堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
過去話。足立視点。
堂島真白と話すようになってから、大学の退屈さが少しだけ変わった。
面白くなった、とは違う。
講義は相変わらずつまらない。教授は自分の声に酔っているし、学生は賢そうな言葉を使うことに必死だった。食堂の唐揚げは冷めると固いし、レポートの締切はいつも面倒くさい。
ただ、退屈の中に、たまに変なものが混じるようになった。
その日の夜、僕はコンビニ弁当を食べながら、真白の言葉を思い出していた。
犯罪者が好き。
そういうことだろ。
笑える。
普通じゃない。
まともな人間の言葉じゃない。
でも、あの言い方には嘘がなかった。
自分の中の汚いところを、汚いまま見せてくる女。
それがどうしようもなく気になっていた。
次に真白の部屋へ行ったのは、本当にただの流れだった。
いや、たぶん嘘だ。
僕の方から、流れを作った。
夕方、講義が終わったあと、僕はわざとらしく腹を押さえて言った。
「腹減った……」
真白は隣で資料を鞄にしまっていた。
「食べに行く?」
「外、雨じゃん」
「学食は?」
「飽きた」
「コンビニ」
「それも飽きた」
真白は少し考えた。
「作ろうか?」
僕は顔を上げた。
「お前が?」
「うん」
「作れんの?」
「料理、嫌いじゃないって言ったでしょ」
そういえば、言っていた。
弁当もよく持ってきている。中身も、見た感じちゃんとしていた。
「……何作れんの?」
「足立くんが食べたいもの」
「何でも?」
「材料があれば」
ずいぶん簡単に言う。
僕は少し迷うふりをした。
本当はもう、行く気になっていた。
「じゃあ、肉じゃが」
「分かった」
「冗談のつもりだったんだけど」
「嫌い?」
「好きだけど」
「じゃあ作る」
真白は当たり前みたいに言って、歩き出した。
僕はその背中を見ながら、内心で笑った。
警戒しろよ。
男を部屋に呼ぶのに、そんな簡単でいいのか。
いや、真白は警戒していないわけじゃない。必要ないと思っているのかもしれない。あるいは、何が起きてもいいと思っているのか。
どれでも、まともじゃない。
真白の部屋は、大学から少し離れたアパートの二階だった。
一人暮らし用の狭い部屋。玄関を入るとすぐに小さなキッチンがあって、その奥に低いテーブル、ソファ、ベッド。家具は多くない。カーテンは白っぽく、棚には法律書と料理本が並んでいる。
部屋には、洗剤と紙と、少しだけ出汁の匂いがした。
「適当に座ってて」
真白はエプロンをつけながら言った。
「手伝わなくていいわけ?」
「手伝う?」
「いや、いい」
「じゃあ座ってて」
本当に座らされた。
僕はソファに腰を下ろし、部屋を見回した。
女の部屋にしては、飾り気が少ない。
ぬいぐるみも、写真も、妙なインテリアもない。生活感はあるのに、余計なものがない。
逃げやすそうな部屋だと思った。
何から逃げるのかは知らない。
真白はキッチンで手際よく動いていた。包丁の音が一定に響く。とん、とん、とん。鍋に油を引く音。肉が焼ける匂い。醤油と砂糖が熱で溶ける甘い匂い。
僕はソファに体を預けた。
腹が減っているせいか、その匂いが妙に効いた。
「父親が忙しかったんだっけ?」
何となく聞いた。
真白の手が、一瞬だけ止まった気がした。
「うん」
「だから料理覚えたの?」
「そうかも」
「母親は?」
言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。
真白は鍋を見たまま答えた。
「死んでる」
あまりにも平坦だった。
僕は真白の背中を見た。
「父親も?」
「うん。死んでる」
鍋の中で、煮汁が小さく沸いた。
二人とも死んでる。
その言い方に、妙な引っかかりがあった。
悲しみがないわけじゃない。
でも、悲しみだけでもない。
真白は自分の親の死を、まるで事実として棚に置いているように話した。
僕の頭の中に、ふと嫌な想像が浮かんだ。
こいつ、自分で殺したんじゃないの。
馬鹿な考えだと思った。
普通はそんなこと思わない。
でも、真白なら。
そう思ってしまった時点で、もうだいぶおかしい。
「……悪い。変なこと聞いた」
僕が言うと、真白は振り返った。
「ううん」
少し笑っている。
「足立くんは、謝るんだね」
「何それ」
「意外」
「僕を何だと思ってんの」
「性格悪い人」
「お互い様だろ」
「うん」
真白はまた鍋に向き直った。
何でもない会話のはずなのに、僕は落ち着かなかった。
人を殺したことがあるかもしれない女が、僕のために肉じゃがを作っている。
考えれば考えるほど、馬鹿げている。
それなのに、部屋はひどく居心地がよかった。
夕飯はうまかった。
本当にうまかった。
肉じゃがは味がしみていて、味噌汁もちゃんとしていた。焼き魚まで出てきた。僕は最初、適当に食べるつもりだったのに、気づいたら黙って箸を進めていた。
真白は向かいに座って、嬉しそうにそれを見ている。
「何見てんの」
「よく食べるなって」
「悪い?」
「ううん。嬉しい」
「飯作るの好きなやつって、そういうこと言うよね」
「足立くんが食べてるのを見るのは、特に好きかも」
箸が止まりかけた。
「……何で」
「美味しそうだから」
「それだけ?」
「うん」
絶対それだけじゃない。
でも聞かなかった。
食べ終わると、真白は当然のように片づけ始めた。僕はソファに戻り、腹が満ちた体を沈める。雨はまだ降っていて、窓の外で細い音を立てていた。
部屋の中には、食後の醤油と湯気の匂いが残っている。
「泊まる?」
皿を洗い終えた真白が、何でもない顔で言った。
僕は顔を上げた。
「……泊まっていいわけ?」
「ソファでよければ」
からかっている。
そう分かった瞬間、僕は笑った。
「へぇ。ベッドじゃないんだ」
「そこまで言ってない」
「言えばいいのに」
真白は少しだけ目を細めた。
「言ってほしい?」
その声が、さっきまでと少し違った。
静かなのは同じだ。
でも、逃げない声だった。
僕は立ち上がった。
真白との距離は、テーブル一つ分。
近づけば、すぐ触れられる。
「お前さ」
「うん」
「男を部屋に泊めるの、危ないと思わないわけ」
真白は僕を見た。
「足立くんは、危ない?」
「さぁね」
「危ないなら」
一歩、真白が近づいた。
「少し見たいかも」
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
普通の女なら、そこで冗談にする。
笑って距離を取る。
やっぱり帰って、と言う。
真白は言わなかった。
見たい、と言った。
僕は真白の手首を掴んだ。
細い。
けれど、驚くほど落ち着いていた。逃げようともしない。
「本当に変だよ、お前」
「足立くんも、帰らないんだね」
「……」
「変なのは、私だけ?」
僕は答えなかった。
答える代わりに、真白を引き寄せた。
唇が触れる。
最初は軽く。
確かめるように。
真白は逃げなかった。
目を閉じて、ちゃんと受け入れた。
その反応に、頭の中が少し熱くなる。
二度目は深くした。真白の指が僕のシャツを掴む。部屋の匂いが近くなる。洗剤、料理の残り香、真白の髪の匂い。雨の音が遠くなる。
何をしているんだろうな、と思った。
同じ学部の、たまに話す女。
犯罪者が好きだと言った女。
親の死を平坦に話した女。
近づくなと思ったのに。
僕はその女の部屋で、その女にキスしている。
真白の唇が離れた。
目が合う。
真白は少し息を乱していた。
でも、その目はやっぱり静かだった。
「泊まってく?」
もう一度、真白が聞いた。
今度は、ソファの話ではないと分かった。
僕は笑った。
「……聞き方、ずるくない?」
「そう?」
「そうだよ」
「帰る?」
僕は真白の腰に手を回した。
「帰るわけないだろ」
真白は、嬉しそうに笑った。
その笑い方が、さっき食事を見ていたときと少し似ていて、でももっと深かった。
この女は、たぶん僕が思っているよりずっと危ない。
そう思った。
そう思ったのに、腕を離せなかった。
雨は夜の間ずっと降っていた。
窓を叩く音と、近くで眠る真白の呼吸が、狭い部屋に混ざっていた。
僕はソファではなく、ベッドの端にいた。
真白は隣で眠っている。
無防備に見える。
でも、きっと違う。
この女は、無防備なふりもできる。
受け入れているふりも、傷ついているふりも、きっとできる。
じゃあ、さっきの顔は何だったのか。
嬉しそうだった。
本当に。
僕が帰らないことを、嬉しそうにしていた。
意味が分からない。
僕は天井を見た。
帰るタイミングはいくらでもあった。
食べ終わったとき。泊まるか聞かれたとき。キスの前。キスの後。
いくらでもあった。
それなのに帰らなかった。
真白の部屋は静かだった。
雨の匂いと、食事の残り香と、真白の体温があった。
腹立たしいくらい、居心地がよかった。
隣で真白が少し身じろぎする。
寝ぼけたまま、僕の袖を指先で掴んだ。
逃がさないみたいに。
僕はその手を見て、しばらく黙っていた。
振りほどくのは簡単だった。
でも、しなかった。
真白が飯を作る。
食べる。
レポートをする。
途中で飽きる。
真白が呆れる。
泊まる。
朝飯を食べる。
時間を少しずらして大学へ行く。
周りは僕たちを恋人だと認識していた。
僕も否定しなくなった。
真白は二人きりでは、だんだん「透」と呼ぶことが増えた。
それがいつの間にか、何年も続いた。
ずっと続くような顔をしていたくせに、卒業が近づくと、部屋の中の物だけが少しずつ減っていった。
ある夜、真白が小さな箱を出してきた。
「何これ」
テーブルの上に置かれた箱は、明らかに安物ではなかった。
包装も綺麗で、変に重い。
真白は少し照れくさそうな顔をした。
「卒業祝い的な?」
「的なって何」
「いいから開けて」
僕は嫌な予感がしながら箱を開けた。
腕時計だった。
仕事中にもつけられそうな、落ち着いたデザイン。派手ではない。けれど、安くないのはすぐ分かった。革ベルトは黒に近い茶色で、文字盤は薄く光を反射する。
僕は箱の中を見たまま、少し黙った。
「……これ、高いんじゃねぇの」
「高かったら捨てられないかなって」
意味の分からない返事だった。
僕は顔を上げる。
真白は嬉しそうに僕を見ていた。
「お前さぁ」
「うん」
「重いんだよ」
「知ってる」
「知っててやってんの」
「うん」
本当に、最悪だ。
僕は腕時計を手に取った。
革の匂いがする。新品の金属の冷たさ。
手首に当てると、妙にしっくりきた。
真白はそれを見て、少しだけ息を止めた。
「……それ、ずっとつけててね」
「何でだよ」
「私が落ち着くから」
「お前が?」
「うん」
僕は腕時計を外した。
真白の顔が、ほんの少しだけ曇る。
それを見て、少しだけ気分がよくなった。
すぐに、くだらねぇなと思った。
腕時計を箱に戻す代わりに、僕はポケットへ入れた。
雑に。
でも、落とさないように。
「仕事で使うかどうかは知らねぇけど」
真白の目が、少し明るくなった。
「うん」
「便利なら使う」
「うん」
「重いからな、ほんと」
「知ってる」
真白は笑った。
その腕時計に何か意味があるのは、分かっていた。
真白がただの卒業祝いなんか渡すわけがない。
「捨てられないかなって」なんて言う女だ。
あの時計は、たぶん鎖だ。
僕はそれを分かっていた。
分かっていて、ポケットの中で腕時計を握った。
「真白」
呼ぶと、真白が少し目を見開いた。
名前を呼ぶのは、珍しかった。
言うことは、いくつかあった。
重い。
気持ち悪い。
こんなもの渡すな。
どれも言わなかった。
代わりに、腕時計を取り出して、手首につけた。
真白の目が、静かに揺れた。
「……便利だからな」
僕が言うと、真白はゆっくり笑った。
「うん」
それで終わりだった。
腕時計が、手首で小さく重かった。