堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。   作:an-ryuka

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過去話。足立視点


3.5.

 

春の大学は、どこもかしこも薄っぺらかった。

 

新品のノート。新品のスーツ。まだ自分を賢いと思っている声。講義棟の廊下には、安い香水と自販機の缶コーヒーと、雨上がりの埃っぽい匂いが混じっていた。

 

僕は窓際の席に座って、配られた資料を眺めていた。

 

法学部の初年次演習。

刑事事件の判例を読んで、班ごとに意見を出す。そういう、いかにも大学生らしい授業だった。

 

教授は前で喋っている。

 

「この事件について、加害者の責任能力、動機、社会的背景を踏まえた上で、各自の意見をまとめてください」

 

周りの連中は真面目に頷いていた。

 

偉い偉い。

まだ何も知らないくせに、正義の話をする準備だけは万端らしい。

 

資料の事件は、別に珍しくもなかった。

家庭環境が悪い。孤立していた。衝動的に人を刺した。逮捕されたあと、反省しているようにも見えるが供述は曖昧。

 

そういうやつ。

 

僕の隣には、女が座っていた。

 

堂島真白。

 

出席確認で名前を聞いたから知っている。

最初に見たときは、まあ、地味な女だと思った。

 

黒い髪は肩の少し下で切られていて、変に飾っていない。白い肌に、薄い唇。目立つ服でもない。淡い色のカーディガンに、膝丈のスカート。姿勢はいいが、前のめりではない。周りに合わせて相槌を打つ顔は上手いのに、目の奥だけが妙に静かだった。

 

眠いわけでも、緊張しているわけでもない。

 

ただ、退屈そうだった。

 

僕と同じくらいに。

 

班の一人が、いかにも模範解答みたいなことを言った。

 

「やっぱり、どんな事情があっても人を傷つけるのは許されないと思います」

 

はいはい。

 

別のやつが続ける。

 

「でも、社会が救えなかった面もあるというか……加害者だけを責めても解決しないんじゃないかな」

 

綺麗だねぇ。

 

どっちも自分が良い人間だと思いたいだけだ。責めるにしても、庇うにしても、相手を自分の物差しで測っている。こういうのを聞いていると、鼻の奥がむずむずする。

 

僕は資料を指で弾いて、つい言った。

 

「馬鹿だろ、こいつ」

 

班の空気が止まる。

 

隣の真白だけが、少しだけこちらを見た。

 

僕は肩をすくめる。

 

「いや、だってさ。やるならもっと上手くやれよって話じゃない? 衝動的に刺して、逃げ方も雑で、供述もぐちゃぐちゃ。何がしたかったのか分かんないし。捕まりたいなら別だけど」

 

一人が眉をひそめた。

 

「そういう問題じゃなくない?」

 

「じゃあどういう問題?」

 

僕が笑うと、そいつは少し黙った。

正義を語る連中は、こっちが正面から茶化すとすぐ困る。

 

そのとき、隣から静かな声がした。

 

「分からない、というより」

 

真白だった。

 

「この人は、分かられたくなかったのかもしれません」

 

全員の視線が真白に向く。

 

真白は資料を見たまま、淡々と続けた。

 

「家庭にも学校にも職場にも居場所がなくて、でも自分のことを可哀想だと認めるのも嫌だった。助けてほしいと言えば、下に見られる。怒れば、迷惑だと言われる。何もしなければ、存在しないみたいに扱われる」

 

声に熱はない。

なのに、不思議と耳に残る声だった。

 

「だから、誰かを傷つけたかったというより、自分が傷つける側に回れることを確かめたかったのかなって」

 

班の空気が変わった。

 

真白は顔を上げる。

 

「この人はたぶん、相手を見ていません。自分しか見ていない。でも、それがとても人間らしい気がします」

 

僕は、思わず真白を見た。

 

女は、ほんの少し笑っていた。

 

本当に少しだけ。

口元がわずかに緩むくらいの笑い方。

 

「私はこの人、人間らしくて好きですよ」

 

空気が凍った。

 

誰かが小さく息を呑んだ。

さっきまで加害者の社会的背景がどうとか言っていたやつらが、急に真白を異物みたいに見る。

 

僕は、気づけば言っていた。

 

「……犯罪者だぞ」

 

真白はこちらを見る。

 

その目は落ち着いていた。

怒ってもいない。慌ててもいない。

 

「あ」

 

と、真白は小さく言った。

 

「そうでした」

 

それから、さっきの笑みをすっと消した。

 

「忘れてください」

 

その瞬間、真白は元の顔に戻った。

周りに合わせる、静かで扱いやすそうな女の顔。

 

僕は黙った。

 

変な女だと思った。

同時に、ぞっとした。

 

あれは逆張りじゃない。

目立ちたい発言でもない。

犯罪者を理解できる自分に酔っているわけでもない。

 

もっと自然だった。

 

あいつは、そっち側の考え方を、靴の履き方みたいに知っている。

 

授業が終わると、学生たちはざわざわと教室を出ていった。雨は上がっていたが、窓の外の木々はまだ濡れていて、光を鈍く返している。

 

僕は荷物を鞄に突っ込みながら、隣を見た。

 

真白は資料を丁寧に揃えていた。

 

「さっきの」

 

僕が言うと、真白は顔を上げた。

 

「何ですか?」

 

「忘れてくださいってやつ。忘れろって言われると、逆に覚えるんだけど」

 

真白は少し考えるように瞬きをした。

 

「じゃあ、覚えててもいいです」

 

「いいんだ」

 

「足立くんは、言わなさそうなので」

 

僕は眉を上げた。

 

「何を」

 

「私が、変なことを言っていたって」

 

「さぁね。僕、口軽いよ?」

 

「そう見せるのは上手そうですね」

 

その返しが、妙に腹立たしかった。

 

僕は笑う。

 

「何それ。初対面で失礼じゃない?」

 

「ごめんなさい」

 

真白は素直に謝った。

 

素直すぎて、余計に胡散臭い。

 

そのまま彼女は立ち上がり、軽く会釈して教室を出ていった。

背筋はまっすぐで、歩幅は小さすぎず大きすぎない。周りに馴染む歩き方だった。

 

なのに、一度見てしまうと、馴染んでいるふりにしか見えなかった。

 

数日後、食堂でまた会った。

 

昼時の食堂は混んでいた。揚げ物の油、味噌汁、安っぽいカレー、濡れた傘のビニール臭。あちこちで笑い声がして、椅子を引く音が床に擦れていた。

 

僕はトレーを持ったまま、空いている席を探していた。

 

どこも埋まっている。

 

面倒くさい。

昼飯くらい静かに食わせろよ。

 

そう思っていたら、窓際の席から声がした。

 

「横、座る?」

 

真白だった。

 

彼女は一人で座っていた。

テーブルには弁当箱。中身は卵焼きと、煮物と、焼き魚。学食の油っぽい匂いの中で、そこだけ少し違う匂いがした。出汁と醤油。ちゃんと作った飯の匂い。

 

僕は一瞬迷ってから、肩をすくめた。

 

「……んじゃ、遠慮なく」

 

向かいではなく、横に座った。

真白は特に気にした様子もなく、卵焼きを箸で切っている。

 

「食堂、珍しいね」

 

僕が言うと、真白は横目で見た。

 

「そう?」

 

「そうでもねぇ……いや、そうでもないよ。弁当の日が多いだろ」

 

言い直した僕を見て、真白が少しだけ笑った。

 

「よく見てるね」

 

「たまたまだろ」

 

「うん。たまたま」

 

その言い方が、ちっとも信じていない言い方だった。

 

僕は学食の唐揚げを口に入れる。

冷めかけていて、衣ばかり固い。

 

「料理、好きなの」

 

「嫌いじゃないよ」

 

「へぇ」

 

「足立くんは?」

 

「食べるのは好き」

 

「作るのは?」

 

「面倒くさい」

 

「似合うね」

 

「何が」

 

「面倒くさいって言いながら、ちゃんと食べるところ」

 

「馬鹿にしてる?」

 

「少し」

 

真白は平然と言った。

 

僕は箸を止める。

 

「お前さ、見た目より性格悪いよね」

 

「そう見える?」

 

「見える」

 

「嬉しいな」

 

嬉しい?

 

普通、そこは怒るか、否定するか、冗談にするところだろ。

 

真白は小さく笑って、弁当の煮物を食べた。

その顔は本当に穏やかだった。

 

僕は、急に嫌な気分になった。

 

この女は、たぶん自分が性格悪いことを隠しているわけじゃない。

隠す相手を選んでいるだけだ。

 

「この前の講義」

 

真白が言った。

 

「足立くん、つまらなそうでしたね」

 

「面白いと思った?」

 

「少し」

 

「へぇ。真面目だねぇ」

 

「真面目ではないと思う」

 

「じゃあ何」

 

真白は箸を置いた。

 

「犯罪者の話を、みんながどう扱うのかを見るのは面白いです」

 

声が静かだった。

 

「責めたい人は、責められる形にする。助けたい人は、助けられる形にする。どっちも、自分が安心できる形に変えてから話している気がして」

 

「お前は?」

 

僕が聞く。

 

「私は」

 

真白は、少しだけ遠くを見るような目をした。

 

「変えないで見たい」

 

食堂のざわめきが、一瞬だけ遠くなった。

 

僕は唐揚げを飲み込む。

 

「悪趣味」

 

「足立くんに言われるんだ」

 

「僕は普通だよ」

 

「そうだといいね」

 

その言い方が、妙に引っかかった。

 

普通。

まとも。

正しい側。

 

僕はそういう言葉が嫌いだった。

 

嫌いなのに、嫌いだと言うと負けた気がする。だからいつも、適当に笑って流す。馬鹿にしたような顔で、周りより少し上にいるふりをする。

 

真白は、そのふりの下を見ている気がした。

 

気のせいだと、思いたかった。

 

それからしばらく、僕と真白はたまに話すようになった。

 

レポートの資料を見せ合う。

講義の感想を言う。

食堂で席が近ければ一緒に食べる。

 

友達かと言われると、違う気がする。

恋人なんてもっと違う。

ただ、大学の中で、真白だけは少し空気が違った。

 

周りの連中は真白を「優しい子」だと思っていた。

 

実際、真白は優しい子のように振る舞えた。

 

困っているやつがいれば手伝う。

面倒な雑用も笑って引き受ける。

正義感の強いやつが熱弁していれば、適切なところで頷く。

 

ある日、講義後の教室で、真白はそういう連中に囲まれていた。

 

「やっぱり、被害者の気持ちを考えたらさ」

「犯罪者にも事情はあるって言うけど、それで許されたらおかしいよね」

「法って、社会の正義のためにあるわけだし」

 

真白は微笑んでいた。

 

「そうですね」

「被害者の方が置き去りにされるのは、違うと思います」

「正義が見える形で示されることも、必要ですよね」

 

完璧な返事だった。

 

相手が欲しい言葉を、ちゃんと選んでいる。

言いすぎず、足りなさすぎず、相手が自分を良い人間だと思える言葉。

 

僕は教室の後ろでそれを見ていた。

 

胸の奥が、妙にざらつく。

 

お前、そんなやつじゃねぇだろ。

 

そう思った瞬間、真白がこちらを見た。

 

目が合う。

 

真白は、口では正義の話に合わせながら、僕にだけほんの少し笑った。

 

ああ、そうか。

 

僕はその笑みを見て、腹が立った。

 

こいつは分かってやっている。

僕が見ていることも、自分が嘘をついていることも、全部分かっている。

 

僕は足を向けた。

 

「なぁ、堂島」

 

輪の中の話が止まる。

 

真白がこちらを見る。

 

「この前の資料、貸してくれね?」

 

適当な口実だった。

 

真白はすぐに頷いた。

 

「うん。ちょっと待ってね」

 

あまりにも自然に、彼女はその輪を抜けた。

誰も不自然に思わない。むしろ「真白さん、またあとで」と普通に見送っている。

 

僕は内心で笑った。

 

上手いな、本当に。

 

廊下に出ると、真白は鞄から資料を出すふりをした。

 

「わざと?」

 

「……何が」

 

僕はとぼける。

 

真白は笑った。

 

「あの輪から抜けさせてくれたこと」

 

「資料借りに来ただけだけど」

 

「そう」

 

真白は資料を差し出す。

でも、手を離さなかった。

 

「さっきの話」

 

「どれ」

 

「正義は見える形で示されるべき、ってやつ」

 

「ああ。いいこと言ってたじゃん」

 

「本心は、少し違います」

 

真白は資料から手を離す。

 

「正義って、見える形になった瞬間に、誰かを満足させる道具になる気がします」

 

僕は真白を見る。

 

「被害者のため、社会のため、再発防止のため。もちろん必要です。でも、それを言っている人たちの顔を見ると、安心したいだけなんだなって思うことがあります」

 

「……そっちが本心だろ」

 

僕が言うと、真白は目を細めた。

 

「そう見えるんだ?」

 

少しだけ、声が柔らかくなる。

 

「嬉しいな」

 

その顔を見たとき、僕はまた思った。

 

こいつは、普通じゃない。

 

そして、たぶん。

 

たぶんだけど。

 

人が壊れるところを、かなり近くで見たことがある。

 

もしかすると、見ただけじゃないのかもしれない。

 

「足立くん」

 

真白が呼ぶ。

 

「何」

 

「資料、ちゃんと返してね」

 

真白は、少しだけ嬉しそうだった。

 

廊下の窓から、夕方の光が差していた。床には学生たちの影が薄く伸びている。誰かの笑い声が遠くで響く。春の終わりの、湿った風が通り抜ける。

 

僕はその中で、堂島真白の横顔を見ていた。

 

この女には近づかないほうがいい。

 

そう思った。

 

そう思ったのに、次の講義で隣の席が空いているのを見つけたとき、僕は何食わぬ顔でそこに座った。

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