堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
病院の廊下の奥は、人が少なかった。
白い壁。白い床。白い照明。何もかもが清潔すぎて、逆に人間の汚さだけが浮き上がるようだった。遠くでナースコールが鳴り、すぐに止まる。消毒液の匂いの下に、温くなった缶コーヒーと、冬の乾いた埃の匂いが薄く混じっていた。
堂島は窓際で足を止めた。
「……真白」
低い声だった。
真白は少し離れて立つ。
近づきすぎない。逃げすぎない。叱られる子どもの距離ではなく、事情聴取を受ける大人の距離だった。
堂島はそれを見て、目を細めた。
「お前、俺が何も気づいてないと思ってるか」
真白は、すぐには答えなかった。
「……何の話ですか?」
声は静かだった。
少し疲れていて、少し傷ついているように聞こえる声。
堂島の眉がわずかに動く。
「その顔、やめろ」
真白の指先が、ほんの少しだけ止まった。
「分からねぇならそれでいい。だがな……」
堂島は一歩近づく。
怪我のせいで動きは鈍い。それでも、その圧は刑事のものだった。
「俺は刑事だ」
真白は顔を上げない。
「――お前はいくらでも疑える」
言葉が、廊下に落ちた。
窓の外では、曇った空の下を車が一台、病院の敷地から出ていった。タイヤが濡れた地面を擦る音が、遠くで小さく鳴る。
堂島は続けた。
「足立のことも。生田目のことも。菜々子が巻き込まれる前後のお前の動きも。お前が何を知ってて、何を知らなかったのかも」
真白は黙っている。
「疑おうと思えば、いくらでも疑える」
それは脅しではなかった。
事実だった。
真白は、そのことを一番よく分かっていた。
堂島遼太郎は鈍い男ではない。
ただ、身内を見るときだけ、わざと目を逸らすことがある。真白はそれをずっと利用してきた。堂島が自分を娘のように扱うことも、菜々子が自分を姉のように慕うことも、鳴上が言えないことを抱え込む性格であることも。
全部、使えるものだった。
使ってきた。
堂島は息を吐いた。
「でもな」
その声が、少しだけ変わる。
「今は、父親だ」
真白の肩が、わずかに揺れた。
「お前は俺の、もう一人の娘だ」
真白の呼吸が止まる。
堂島は言葉を選ぶように、しかし逃げずに言った。
「最後まで俺が責任を持つ」
廊下の白い光が、堂島の顔の皺を濃く見せていた。
疲れている顔だった。妻を失い、娘を失いかけ、部下に裏切られ、それでもまだ立っている男の顔だった。
「お前が普通じゃなくても、それは俺の選択の結果だ」
真白は、そこで初めて顔を上げた。
表情が作れない。
それは、彼女にとって珍しいことだった。
悲しむ顔も、心配する顔も、傷ついた顔も作れる。必要なら泣きそうな顔もできる。けれど今は、どの顔を出せばいいのか分からなかった。
堂島は、そんな真白を見る。
刑事なら、さらに踏み込む。
父親なら、抱きしめる。
今の堂島は、そのどちらもできない場所にいた。
「……帰ってこい」
真白の唇が、ほんの少し開く。
「家の中では、せめて娘でいろ」
堂島の声が低くなる。
「菜々子の姉でいろ」
その言葉は、真白の一番深いところへ触れた。
娘。
姉。
自分には似合わない言葉だと思っていた。
真白は人を殺す側の気持ちが分かる。犯罪者を理解することに躊躇いがない。足立透が落ちていく姿を美しいとは思わなくても、愛しいとは思った。菜々子を守りたい気持ちと、生田目を試したい気持ちが同じ胸の中に並んでいた。
そんな人間が、娘でいられるのか。
姉でいられるのか。
分からなかった。
分からないのに、喉の奥が痛んだ。
「……お父さん」
声は、震えていた。
言ってから、真白は自分で驚いた。
堂島も動かなかった。
その言葉を受け止めるのに、少し時間がかかったようだった。
目を閉じる。
深く、長く息を吐く。
「……忘れるな」
堂島は目を開けた。
「菜々子を泣かせたら、俺は刑事に戻る」
その瞬間、真白ははっきり理解した。
許されたわけではない。
見逃されたわけでもない。
ただ、まだ家の中にいることを許されただけだ。
そしてその許しは、条件付きだった。
真白は小さく頷いた。
「……はい」
堂島はそれ以上何も言わなかった。
背を向け、菜々子の病室へ戻っていく。
真白は廊下に一人残った。
壁に背を預ける。
膝が少しだけ力を失いかける。
娘でいろ。
姉でいろ。
それは優しい言葉だった。
同時に、真白にとっては首輪だった。
けれど、首輪をかけられることが嫌ではない自分がいる。
堂島のそれは、足立の腕時計とは違う。
盗聴器でも、位置情報でも、執着でもない。
もっと古くて、もっと重いもの。
責任。
真白は目を閉じた。
その重さを、ほんの少しだけ嬉しいと思った。
そして、それでも足立を助けることをやめる気はなかった。
数日後、足立の処分についての空気はさらに変わった。
警察署の中では、怒りと困惑が混ざっていた。
元警察官の自供。だが、立証不能な犯行方法。非現実的すぎる供述。事件の核心に触れているようで、法的にはどこにも着地しない言葉。
真白は、そこへ淡々と手を入れた。
封筒の上に指を重ねたまま、落ち着いた声で言う。
「透の件、正式に動き始めたよ」
「は?」
「主担当は別の先生。刑事弁護に慣れてる人。先生は法廷、私は接見と方針の整理をやる」
「……何それ」
「弁護」
足立は黙った。
それから、露骨に顔をしかめる。
「やめろよ」
「やだ」
「そういうとこだよ、ほんと」
「何が?」
「俺を助けたいみたいな顔すんの」
真白はそこで首を傾けて、正直に続けた。
「透を、誰かに雑に持っていかれるの嫌」
足立はあからさまに嫌そうな顔をした。
嫌そうで、少しだけ困ったようでもあった。
「……重」
「うん」
「重すぎ」
「今さら」
「今さらでも重いもんは重いだろ」
真白はくすっと笑った。
足立はそれを見て、舌打ちを飲み込むみたいに口元を歪める。
「僕さぁ」
「うん」
「別に、助かりたいとか思ってないんだけど」
「そう」
「……そう、って」
「思ってなくても助けるから」
その返しがあまりにも早くて、足立は一瞬だけ言葉を失った。
それから、呆れたように笑う。
「何だそれ」
「僕の意思は尊重しないの?」
「するよ」
「してないだろ」
「してる。尊重した上で、無視するだけ」
足立はとうとう小さく吹き出した。
ほんの少しだけだったが、確かに笑った。
その顔を見て、真白の胸の奥がゆっくり緩む。
足立の接見に行くたび、彼女は書類を持っていた。
黒いファイル。付箋。供述調書の写し。時系列表。関係者の動線。矛盾点。
その日の足立は、退屈そうに座っていた。
「何か、すっかり先生って感じだねぇ」
「黙って」
「はいはい」
「本当に黙って」
「……怖」
足立は肩をすくめる。
けれど、以前のように好き勝手喋ろうとはしなくなった。
真白の指示。
それだけで黙る自分に、足立自身が一番腹を立てているようだった。
「透」
「何」
「もう新しいことは言わないで」
「覚えてない、でいいの?」
「違う。供述済みです、とだけ言って」
「弁護士っぽい」
「弁護士だから」
「犯行理由について何回も聞かれるんだけど?」
真白の指が、一瞬だけ止まる。
すぐに紙をめくる。
「同じ。感情的な補足をしないで」
「感情的ねぇ」
足立は薄く笑った。
「僕がさ、あの子にムカついたとか、泣けばいいと思ったとか、そういうの?」
「言わないで」
「言ったら?」
「人は怒るよ」
真白は顔を上げる。
「正しくても」
足立は黙った。
感情の話になると、彼はいつも少しだけ目を逸らす。
罪悪感か。
苛立ちか。
自分でも分かっていない感情か。
真白はそれを深掘りしない。
今は必要がない。
「……お前さ」
足立が低く言う。
「死んだやつのこと、どうでもいいと思ってる?」
「思ってない」
「嘘」
「どうでもよくはないよ」
真白は淡々と答えた。
「でも、透より優先はしない」
足立の表情が一瞬固まる。
その反応を見るのが好きだった。
自分だけを選ばれることに慣れていない人間の、怯えと喜びが混ざった顔。
真白はその顔を見て、少しだけ笑う。
「何、その顔」
「……何でもねぇよ」
「嬉しい?」
「うるせぇ」
「嬉しいんだ」
「黙れって」
足立は顔を逸らした。
真白は書類に視線を戻す。
「不起訴になる可能性が高い」
足立の目が戻った。
「……マジで?」
「うん」
「自白してんのに?」
「自白だけで全部は無理。しかも、その自白が現実と噛み合ってない」
「テレビに入れたって言ったから?」
「そう」
足立はしばらく真白を見ていた。
「何か、すごいな」
「何が」
「本当のこと言ったら助かるんだ」
真白は静かに言った。
「本当のことが、法廷で扱える形をしてなかっただけ」
足立は笑った。
笑いながら、少しだけ顔を伏せる。
「世の中って、ほんとクソだね」
「うん」
「僕みたいなのが助かるんだから」
「助けるのは私」
足立が顔を上げる。
真白はまっすぐ彼を見ていた。
「世の中じゃない」
足立の口元が歪む。
泣きそうな顔にはならない。彼はそんな顔をしない。
けれど、何かを飲み込んだような目をした。
「……責任取れよ」
「取るよ」
「軽いなぁ」
「軽くないよ」
真白は書類を閉じる。
「保証人にもなる。一緒に住む場所も探す。稲羽は出る」
足立の顔から笑いが消えた。
「は?」
「都会に戻る」
「ちょっと待て」
「待たない」
「いや、何勝手に決めてんの」
「透、稲羽にいられないでしょ」
「それは……」
「おじさんの部下だった。菜々子ちゃんにも会ってた。悠くんたちもいる。花村くんはあなたを見るたびに小西さんを思い出す」
足立は黙る。
「ここには、もう透の居場所はない」
その言葉は、残酷だった。
けれど真白の声は優しかった。
「だから、私のところに来て」
足立の目が揺れる。
「……堂島さんは」
「怒ると思う」
「当たり前だろ」
「うん」
「菜々子ちゃんは」
そこで、真白も少し黙った。
「分からない」
「……」
「でも、私は行く」
足立はしばらく真白を見ていた。
やがて、ふっと笑う。
「お前さぁ、ほんと僕よりひどいよ」
「そう?」
「そうだろ。堂島さんに娘って顔したまま、僕を連れて出てくわけ?」
真白の表情が、わずかに動いた。
足立はそれを見逃さない。
「何か言われた?」
「……」
「へぇ」
足立は笑う。
嫌な笑い方だった。
「よかったじゃん。まだ家族ごっこできるってさ」
真白の目が少し冷える。
「透」
「何。怒った?」
「怒ってない」
「嘘」
「少し」
足立は笑ったまま、しかし声を落とした。
「僕を選んだら、堂島さん泣くんじゃないの」
「泣かないよ」
「怒る?」
「うん」
「菜々子ちゃんは?」
真白は答えなかった。
足立の笑みが薄くなる。
「……そこ、答えらんないんだ」
「うん」
「じゃあ、やめれば」
「やめない」
「何で」
「透といたいから」
足立は黙った。
真白は少しだけ身を乗り出す。
「私は、良い娘にも、良い姉にも、たぶんなれない」
「……」
「でも、透の味方にはなれる」
足立は顔を逸らした。
「最低」
「うん」
「……最低だけど」
声が小さくなる。
「僕には、都合いいな」
真白は笑った。
「でしょ」
その笑顔を見て、足立は本気で嫌そうな顔をした。
不起訴の知らせが正式に出た日、堂島は何も言わなかった。
ただ、煙草を一本、吸わずに折った。
真白は堂島家の台所にいた。
菜々子は居間で宿題をしている。鳴上はその横についていた。表面上は、いつもの夕方だった。味噌汁の湯気。炊飯器の音。テレビの小さな音量。
堂島は台所の入り口に立っていた。
「……足立が出る」
「うん」
真白は鍋を見たまま答える。
「お前が動いたんだな」
「うん」
今度は否定しなかった。
堂島の拳が握られる。
「何でだ」
真白は少しだけ目を伏せた。
「好きだから」
堂島の顔が歪んだ。
その言葉が、いちばん理解しやすくて、いちばん許しがたい理由だった。
「お前……」
低い声。
怒鳴り声になる手前の声。
真白は振り返らない。
「おじさんには、謝らない」
堂島が息を止める。
「謝ったら、やめるべきだったことになるから」
「違うのか」
「違わない」
真白はそこで、ようやく堂島を見た。
「でも、やめるつもりもなかった」
堂島はしばらく真白を見ていた。
刑事の顔だった。
けれど、次第に父親の顔が滲んでくる。
「……菜々子には」
「いつものようにする」
「できるのか」
「する」
「できるかって聞いてんだ」
真白は少し黙る。
「分からない」
堂島は目を閉じた。
「真白」
声が、疲れていた。
「お前は本当に……」
その先を言わなかった。
普通じゃない。
おかしい。
壊れている。
いくらでも言える。
でも堂島は言わなかった。
言えば、自分が選んだ娘を切り捨てることになるから。
居間から菜々子の声がした。
「お姉ちゃーん、これ終わったら見てくれる?」
真白は一瞬だけ堂島を見る。
堂島は顔を背けた。
「……行け」
真白は頷き、手を拭いて居間へ向かった。
菜々子はノートを広げている。
字は少し歪んでいるが、一生懸命書いてあった。
「見て見て!」
「うん。見せて」
真白は菜々子の隣に座る。
鳴上は真白を見ていた。静かな目だった。責める目ではない。けれど、もう信用はしていない目。
真白はそれを受け流した。
菜々子のノートを見る。
「ここ、惜しい。こっちの漢字だね」
「こっち?」
「うん。上手に書けてるよ」
菜々子が笑う。
「お姉ちゃん、またご飯作りに来る?」
真白の指先が止まる。
鳴上がわずかに視線を上げる。
堂島も台所の向こうで動きを止めた気配がした。
真白は笑った。
いつもの姉の顔で。
「来るよ」
嘘ではない。
でも、今までと同じではない。
菜々子はそれを知らずに、嬉しそうに頷いた。
真白はその笑顔を見て、胸の奥が痛むのを感じた。
痛む。
痛むのに、足立を選ぶ。
自分は、そういう人間なのだと、真白はもう知っていた。