堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。   作:an-ryuka

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足立視点。過去話。


13.5

 

稲羽署は、想像していたより古かった。

 

壁の色はくすんでいて、廊下には紙と埃と、薄いコーヒーの匂いが染みついていた。都会の署とは違う。人の数も少ないし、空気もぬるい。忙しそうにしているやつはいるが、その忙しさにもどこか田舎特有の間延びした感じがあった。

 

ここが、僕の行き先。

 

笑えない冗談だった。

 

「足立透です。本日付でこちらに配属になりました。よろしくお願いします」

 

そう言うと、目の前の男が僕を見た。

 

堂島遼太郎。

 

背が高く、肩幅がある。目つきは悪い。無精髭が似合うタイプの男で、安い缶コーヒーと煙草の匂いがした。スーツはくたびれているが、だらしないわけじゃない。刑事として長く現場にいる人間の、嫌な重さがある。

 

そして、苗字。

 

堂島。

 

真白と同じ苗字。

 

いや、同じ苗字なんて珍しくもない。

そう思おうとした。

 

思おうとしたのに、堂島さんの履歴確認の視線が僕の経歴に落ちた瞬間、嫌な予感がした。

 

「……同じ大学か」

 

ぼそっと、堂島さんが言った。

 

心臓が一度、変に鳴った。

 

同じ大学。

 

誰と。

 

聞くまでもない。

 

僕は、何も知らない顔で笑った。

 

「え? ああ、都会の方の大学っすか? いやぁ、こんなところで大学の話されるとは思いませんでしたよ」

 

「こんなところ、とは何だ」

 

「あ、いや、失礼しました。田舎って意味じゃなくてですね」

 

「田舎だよ」

 

堂島さんは短く言った。

 

「都会と違って何もないかもしれんが、気は抜くなよ」

 

「……はぁ、了解です」

 

軽く頭を下げる。

 

内心は、全然軽くなかった。

 

あいつも同じ大学だったか。

 

堂島さんは、確かにそういう意味のことを言った。

「あいつ」と言った。

そしてこの苗字。

 

娘さんですか。

 

その一言が、喉まで出かかった。

 

出なかった。

 

聞いてどうする。

真白のことを、堂島さんに聞く?

大学時代に付き合ってました。五年以上連絡ありません。卒業祝いにもらった腕時計、まだつけてます。あなたの知ってる堂島真白ですか。

 

馬鹿か。

 

「何だ、ぼうっとして」

 

堂島さんの声で、意識が戻る。

 

「いえいえ。新天地で緊張してまして」

 

「お前が緊張してるようには見えんがな」

 

「ひどいなぁ。僕、結構繊細なんですよ?」

 

堂島さんは鼻で笑った。

 

「使えるかどうかは、これから見る」

 

「お手柔らかにお願いしますよ」

 

そう言いながら、僕は手首の腕時計に触れていた。

 

気づいて、指を離す。

 

馬鹿みたいだ。

 

署での初日は、挨拶と引き継ぎと、どうでもいい雑務で終わった。

 

田舎の事件なんて、と思っていた。

実際、しばらくは退屈だった。

 

酔っ払い。

万引き。

近所同士の揉め事。

交通事故。

なくし物。

 

都会の面倒くささとは違う種類の面倒くささが、薄く広がっている。人間関係が狭い。誰かが誰かの知り合いで、噂が早い。店に入れば、誰がどこの家の人間かという話になる。

 

最悪だった。

 

署でも町でも、堂島さんはよく知られていた。

 

怖い顔をしているくせに、町の人間には頼られている。本人は面倒そうにしているが、結局手を貸す。刑事としては厳しく、父親としては不器用そうな男。

 

真白が、昔言っていたことを思い出した。

 

父親が死んだあと、おじさんに引き取られた。

 

真白の話の端々に、この人の影があった。

 

おじさん。

忙しい人。

でも、受け入れてくれた人。

 

この人か。

 

そう思うと、妙な気分だった。

 

堂島さんは真白のことを、ほとんど話さなかった。

 

それでも存在はちらついた。

 

 

昼休み、堂島さんが弁当を食べていた日がある。

 

署の机で、無造作に広げられた弁当。

焼き魚、卵焼き、煮物。きちんと詰められている。湯気はないが、出汁と醤油の匂いが微かにした。

 

僕はそれを見て、嫌なほどすぐ思った。

 

真白の飯に似ている。

 

「堂島さん、今日弁当なんっすね」

 

軽い声で言う。

 

堂島さんは顔を上げずに答えた。

 

「あぁ。たまにな。助かってる」

 

「奥さんですか? いいっすね」

 

言った瞬間、周りの空気が止まった。

 

本当に、一瞬。

 

堂島さんの箸も止まる。

 

「あ」

 

誰かが小さく声を出した。

 

別の刑事が、僕の袖を引いた。

 

「足立、ちょっと」

 

「え?」

 

廊下に連れていかれる。

 

「お前、知らなかったんだろうけどな。堂島さんの奥さん、一年前に亡くなってる」

 

「……あ」

 

「ひき逃げだ。犯人はまだ捕まってない。やっと少し落ち着いてきたところなんだ。刺激すんな」

 

「すみません……」

 

そう言うしかなかった。

 

本当に知らなかった。

 

真白からそんな話は聞いていない。

そもそも、五年以上何も聞いていない。

 

でも、頭のどこかで別の声がした。

 

真白が殺したのか?

 

すぐに打ち消す。

 

馬鹿げている。

いくら真白でも、堂島さんの奥さんを殺す理由なんてない。

いや、理由がないと言えるのか。

真白は堂島さんをどう思っていた。奥さんができたとき、どう感じた。子どもが生まれたとき、どう感じた。

 

知らない。

 

知らないから、消えない。

 

その日の夜、堂島さんは僕を飲みに連れていった。

 

「昼のは悪かったな」

 

酒が入って、堂島さんの声は少しだけ柔らかくなっていた。

 

「いや、僕こそすみません。知らなかったとはいえ」

 

「俺も話してなかった。気にするな」

 

店は小さかったが、飯はうまかった。焼き鳥の煙、醤油の焦げる匂い、古い木のカウンターに染みた酒の匂い。店主は堂島さんの顔を見るなり、何も聞かずに酒を出した。

 

「保育園児の娘がいる」

 

堂島さんは、ぽつりと言った。

 

「菜々子っていうんだ」

 

「へぇ。かわいいでしょうね」

 

「いい子だ」

 

短い答えだった。

 

その「いい子だ」に、色々なものが詰まっていた。

 

堂島さんは酒を飲む。

 

「色々あってな。引き取った娘のようなやつもいる。そっちが家事とか、菜々子の世話を手伝ってくれてる」

 

指が止まった。

 

娘のようなやつ。

 

「……そうなんすね」

 

声が少し遅れた。

 

「その人、仕事もしながらなんすか?」

 

「あぁ。弁護士をやってる」

 

確定した。

 

喉の奥が、変に乾く。

 

弁護士。

堂島。

引き取った娘のようなやつ。

 

真白。

 

「実の親に似たんだろうな」

 

堂島さんは、少し遠くを見るように言った。

 

「俺とは比べ物にならんくらい、しっかりした子だ」

 

しっかりした子。

 

僕は、笑いそうになった。

 

真白が?

しっかり?

いや、間違ってはいない。真白はしっかりしている。家事もできる。勉強もできる。周りに合わせるのも上手い。

 

でも、真白はそれだけじゃない。

 

犯罪者が好きだと言って笑う女だ。

僕の首を絞めた手を、嬉しそうに受け入れた女だ。

 

「狭い町だ」

 

堂島さんは酒を置く。

 

「お前もそのうち会うだろ」

 

僕は、何でもない顔で笑った。

 

「そうっすね。弁護士さんなら、何かでお世話になるかもですねぇ」

 

「変な気は起こすなよ」

 

堂島さんが、かなり酔った声で言った。

 

「……は?」

 

「真白が選んだんなら、口を出す気はない。しっかりしたやつだ。自分で考えられるだろうしな」

 

真白。

 

名前が、堂島さんの口から出た。

 

腕時計の下の皮膚が、急に熱くなった気がした。

 

「……はぁ。会ってもないのに、気が早いっすね」

 

何とか笑う。

 

堂島さんは僕を見ていない。

酒のせいで、目が少し赤い。

 

「菜々子もだ。いい子なんだ」

 

「はい」

 

「あいつら泣かせたら、俺がぶっ殺してやる……」

 

物騒なことを言って、堂島さんはグラスに手を伸ばした。

 

店の人が苦笑している。

 

「堂島さん、飲みすぎ。あんた送っていける?」

 

僕は半笑いで頷いた。

 

「……大丈夫です。たぶん」

 

大丈夫じゃなかった。

 

堂島さんは完全に足元が怪しくなっていた。

 

タクシーを呼んで、堂島家まで送る。

肩を貸して玄関まで運ぶ。重い。酔った大人は本当に面倒くさい。

 

「堂島さん、鍵あります?」

 

「……ん」

 

ポケットから鍵を預かり、玄関を開ける。

 

家の中は暗かった。

 

それでも、どこか温かい匂いがした。畳、子どものシャンプー、洗濯物、冷めた味噌汁。家の匂い。

 

奥から小さな足音がした。

 

「おとうさん……?」

 

眠そうな声。

 

小さな女の子が出てきた。

 

菜々子。

 

髪は二つに結ばれていて、パジャマ姿だった。目をこすりながら、堂島さんと僕を見ている。

 

「おねぇちゃん、お仕事って言って出てっちゃった」

 

堂島さんの体が、僕の肩の上で少し強張った。

 

たぶん、真白のことだ。

 

堂島さんは酔っているのに、その一言には反応した。

 

真白はそういう時、だいたい連絡を入れる。

そういう家のルールでもあるのだろう。

 

でも堂島さんは、菜々子の前で不安を見せなかった。

 

「そうか。悪いな、菜々子。起こしたか」

 

「ううん」

 

堂島さんは僕を示す。

 

「こいつは足立。父さんの仕事の人だ」

 

「足立さん?」

 

菜々子が僕を見る。

 

僕は笑った。

 

「こんばんは。遅くにごめんね」

 

「こんばんは」

 

いい子だ。

 

堂島さんが言った通りだった。

 

菜々子は眠そうなのに、ちゃんと挨拶をする。僕が知らない人間なのに、怖がるより先に父親の様子を気にしている。

 

こういう子どもは嫌いじゃない。

 

嫌いじゃないから、余計に居心地が悪かった。

 

堂島さんを部屋まで運び、僕はすぐ帰るつもりだった。

 

玄関で靴を履いていると、奥から堂島さんの低い声が聞こえた。

 

電話している。

 

「今どこだ?」

 

相手は真白だ。

 

分かる。

 

耳が勝手にそちらを拾う。

 

少し間があったあと、電話越しの声が微かに聞こえた。

 

「ごめんなさい。少し急いでて。もう帰ります」

 

真白の声だった。

 

本当に、真白の声だった。

 

六年近く聞いていなかった声。

 

僕は靴紐を結ぶ手を止めた。

 

「……次からは連絡入れてから行け。菜々子が起きてた」

 

「うん。気をつける」

 

短い会話。

 

それだけ。

 

でも、それだけで十分だった。

 

真白は生きている。

稲羽にいる。

堂島家に出入りしている。

仕事をして、菜々子の世話をして、堂島さんに連絡を入れるべき立場にいる。

 

そして僕には、連絡してこない。

 

僕は玄関を出た。

 

夜の空気は冷たかった。

田舎の夜は、都会よりずっと暗い。街灯の間隔が広く、遠くで虫の音がする。

 

僕は腕時計を見た。

 

針は進んでいる。

 

何の意味もなく。

 

「……避けられてんのかね」

 

呟いてから、馬鹿らしくなった。

 

会ってすらいない。

連絡もしていない。

それなのに、避けられているも何もない。

 

 

でも、それからしばらく、真白とは会わなかった。

 

存在だけは感じた。

 

堂島さんの弁当。

電話越しの声。

菜々子が「おねえちゃん」と呼ぶ声。

署でたまに出る、弁護士の堂島真白の名前。

 

なのに、会わない。

 

堂島さんに連れられて堂島家へ行ったこともある。

飯を食った。多分、真白が作ったものだった。

 

味噌汁の出汁。卵焼きの甘さ。煮物の味。

大学の部屋で食べたものに、似ていた。

 

でも真白はいなかった。

 

仕事だとか、用事だとか、菜々子の迎えだとか。

理由はいつも自然だった。

 

自然すぎた。

 

ある日、僕は署で堂島さんに軽く聞いた。

 

「僕、避けられてたりします?」

 

「誰に」

 

「いや、その……真白さん? まだ会ったことないなぁって」

 

口の中で「真白さん」と呼ぶのが、変な感じだった。

 

堂島さんは怪訝な顔をした。

 

「避ける理由がないだろ」

 

「ですよねぇ。いや、タイミング悪いだけか」

 

「狭い町だ。そのうち会う」

 

「はは、そうっすね」

 

堂島さんはそう流した。

 

 

その夜、腕時計を外して机に置いたとき、僕はじっとそれを見た。

 

もし、本当にこれに何か仕込まれていたら。

 

真白は今の会話も聞いているのかもしれない。

僕が堂島さんに、避けられてるかと聞いたことも。

僕が腕時計を見ていることも。

今、何を考えているかまでは分からないだろうけど。

 

僕は笑った。

 

「聞いてんなら、何か言えよ」

 

当然、返事はない。

 

僕は腕時計をつけ直した。

 

 

それから少しして、マヨナカテレビの噂を聞いた。

 

雨の深夜十二時。

消したテレビ画面に、運命の人が映る。

 

馬鹿みたいな噂だった。

 

高校生や町の若いやつらが喜びそうな話。こんな何もない町では、そういう噂すら娯楽になるのだろう。

 

でも、その夜は雨だった。

 

アパートの部屋は狭く、外の雨音がやけに大きく聞こえた。コンビニ弁当の容器がゴミ袋に入っている。部屋には冷えた油と湿った服の匂いがした。

 

僕はベッドに腰掛け、黒いテレビ画面を見ていた。

 

見るつもりはなかった。

 

なかったけど、十二時前には電気を消していた。

 

馬鹿らしい。

 

そう思いながら、見た。

 

十二時。

 

画面に砂嵐が走った。

 

最初は、映り込みかと思った。

 

でも違った。

 

白く霞んだ画面の中に、女が映っていた。

山野アナウンサー。

 

今、稲羽に滞在している有名人。

不倫騒動で騒がれて、この町の旅館にいる女。

 

僕は画面を見ていた。

 

運命の人?

 

馬鹿馬鹿しい。

 

こんな女が?

 

笑いそうになった。

 

そのとき、ふと思いついた。

 

手を伸ばす。

 

テレビ画面に触れる。

 

普通なら、固いガラスに指が当たるだけだ。

 

でも、指が沈んだ。

 

「……は?」

 

手首まで、入った。

 

冷たくも熱くもない。水でも膜でもない。

現実が、そこだけ穴になっている。

 

僕はしばらく、自分の腕を見ていた。

 

腕時計をつけた手が、テレビの中に沈んでいる。

 

頭の奥が、静かになった。

 

 

その夜から、テレビはただのテレビではなくなった。

 

山野アナウンサーの警備依頼が入ったのは、それからすぐだった。

 

殺害予告が届いたとか何とかで、僕が旅館へ向かうことになった。堂島さんは別件で動いていた。

 

稲羽の旅館は、古い木と畳と、湯気の匂いがした。

雨が降っていた。

夜の旅館は静かで、廊下の照明がやけに黄色く見える。

 

山野アナは、苛立っていた。

 

有名人が田舎の旅館に閉じ込められ、警察官に見張られている。気分がいいはずがない。

 

「本当に、こんなところで待っていなきゃいけないんですか?」

 

「いやぁ、僕に言われても困るんですけどねぇ。念のためってやつです」

 

「念のためで、私の仕事がどれだけ迷惑を受けてるか分かってます?」

 

「まあまあ。命あっての物種って言うじゃないですか」

 

「適当なこと言わないでください」

 

面倒くさい女だった。

 

いや、面倒くさいだけならよかった。

 

山野アナは僕を見下していた。

 

田舎に飛ばされた若い警察官。

頼りなさそうで、軽そうで、使えなさそうな男。

 

その目が、はっきりそう言っていた。

 

何だよ、その目。

 

胸の奥に、黒いものが溜まっていく。

 

雨が強くなる。

窓を叩く音が、廊下の静けさに混ざる。

 

口論は、たぶん些細なことからだった。

 

「あなたじゃ話になりません。上の方を呼んでください」

 

「いやぁ、僕も一応警察なんですけどね」

 

「そうは見えませんけど」

 

その一言で、何かが切れた。

 

そうは見えませんけど。

 

僕は笑った。

 

「ああ、そうですか」

 

山野アナが眉をひそめる。

 

「何ですか、その態度」

 

「いえいえ。僕みたいなのじゃ不満ですよねぇ。都会の偉い人に守ってもらいたかったですか?」

 

「何を言って——」

 

廊下の先に、テレビがあった。

 

旅館の一角。

客用に置かれた古いテレビ。

 

雨の音。

 

深夜。

 

あの穴。

 

頭の中で、全部が繋がった。

 

僕は山野アナの腕を掴んだ。

 

「ちょっと、何するんですか!」

 

「静かにしてくださいよ」

 

自分の声が、驚くほど低かった。

 

山野アナは抵抗した。

でも、女一人を引きずるくらいなら難しくない。

 

テレビの前に押しつける。

 

「やめて! 何なの、あなた!」

 

うるさい。

 

うるさいな。

 

僕はテレビ画面に手を当てた。

 

沈む。

 

山野アナの顔が恐怖に変わる。

 

その顔を見た瞬間、ぞくりとした。

 

さっきまで僕を見下していた女が、今は僕を怖がっている。

 

僕は笑っていた。

 

「ほら」

 

自分でも、何を言っているのか分からなかった。

 

「そんなに偉いなら、向こうでも何とかしてみれば?」

 

そして、押した。

 

山野アナの体がテレビの中へ沈む。

 

悲鳴が途中で途切れる。

腕。肩。髪。足。

 

全部、画面の奥へ消えた。

 

廊下に残ったのは、雨の音だけだった。

 

僕はしばらくテレビの前に立っていた。

 

殺した。

 

いや、違う。

 

入れただけだ。

 

テレビの中に入れた。

それだけだ。

 

死ぬなんて分からない。

そもそも、死ぬかどうかも分からない。

 

僕は殺してない。

 

そう思った。

 

そう思いながら、笑っていた。

 

手首の腕時計が、雨の湿気で少し冷たかった。

 

 

山野アナウンサーの死体が見つかった。

 

現場は騒然としていた。

 

電柱にぶら下がった死体。

人だかり。

規制線。

湿った空気。

朝なのに、まだ雨の匂いが残っている。土と水と、どこか鉄っぽい匂い。

 

山野アナの体は、人形みたいだった。

 

生きている人間の嫌な熱が、そこにはもうなかった。

テレビに押し込んだときの叫びも、抵抗する腕の力も、見下す目も、全部消えていた。

 

残っていたのは、結果だけだった。

 

死体。

 

それを見た瞬間、胃がひっくり返った。

 

「……っ」

 

僕は物陰へ駆け込んで吐いた。

 

吐くものなんてほとんどなかった。

胃液だけが喉を焼く。目に涙が滲む。背中に冷たい汗が広がる。

 

情けない。

 

本当に情けない。

 

堂島さんは後ろから声をかけてきた。

 

「初めて死体を見りゃ、そうなる。無理すんな」

 

僕は口元を拭って、何とか笑った。

 

「すみません……いやぁ、情けないっすね」

 

「慣れていいもんじゃねぇ」

 

堂島さんはそう言った。

 

その言葉に、少しだけ吐き気が戻った。

 

慣れていいものじゃない。

 

そうだろうな。

 

でも僕は、慣れなければならない側にいるのだろうか。

それとも、慣れてはいけないことをした側なのだろうか。

 

「大丈夫か」

 

「はい。もう平気です」

 

嘘だった。

 

全然平気じゃなかった。

 

けれど、平気な顔をするのは得意だった。

 

僕は顔を洗い、無理に表情を戻した。署の連中は、死体に慣れていない若い刑事が吐いた、くらいにしか思わなかっただろう。

 

それでいい。

 

そう思ったのに、頭の奥に真白の顔がちらついた。

 

いつかすると思ってた。

 

首を絞めた夜、真白はそう言った。

 

あのとき、僕は人を殺していない。

殺しかけただけだ。

 

今回は?

 

山野アナをテレビに入れた。

死んだ。

 

それだけのこと。

 

それだけで、人は殺人犯になるのか。

 

なるんだろうな。

 

普通は。

 

でも、普通じゃないことが起きた。

テレビに人が入るなんて、普通じゃない。

 

だったら、普通の殺人じゃない。

 

僕は殺してない。

 

またそこへ戻る。

 

何度も。

 

その日の捜査は、混乱していた。

 

死体の状態は異常。

発見場所も異常。

どうやってあそこへ吊るしたのか、誰が、いつ、どうやって。

 

誰も答えを持っていない。

 

堂島さんは眉間に皺を寄せて、現場と資料を行き来していた。

僕はその横で、頼りない後輩の顔をしていた。

 

「これ、普通の事件じゃないっすよねぇ」

 

軽く言うと、堂島さんが睨む。

 

「分かってるなら口じゃなく頭を使え」

 

「はいはい、すみません」

 

頭なら、使っている。

 

使っているから分かる。

 

警察はテレビに辿り着けない。

 

辿り着けるわけがない。

 

僕だって、手を入れるまでは信じなかった。

見てもなお、何かの錯覚だと思いたかった。

 

山野アナはテレビの中へ消えた。

死体は外に出てきた。

 

その間に何があったのか、誰も証明できない。

 

つまり、僕には繋がらない。

 

そう思った瞬間、胸の奥にほんの少しだけ空気が入った。

 

 

 

夕方、署に戻ると、堂島さんの机には弁当箱が置かれていた。

 

すでに空だった。

 

たぶん真白が作ったもの。

 

僕はそれを見て、また胃の奥が重くなった。

 

真白は今、どこで何をしているのか。

 

稲羽にいる。

堂島家に出入りしている。

菜々子ちゃんの世話をしている。

弁護士をしている。

 

そして、僕とは会わない。

 

会わないくせに、真白の作った飯だけがこの署にある。

 

気持ち悪い。

 

いや、僕が気持ち悪いのか。

 

その日の夜、アパートで部屋のテレビを見た。

 

黒い画面。

 

もう手を伸ばす気にはなれなかった。

 

手を伸ばせば、また沈むかもしれない。

沈まないかもしれない。

 

どちらでも嫌だった。

 

僕は腕時計を外し、机に置いた。

 

「……聞こえてんのか」

 

自分で言って、笑った。

 

馬鹿馬鹿しい。

 

でも、もし聞こえているなら。

 

山野アナが死んだことも。

僕が吐いたことも。

殺してないと自分に言い聞かせていることも。

 

真白は知っているのか。

 

知っていたら、何と言うだろう。

 

今の透、好き。

 

首を絞めた時の、あの声が蘇る。

 

僕は腕時計を伏せた。

 

それでも、翌朝にはまた手首につけた。

 

必要だから。

 

仕事に必要だから。

 

そういうことにしていた。

 

 

数日後、第一発見者の小西早紀から事情を聞くことになった。

 

小西早紀。

 

商店街の酒屋の娘。

山野アナが泊まっていた旅館でバイトしていた女子高生。

 

最初に見たときは、普通の子だと思った。

 

普通に疲れていて、普通に怯えていて、普通に面倒くさそうな顔をする。

大人に囲まれて事情を聞かれ、見たくもない死体を見て、うんざりしている。

 

可哀想だ。

 

そう思うべきだった。

 

思えなかった。

 

彼女の目は、僕をまともに見なかった。

 

いや、見てはいた。

でも、そこに何もなかった。

 

刑事の一人。

頼りない若い警察官。

自分とは関係のない大人。

 

それだけ。

 

別に、彼女が悪いわけじゃない。

 

でも、なぜか腹が立った。

 

こっちは人を一人テレビに落として、死なせたかもしれなくて、署で平気な顔をしている。

そんな僕の前で、彼女はただ被害者の関係者として、疲れた顔をしている。

 

何も知らない。

 

当たり前だ。

 

当たり前なのに、腹が立つ。

 

そのあと、彼女が生田目と話しているのを見た。

 

雨が降りそうな曇った日だった。

商店街の端。

生田目太郎。山野アナの不倫相手として捜査線に上がっていた男。

 

小西早紀は、その男と話していた。

 

距離は近くない。

でも、親しげに見えた。

 

少なくとも、僕に向けた顔よりはずっと人間らしい顔をしていた。

 

何だよ。

 

あんなおっさんとは話すんだ。

 

なら、僕とも楽しくお話してくれればいいじゃないか。

できない?

なんで?

 

僕は物陰から、それを見ていた。

 

胸の奥で、また黒いものが溜まっていく。

 

やめろ。

 

そう思った。

 

山野アナのことがある。

死んだ。

テレビに入れたら死んだ。

 

もうやるな。

 

そう思う一方で、別の声がした。

 

でも、山野アナが死んだのは偶然かもしれない。

 

テレビに入れたから死んだとは限らない。

あの女が勝手に何かしたのかもしれない。

テレビの中に何かがいたのかもしれない。

いや、そもそも死ぬと決まったわけじゃない。

 

もう一人入れて、死ななければ。

 

山野アナは、僕が殺したんじゃないことになる。

 

馬鹿な理屈だ。

 

分かっていた。

 

でも、その理屈は妙に甘かった。

 

 

小西早紀が一人になる機会は、すぐに来た。

 

僕は声をかけた。

 

警察官として。

事情をもう少し聞きたいという顔で。

 

「小西さん、ちょっといいかな」

 

彼女は明らかに嫌そうな顔をした。

 

「……まだ何かあるんですか」

 

その声。

 

その顔。

 

僕の中で、また何かがずれた。

 

「ごめんねぇ。こっちも仕事でさ」

 

頼りない警察官の顔。

軽い声。

害のない大人の顔。

 

そういう顔をして、彼女をテレビのある場所へ誘導した。

 

なぜそんなに上手くいったのか、今でも分からない。

 

いや、分かる。

 

僕が警察官だったからだ。

 

警察官の顔は便利だった。

相手を安心させる。

相手を黙らせる。

少し強引でも、仕事だと言えば通る。

 

ああ。

 

僕は本当に、警察官に向いているのかもしれない。

 

テレビの前に立たせたとき、小西早紀はようやく不審そうにした。

 

「ここで何を……」

 

「ねぇ」

 

僕は笑った。

 

「山野アナのこと、どう思った?」

 

彼女の顔が強張る。

 

「何でそんなこと」

 

「答えてよ。見つけただけで有名になっちゃってさぁ」

 

「別に……」

 

「有名になって、チヤホヤされて? 男にもどうせ媚び売ってんだろ」

 

小西早紀の目に、怒りが浮かんだ。

 

それが蔑みの目に変わるのを見た。

 

僕は彼女の腕を掴んだ。

 

「中で反省すればいい」

 

自分でも驚くほど、声が低かった。

 

小西早紀の目が恐怖に変わる。

 

「そうしたら出してやる」

 

テレビ画面に押し込む。

 

彼女の体が沈む。

 

「やめて! 何これ、いや、やめ——」

 

悲鳴が途切れる。

 

画面の向こうに消える。

 

僕は、テレビに顔だけを近づけて叫んだ。

 

「泣いて許しを乞えよ!」

 

テレビの奥は、もう見えなかった。

 

ただ、暗い穴があるだけ。

 

僕は顔を引き抜くようにして、画面から離れた。

 

息が荒い。

 

心臓がうるさい。

 

数秒後、笑いが込み上げた。

 

「なーんてな」

 

声が震えていた。

 

「こんなやばそうなとこ、誰が入るかって」

 

笑った。

 

高く、乾いた笑いだった。

 

誰もいない部屋に響く。

 

小西早紀が死ななければ、山野アナは僕が殺したんじゃない。

小西早紀も死ぬかもしれない。

それなら、一人も二人も一緒だろ。

 

そういう考えが、一瞬だけ頭をよぎった。

 

僕はすぐにそれを押し潰した。

 

「テレビの中が危険だとか、知らなかったし」

 

声に出した。

 

「殺す気なんてなかったんだ」

 

もう一度。

 

「あいつらが悪い」

 

もう一度。

 

「自業自得さ」

 

もう一度。

 

「僕、なんか悪いことしてる?」

 

最後の言葉だけ、部屋に残った。

 

誰も答えない。

 

答えないのに、真白の声だけが聞こえた気がした。

 

——満足だよ。

 

そんな声。

 

僕は腕時計を見た。

 

針は動いている。

 

僕は笑った。

 

「これで満足かよ、真白」

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく軽くなった。

 

同時に、どうしようもなく重くなった。

 

 

小西早紀は数日後、死体で見つかった。

 

山野アナと同じように。

 

その知らせを聞いたとき、僕は驚かなかった。

 

驚かない自分に驚いた。

 

高校生が泣きそうな顔をしていた。

 

僕はその顔を見ていた。

 

怒り。悲しみ。信じたくないという顔。

 

正しい反応だった。

 

正しいから、見ていると苛立つ。

 

僕はまた、平気なふりをした。

 

もう吐かなかった。

 

堂島さんは厳しい顔で現場を見ていた。

 

「連続殺人だ」

 

誰かが言った。

 

そう。

 

連続殺人。

 

言葉が形になった。

 

山野アナ。

小西早紀。

 

二人。

 

僕がテレビに入れた二人。

 

僕は殺してない。

落としただけだ。

死ぬとは思っていなかった。

 

でも、二人死んだ。

 

もう、その二つは切り離せなくなっていた。

 

 

その夜、僕は部屋に戻り、携帯を開いた。

 

真白の連絡先を出す。

 

何を送るつもりだったのか分からない。

 

稲羽にいる。

人が死んだ。

僕はやったのかもしれない。

お前なら笑うだろ。

 

何も打てなかった。

 

画面を閉じる。

 

腕時計を見る。

 

外そうとした。

ベルトに指をかける。

 

外せない。

 

結局、そのままベッドに横になった。

 

天井を見上げる。

 

雨は降っていない。

それなのに、テレビの砂嵐の音が聞こえる気がした。

 

真白。

 

お前がここにいたら、何て言う。

 

今の透が好き、と言うのか。

もっと落ちてきて、と笑うのか。

それとも、さすがに引くのか。

 

分からなかった。

 

でも、もし引かれたら。

 

その想像だけで、息が詰まった。

 

馬鹿みたいだ。

 

人を二人死なせておいて、一番怖いのがそれかよ。

 

僕は腕で目を覆った。

 

眠れなかった。

 

 

携帯に一通のメールが届いた。

 

 

差出人を見て、呼吸が止まった。

 

堂島真白。

 

六年ぶりの連絡。

 

本文は短かった。

 

住所〇〇〇-〇。

来る?

 

それだけ。

 

僕はしばらく画面を見ていた。

 

笑いが込み上げた。

 

来る?

 

何だよ、それ。

 

今さら。

 

何で今なんだよ。

 

僕が二人目を入れたからか。

小西早紀が死んだからか。

テレビのことを知ってるのか。

知ってるわけがない。

いや、真白なら。

 

僕は携帯を閉じた。

 

行くわけがない。

 

行く理由がない。

 

五年も六年も無視しておいて、住所と来る? だけで僕が動くと思っているなら、馬鹿にしすぎだ。

 

そう思った。

 

そう思いながら、上着を掴んでいた。

 

 

部屋を出る前に、腕時計を見た。

 

針は進んでいる。

 

まるで、最初からこの時間に向かっていたみたいに。

 

僕は舌打ちして、部屋を出た。

 

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