪だった。
署でも町でも、堂島さんはよく知られていた。
怖い顔をしているくせに、町の人間には頼られている。本人は面倒そうにしているが、結局手を貸す。刑事としては厳しく、父親としては不器用そうな男。
真白が、昔言っていたことを思い出した。
父親が死んだあと、おじさんに引き取られた。
真白の話の端々に、この人の影があった。
おじさん。
忙しい人。
でも、受け入れてくれた人。
この人か。
そう思うと、妙な気分だった。
堂島さんは真白のことを、ほとんど話さなかった。
それでも存在はちらついた。
昼休み、堂島さんが弁当を食べていた日がある。
署の机で、無造作に広げられた弁当。
焼き魚、卵焼き、煮物。きちんと詰められている。湯気はないが、出汁と醤油の匂いが微かにした。
僕はそれを見て、嫌なほどすぐ思った。
真白の飯に似ている。
「堂島さん、今日弁当なんっすね」
軽い声で言う。
堂島さんは顔を上げずに答えた。
「あぁ。たまにな。助かってる」
「奥さんですか? いいっすね」
言った瞬間、周りの空気が止まった。
本当に、一瞬。
堂島さんの箸も止まる。
「あ」
誰かが小さく声を出した。
別の刑事が、僕の袖を引いた。
「足立、ちょっと」
「え?」
廊下に連れていかれる。
「お前、知らなかったんだろうけどな。堂島さんの奥さん、一年前に亡くなってる」
「……あ」
「ひき逃げだ。犯人はまだ捕まってない。やっと少し落ち着いてきたところなんだ。刺激すんな」
「すみません……」
そう言うしかなかった。
本当に知らなかった。
真白からそんな話は聞いていない。
そもそも、五年以上何も聞いていない。
でも、頭のどこかで別の声がした。
真白が殺したのか?
すぐに打ち消す。
馬鹿げている。
いくら真白でも、堂島さんの奥さんを殺す理由なんてない。
いや、理由がないと言えるのか。
真白は堂島さんをどう思っていた。奥さんができたとき、どう感じた。子どもが生まれたとき、どう感じた。
知らない。
知らないから、消えない。
その日の夜、堂島さんは僕を飲みに連れていった。
「昼のは悪かったな」
酒が入って、堂島さんの声は少しだけ柔らかくなっていた。
「いや、僕こそすみません。知らなかったとはいえ」
「俺も話してなかった。気にするな」
店は小さかったが、飯はうまかった。焼き鳥の煙、醤油の焦げる匂い、古い木のカウンターに染みた酒の匂い。店主は堂島さんの顔を見るなり、何も聞かずに酒を出した。
「保育園児の娘がいる」
堂島さんは、ぽつりと言った。
「菜々子っていうんだ」
「へぇ。かわいいでしょうね」
「いい子だ」
短い答えだった。
その「いい子だ」に、色々なものが詰まっていた。
堂島さんは酒を飲む。
「色々あってな。引き取った娘のようなやつもいる。そっちが家事とか、菜々子の世話を手伝ってくれてる」
指が止まった。
娘のようなやつ。
「……そうなんすね」
声が少し遅れた。
「その人、仕事もしながらなんすか?」
「あぁ。弁護士をやってる」
確定した。
喉の奥が、変に乾く。
弁護士。
堂島。
引き取った娘のようなやつ。
真白。
「実の親に似たんだろうな」
堂島さんは、少し遠くを見るように言った。
「俺とは比べ物にならんくらい、しっかりした子だ」
しっかりした子。
僕は、笑いそうになった。
真白が?
しっかり?
いや、間違ってはいない。真白はしっかりしている。家事もできる。勉強もできる。周りに合わせるのも上手い。
でも、真白はそれだけじゃない。
犯罪者が好きだと言って笑う女だ。
僕の首を絞めた手を、嬉しそうに受け入れた女だ。
「狭い町だ」
堂島さんは酒を置く。
「お前もそのうち会うだろ」
僕は、何でもない顔で笑った。
「そうっすね。弁護士さんなら、何かでお世話になるかもですねぇ」
「変な気は起こすなよ」
堂島さんが、かなり酔った声で言った。
「……は?」
「真白が選んだんなら、口を出す気はない。しっかりしたやつだ。自分で考えられるだろうしな」
真白。
名前が、堂島さんの口から出た。
腕時計の下の皮膚が、急に熱くなった気がした。
「……はぁ。会ってもないのに、気が早いっすね」
何とか笑う。
堂島さんは僕を見ていない。
酒のせいで、目が少し赤い。
「菜々子もだ。いい子なんだ」
「はい」
「あいつら泣かせたら、俺がぶっ殺してやる……」
物騒なことを言って、堂島さんはグラスに手を伸ばした。
店の人が苦笑している。
「堂島さん、飲みすぎ。あんた送っていける?」
僕は半笑いで頷いた。
「……大丈夫です。たぶん」
大丈夫じゃなかった。
堂島さんは完全に足元が怪しくなっていた。
タクシーを呼んで、堂島家まで送る。
肩を貸して玄関まで運ぶ。重い。酔った大人は本当に面倒くさい。
「堂島さん、鍵あります?」
「……ん」
ポケットから鍵を預かり、玄関を開ける。
家の中は暗かった。
それでも、どこか温かい匂いがした。畳、子どものシャンプー、洗濯物、冷めた味噌汁。家の匂い。
奥から小さな足音がした。
「おとうさん……?」
眠そうな声。
小さな女の子が出てきた。
菜々子。
髪は二つに結ばれていて、パジャマ姿だった。目をこすりながら、堂島さんと僕を見ている。
「おねぇちゃん、お仕事って言って出てっちゃった」
堂島さんの体が、僕の肩の上で少し強張った。
たぶん、真白のことだ。
堂島さんは酔っているのに、その一言には反応した。
真白はそういう時、だいたい連絡を入れる。
そういう家のルールでもあるのだろう。
でも堂島さんは、菜々子の前で不安を見せなかった。
「そうか。悪いな、菜々子。起こしたか」
「ううん」
堂島さんは僕を示す。
「こいつは足立。父さんの仕事の人だ」
「足立さん?」
菜々子が僕を見る。
僕は笑った。
「こんばんは。遅くにごめんね」
「こんばんは」
いい子だ。
堂島さんが言った通りだった。
菜々子は眠そうなのに、ちゃんと挨拶をする。僕が知らない人間なのに、怖がるより先に父親の様子を気にしている。
こういう子どもは嫌いじゃない。
嫌いじゃないから、余計に居心地が悪かった。
堂島さんを部屋まで運び、僕はすぐ帰るつもりだった。
玄関で靴を履いていると、奥から堂島さんの低い声が聞こえた。
電話している。
「今どこだ?」
相手は真白だ。
分かる。
耳が勝手にそちらを拾う。
少し間があったあと、電話越しの声が微かに聞こえた。
「ごめんなさい。少し急いでて。もう帰ります」
真白の声だった。
本当に、真白の声だった。
六年近く聞いていなかった声。
僕は靴紐を結ぶ手を止めた。
「……次からは連絡入れてから行け。菜々子が起きてた」
「うん。気をつける」
短い会話。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
真白は生きている。
稲羽にいる。
堂島家に出入りしている。
仕事をして、菜々子の世話をして、堂島さんに連絡を入れるべき立場にいる。
そして僕には、連絡してこない。
僕は玄関を出た。
夜の空気は冷たかった。
田舎の夜は、都会よりずっと暗い。街灯の間隔が広く、遠くで虫の音がする。
僕は腕時計を見た。
針は進んでいる。
何の意味もなく。
「……避けられてんのかね」
呟いてから、馬鹿らしくなった。
会ってすらいない。
連絡もしていない。
それなのに、避けられているも何もない。
でも、それからしばらく、真白とは会わなかった。
存在だけは感じた。
堂島さんの弁当。
電話越しの声。
菜々子が「おねえちゃん」と呼ぶ声。
署でたまに出る、弁護士の堂島真白の名前。
なのに、会わない。
堂島さんに連れられて堂島家へ行ったこともある。
飯を食った。多分、真白が作ったものだった。
味噌汁の出汁。卵焼きの甘さ。煮物の味。
大学の部屋で食べたものに、似ていた。
でも真白はいなかった。
仕事だとか、用事だとか、菜々子の迎えだとか。
理由はいつも自然だった。
自然すぎた。
ある日、僕は署で堂島さんに軽く聞いた。
「僕、避けられてたりします?」
「誰に」
「いや、その……真白さん? まだ会ったことないなぁって」
口の中で「真白さん」と呼ぶのが、変な感じだった。
堂島さんは怪訝な顔をした。
「避ける理由がないだろ」
「ですよねぇ。いや、タイミング悪いだけか」
「狭い町だ。そのうち会う」
「はは、そうっすね」
堂島さんはそう流した。
その夜、腕時計を外して机に置いたとき、僕はじっとそれを見た。
もし、本当にこれに何か仕込まれていたら。
真白は今の会話も聞いているのかもしれない。
僕が堂島さんに、避けられてるかと聞いたことも。
僕が腕時計を見ていることも。
今、何を考えているかまでは分からないだろうけど。
僕は笑った。
「聞いてんなら、何か言えよ」
当然、返事はない。
僕は腕時計をつけ直した。
それから少しして、マヨナカテレビの噂を聞いた。
雨の深夜十二時。
消したテレビ画面に、運命の人が映る。
馬鹿みたいな噂だった。
高校生や町の若いやつらが喜びそうな話。こんな何もない町では、そういう噂すら娯楽になるのだろう。
でも、その夜は雨だった。
アパートの部屋は狭く、外の雨音がやけに大きく聞こえた。コンビニ弁当の容器がゴミ袋に入っている。部屋には冷えた油と湿った服の匂いがした。
僕はベッドに腰掛け、黒いテレビ画面を見ていた。
見るつもりはなかった。
なかったけど、十二時前には電気を消していた。
馬鹿らしい。
そう思いながら、見た。
十二時。
画面に砂嵐が走った。
最初は、映り込みかと思った。
でも違った。
白く霞んだ画面の中に、女が映っていた。
山野アナウンサー。
今、稲羽に滞在している有名人。
不倫騒動で騒がれて、この町の旅館にいる女。
僕は画面を見ていた。
運命の人?
馬鹿馬鹿しい。
こんな女が?
笑いそうになった。
そのとき、ふと思いついた。
手を伸ばす。
テレビ画面に触れる。
普通なら、固いガラスに指が当たるだけだ。
でも、指が沈んだ。
「……は?」
手首まで、入った。
冷たくも熱くもない。水でも膜でもない。
現実が、そこだけ穴になっている。
僕はしばらく、自分の腕を見ていた。
腕時計をつけた手が、テレビの中に沈んでいる。
頭の奥が、静かになった。
その夜から、テレビはただのテレビではなくなった。
山野アナウンサーの警備依頼が入ったのは、それからすぐだった。
殺害予告が届いたとか何とかで、僕が旅館へ向かうことになった。堂島さんは別件で動いていた。
稲羽の旅館は、古い木と畳と、湯気の匂いがした。
雨が降っていた。
夜の旅館は静かで、廊下の照明がやけに黄色く見える。
山野アナは、苛立っていた。
有名人が田舎の旅館に閉じ込められ、警察官に見張られている。気分がいいはずがない。
「本当に、こんなところで待っていなきゃいけないんですか?」
「いやぁ、僕に言われても困るんですけどねぇ。念のためってやつです」
「念のためで、私の仕事がどれだけ迷惑を受けてるか分かってます?」
「まあまあ。命あっての物種って言うじゃないですか」
「適当なこと言わないでください」
面倒くさい女だった。
いや、面倒くさいだけならよかった。
山野アナは僕を見下していた。
田舎に飛ばされた若い警察官。
頼りなさそうで、軽そうで、使えなさそうな男。
その目が、はっきりそう言っていた。
何だよ、その目。
胸の奥に、黒いものが溜まっていく。
雨が強くなる。
窓を叩く音が、廊下の静けさに混ざる。
口論は、たぶん些細なことからだった。
「あなたじゃ話になりません。上の方を呼んでください」
「いやぁ、僕も一応警察なんですけどね」
「そうは見えませんけど」
その一言で、何かが切れた。
そうは見えませんけど。
僕は笑った。
「ああ、そうですか」
山野アナが眉をひそめる。
「何ですか、その態度」
「いえいえ。僕みたいなのじゃ不満ですよねぇ。都会の偉い人に守ってもらいたかったですか?」
「何を言って——」
廊下の先に、テレビがあった。
旅館の一角。
客用に置かれた古いテレビ。
雨の音。
深夜。
あの穴。
頭の中で、全部が繋がった。
僕は山野アナの腕を掴んだ。
「ちょっと、何するんですか!」
「静かにしてくださいよ」
自分の声が、驚くほど低かった。
山野アナは抵抗した。
でも、女一人を引きずるくらいなら難しくない。
テレビの前に押しつける。
「やめて! 何なの、あなた!」
うるさい。
うるさいな。
僕はテレビ画面に手を当てた。
沈む。
山野アナの顔が恐怖に変わる。
その顔を見た瞬間、ぞくりとした。
さっきまで僕を見下していた女が、今は僕を怖がっている。
僕は笑っていた。
「ほら」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
「そんなに偉いなら、向こうでも何とかしてみれば?」
そして、押した。
山野アナの体がテレビの中へ沈む。
悲鳴が途中で途切れる。
腕。肩。髪。足。
全部、画面の奥へ消えた。
廊下に残ったのは、雨の音だけだった。
僕はしばらくテレビの前に立っていた。
殺した。
いや、違う。
入れただけだ。
テレビの中に入れた。
それだけだ。
死ぬなんて分からない。
そもそも、死ぬかどうかも分からない。
僕は殺してない。
そう思った。
そう思いながら、笑っていた。
手首の腕時計が、雨の湿気で少し冷たかった。
山野アナウンサーの死体が見つかった。
現場は騒然としていた。
電柱にぶら下がった死体。
人だかり。
規制線。
湿った空気。
朝なのに、まだ雨の匂いが残っている。土と水と、どこか鉄っぽい匂い。
山野アナの体は、人形みたいだった。
生きている人間の嫌な熱が、そこにはもうなかった。
テレビに押し込んだときの叫びも、抵抗する腕の力も、見下す目も、全部消えていた。
残っていたのは、結果だけだった。
死体。
それを見た瞬間、胃がひっくり返った。
「……っ」
僕は物陰へ駆け込んで吐いた。
吐くものなんてほとんどなかった。
胃液だけが喉を焼く。目に涙が滲む。背中に冷たい汗が広がる。
情けない。
本当に情けない。
堂島さんは後ろから声をかけてきた。
「初めて死体を見りゃ、そうなる。無理すんな」
僕は口元を拭って、何とか笑った。
「すみません……いやぁ、情けないっすね」
「慣れていいもんじゃねぇ」
堂島さんはそう言った。
その言葉に、少しだけ吐き気が戻った。
慣れていいものじゃない。
そうだろうな。
でも僕は、慣れなければならない側にいるのだろうか。
それとも、慣れてはいけないことをした側なのだろうか。
「大丈夫か」
「はい。もう平気です」
嘘だった。
全然平気じゃなかった。
けれど、平気な顔をするのは得意だった。
僕は顔を洗い、無理に表情を戻した。署の連中は、死体に慣れていない若い刑事が吐いた、くらいにしか思わなかっただろう。
それでいい。
そう思ったのに、頭の奥に真白の顔がちらついた。
いつかすると思ってた。
首を絞めた夜、真白はそう言った。
あのとき、僕は人を殺していない。
殺しかけただけだ。
今回は?
山野アナをテレビに入れた。
死んだ。
それだけのこと。
それだけで、人は殺人犯になるのか。
なるんだろうな。
普通は。
でも、普通じゃないことが起きた。
テレビに人が入るなんて、普通じゃない。
だったら、普通の殺人じゃない。
僕は殺してない。
またそこへ戻る。
何度も。
その日の捜査は、混乱していた。
死体の状態は異常。
発見場所も異常。
どうやってあそこへ吊るしたのか、誰が、いつ、どうやって。
誰も答えを持っていない。
堂島さんは眉間に皺を寄せて、現場と資料を行き来していた。
僕はその横で、頼りない後輩の顔をしていた。
「これ、普通の事件じゃないっすよねぇ」
軽く言うと、堂島さんが睨む。
「分かってるなら口じゃなく頭を使え」
「はいはい、すみません」
頭なら、使っている。
使っているから分かる。
警察はテレビに辿り着けない。
辿り着けるわけがない。
僕だって、手を入れるまでは信じなかった。
見てもなお、何かの錯覚だと思いたかった。
山野アナはテレビの中へ消えた。
死体は外に出てきた。
その間に何があったのか、誰も証明できない。
つまり、僕には繋がらない。
そう思った瞬間、胸の奥にほんの少しだけ空気が入った。
夕方、署に戻ると、堂島さんの机には弁当箱が置かれていた。
すでに空だった。
たぶん真白が作ったもの。
僕はそれを見て、また胃の奥が重くなった。
真白は今、どこで何をしているのか。
稲羽にいる。
堂島家に出入りしている。
菜々子ちゃんの世話をしている。
弁護士をしている。
そして、僕とは会わない。
会わないくせに、真白の作った飯だけがこの署にある。
気持ち悪い。
いや、僕が気持ち悪いのか。
その日の夜、アパートで部屋のテレビを見た。
黒い画面。
もう手を伸ばす気にはなれなかった。
手を伸ばせば、また沈むかもしれない。
沈まないかもしれない。
どちらでも嫌だった。
僕は腕時計を外し、机に置いた。
「……聞こえてんのか」
自分で言って、笑った。
馬鹿馬鹿しい。
でも、もし聞こえているなら。
山野アナが死んだことも。
僕が吐いたことも。
殺してないと自分に言い聞かせていることも。
真白は知っているのか。
知っていたら、何と言うだろう。
今の透、好き。
首を絞めた時の、あの声が蘇る。
僕は腕時計を伏せた。
それでも、翌朝にはまた手首につけた。
必要だから。
仕事に必要だから。
そういうことにしていた。
数日後、第一発見者の小西早紀から事情を聞くことになった。
小西早紀。
商店街の酒屋の娘。
山野アナが泊まっていた旅館でバイトしていた女子高生。
最初に見たときは、普通の子だと思った。
普通に疲れていて、普通に怯えていて、普通に面倒くさそうな顔をする。
大人に囲まれて事情を聞かれ、見たくもない死体を見て、うんざりしている。
可哀想だ。
そう思うべきだった。
思えなかった。
彼女の目は、僕をまともに見なかった。
いや、見てはいた。
でも、そこに何もなかった。
刑事の一人。
頼りない若い警察官。
自分とは関係のない大人。
それだけ。
別に、彼女が悪いわけじゃない。
でも、なぜか腹が立った。
こっちは人を一人テレビに落として、死なせたかもしれなくて、署で平気な顔をしている。
そんな僕の前で、彼女はただ被害者の関係者として、疲れた顔をしている。
何も知らない。
当たり前だ。
当たり前なのに、腹が立つ。
そのあと、彼女が生田目と話しているのを見た。
雨が降りそうな曇った日だった。
商店街の端。
生田目太郎。山野アナの不倫相手として捜査線に上がっていた男。
小西早紀は、その男と話していた。
距離は近くない。
でも、親しげに見えた。
少なくとも、僕に向けた顔よりはずっと人間らしい顔をしていた。
何だよ。
あんなおっさんとは話すんだ。
なら、僕とも楽しくお話してくれればいいじゃないか。
できない?
なんで?
僕は物陰から、それを見ていた。
胸の奥で、また黒いものが溜まっていく。
やめろ。
そう思った。
山野アナのことがある。
死んだ。
テレビに入れたら死んだ。
もうやるな。
そう思う一方で、別の声がした。
でも、山野アナが死んだのは偶然かもしれない。
テレビに入れたから死んだとは限らない。
あの女が勝手に何かしたのかもしれない。
テレビの中に何かがいたのかもしれない。
いや、そもそも死ぬと決まったわけじゃない。
もう一人入れて、死ななければ。
山野アナは、僕が殺したんじゃないことになる。
馬鹿な理屈だ。
分かっていた。
でも、その理屈は妙に甘かった。
小西早紀が一人になる機会は、すぐに来た。
僕は声をかけた。
警察官として。
事情をもう少し聞きたいという顔で。
「小西さん、ちょっといいかな」
彼女は明らかに嫌そうな顔をした。
「……まだ何かあるんですか」
その声。
その顔。
僕の中で、また何かがずれた。
「ごめんねぇ。こっちも仕事でさ」
頼りない警察官の顔。
軽い声。
害のない大人の顔。
そういう顔をして、彼女をテレビのある場所へ誘導した。
なぜそんなに上手くいったのか、今でも分からない。
いや、分かる。
僕が警察官だったからだ。
警察官の顔は便利だった。
相手を安心させる。
相手を黙らせる。
少し強引でも、仕事だと言えば通る。
ああ。
僕は本当に、警察官に向いているのかもしれない。
テレビの前に立たせたとき、小西早紀はようやく不審そうにした。
「ここで何を……」
「ねぇ」
僕は笑った。
「山野アナのこと、どう思った?」
彼女の顔が強張る。
「何でそんなこと」
「答えてよ。見つけただけで有名になっちゃってさぁ」
「別に……」
「有名になって、チヤホヤされて? 男にもどうせ媚び売ってんだろ」
小西早紀の目に、怒りが浮かんだ。
それが蔑みの目に変わるのを見た。
僕は彼女の腕を掴んだ。
「中で反省すればいい」
自分でも驚くほど、声が低かった。
小西早紀の目が恐怖に変わる。
「そうしたら出してやる」
テレビ画面に押し込む。
彼女の体が沈む。
「やめて! 何これ、いや、やめ——」
悲鳴が途切れる。
画面の向こうに消える。
僕は、テレビに顔だけを近づけて叫んだ。
「泣いて許しを乞えよ!」
テレビの奥は、もう見えなかった。
ただ、暗い穴があるだけ。
僕は顔を引き抜くようにして、画面から離れた。
息が荒い。
心臓がうるさい。
数秒後、笑いが込み上げた。
「なーんてな」
声が震えていた。
「こんなやばそうなとこ、誰が入るかって」
笑った。
高く、乾いた笑いだった。
誰もいない部屋に響く。
小西早紀が死ななければ、山野アナは僕が殺したんじゃない。
小西早紀も死ぬかもしれない。
それなら、一人も二人も一緒だろ。
そういう考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
僕はすぐにそれを押し潰した。
「テレビの中が危険だとか、知らなかったし」
声に出した。
「殺す気なんてなかったんだ」
もう一度。
「あいつらが悪い」
もう一度。
「自業自得さ」
もう一度。
「僕、なんか悪いことしてる?」
最後の言葉だけ、部屋に残った。
誰も答えない。
答えないのに、真白の声だけが聞こえた気がした。
——満足だよ。
そんな声。
僕は腕時計を見た。
針は動いている。
僕は笑った。
「これで満足かよ、真白」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく軽くなった。
同時に、どうしようもなく重くなった。
小西早紀は数日後、死体で見つかった。
山野アナと同じように。
その知らせを聞いたとき、僕は驚かなかった。
驚かない自分に驚いた。
高校生が泣きそうな顔をしていた。
僕はその顔を見ていた。
怒り。悲しみ。信じたくないという顔。
正しい反応だった。
正しいから、見ていると苛立つ。
僕はまた、平気なふりをした。
もう吐かなかった。
堂島さんは厳しい顔で現場を見ていた。
「連続殺人だ」
誰かが言った。
そう。
連続殺人。
言葉が形になった。
山野アナ。
小西早紀。
二人。
僕がテレビに入れた二人。
僕は殺してない。
落としただけだ。
死ぬとは思っていなかった。
でも、二人死んだ。
もう、その二つは切り離せなくなっていた。
その夜、僕は部屋に戻り、携帯を開いた。
真白の連絡先を出す。
何を送るつもりだったのか分からない。
稲羽にいる。
人が死んだ。
僕はやったのかもしれない。
お前なら笑うだろ。
何も打てなかった。
画面を閉じる。
腕時計を見る。
外そうとした。
ベルトに指をかける。
外せない。
結局、そのままベッドに横になった。
天井を見上げる。
雨は降っていない。
それなのに、テレビの砂嵐の音が聞こえる気がした。
真白。
お前がここにいたら、何て言う。
今の透が好き、と言うのか。
もっと落ちてきて、と笑うのか。
それとも、さすがに引くのか。
分からなかった。
でも、もし引かれたら。
その想像だけで、息が詰まった。
馬鹿みたいだ。
人を二人死なせておいて、一番怖いのがそれかよ。
僕は腕で目を覆った。
眠れなかった。
携帯に一通のメールが届いた。
差出人を見て、呼吸が止まった。
堂島真白。
六年ぶりの連絡。
本文は短かった。
住所〇〇〇-〇。
来る?
それだけ。
僕はしばらく画面を見ていた。
笑いが込み上げた。
来る?
何だよ、それ。
今さら。
何で今なんだよ。
僕が二人目を入れたからか。
小西早紀が死んだからか。
テレビのことを知ってるのか。
知ってるわけがない。
いや、真白なら。
僕は携帯を閉じた。
行くわけがない。
行く理由がない。
五年も六年も無視しておいて、住所と来る? だけで僕が動くと思っているなら、馬鹿にしすぎだ。
そう思った。
そう思いながら、上着を掴んでいた。
部屋を出る前に、腕時計を見た。
針は進んでいる。
まるで、最初からこの時間に向かっていたみたいに。
僕は舌打ちして、部屋を出た。