堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。   作:an-ryuka

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15.

 

病院の廊下の奥は、人が少なかった。

 

白い壁。白い床。白い照明。何もかもが清潔すぎて、逆に人間の汚さだけが浮き上がるようだった。遠くでナースコールが鳴り、すぐに止まる。消毒液の匂いの下に、温くなった缶コーヒーと、冬の乾いた埃の匂いが薄く混じっていた。

 

堂島は窓際で足を止めた。

 

「……真白」

 

低い声だった。

 

真白は少し離れて立つ。

近づきすぎない。逃げすぎない。叱られる子どもの距離ではなく、事情聴取を受ける大人の距離だった。

 

堂島はそれを見て、目を細めた。

 

「お前、俺が何も気づいてないと思ってるか」

 

真白は、すぐには答えなかった。

 

「……何の話ですか?」

 

声は静かだった。

少し疲れていて、少し傷ついているように聞こえる声。

 

堂島の眉がわずかに動く。

 

「その顔、やめろ」

 

真白の指先が、ほんの少しだけ止まった。

 

「分からねぇならそれでいい。だがな……」

 

堂島は一歩近づく。

怪我のせいで動きは鈍い。それでも、その圧は刑事のものだった。

 

「俺は刑事だ」

 

真白は顔を上げない。

 

「――お前はいくらでも疑える」

 

言葉が、廊下に落ちた。

 

窓の外では、曇った空の下を車が一台、病院の敷地から出ていった。タイヤが濡れた地面を擦る音が、遠くで小さく鳴る。

 

堂島は続けた。

 

「足立のことも。生田目のことも。菜々子が巻き込まれる前後のお前の動きも。お前が何を知ってて、何を知らなかったのかも」

 

真白は黙っている。

 

「疑おうと思えば、いくらでも疑える」

 

それは脅しではなかった。

事実だった。

 

真白は、そのことを一番よく分かっていた。

 

堂島遼太郎は鈍い男ではない。

ただ、身内を見るときだけ、わざと目を逸らすことがある。真白はそれをずっと利用してきた。堂島が自分を娘のように扱うことも、菜々子が自分を姉のように慕うことも、鳴上が言えないことを抱え込む性格であることも。

 

全部、使えるものだった。

 

使ってきた。

 

堂島は息を吐いた。

 

「でもな」

 

その声が、少しだけ変わる。

 

「今は、父親だ」

 

真白の肩が、わずかに揺れた。

 

「お前は俺の、もう一人の娘だ」

 

真白の呼吸が止まる。

 

堂島は言葉を選ぶように、しかし逃げずに言った。

 

「最後まで俺が責任を持つ」

 

廊下の白い光が、堂島の顔の皺を濃く見せていた。

疲れている顔だった。妻を失い、娘を失いかけ、部下に裏切られ、それでもまだ立っている男の顔だった。

 

「お前が普通じゃなくても、それは俺の選択の結果だ」

 

真白は、そこで初めて顔を上げた。

 

表情が作れない。

 

それは、彼女にとって珍しいことだった。

悲しむ顔も、心配する顔も、傷ついた顔も作れる。必要なら泣きそうな顔もできる。けれど今は、どの顔を出せばいいのか分からなかった。

 

堂島は、そんな真白を見る。

 

刑事なら、さらに踏み込む。

父親なら、抱きしめる。

今の堂島は、そのどちらもできない場所にいた。

 

「……帰ってこい」

 

真白の唇が、ほんの少し開く。

 

「家の中では、せめて娘でいろ」

 

堂島の声が低くなる。

 

「菜々子の姉でいろ」

 

その言葉は、真白の一番深いところへ触れた。

 

娘。

姉。

 

自分には似合わない言葉だと思っていた。

真白は人を殺す側の気持ちが分かる。犯罪者を理解することに躊躇いがない。足立透が落ちていく姿を美しいとは思わなくても、愛しいとは思った。菜々子を守りたい気持ちと、生田目を試したい気持ちが同じ胸の中に並んでいた。

 

そんな人間が、娘でいられるのか。

姉でいられるのか。

 

分からなかった。

 

分からないのに、喉の奥が痛んだ。

 

 

「……お父さん」

 

声は、震えていた。

 

言ってから、真白は自分で驚いた。

 

堂島も動かなかった。

その言葉を受け止めるのに、少し時間がかかったようだった。

 

目を閉じる。

深く、長く息を吐く。

 

「……忘れるな」

 

堂島は目を開けた。

 

「菜々子を泣かせたら、俺は刑事に戻る」

 

その瞬間、真白ははっきり理解した。

 

許されたわけではない。

見逃されたわけでもない。

ただ、まだ家の中にいることを許されただけだ。

 

そしてその許しは、条件付きだった。

 

真白は小さく頷いた。

 

「……はい」

 

堂島はそれ以上何も言わなかった。

背を向け、菜々子の病室へ戻っていく。

 

真白は廊下に一人残った。

 

壁に背を預ける。

膝が少しだけ力を失いかける。

 

娘でいろ。

姉でいろ。

 

それは優しい言葉だった。

同時に、真白にとっては首輪だった。

 

けれど、首輪をかけられることが嫌ではない自分がいる。

 

堂島のそれは、足立の腕時計とは違う。

盗聴器でも、位置情報でも、執着でもない。

もっと古くて、もっと重いもの。

 

責任。

 

真白は目を閉じた。

 

その重さを、ほんの少しだけ嬉しいと思った。

そして、それでも足立を助けることをやめる気はなかった。

 

 

数日後、足立の処分についての空気はさらに変わった。

 

警察署の中では、怒りと困惑が混ざっていた。

元警察官の自供。だが、立証不能な犯行方法。非現実的すぎる供述。事件の核心に触れているようで、法的にはどこにも着地しない言葉。

 

真白は、そこへ淡々と手を入れた。

 

封筒の上に指を重ねたまま、落ち着いた声で言う。

 

「透の件、正式に動き始めたよ」

 

「は?」

 

「主担当は別の先生。刑事弁護に慣れてる人。先生は法廷、私は接見と方針の整理をやる」

 

「……何それ」

 

「弁護」

 

足立は黙った。

それから、露骨に顔をしかめる。

 

「やめろよ」

 

「やだ」

 

「そういうとこだよ、ほんと」

 

「何が?」

 

「俺を助けたいみたいな顔すんの」

 

真白はそこで首を傾けて、正直に続けた。

 

「透を、誰かに雑に持っていかれるの嫌」

 

足立はあからさまに嫌そうな顔をした。

嫌そうで、少しだけ困ったようでもあった。

 

「……重」

 

「うん」

 

「重すぎ」

 

「今さら」

 

「今さらでも重いもんは重いだろ」

 

真白はくすっと笑った。

足立はそれを見て、舌打ちを飲み込むみたいに口元を歪める。

 

「僕さぁ」

 

「うん」

 

「別に、助かりたいとか思ってないんだけど」

 

「そう」

 

「……そう、って」

 

「思ってなくても助けるから」

 

その返しがあまりにも早くて、足立は一瞬だけ言葉を失った。

それから、呆れたように笑う。

 

「何だそれ」

 

「僕の意思は尊重しないの?」

 

「するよ」

 

「してないだろ」

 

「してる。尊重した上で、無視するだけ」

 

足立はとうとう小さく吹き出した。

ほんの少しだけだったが、確かに笑った。

その顔を見て、真白の胸の奥がゆっくり緩む。

 

足立の接見に行くたび、彼女は書類を持っていた。

黒いファイル。付箋。供述調書の写し。時系列表。関係者の動線。矛盾点。

 

その日の足立は、退屈そうに座っていた。

 

「何か、すっかり先生って感じだねぇ」

 

「黙って」

 

「はいはい」

 

「本当に黙って」

 

「……怖」

 

足立は肩をすくめる。

けれど、以前のように好き勝手喋ろうとはしなくなった。

 

真白の指示。

 

それだけで黙る自分に、足立自身が一番腹を立てているようだった。

 

「透」

 

「何」

 

「もう新しいことは言わないで」

 

「覚えてない、でいいの?」

 

「違う。供述済みです、とだけ言って」

 

「弁護士っぽい」

 

「弁護士だから」

 

「犯行理由について何回も聞かれるんだけど?」

 

真白の指が、一瞬だけ止まる。

すぐに紙をめくる。

 

「同じ。感情的な補足をしないで」

 

「感情的ねぇ」

 

足立は薄く笑った。

 

「僕がさ、あの子にムカついたとか、泣けばいいと思ったとか、そういうの?」

 

「言わないで」

 

「言ったら?」

 

「人は怒るよ」

 

真白は顔を上げる。

 

「正しくても」

 

足立は黙った。

 

感情の話になると、彼はいつも少しだけ目を逸らす。

罪悪感か。

苛立ちか。

自分でも分かっていない感情か。

 

真白はそれを深掘りしない。

今は必要がない。

 

「……お前さ」

 

足立が低く言う。

 

「死んだやつのこと、どうでもいいと思ってる?」

 

「思ってない」

 

「嘘」

 

「どうでもよくはないよ」

 

真白は淡々と答えた。

 

「でも、透より優先はしない」

 

足立の表情が一瞬固まる。

 

その反応を見るのが好きだった。

自分だけを選ばれることに慣れていない人間の、怯えと喜びが混ざった顔。

 

真白はその顔を見て、少しだけ笑う。

 

「何、その顔」

 

「……何でもねぇよ」

 

「嬉しい?」

 

「うるせぇ」

 

「嬉しいんだ」

 

「黙れって」

 

足立は顔を逸らした。

 

真白は書類に視線を戻す。

 

「不起訴になる可能性が高い」

 

足立の目が戻った。

 

「……マジで?」

 

「うん」

 

「自白してんのに?」

 

「自白だけで全部は無理。しかも、その自白が現実と噛み合ってない」

 

「テレビに入れたって言ったから?」

 

「そう」

 

足立はしばらく真白を見ていた。

 

「何か、すごいな」

 

「何が」

 

「本当のこと言ったら助かるんだ」

 

真白は静かに言った。

 

「本当のことが、法廷で扱える形をしてなかっただけ」

 

足立は笑った。

笑いながら、少しだけ顔を伏せる。

 

「世の中って、ほんとクソだね」

 

「うん」

 

「僕みたいなのが助かるんだから」

 

「助けるのは私」

 

足立が顔を上げる。

 

真白はまっすぐ彼を見ていた。

 

「世の中じゃない」

 

足立の口元が歪む。

泣きそうな顔にはならない。彼はそんな顔をしない。

けれど、何かを飲み込んだような目をした。

 

「……責任取れよ」

 

「取るよ」

 

「軽いなぁ」

 

「軽くないよ」

 

真白は書類を閉じる。

 

「保証人にもなる。一緒に住む場所も探す。稲羽は出る」

 

足立の顔から笑いが消えた。

 

「は?」

 

「都会に戻る」

 

「ちょっと待て」

 

「待たない」

 

「いや、何勝手に決めてんの」

 

「透、稲羽にいられないでしょ」

 

「それは……」

 

「おじさんの部下だった。菜々子ちゃんにも会ってた。悠くんたちもいる。花村くんはあなたを見るたびに小西さんを思い出す」

 

足立は黙る。

 

「ここには、もう透の居場所はない」

 

その言葉は、残酷だった。

けれど真白の声は優しかった。

 

「だから、私のところに来て」

 

足立の目が揺れる。

 

「……堂島さんは」

 

「怒ると思う」

 

「当たり前だろ」

 

「うん」

 

「菜々子ちゃんは」

 

そこで、真白も少し黙った。

 

「分からない」

 

「……」

 

「でも、私は行く」

 

足立はしばらく真白を見ていた。

やがて、ふっと笑う。

 

「お前さぁ、ほんと僕よりひどいよ」

 

「そう?」

 

「そうだろ。堂島さんに娘って顔したまま、僕を連れて出てくわけ?」

 

真白の表情が、わずかに動いた。

 

足立はそれを見逃さない。

 

「何か言われた?」

 

「……」

 

「へぇ」

 

足立は笑う。

嫌な笑い方だった。

 

「よかったじゃん。まだ家族ごっこできるってさ」

 

真白の目が少し冷える。

 

「透」

 

「何。怒った?」

 

「怒ってない」

 

「嘘」

 

「少し」

 

足立は笑ったまま、しかし声を落とした。

 

「僕を選んだら、堂島さん泣くんじゃないの」

 

「泣かないよ」

 

「怒る?」

 

「うん」

 

「菜々子ちゃんは?」

 

真白は答えなかった。

 

足立の笑みが薄くなる。

 

「……そこ、答えらんないんだ」

 

「うん」

 

「じゃあ、やめれば」

 

「やめない」

 

「何で」

 

「透といたいから」

 

足立は黙った。

 

真白は少しだけ身を乗り出す。

 

「私は、良い娘にも、良い姉にも、たぶんなれない」

 

「……」

 

「でも、透の味方にはなれる」

 

足立は顔を逸らした。

 

「最低」

 

「うん」

 

「……最低だけど」

 

声が小さくなる。

 

「僕には、都合いいな」

 

真白は笑った。

 

「でしょ」

 

その笑顔を見て、足立は本気で嫌そうな顔をした。

 

 

不起訴の知らせが正式に出た日、堂島は何も言わなかった。

 

ただ、煙草を一本、吸わずに折った。

 

真白は堂島家の台所にいた。

菜々子は居間で宿題をしている。鳴上はその横についていた。表面上は、いつもの夕方だった。味噌汁の湯気。炊飯器の音。テレビの小さな音量。

 

堂島は台所の入り口に立っていた。

 

「……足立が出る」

 

「うん」

 

真白は鍋を見たまま答える。

 

「お前が動いたんだな」

 

「うん」

 

今度は否定しなかった。

 

堂島の拳が握られる。

 

「何でだ」

 

真白は少しだけ目を伏せた。

 

「好きだから」

 

堂島の顔が歪んだ。

 

その言葉が、いちばん理解しやすくて、いちばん許しがたい理由だった。

 

「お前……」

 

低い声。

怒鳴り声になる手前の声。

 

真白は振り返らない。

 

「おじさんには、謝らない」

 

堂島が息を止める。

 

「謝ったら、やめるべきだったことになるから」

 

「違うのか」

 

「違わない」

 

真白はそこで、ようやく堂島を見た。

 

「でも、やめるつもりもなかった」

 

堂島はしばらく真白を見ていた。

刑事の顔だった。

けれど、次第に父親の顔が滲んでくる。

 

「……菜々子には」

 

「いつものようにする」

 

「できるのか」

 

「する」

 

「できるかって聞いてんだ」

 

真白は少し黙る。

 

「分からない」

 

堂島は目を閉じた。

 

「真白」

 

声が、疲れていた。

 

「お前は本当に……」

 

その先を言わなかった。

 

普通じゃない。

おかしい。

壊れている。

 

いくらでも言える。

でも堂島は言わなかった。

 

言えば、自分が選んだ娘を切り捨てることになるから。

 

居間から菜々子の声がした。

 

「お姉ちゃーん、これ終わったら見てくれる?」

 

真白は一瞬だけ堂島を見る。

堂島は顔を背けた。

 

「……行け」

 

真白は頷き、手を拭いて居間へ向かった。

 

菜々子はノートを広げている。

字は少し歪んでいるが、一生懸命書いてあった。

 

「見て見て!」

 

「うん。見せて」

 

真白は菜々子の隣に座る。

鳴上は真白を見ていた。静かな目だった。責める目ではない。けれど、もう信用はしていない目。

 

真白はそれを受け流した。

 

菜々子のノートを見る。

 

「ここ、惜しい。こっちの漢字だね」

 

「こっち?」

 

「うん。上手に書けてるよ」

 

菜々子が笑う。

 

「お姉ちゃん、またご飯作りに来る?」

 

真白の指先が止まる。

 

鳴上がわずかに視線を上げる。

堂島も台所の向こうで動きを止めた気配がした。

 

真白は笑った。

 

いつもの姉の顔で。

 

「来るよ」

 

嘘ではない。

でも、今までと同じではない。

 

菜々子はそれを知らずに、嬉しそうに頷いた。

 

真白はその笑顔を見て、胸の奥が痛むのを感じた。

 

痛む。

痛むのに、足立を選ぶ。

 

自分は、そういう人間なのだと、真白はもう知っていた。

 

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