堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
稲羽の夜は、都会よりも音が少ないくせに、沈黙そのものはずっと濁っていた。
雨は上がっていたが、舗道にはまだ水が残っていて、街灯の色を鈍く引き延ばしている。足立透はアパートの古い外階段を上がりながら、手首を無意識に撫でた。革のベルトは長く使ったぶんだけ手になじんでいて、留め具の金属だけが夜気みたいに冷たかった。
六年ぶりのメールは、あまりにもそっけなかった。
住所 〇〇〇-〇。
来る?
たったそれだけだった。
ふざけているのかと思った。試されているのかとも思った。無視してやるつもりで煙草でも買いに出たはずなのに、気づけばこの安っぽい階段を上っている。自分でも、どうしようもなく腹が立った。
廊下には夕飯の名残みたいな匂いが薄く漂っていた。醤油が火に触れた匂い、出汁の甘さ、油の温度が少し下がったあとの、やわらかな膜の匂い。その中に、知っている気配が混じっている。
大学のころ、何度も嗅いだ匂いだった。
扉の前で立ち止まる。
ノックする前に、中から声がした。
「開いてるよ」
その一言だけで、足立の背筋にぞくりと細いものが走った。
ドアノブをひねると、鍵は本当に開いていた。
「……開けとくなよ。物騒だろ」
ぼやく声は、思ったより掠れていた。
キッチンのほうで皿を並べていた女が、ゆっくりと振り向く。
堂島真白は、昔とあまり変わっていなかった。
それがまず腹立たしかった。
肩までの黒髪をまとめて、耳の横に細い毛束を落としている。白い肌も、あまり動かない口元も、こちらを見るときだけ温度が上がる目も、足立の記憶から勝手に出てきたみたいにそこにあった。
そして、その目は、足立を見つけた瞬間にちゃんと嬉しそうだった。
「おかえり」
足立は、すぐには動けなかった。
その言葉が、あまりにも自然にそこに置かれたからだ。責めるでもなく、拗ねるでもなく、恨むでもなく、ただ決まっていた台詞みたいに。
「……帰ってねぇよ」
かろうじてそう返すと、真白は聞こえなかったふりをした。
「ちょうどできたところ。座って」
狭い部屋だった。
一人暮らし用の、寝る場所と食べる場所がちゃんと分かれていないような間取り。小さなテーブル、二人掛けの安いソファ、流しの上に伏せたグラス。大学時代の部屋に似ていた。意図して似せたのか、たまたまこうなったのか、それを確かめる気にはなれなかった。
いや、確かめたくなかった。
食卓には、肉じゃがと焼き魚と味噌汁が並んでいた。足立の好きだったものばかりだ。昔、腹が減ったと言えば作ってくれた。面倒そうな顔で上がり込んで、気づけばソファに寝転がり、そのまま朝になった夜が何度もある。
真白はそのたび、当然みたいな顔をしていた。
足立は椅子を引き、無言で座った。
真白も向かいに腰を下ろす。
「いただきます」
先に箸を取ったのは真白のほうだった。
あまりにも普通の食事の始まり方で、足立は余計に苛立った。
料理を見る。真白を見る。皿に落ちる照明の色を見る。
どれも昔と同じようでいて、同じじゃない。
ようやく箸を持ち上げ、ひと口食べる。
うまい。
うまいのが、むかついた。
一口でやめるつもりだった。
味を見て、文句を言って、箸を置くつもりだった。
なのに二口目を取っていた。じゃがいもは少し煮崩れていて、肉の脂が甘く染みている。味噌汁には油揚げが入っていた。昔、足立が何も考えずに「これでいい」と言ったやつだ。
覚えている。
覚えられている。
そのどっちもむかついた。
「なんで今なんだよ」
味を確かめるみたいに飲み込んでから、足立は低く言った。
真白はすぐには答えなかった。味噌汁を一口飲んで、静かに息をつく。その仕草まで妙に整っていて、足立は舌打ちしたくなる。
「五年だぞ」
「六年ぶり」
真白が訂正する。
「……揚げ足取ってんじゃねぇよ」
「取ってないよ。ちゃんと覚えてるだけ」
その言い方に、足立は視線を上げた。
真白は穏やかな顔をしている。穏やかな顔をして、少しも目を逸らさない。
大学で最初に隣の席になった日も、そうだった。
犯罪者を責める声ばかり目立つ教室で、真白だけが、犯人の側からものを見ていた。
「私はこの人、好きですよ」
そう言って、少し笑った。
あのとき足立は、こいつは正義ぶった馬鹿じゃない、と分かった。
もっと悪かった。
足立はあのとき、ぞっとしたのを覚えている。
犯罪者を庇う女なんていくらでもいる。正義ぶった連中に逆張りしたいだけの馬鹿もいる。
でも真白は違った。
理解しているのではなく、馴染んでいた。
そっち側の温度を、最初から知っている顔だった。
「……犯罪者だぞ」
足立がそう言うと、真白は「あ、そうだった」とでも言うみたいに、すっといつもの薄い笑みに戻った。
「忘れてください」
あれが始まりだった。
「僕がこっち来てたのも知ってただろ」
食卓の上に言葉を戻すと、真白は小さく笑った。
「知ってたよ」
あっさりと言う。
「……なんでだよ」
「透が、思ったよりずっとちゃんと稲羽に来たから」
意味が分からない。
足立の眉間が寄る。
真白は箸を置いた。細い指先が木の箸を揃える。その几帳面さが妙に目につく。
「来ないかもしれないと思ってた」
「は?」
「逃げるかもしれないって」
足立の喉が、ひどく乾いた。
部屋の空気が変わった気がした。
煮物の甘い匂いの下に、金属の冷たい臭いがある。気のせいじゃない。足立はまた、自分の腕時計に触れていた。
真白の視線がそこに落ちる。
「……腕時計、どう?」
「便利だから外してねぇだけだ」
「そう」
それだけ言ってから、真白はゆっくり顔を上げた。
「ずっとつけててね」
大学の卒業前にも、同じことを言われた。
あの日、真白は妙に上等な箱を寄越した。卒業祝いだと照れくさそうに言っていたくせに、中身が腕時計だと分かった瞬間、足立より真白のほうがうれしそうな顔をした。
高いんじゃねぇの、と言えば、
高かったら捨てられないかなって、と返された。
冗談めかしていたのに、その目だけが少しも冗談ではなかった。
「私が落ち着くから」
あのときの真白はそう言った。
意味が分からないまま、足立は結局その時計を使い続けた。気づけば、誰にも触らせたくなくなっていた。警察学校でも、赴任してからでも、風呂に入るとき以外は手放さなかった。
理由なんて考えないようにしていた。
考えたくない理由ほど、手首によくなじむ。
「……なぁ」
足立は箸を置いた。
「お前、全部知ってんのか」
真白はすぐには答えない。
立ち上がって、皿をひとつ持つ。流しへ運ぶ。水音が鳴る。
その背中を見ているうちに、足立の中で苛立ちと恐怖が、よく似た手つきで混ざり始めた。
真白は蛇口を閉めてから、ようやく振り返った。
「全部じゃないよ」
足立の心臓が一度強く打った。
「でも、少しは知ってる」
その声は穏やかだった。責める響きがまるでない。
それがいちばん気味が悪かった。
「……何を」
「透が、人を死なせたかもしれないってこと」
足立は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦って、短く嫌な音を立てる。
「違う。僕は……」
「うん」
「入れただけだ」
「うん」
「殺すつもりじゃなかった」
「そうだろうね」
真白は一歩近づいた。
「でも死んだ」
足立の顔から血の気が引く。
その一瞬を、真白は嬉しそうに見ていた。
「違う!」
思ったより大きな声が出た。
狭い部屋の壁に反響して、自分の耳に返ってくる。
「僕は知らなかった。あんなことになるなんて。分かるわけねぇだろ。テレビに落としたら死ぬなんて、そんなの——」
言っているうちに、自分の言葉が言い訳の形をしているのが分かった。
それがまた、たまらなく惨めだった。
真白はもう一歩だけ近づいた。
大学のころと同じ、恋人だったころの距離。抱きしめれば抱けるし、喉元に手を伸ばすこともできる距離。
足立は、今度は後ずさらなかった。
「大丈夫」
真白が言う。
「分かってる」
「何が」
「殺したかったわけじゃないんだよね」
「……」
「そう言うと思ってた」
真白の目は柔らかく細められていた。慰めるような目ではなかった。確かめたかったものを確かめ終えた人間の、静かな満足があった。
「……今の透、好き」
足立の呼吸が止まる。
「大学のときより、もっと好き」
頭の奥で、別の夜が蘇る。
狭い部屋。足立が苛立っていた日だった。何に腹を立てていたのかも、もう曖昧だ。大学の連中の薄っぺらい顔か、講義のつまらなさか、将来が見えすぎることへの嫌悪か。たぶん全部だ。
真白はそういう日に限って、わざと足立をつつく。
静かな声で、逃げ道のないところを指で押すみたいに。
そのときも、気づけば足立の手は真白の首にかかっていた。
細い首だった。
少し力を入れれば折れそうで、けれど折れない程度の体温がたしかにそこにあった。
どいつもこいつも馬鹿にしやがって。
お前もどうせ。
何を言ったのか、全部は覚えていない。
ただ、指の下で脈が跳ねたことだけは覚えている。
そして、真白が笑ったことも。
苦しそうに目を見開きながら、怖がるより先に、うれしそうに笑った。
あの顔を見た瞬間、足立は手を離した。
自分が何をしているのかに遅れて気づいて、胃の底が冷えた。謝ろうとした。言い訳をしようとした。そんなつもりじゃなかったと。
すると真白は、咳き込みながら近づいてきて、足立にキスをした。
落ち着かせるみたいに抱きしめて、耳元で囁いた。
——いつかすると思ってた。
あの夜から、何かが壊れたのではなく、名前を与えられたのだと、足立は今になって思う。
「お前さ……」
声がうまく出ない。
「僕をどうしたいんだよ」
真白は、少し考えるように首を傾げた。
それから、あまりにも正直な声音で言った。
「もっと落ちてきてほしい」
足立は笑いそうになった。
笑えるわけがないのに。
「這い上がれないくらいに」
「……っ、お前、やっぱり頭おかしいだろ」
「うん」
肯定は早かった。
早すぎて、足立はかえって言葉を失う。
「でも、透もだよ」
真白はそこで初めて、ほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
「私よりまともだって思ってる?」
「……」
「そう思ってるなら、それでもいい」
「……うるせぇよ」
足立は自分から距離を詰めた。
逃げたくなかったわけじゃない。むしろ逃げたかった。
けれど、この女の前でだけは、ずっと半端なままなのがいちばん嫌だった。
真白は目を伏せない。
受け入れる顔でも、拒む顔でもない。待っている顔だった。
その顔が腹立たしくて、足立は乱暴に頭を引き寄せて唇を塞いだ。
昔と同じ体温だった。
違うのは、昔よりずっと逃げ場がないことだけだ。
触れた瞬間、真白の指が足立のシャツの裾をそっと掴んだ。縋るみたいでいて、実際には捕まえているのはこっちのほうだと分かる手つきだった。
唇が離れると、真白は小さく息をつき、目元だけで笑った。
「……ひさしぶりだね」
「黙れ」
足立の声は低かったが、さっきまでの尖り方ではなかった。
真白はそれが分かったらしく、ひどく満たされた顔をした。
流しにはまだ洗いかけの皿が残っている。窓の外では、遠くを走る車の音が水たまりを裂いていった。冷蔵庫の駆動音が、妙に規則正しく狭い部屋を満たしている。
ありふれた生活の音ばかりだった。
なのにそのどれもが、これから先、逃げ道にはならない気がした。
真白は足立の手首を取った。
腕時計の上から、指先で一度だけ確かめるように撫でる。
「似合ってる」
「……そうかよ」
「うん」
それから真白は、昔と同じ調子で言った。
「泊まってくでしょ」
足立は鼻で笑った。
否定する気力も、もうきれいに失せていた。
真白が玄関へ行き、鍵を回した。
かちり、という小さな音が、やけに大きく聞こえた。
足立はそれを止めなかった。