堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。   作:an-ryuka

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過去話。足立視点。


5.5

 

堂島真白と話すようになってから、大学の退屈さが少しだけ変わった。

 

面白くなった、とは違う。

 

講義は相変わらずつまらない。教授は自分の声に酔っているし、学生は賢そうな言葉を使うことに必死だった。食堂の唐揚げは冷めると固いし、レポートの締切はいつも面倒くさい。

 

ただ、退屈の中に、たまに変なものが混じるようになった。

 

その日の夜、僕はコンビニ弁当を食べながら、真白の言葉を思い出していた。

 

犯罪者が好き。

 

そういうことだろ。

笑える。

普通じゃない。

まともな人間の言葉じゃない。

 

でも、あの言い方には嘘がなかった。

 

自分の中の汚いところを、汚いまま見せてくる女。

 

それがどうしようもなく気になっていた。

 

次に真白の部屋へ行ったのは、本当にただの流れだった。

 

いや、たぶん嘘だ。

 

僕の方から、流れを作った。

 

夕方、講義が終わったあと、僕はわざとらしく腹を押さえて言った。

 

「腹減った……」

 

真白は隣で資料を鞄にしまっていた。

 

「食べに行く?」

 

「外、雨じゃん」

 

「学食は?」

 

「飽きた」

 

「コンビニ」

 

「それも飽きた」

 

真白は少し考えた。

 

「作ろうか?」

 

僕は顔を上げた。

 

「お前が?」

 

「うん」

 

「作れんの?」

 

「料理、嫌いじゃないって言ったでしょ」

 

そういえば、言っていた。

弁当もよく持ってきている。中身も、見た感じちゃんとしていた。

 

「……何作れんの?」

 

「足立くんが食べたいもの」

 

「何でも?」

 

「材料があれば」

 

ずいぶん簡単に言う。

 

僕は少し迷うふりをした。

本当はもう、行く気になっていた。

 

「じゃあ、肉じゃが」

 

「分かった」

 

「冗談のつもりだったんだけど」

 

「嫌い?」

 

「好きだけど」

 

「じゃあ作る」

 

真白は当たり前みたいに言って、歩き出した。

 

僕はその背中を見ながら、内心で笑った。

 

警戒しろよ。

 

男を部屋に呼ぶのに、そんな簡単でいいのか。

いや、真白は警戒していないわけじゃない。必要ないと思っているのかもしれない。あるいは、何が起きてもいいと思っているのか。

 

どれでも、まともじゃない。

 

真白の部屋は、大学から少し離れたアパートの二階だった。

 

一人暮らし用の狭い部屋。玄関を入るとすぐに小さなキッチンがあって、その奥に低いテーブル、ソファ、ベッド。家具は多くない。カーテンは白っぽく、棚には法律書と料理本が並んでいる。

 

部屋には、洗剤と紙と、少しだけ出汁の匂いがした。

 

「適当に座ってて」

 

真白はエプロンをつけながら言った。

 

「手伝わなくていいわけ?」

 

「手伝う?」

 

「いや、いい」

 

「じゃあ座ってて」

 

本当に座らされた。

 

僕はソファに腰を下ろし、部屋を見回した。

 

女の部屋にしては、飾り気が少ない。

ぬいぐるみも、写真も、妙なインテリアもない。生活感はあるのに、余計なものがない。

 

逃げやすそうな部屋だと思った。

 

何から逃げるのかは知らない。

 

真白はキッチンで手際よく動いていた。包丁の音が一定に響く。とん、とん、とん。鍋に油を引く音。肉が焼ける匂い。醤油と砂糖が熱で溶ける甘い匂い。

 

僕はソファに体を預けた。

 

腹が減っているせいか、その匂いが妙に効いた。

 

「父親が忙しかったんだっけ?」

 

何となく聞いた。

 

真白の手が、一瞬だけ止まった気がした。

 

「うん」

 

「だから料理覚えたの?」

 

「そうかも」

 

「母親は?」

 

言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。

 

真白は鍋を見たまま答えた。

 

「死んでる」

 

あまりにも平坦だった。

 

僕は真白の背中を見た。

 

「父親も?」

 

「うん。死んでる」

 

鍋の中で、煮汁が小さく沸いた。

 

二人とも死んでる。

 

その言い方に、妙な引っかかりがあった。

 

悲しみがないわけじゃない。

でも、悲しみだけでもない。

真白は自分の親の死を、まるで事実として棚に置いているように話した。

 

僕の頭の中に、ふと嫌な想像が浮かんだ。

 

こいつ、自分で殺したんじゃないの。

 

馬鹿な考えだと思った。

 

普通はそんなこと思わない。

でも、真白なら。

 

そう思ってしまった時点で、もうだいぶおかしい。

 

「……悪い。変なこと聞いた」

 

僕が言うと、真白は振り返った。

 

「ううん」

 

少し笑っている。

 

「足立くんは、謝るんだね」

 

「何それ」

 

「意外」

 

「僕を何だと思ってんの」

 

「性格悪い人」

 

「お互い様だろ」

 

「うん」

 

真白はまた鍋に向き直った。

 

何でもない会話のはずなのに、僕は落ち着かなかった。

 

人を殺したことがあるかもしれない女が、僕のために肉じゃがを作っている。

 

考えれば考えるほど、馬鹿げている。

 

それなのに、部屋はひどく居心地がよかった。

 

夕飯はうまかった。

 

本当にうまかった。

 

肉じゃがは味がしみていて、味噌汁もちゃんとしていた。焼き魚まで出てきた。僕は最初、適当に食べるつもりだったのに、気づいたら黙って箸を進めていた。

 

真白は向かいに座って、嬉しそうにそれを見ている。

 

「何見てんの」

 

「よく食べるなって」

 

「悪い?」

 

「ううん。嬉しい」

 

「飯作るの好きなやつって、そういうこと言うよね」

 

「足立くんが食べてるのを見るのは、特に好きかも」

 

箸が止まりかけた。

 

「……何で」

 

「美味しそうだから」

 

「それだけ?」

 

「うん」

 

絶対それだけじゃない。

 

でも聞かなかった。

 

食べ終わると、真白は当然のように片づけ始めた。僕はソファに戻り、腹が満ちた体を沈める。雨はまだ降っていて、窓の外で細い音を立てていた。

 

部屋の中には、食後の醤油と湯気の匂いが残っている。

 

「泊まる?」

 

皿を洗い終えた真白が、何でもない顔で言った。

 

僕は顔を上げた。

 

「……泊まっていいわけ?」

 

「ソファでよければ」

 

からかっている。

 

そう分かった瞬間、僕は笑った。

 

「へぇ。ベッドじゃないんだ」

 

「そこまで言ってない」

 

「言えばいいのに」

 

真白は少しだけ目を細めた。

 

「言ってほしい?」

 

その声が、さっきまでと少し違った。

 

静かなのは同じだ。

でも、逃げない声だった。

 

僕は立ち上がった。

 

真白との距離は、テーブル一つ分。

近づけば、すぐ触れられる。

 

「お前さ」

 

「うん」

 

「男を部屋に泊めるの、危ないと思わないわけ」

 

真白は僕を見た。

 

「足立くんは、危ない?」

 

「さぁね」

 

「危ないなら」

 

一歩、真白が近づいた。

 

「少し見たいかも」

 

その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。

 

普通の女なら、そこで冗談にする。

笑って距離を取る。

やっぱり帰って、と言う。

 

真白は言わなかった。

 

見たい、と言った。

 

僕は真白の手首を掴んだ。

 

細い。

けれど、驚くほど落ち着いていた。逃げようともしない。

 

「本当に変だよ、お前」

 

「足立くんも、帰らないんだね」

 

「……」

 

「変なのは、私だけ?」

 

僕は答えなかった。

 

答える代わりに、真白を引き寄せた。

 

唇が触れる。

 

最初は軽く。

確かめるように。

 

真白は逃げなかった。

目を閉じて、ちゃんと受け入れた。

 

その反応に、頭の中が少し熱くなる。

 

二度目は深くした。真白の指が僕のシャツを掴む。部屋の匂いが近くなる。洗剤、料理の残り香、真白の髪の匂い。雨の音が遠くなる。

 

何をしているんだろうな、と思った。

 

同じ学部の、たまに話す女。

犯罪者が好きだと言った女。

親の死を平坦に話した女。

 

近づくなと思ったのに。

 

僕はその女の部屋で、その女にキスしている。

 

真白の唇が離れた。

 

目が合う。

 

真白は少し息を乱していた。

でも、その目はやっぱり静かだった。

 

「泊まってく?」

 

もう一度、真白が聞いた。

 

今度は、ソファの話ではないと分かった。

 

僕は笑った。

 

「……聞き方、ずるくない?」

 

「そう?」

 

「そうだよ」

 

「帰る?」

 

僕は真白の腰に手を回した。

 

「帰るわけないだろ」

 

真白は、嬉しそうに笑った。

 

その笑い方が、さっき食事を見ていたときと少し似ていて、でももっと深かった。

 

この女は、たぶん僕が思っているよりずっと危ない。

 

そう思った。

 

そう思ったのに、腕を離せなかった。

 

雨は夜の間ずっと降っていた。

 

窓を叩く音と、近くで眠る真白の呼吸が、狭い部屋に混ざっていた。

僕はソファではなく、ベッドの端にいた。

 

真白は隣で眠っている。

 

無防備に見える。

でも、きっと違う。

 

この女は、無防備なふりもできる。

受け入れているふりも、傷ついているふりも、きっとできる。

 

じゃあ、さっきの顔は何だったのか。

 

嬉しそうだった。

本当に。

 

僕が帰らないことを、嬉しそうにしていた。

 

意味が分からない。

 

僕は天井を見た。

 

帰るタイミングはいくらでもあった。

食べ終わったとき。泊まるか聞かれたとき。キスの前。キスの後。

 

いくらでもあった。

 

それなのに帰らなかった。

 

真白の部屋は静かだった。

雨の匂いと、食事の残り香と、真白の体温があった。

 

腹立たしいくらい、居心地がよかった。

 

隣で真白が少し身じろぎする。

寝ぼけたまま、僕の袖を指先で掴んだ。

 

逃がさないみたいに。

 

僕はその手を見て、しばらく黙っていた。

 

振りほどくのは簡単だった。

 

でも、しなかった。

 

真白が飯を作る。

食べる。

レポートをする。

途中で飽きる。

真白が呆れる。

泊まる。

朝飯を食べる。

時間を少しずらして大学へ行く。

 

周りは僕たちを恋人だと認識していた。

僕も否定しなくなった。

 

真白は二人きりでは、だんだん「透」と呼ぶことが増えた。

 

それがいつの間にか、何年も続いた。

ずっと続くような顔をしていたくせに、卒業が近づくと、部屋の中の物だけが少しずつ減っていった。

 

ある夜、真白が小さな箱を出してきた。

 

「何これ」

 

テーブルの上に置かれた箱は、明らかに安物ではなかった。

包装も綺麗で、変に重い。

 

真白は少し照れくさそうな顔をした。

 

「卒業祝い的な?」

 

「的なって何」

 

「いいから開けて」

 

僕は嫌な予感がしながら箱を開けた。

 

腕時計だった。

 

仕事中にもつけられそうな、落ち着いたデザイン。派手ではない。けれど、安くないのはすぐ分かった。革ベルトは黒に近い茶色で、文字盤は薄く光を反射する。

 

僕は箱の中を見たまま、少し黙った。

 

「……これ、高いんじゃねぇの」

 

「高かったら捨てられないかなって」

 

意味の分からない返事だった。

 

僕は顔を上げる。

 

真白は嬉しそうに僕を見ていた。

 

「お前さぁ」

 

「うん」

 

「重いんだよ」

 

「知ってる」

 

「知っててやってんの」

 

「うん」

 

本当に、最悪だ。

 

僕は腕時計を手に取った。

 

革の匂いがする。新品の金属の冷たさ。

手首に当てると、妙にしっくりきた。

 

真白はそれを見て、少しだけ息を止めた。

 

「……それ、ずっとつけててね」

 

「何でだよ」

 

「私が落ち着くから」

 

「お前が?」

 

「うん」

 

僕は腕時計を外した。

 

真白の顔が、ほんの少しだけ曇る。

 

それを見て、少しだけ気分がよくなった。

すぐに、くだらねぇなと思った。

 

腕時計を箱に戻す代わりに、僕はポケットへ入れた。

 

雑に。

でも、落とさないように。

 

「仕事で使うかどうかは知らねぇけど」

 

真白の目が、少し明るくなった。

 

「うん」

 

「便利なら使う」

 

「うん」

 

「重いからな、ほんと」

 

「知ってる」

 

真白は笑った。

 

その腕時計に何か意味があるのは、分かっていた。

 

真白がただの卒業祝いなんか渡すわけがない。

「捨てられないかなって」なんて言う女だ。

あの時計は、たぶん鎖だ。

 

僕はそれを分かっていた。

分かっていて、ポケットの中で腕時計を握った。

 

「真白」

 

呼ぶと、真白が少し目を見開いた。

名前を呼ぶのは、珍しかった。

 

言うことは、いくつかあった。

重い。

気持ち悪い。

こんなもの渡すな。

 

どれも言わなかった。

 

代わりに、腕時計を取り出して、手首につけた。

 

真白の目が、静かに揺れた。

 

「……便利だからな」

 

僕が言うと、真白はゆっくり笑った。

 

「うん」

 

それで終わりだった。

 

腕時計が、手首で小さく重かった。

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