堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
春の大学は、どこもかしこも薄っぺらかった。
新品のノート。新品のスーツ。まだ自分を賢いと思っている声。講義棟の廊下には、安い香水と自販機の缶コーヒーと、雨上がりの埃っぽい匂いが混じっていた。
僕は窓際の席に座って、配られた資料を眺めていた。
法学部の初年次演習。
刑事事件の判例を読んで、班ごとに意見を出す。そういう、いかにも大学生らしい授業だった。
教授は前で喋っている。
「この事件について、加害者の責任能力、動機、社会的背景を踏まえた上で、各自の意見をまとめてください」
周りの連中は真面目に頷いていた。
偉い偉い。
まだ何も知らないくせに、正義の話をする準備だけは万端らしい。
資料の事件は、別に珍しくもなかった。
家庭環境が悪い。孤立していた。衝動的に人を刺した。逮捕されたあと、反省しているようにも見えるが供述は曖昧。
そういうやつ。
僕の隣には、女が座っていた。
堂島真白。
出席確認で名前を聞いたから知っている。
最初に見たときは、まあ、地味な女だと思った。
黒い髪は肩の少し下で切られていて、変に飾っていない。白い肌に、薄い唇。目立つ服でもない。淡い色のカーディガンに、膝丈のスカート。姿勢はいいが、前のめりではない。周りに合わせて相槌を打つ顔は上手いのに、目の奥だけが妙に静かだった。
眠いわけでも、緊張しているわけでもない。
ただ、退屈そうだった。
僕と同じくらいに。
班の一人が、いかにも模範解答みたいなことを言った。
「やっぱり、どんな事情があっても人を傷つけるのは許されないと思います」
はいはい。
別のやつが続ける。
「でも、社会が救えなかった面もあるというか……加害者だけを責めても解決しないんじゃないかな」
綺麗だねぇ。
どっちも自分が良い人間だと思いたいだけだ。責めるにしても、庇うにしても、相手を自分の物差しで測っている。こういうのを聞いていると、鼻の奥がむずむずする。
僕は資料を指で弾いて、つい言った。
「馬鹿だろ、こいつ」
班の空気が止まる。
隣の真白だけが、少しだけこちらを見た。
僕は肩をすくめる。
「いや、だってさ。やるならもっと上手くやれよって話じゃない? 衝動的に刺して、逃げ方も雑で、供述もぐちゃぐちゃ。何がしたかったのか分かんないし。捕まりたいなら別だけど」
一人が眉をひそめた。
「そういう問題じゃなくない?」
「じゃあどういう問題?」
僕が笑うと、そいつは少し黙った。
正義を語る連中は、こっちが正面から茶化すとすぐ困る。
そのとき、隣から静かな声がした。
「分からない、というより」
真白だった。
「この人は、分かられたくなかったのかもしれません」
全員の視線が真白に向く。
真白は資料を見たまま、淡々と続けた。
「家庭にも学校にも職場にも居場所がなくて、でも自分のことを可哀想だと認めるのも嫌だった。助けてほしいと言えば、下に見られる。怒れば、迷惑だと言われる。何もしなければ、存在しないみたいに扱われる」
声に熱はない。
なのに、不思議と耳に残る声だった。
「だから、誰かを傷つけたかったというより、自分が傷つける側に回れることを確かめたかったのかなって」
班の空気が変わった。
真白は顔を上げる。
「この人はたぶん、相手を見ていません。自分しか見ていない。でも、それがとても人間らしい気がします」
僕は、思わず真白を見た。
女は、ほんの少し笑っていた。
本当に少しだけ。
口元がわずかに緩むくらいの笑い方。
「私はこの人、人間らしくて好きですよ」
空気が凍った。
誰かが小さく息を呑んだ。
さっきまで加害者の社会的背景がどうとか言っていたやつらが、急に真白を異物みたいに見る。
僕は、気づけば言っていた。
「……犯罪者だぞ」
真白はこちらを見る。
その目は落ち着いていた。
怒ってもいない。慌ててもいない。
「あ」
と、真白は小さく言った。
「そうでした」
それから、さっきの笑みをすっと消した。
「忘れてください」
その瞬間、真白は元の顔に戻った。
周りに合わせる、静かで扱いやすそうな女の顔。
僕は黙った。
変な女だと思った。
同時に、ぞっとした。
あれは逆張りじゃない。
目立ちたい発言でもない。
犯罪者を理解できる自分に酔っているわけでもない。
もっと自然だった。
あいつは、そっち側の考え方を、靴の履き方みたいに知っている。
授業が終わると、学生たちはざわざわと教室を出ていった。雨は上がっていたが、窓の外の木々はまだ濡れていて、光を鈍く返している。
僕は荷物を鞄に突っ込みながら、隣を見た。
真白は資料を丁寧に揃えていた。
「さっきの」
僕が言うと、真白は顔を上げた。
「何ですか?」
「忘れてくださいってやつ。忘れろって言われると、逆に覚えるんだけど」
真白は少し考えるように瞬きをした。
「じゃあ、覚えててもいいです」
「いいんだ」
「足立くんは、言わなさそうなので」
僕は眉を上げた。
「何を」
「私が、変なことを言っていたって」
「さぁね。僕、口軽いよ?」
「そう見せるのは上手そうですね」
その返しが、妙に腹立たしかった。
僕は笑う。
「何それ。初対面で失礼じゃない?」
「ごめんなさい」
真白は素直に謝った。
素直すぎて、余計に胡散臭い。
そのまま彼女は立ち上がり、軽く会釈して教室を出ていった。
背筋はまっすぐで、歩幅は小さすぎず大きすぎない。周りに馴染む歩き方だった。
なのに、一度見てしまうと、馴染んでいるふりにしか見えなかった。
数日後、食堂でまた会った。
昼時の食堂は混んでいた。揚げ物の油、味噌汁、安っぽいカレー、濡れた傘のビニール臭。あちこちで笑い声がして、椅子を引く音が床に擦れていた。
僕はトレーを持ったまま、空いている席を探していた。
どこも埋まっている。
面倒くさい。
昼飯くらい静かに食わせろよ。
そう思っていたら、窓際の席から声がした。
「横、座る?」
真白だった。
彼女は一人で座っていた。
テーブルには弁当箱。中身は卵焼きと、煮物と、焼き魚。学食の油っぽい匂いの中で、そこだけ少し違う匂いがした。出汁と醤油。ちゃんと作った飯の匂い。
僕は一瞬迷ってから、肩をすくめた。
「……んじゃ、遠慮なく」
向かいではなく、横に座った。
真白は特に気にした様子もなく、卵焼きを箸で切っている。
「食堂、珍しいね」
僕が言うと、真白は横目で見た。
「そう?」
「そうでもねぇ……いや、そうでもないよ。弁当の日が多いだろ」
言い直した僕を見て、真白が少しだけ笑った。
「よく見てるね」
「たまたまだろ」
「うん。たまたま」
その言い方が、ちっとも信じていない言い方だった。
僕は学食の唐揚げを口に入れる。
冷めかけていて、衣ばかり固い。
「料理、好きなの」
「嫌いじゃないよ」
「へぇ」
「足立くんは?」
「食べるのは好き」
「作るのは?」
「面倒くさい」
「似合うね」
「何が」
「面倒くさいって言いながら、ちゃんと食べるところ」
「馬鹿にしてる?」
「少し」
真白は平然と言った。
僕は箸を止める。
「お前さ、見た目より性格悪いよね」
「そう見える?」
「見える」
「嬉しいな」
嬉しい?
普通、そこは怒るか、否定するか、冗談にするところだろ。
真白は小さく笑って、弁当の煮物を食べた。
その顔は本当に穏やかだった。
僕は、急に嫌な気分になった。
この女は、たぶん自分が性格悪いことを隠しているわけじゃない。
隠す相手を選んでいるだけだ。
「この前の講義」
真白が言った。
「足立くん、つまらなそうでしたね」
「面白いと思った?」
「少し」
「へぇ。真面目だねぇ」
「真面目ではないと思う」
「じゃあ何」
真白は箸を置いた。
「犯罪者の話を、みんながどう扱うのかを見るのは面白いです」
声が静かだった。
「責めたい人は、責められる形にする。助けたい人は、助けられる形にする。どっちも、自分が安心できる形に変えてから話している気がして」
「お前は?」
僕が聞く。
「私は」
真白は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「変えないで見たい」
食堂のざわめきが、一瞬だけ遠くなった。
僕は唐揚げを飲み込む。
「悪趣味」
「足立くんに言われるんだ」
「僕は普通だよ」
「そうだといいね」
その言い方が、妙に引っかかった。
普通。
まとも。
正しい側。
僕はそういう言葉が嫌いだった。
嫌いなのに、嫌いだと言うと負けた気がする。だからいつも、適当に笑って流す。馬鹿にしたような顔で、周りより少し上にいるふりをする。
真白は、そのふりの下を見ている気がした。
気のせいだと、思いたかった。
それからしばらく、僕と真白はたまに話すようになった。
レポートの資料を見せ合う。
講義の感想を言う。
食堂で席が近ければ一緒に食べる。
友達かと言われると、違う気がする。
恋人なんてもっと違う。
ただ、大学の中で、真白だけは少し空気が違った。
周りの連中は真白を「優しい子」だと思っていた。
実際、真白は優しい子のように振る舞えた。
困っているやつがいれば手伝う。
面倒な雑用も笑って引き受ける。
正義感の強いやつが熱弁していれば、適切なところで頷く。
ある日、講義後の教室で、真白はそういう連中に囲まれていた。
「やっぱり、被害者の気持ちを考えたらさ」
「犯罪者にも事情はあるって言うけど、それで許されたらおかしいよね」
「法って、社会の正義のためにあるわけだし」
真白は微笑んでいた。
「そうですね」
「被害者の方が置き去りにされるのは、違うと思います」
「正義が見える形で示されることも、必要ですよね」
完璧な返事だった。
相手が欲しい言葉を、ちゃんと選んでいる。
言いすぎず、足りなさすぎず、相手が自分を良い人間だと思える言葉。
僕は教室の後ろでそれを見ていた。
胸の奥が、妙にざらつく。
お前、そんなやつじゃねぇだろ。
そう思った瞬間、真白がこちらを見た。
目が合う。
真白は、口では正義の話に合わせながら、僕にだけほんの少し笑った。
ああ、そうか。
僕はその笑みを見て、腹が立った。
こいつは分かってやっている。
僕が見ていることも、自分が嘘をついていることも、全部分かっている。
僕は足を向けた。
「なぁ、堂島」
輪の中の話が止まる。
真白がこちらを見る。
「この前の資料、貸してくれね?」
適当な口実だった。
真白はすぐに頷いた。
「うん。ちょっと待ってね」
あまりにも自然に、彼女はその輪を抜けた。
誰も不自然に思わない。むしろ「真白さん、またあとで」と普通に見送っている。
僕は内心で笑った。
上手いな、本当に。
廊下に出ると、真白は鞄から資料を出すふりをした。
「わざと?」
「……何が」
僕はとぼける。
真白は笑った。
「あの輪から抜けさせてくれたこと」
「資料借りに来ただけだけど」
「そう」
真白は資料を差し出す。
でも、手を離さなかった。
「さっきの話」
「どれ」
「正義は見える形で示されるべき、ってやつ」
「ああ。いいこと言ってたじゃん」
「本心は、少し違います」
真白は資料から手を離す。
「正義って、見える形になった瞬間に、誰かを満足させる道具になる気がします」
僕は真白を見る。
「被害者のため、社会のため、再発防止のため。もちろん必要です。でも、それを言っている人たちの顔を見ると、安心したいだけなんだなって思うことがあります」
「……そっちが本心だろ」
僕が言うと、真白は目を細めた。
「そう見えるんだ?」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「嬉しいな」
その顔を見たとき、僕はまた思った。
こいつは、普通じゃない。
そして、たぶん。
たぶんだけど。
人が壊れるところを、かなり近くで見たことがある。
もしかすると、見ただけじゃないのかもしれない。
「足立くん」
真白が呼ぶ。
「何」
「資料、ちゃんと返してね」
真白は、少しだけ嬉しそうだった。
廊下の窓から、夕方の光が差していた。床には学生たちの影が薄く伸びている。誰かの笑い声が遠くで響く。春の終わりの、湿った風が通り抜ける。
僕はその中で、堂島真白の横顔を見ていた。
この女には近づかないほうがいい。
そう思った。
そう思ったのに、次の講義で隣の席が空いているのを見つけたとき、僕は何食わぬ顔でそこに座った。